週末の東京レース場は、割れんばかりの歓声と熱気に包まれていた。
青空の下、緑のターフを色鮮やかな勝負服が駆け抜けていく。その中でも、ひときわ観衆の視線を惹きつけてやまないウマ娘がいた。
先頭をひた走る、栗毛のウマ娘――サイレンススズカである。
『サイレンススズカ、依然として先頭! 後続をぐんぐんと引き離していく!』
実況の声が上ずるほどの圧倒的な逃げ。彼女の走りは、まさに「異次元の逃亡者」と呼ぶにふさわしいものだった。
一切の無駄がない、洗練されたフォーム。まるで地面を滑るように加速していくその姿は、見る者を圧倒する静謐な美しさを湛えている。後続のウマ娘たちがどれほど必死に脚を回しても、彼女との距離は縮まるどころか、残酷なまでに開いていくばかりだった。
スタンドの観客席の片隅。入学したばかりのスペシャルウィークは、手すりから身を乗り出すようにしてそのレースを見つめていた。
「すごい……! とっても綺麗な走りだね!」
スペの紫色の瞳には、確かな感嘆の色が浮かんでいる。ウマ娘のレースを生で見るのはこれが初めてであり、トップクラスのウマ娘が放つオーラには素直に感動していた。
だが、その隣で静かにレースを眺めていた日高湊は、妹の反応にほんのわずかな違和感を覚えていた。
(……驚いてはいるみたいだけど、度肝を抜かれているって感じじゃないな)
湊は黒いキャスケットのつばを少し上げ、スペの横顔を観察する。
普通、地方から出てきたばかりの新人ウマ娘が、サイレンススズカのような完成された、それこそ『領域』の一歩手前にいるような圧倒的な走りを見せつけられれば、言葉を失うほどの衝撃を受けるはずだ。自分の未熟さを痛感し、圧倒的な壁の高さを前に畏怖を抱く。それが健全な反応である。
しかし、スペの表情には「すごい」という純粋な称賛はあるものの、自分の手の届かない別次元の生き物を見ているような「絶望」は一切なかった。
「どう、スペ」
湊が探りを入れるように尋ねると、スペは元気よく頷いた。
「うん! スズカさん、とっても速い! でも……」
そこでスペは少しだけ首を傾げ、無邪気な笑顔を湊に向けた。
「お姉ちゃんが北海道の山道で走ってた時の方が、ずっと速くて、もっとすごかった気がするべ!」
「…………」
湊は思わず、言葉に詰まった。
スペの基準(ベースライン)は、完全に狂ってしまっている。
幼い頃から、時速七十キロを常に出すというウマ娘の限界を超えた湊の「通常走行」を間近で見せられてきたのだ。
サイレンススズカの走りは確かに素晴らしい。しかし、それはあくまで「ウマ娘という生物の枠組み」の中での頂点である。物理法則さえ置き去りにするような湊のデタラメな走りを見慣れているスペにとって、スズカのスピードは「理解できる速さ」の範疇に収まってしまっているのだ。
(これ、私が基準をバグらせちゃった責任、重大だな……)
湊は内心で頭を抱えつつ、表面上は「まあ、私はちょっと特別だからね」と苦笑して誤魔化すしかなかった。
「――おっ、あんた。いい筋肉(モン)持ってんなぁ」
不意に、背後から間延びした男の声が聞こえた。
「へ?」
スペが振り向いた瞬間、見知らぬ男がぬっと顔を出した。無精髭を生やし、口に棒付きキャンディを咥えた、どこか胡散臭い風体の男だ。
男は躊躇することなく手を伸ばし、スペの太ももからふくらはぎにかけての筋肉を、まるで品定めでもするかのようにペタペタと触り始めた。
「ひゃあっ!? な、なな、何するだべ!?」
突然のセクハラまがいの凶行に、スペは顔を真っ赤にしてパニックに陥った。
「いやー、素晴らしい。バネ、柔軟性、どれをとっても一級品だ。こいつは磨けばとんでもなく光るぜ……」
男がブツブツと呟きながらさらに触ろうとした瞬間、湊が冷ややかな目をしながら二人の間にスッと割り込んだ。
「ちょっと、警察呼びますよ。ウチの大事な妹に気安く触らないでくれませんか」
湊はスペを背中で庇うように立ち塞がり、男を睨みつけた。
男は「おっと、こりゃ失礼」と慌てて手を引っ込め、頭を掻いた。
「怪しいモンじゃないって。俺はトレセン学園で『チームスピカ』のトレーナーをやってる沖野って言うんだ。つい職業病でな、原石を見つけると我慢できなくなっちまう」
「トレーナー……? だとしても、非常識すぎます」
湊が呆れたようにため息をつき、スペを庇うためにもう一歩前に踏み出して足に体重をかけた、その時だった。
スーツのズボン越しにピンと張った湊の脚の筋肉。
そのわずかな挙動を見た沖野の目が、スッと細められた。
「……ん?」
それは、理性を超えた、トレーナーとしての完全な『本能』だった。
沖野の右手が、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、無意識に湊の脚へと伸びた。
「えっ、ちょっ――」
湊が避ける間もなく、沖野の手が湊の太ももに触れる。
その瞬間。
沖野の脳天を、強烈な電撃のような衝撃が貫いた。
(――ッ!? なんだ、この筋肉は……!?)
人間の脚ではない。いや、一般的なウマ娘の脚ですらない。
鋼鉄のワイヤーを限界まで束ね、極限まで圧縮したかのような、異常なまでの高密度。触れただけで指を弾き返してきそうなほどの、爆発的な反発力を秘めた恐るべき筋繊維。
この感触を、沖野は知っている。
忘れるはずがない。彼のトレーナー人生において、ただ一度だけ触れたことのある、理外のバケモノの脚。
八年前。
『トレーナー、お願い。私を故障したことにして』
誰もいない夜のターフで、常識外れのスピードを見せつけた後、淡々と引退手続きを懇願してきたあの青いウマ娘。
シンボリルドルフを絶望させ、自分自身の底知れぬ力を持て余した彼女。当時の沖野は、彼女が去る理由を「この先、走っても相手になるウマ娘がいないから、退屈で辞めるのだろう」と解釈していた。
ウマ娘の歴史を終わらせかねない次元の違うスピードを持ちながら、幻のように消えていった存在。
「お、おい……嘘だろ……?」
沖野は口に咥えていたキャンディを落としそうになりながら、目の前の女性の顔を見上げた。
黒い髪。焦げ茶色の瞳。人間の新人トレーナー、日高湊。
しかし、その顔立ちは、八年前から少し大人びてはいるものの、記憶の中にある『ブルーブラー』の面影と完全に一致していた。
「お前、まさか……『ブルー――』」
沖野がその名を口にしかけた瞬間。
スッ、と。
湊の右手の人差し指が、自らの唇に当てられた。
『シーッ』
声には出さない。彼女は片目をパチリとウインクし、まるで極秘のイタズラを共有する子供のように、ニカッと――余裕たっぷりで、飄々とした笑みを浮かべたのだ。
(ここでバラしちゃ面白くないでしょ? 私たちの『秘密』、ちゃんと守ってよね)
そんな悪びれない無言のメッセージが、呆気にとられる沖野の頭の中に直接響いた気がした。
沖野はポカンとキャンディを咥えた口を開け、やがて呆れたように深く息を吐き出した。
目の前の「人間の女性」が、あの幻のウマ娘であるという事実。そして、なぜか正体を隠してトレセン学園に戻ってきているという異常な状況。
思考は追いつかないが、あの八年前から微塵も変わっていない、どんな時でも自分のペースを崩さないその不敵な態度に、沖野はすっかり毒気を抜かれてしまった。彼女が『共犯関係』の継続を求め、この状況すら一種のゲームのように楽しんでいることだけは、痛いほど理解できた。
「……ぶるー、ブルーベリー味のキャンディ、落とすとこだったぜ。あぶねぇあぶねぇ」
沖野は必死に顔の筋肉を引き攣らせながら、なんとか言葉を誤魔化した。
「はぁ……。もういいですか? 私たちはこれで」
湊は表情をスッと元に戻し、何事もなかったかのように振る舞う。
「あ、ああ。悪いな、お姉さん。俺は沖野。さっきも言ったが、チームスピカのトレーナーだ。あんたは?」
「……日高湊です。今日から、この子の『個人専属トレーナー』になりました」
「そうか……。日高、トレーナー、ね」
沖野は、目の前の「元・担当ウマ娘」のスーツ姿をしげしげと見つめた。
圧倒的な才能を持て余し、相手がいないと絶望してターフを去ったはずの彼女が、今は人間の指導者として、自分の妹を導こうとしている。
(なるほどな。そういうことかよ。自分が走る代わりに、とんでもない原石を育て上げようって腹か……)
沖野の口元に、自然とニヤリとした笑みが浮かんだ。
「よろしくな、日高トレーナー。それと、そっちのお嬢ちゃんも」
「わ、私はスペシャルウィークです! ……もう、急に触らないでくださいね!」
スペがぷくっと頬を膨らませて抗議すると、沖野は「悪かったって」と両手を上げて降参のポーズをとった。
歓声が再び大きく沸き上がる。ターフでは、サイレンススズカが圧倒的な大差をつけてゴール板を駆け抜けていた。
「さあ、スペ。私たちも行くよ。まずは基礎体力づくりからね」
「はいっ! 日本一に向けて、頑張るべ!」
元気よく歩き出すスペの背中を追いかけながら、湊は一度だけ振り返り、沖野に向けて小さくウインクをした。
それは、八年前の泥を共に被った共犯者への、密かな挨拶。
沖野はポケットに手を突っ込みながら、キャンディをガリッと噛み砕いた。
「……またとんでもない嵐が来そうだぜ、トレセン学園に」
ターフを吹き抜ける風が、新たな時代の幕開けを予感させるように、二人の背中を押し出していった。