Supersonic Derby   作:七つの混沌

4 / 11
第4話 孤高の逃亡者と、チームスピカへの移籍

トレセン学園の広大な敷地内には、用途やコース状況に応じた多種多様なトレーニングトラックが用意されている。その中でも、ひときわ整備が行き届き、ピリッとした緊張感が漂う一角があった。

学園最強と名高い名門チーム、『チーム<リギル>』の専用レーンである。

 

「ラップタイム、コンマ二秒遅れているわ。コーナーへの進入角度も甘い。もっと重心を内側に残しなさい」

トラックの脇に立ち、ストップウォッチとバインダーを手にした黒スーツの女性――東条ハナが、冷徹な声で指示を飛ばす。

彼女の指導は徹底したデータ至上主義であり、ウマ娘の走行フォームからレース展開に至るまで、一切の無駄を許さない。その厳格な管理体制こそが、チームリギルを常勝軍団たらしめている所以だった。

 

「……はい」

トラックを走っていた栗毛のウマ娘、サイレンススズカが短く返事をする。

彼女の走りは、素人目には完璧に見えた。風を切り裂くような無駄のないフォーム、静かでブレのない重心移動。しかし、彼女の表情は能面のように硬く、瞳には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、指示されたタイム通りに、指示された歩幅でターフを削り続ける機械のようだった。

 

「スズカさん、今日もすごいスピードだね……。でも……」

その光景を、一般生徒用のフリートラックから柵越しに眺めていたスペシャルウィークは、ぽつりと呟いた。

隣でストレッチのサポートをしていた日高湊が、キャスケットのつばを軽く押し上げながら視線を向ける。

「どうしたの、スペ。どこか気になるところでもあった?」

「うん……。スズカさん、すっごく綺麗で速いんだけど……なんだか、ちっとも楽しそうじゃない気がする」

 

スペの素直な感想に、湊は小さく息を吐いた。

(やっぱり、スペにも分かるか)

湊は視線をサイレンススズカから、指導を続ける東条ハナへと移した。

東条ハナの手腕は確かだ。才能あるウマ娘を効率よく、確実に勝利へと導くための最適解を彼女は知っている。しかし、その「最適解の押し付け」が、時としてウマ娘の持つ根源的な闘争心や、走る歓びを窒息させてしまうことがある。

 

「リギルは徹底した管理主義だからね。勝つためのレースプランを絶対として、個人の感情や本能は二の次にされることが多い」

湊はスペの背中を軽く押し、ストレッチの姿勢を深めさせながら言った。

「でも、走るのって……もっと、わくわくするものじゃないの? 私、お姉ちゃんと北海道で走ってた時は、いつもドキドキして楽しかったよ!」

スペが首だけを後ろに向けて抗議するように言う。

「そうだね。私も、スペと一緒に走るのは楽しかったよ」

 

湊はふわりと微笑んだ。

湊にとって、全力で走ることは長らく「恐怖」の対象であった。しかし、自分のデタラメな速度に、息を切らし、泥だらけになりながらも満面の笑みで追いすがってくるスペの存在が、走ることへの純粋な楽しさを思い出させてくれたのは事実だった。

「走る理由も、楽しいと感じる瞬間も、ウマ娘それぞれだよ。でも……今のサイレンススズカの心の中は、きっと息苦しさでいっぱいだろうね」

 

湊の言葉を裏付けるように、トラック上のスズカの足取りは、どこか見えない鎖に繋がれているかのように重苦しく見えた。

彼女のソウルが求めているのは、計算された勝利ではない。ただひたすらに前へ、誰もいない先頭の景色へと飛び出していく圧倒的な自由のはずだ。

それが押さえつけられている現状は、同じウマ娘のソウル――あるいはそれ以上に異質なモノ――を宿す湊にとっても、見ていて少しだけ胸が締め付けられる光景だった。

 

 

U U U

 

 

数日後。

学園内は、ある一つの噂で持ちきりになっていた。

『サイレンススズカが、チームリギルを脱退するらしい』

その信憑性を裏付ける決定的な場面に、スペと湊は偶然にも居合わせることとなった。

 

夕暮れ時の誰もいない屋外トラック。

個人トレーニングのメニューを終え、帰り支度をしていたスペと湊の視線の先で、二つの影が対峙していた。

一人は、サイレンススズカ。

そしてもう一人は、先日レース場で遭遇した胡散臭い男――チーム<スピカ>のトレーナー、沖野だった。

 

距離があったため、二人の会話のすべてが聞こえたわけではない。

しかし、夕日を背に受けた沖野が、スズカに向かって何かを熱っぽく語りかけているのは分かった。

時折風に乗って聞こえてくるのは、『自分の走り』『先頭の景色』といった言葉の断片。

そして、その言葉を聞くスズカの瞳に、少しずつ、しかし確かな光が灯っていくのが、遠目からでもはっきりと見て取れた。

 

「沖野トレーナー、スズカさんに何を言ってるんだろう?」

スペがフェンスに張り付きながら、興味津々といった様子で首を傾げる。

「さあね。でも……多分、彼女が一番欲しかった言葉をあげてるんじゃないかな」

湊は腕を組み、静かにその光景を見守った。

東条ハナが与えようとしたのは「勝利という結果」。しかし、沖野が与えようとしているのは「走る歓びへの許可」だ。

管理された檻の中から飛び出し、本能のままに駆け抜ける自由。

 

やがて、スズカがこくりと、一つだけ力強く頷いた。

その瞬間、彼女の纏っていた重苦しい空気が霧散し、本来の透き通るようなオーラが周囲に満ちたように感じられた。

スズカの表情には、リギルの練習で見せていたような虚ろさはもうない。自らの足で、自らの求める景色を見に行くと決意した、ウマ娘本来の気高い顔つきになっていた。

 

「……よかった」

スペが、ほっとしたように胸を撫で下ろして微笑んだ。

「ん? スズカがリギルを辞めちゃうかもしれないんだよ? それでもいいの?」

「チームのことはよく分かんないけど……でも、今のスズカさん、すっごくいい顔してたから。きっと、これからは楽しく走れるようになると思う!」

スペの言葉には、他人の喜びに心から共感できる純粋な優しさがあった。

 

(……相変わらず、泥を被ったり、はぐれ者を拾ったりするのだけは上手いトレーナーだこと)

湊は、頭を掻きながら笑っている沖野の姿を見て、八年前の記憶を重ね合わせ、小さく笑みを浮かべた。

 

あの時、自分の抱える絶望的な異質さに気づき、ターフから逃げ出すための嘘をでっち上げてくれたのも、あの男だった。良くも悪くも、ウマ娘の抱える本質的な感情に寄り添うことにかけては、沖野は誰よりも鋭い嗅覚を持っている。

 

「さ、私たちも帰ろうか、スペ」

湊はスペの肩を叩き、帰り道を促した。

「はいっ! なんだか私、すっごく走りたくなってきちゃった!」

「こらこら、今日はもうクールダウンまで終わってるでしょ。オーバーワークは禁物だよ。怪我したら元も子もないんだから」

「むー、分かってるけど……。でも、スズカさんがあんなにキラキラした顔してるのを見たら、私だってウズウズしてくるんだもん!」

ぴょんぴょんと跳ねるように歩く妹を見つめながら、湊は深く息を吸い込み、夕暮れの空気を肺いっぱいに満たした。

 

サイレンススズカは、自分の走るべき場所を見つけた。

ならば、自分の隣を歩くこの真っ直ぐな原石は、これからどんな景色を見つけるのだろうか。

「私はただの、人間の個人トレーナー。……あなたが迷わず走れるように、しっかり道を均してあげるからね」

「ん? お姉ちゃん、何か言った?」

「ううん、何でもない。帰ったら、夕飯の後に座学の復習をするから、覚悟しておきなさいよ」

「ええーっ!? 机に座るの、苦手だべー!」

 

不満げに声を上げるスペの頭をくしゃくしゃと撫でながら、湊はキャスケットのつばを深く下げた。

学園の勢力図が少しずつ動き出している。名門から一人の天才が離脱し、新たな風が吹き始めた。

だが、スペと湊はまだその渦の外にいる。

今はまだ、力を蓄える時。

いずれこの学園全体を、いや、ウマ娘の歴史そのものを揺るがすほどの暴風となるその日まで、彼女たちはただ静かに、二人の歩幅で前へと進み続けるのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。