Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第5話 ジュニア級デビュー戦

夏の気配が色濃くなり始めた頃。

東京レース場は、若きウマ娘たちの熱気と、彼女たちの第一歩を見届けようとする観客たちの期待で満ちていた。

『メイクデビュー』――すなわち、トゥインクル・シリーズのスタートラインに立つための、デビュー戦である。

 

パドックには、真新しい勝負服や学園の指定ジャージに身を包んだジュニア級のウマ娘たちが、緊張の面持ちで周回していた。観客の視線やカメラのフラッシュに戸惑う者、落ち着きなく尻尾を揺らす者など、初々しい反応がそこかしこで見られる。

その中で、スペシャルウィークは驚くほど落ち着いていた。

「調子はどう、スペ。緊張してる?」

柵の外から声をかけたのは、黒いパンツスーツにキャスケット帽を被った日高湊だ。片手にはストップウォッチとバインダーを持ち、どこからどう見ても『新人の人間のトレーナー』としての風格を漂わせている。

スペは湊の声に気づくと、パッと花が咲いたような笑顔を向けた。

「お姉ちゃん! うん、全然緊張してないよ! なんだか、すっごくワクワクしてる!」

その言葉に嘘はないようだった。ピンと立った耳も、ゆったりと揺れる尻尾も、過度な強張りを見せていない。

湊はバインダーで口元を隠しながら、ふっと優しく微笑んだ。

 

「作戦は確認した通り。中団でしっかりと脚を溜める『差し』のレースだよ。周りのペースに惑わされず、自分のリズムを守ること。……いつでも私と並んで走っている時のつもりでね」

「はいっ! 一気にみんなを追い抜けばいいんだね!」

力強く頷く妹を見て、湊は安心したようにキャスケットのつばを押し上げた。

(これなら大丈夫そうね)

スペは、このデビュー戦に出走する他のウマ娘たちとは、決定的に異なる経験値を積んでいる。

それは、ウマ娘の物理的限界を軽々と超越する『湊の背中』を、幼い頃からずっと追いかけ続けてきたという事実だ。

初めてのレース、大観衆のプレッシャー。普通なら押し潰されそうになる要素も、スペにとっては「あの北海道での過酷で、だけど楽しかった特訓」の延長線上に過ぎないのだ。

 

やがて、出走のファンファーレが高らかに鳴り響いた。

観客席から大きな歓声と拍手が沸き起こり、ウマ娘たちが続々とターフへと姿を現す。

スタート地点に並べられたゲート。その中に入ったスペは、一つ深く深呼吸をした。

足裏から伝わってくる、手入れの行き届いた芝の感触。

頬を撫でる、初夏の生温かい風。

(……北海道の風より、ずっと優しいな)

スペはそっと目を閉じた。

脳裏に浮かぶのは、故郷の凍てつくような夜の山道。冷たい空気を切り裂きながら、信じられない速度で先を急ぐ、青い髪の姉の背中。あの暴力的なまでのスピードの渦に巻き込まれまいと、必死に脚を回し続けた日々。

『いい、スペ。前だけを見るのよ』

幻聴のように聞こえた姉の声に、スペはカッと紫色の瞳を見開いた。

日本一のウマ娘になるための、最初の一歩。

 

ガシャンッ!

乾いた音と共にゲートが開き、ウマ娘たちがいっせいにターフへと飛び出した。

 

『さあ、各バ綺麗なスタートを切りました! ジュニア級メイクデビュー、芝1600m!』

実況の声が響き渡る中、スペは湊の指示通り、無理に前へは出ず、バ群の中団やや後方へとポジションを下げた。

周囲のウマ娘たちが、ポジション争いのために激しく火花を散らしている。荒い息遣い、芝を蹴り上げる鋭い音、ぶつかり合う肩と肩。

しかし、そのバ群の只中にいながら、スペの心は静まり返っていた。

 

(……遅い)

それが、スペの偽らざる実感だった。

決して、他のウマ娘たちを侮っているわけではない。誰もが真剣に、己のすべてを懸けて走っていることは、肌で感じ取れる。

ただ、純粋な物理的体感として、ペースが「遅い」のだ。

常軌を逸した「通常走行」の真横で走り続けてきたスペにとって、ジュニア級のウマ娘たちが刻むペースは、スローモーションとは言わないまでも、十分に景色を楽しむ余裕すらあるスピードだった。

 

(みんな、一生懸命走ってる。だから私も、全力で応えなきゃ!)

スペはバ群の中でじっと息を潜め、勝負所が来るのをひたすらに待った。

スタンドのトレーナー席から双眼鏡でレースを見守っていた湊は、スペの完璧な折り合いに小さく頷いた。

「……いいよ、スペ。すごくいいリズムだ」

周りのトレーナーたちが「あの娘、落ち着いてるな」「どこのチームだ? 個人か?」とざわめき始めているのを、湊は心地よく聞き流した。

 

レースは第3コーナーから第4コーナーへと差し掛かり、いよいよ最終直線へと向かう。

『さあ、先頭は依然として逃げるオルガインパルス! 後続がここで一気にスパートをかけて距離を詰めてくる!』

バ群が横に広がり、各ウマ娘が温存していた体力を解放し始める。

その時だった。

「――やあああっ!!」

スペの腹の底からの叫び声が、ターフに響き渡った。

 

『おっと、ここで外から一気に上がってきた! スペシャルウィークだ!』

 

スペの身体が、弓矢のように弾け飛んだ。

そのフォームは、決して奇をてらったものではない。上体をしっかりと前傾させ、腕を力強く振り、重心を真っ直ぐに前へと進める。どれをとっても、トレセン学園で教えられる基本に忠実な、ウマ娘としてごく標準的なフォームだった。

――ただ一つ、異常だったのは、その『ピッチ(脚の回転数)』である。

 

タタタタタタタタタタタッ!!

 

芝を叩く音が、明らかに他のウマ娘たちと違っていた。

一般的なウマ娘が一歩を踏み出す間に、スペは一歩半、あるいは二歩のステップを刻んでいる。ストライド(歩幅)を無理に伸ばすのではなく、脚の回転数を極限まで高めることで、爆発的な推進力を生み出していた。

それは、かつて彼女が追いかけ続けた「車輪のように脚を回す」姉の走り――湊の特異なピッチ走法に、無意識のうちに影響を受けた結果だった。湊のように残像が見えるほどの異常な回転ではない。あくまで「通常のウマ娘のフォーム」の範疇に収まってはいるものの、同世代の中では明らかに異彩を放つ高速ピッチだった。

 

「なんだあの回転数は……!」

「あんなピッチで最後まで息がもつのか!?」

周囲のトレーナーたちがどよめく中、スペは全くペースを落とすことなく、むしろさらに加速していく。

(もっと……もっと速く! お姉ちゃんの、あのスピードに追いつくために!)

北海道で姉の背中を見た時の記憶が、スペの脚にさらなる力を与える。

前を走っていたウマ娘たちが、まるで止まっているかのように次々と抜き去られていく。圧倒的な速度差。それまでの「遅い」ペースで体力を完全に温存していたスペにとって、この直線だけで全力を出し切ることは容易いことだった。

 

『スペシャルウィーク、完全に抜け出した! これは強い、次元が違う! 後続をぐんぐんと引き離していく!』

 

ゴール板を駆け抜けた時、二着のウマ娘との間には、大差と呼んで差し支えないほどの決定的な距離が開いていた。

 

「やった……! やったーっ!」

ゴール後、ゆっくりとペースを落としたスペは、観客席に向かって両手を大きく突き上げた。

割れんばかりの歓声が、彼女の初勝利を祝福するように降り注ぐ。

ウイニングランを終え、引き揚げてきたスペは、柵の向こうで待っていた湊の姿を見つけるなり、弾かれたように飛び込んだ。

「お姉ちゃん! 私、勝ったよ! 一着だったよ!!」

湊は汗だくになって抱きついてきた妹の頭を、優しく、何度も撫でた。

「おめでとう、スペ。完璧な走りだった。……すごく、かっこよかったよ」

「えへへ……!」

スペは嬉しそうに目を細め、湊のスーツの胸元に顔をぐりぐりと押し付けた。

 

(少しピッチが速かったけど、フォーム自体は綺麗なものだった。あれなら、周りからは『ちょっと回転の速い才能ある新人』くらいにしか見えないはず)

湊は、周囲の視線から正体を隠すようにキャスケットを目深に被り直しながら、スペの背中をポンと叩いた。

 

「さあ、着替えて祝勝会に行こうか。今日はスペの好きなもの、何でもご馳走してあげるからね」

「本当!? じゃあ、にんじんハンバーグ特大サイズでお願いするね!」

「はいはい、分かったから」

 

夕暮れの東京レース場。

二人の姉妹――いや、一人のウマ娘と一人の人間のトレーナーは、確かな手応えと共に、次なる目標へと歩み出した。

「日本一のウマ娘」という、途方もない夢への第一歩。

その足跡は、まだトレセン学園の歴史の片隅に刻まれたばかりの、小さな、しかし確かな楔(くさび)であった。

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