第6話 食べすぎ注意! 超音速のダイエット特訓
デビュー戦での圧勝劇からしばらくして。トレセン学園の個人トレーナー室は、ある種の異常事態に見舞われていた。
壁際にうずたかく積まれた段ボール箱の山。そこから漂ってくるのは、瑞々しい土の匂いと、甘い野菜の香り。そして、テーブルの上には所狭しと並べられたタッパーウェアの数々。
「ん〜〜〜っ! やっぱりお母ちゃんの作ったニンジンハンバーグは最高だべー!」
部屋の中心で、スペシャルウィークが幸せそうに頬を緩ませ、両手で持った特大のニンジンハンバーグにかぶりついていた。その横には、すでに空になったタッパーがピラミッドのように積み上げられている。
「……スペ。あんた、それ何食目?」
「えっと、朝ごはんの後の、午前中のおやつだから……三食目、かな?」
「あのさぁ……」
黒髪のウィッグに深々と帽子を被った「人間の新人トレーナー」日高湊は、手元のバインダーで顔を覆い、深いため息を吐いた。
事の発端は、スペのデビュー戦勝利の報せを北海道の養母に伝えたことだった。電話口で「よくやったべ! いっぱい食べて元気出すべ!」と豪快に笑っていた母は、有言実行とばかりに、翌日から大量の地元野菜と、手作りの料理をクール便で送りつけてきたのだ。
愛娘の門出を祝う親心は痛いほどわかる。わかるのだが……。
「スペ。ちょっとそこの体重計乗って」
「体重? 大丈夫だよー、私、走ればすぐお腹減るから! ええっと……」
もぐもぐと口を動かしながら、無防備に体重計に乗るスペシャルウィーク。
デジタル表示の数字がパラパラと動き――ピピッと音を立てて止まった。
「…………え?」
スペの動きが、ハンバーグを口元に運ぶ寸前でピタリと止まる。
表示された数字を見た湊は、無言でバインダーを丸め、スパーン! とスペの頭を軽く叩いた。
「い、痛っ! お姉ちゃん、何するの!?」
「何するの、じゃない。デビュー戦からプラス5キロってどういうこと。皐月賞までもう時間がないってのに、完全に『太り気味』じゃん」
「ぷ、プラス5キロ……!? 嘘っ、そんなはずじゃ……あ、でも、最近制服のスカートがちょっと苦しいような……」
「自覚あるんかい。はぁ……このままじゃ、皐月賞のゲートに入る前にお腹がつっかえるよ」
ウマ娘にとって、急激な体重増加は脚部への負担やスタミナのロスに直結する。特に、スペが次に挑むのはクラシック三冠の初戦、皐月賞だ。無敗のウマ娘も集う大舞台に、このわがままボディで挑むわけにはいかない。
「どどど、どうしようお姉ちゃん! 私、このままじゃ走れないよ! お母ちゃんの人参が美味しすぎたのがいけないんだー!!」
「人のせいにしないの。……まぁ、私も止めきれなかった責任はあるけど。とにかく、今日から特別ダイエットメニューね」
湊が鬼のトレーナーとしての表情を作ったその時、部屋の扉がノックされ、学園の配送業者が顔を出した。
「日高トレーナー。北海道から、追加の荷物が届いてますけど……これ、どうします? 部屋に入りきらないと思うんですが」
「え? まだ何か送ってきたの? ……って、ちょっと待って。何それ」
業者の後ろ、台車に乗せられていたのは、段ボール箱ではなかった。
それは、大人が両手を広げても抱えきれないほど巨大な、木製のクレート(梱包箱)だった。
「とりあえず、第一グラウンドの隅にでも下ろしておいてください」
湊の指示でグラウンドに運ばれた巨大な木箱。バールで釘を抜き、板を外していくと、中から現れたのは――鈍い銀色に光る、巨大な金属製の構造物だった。
直径は3メートル近くあるだろうか。極太のフレームで支えられた、幅広のドラム状の車輪。
「お姉ちゃん、これ……お姉ちゃんが走ってたやつ、だよね?」
「……まさか、あれを送ってくるとはね」
呆然とするスペの横で、湊は木箱に貼り付けられていた手紙を剥がし取った。
『湊、スペ。元気にしてるか? スペがデビュー戦勝って、嬉しくてつい色々送りすぎちまった。絶対スペが食べ過ぎて太る嫌な予感がしたから、湊が昔使ってた「コレ」も一緒に送るべ。これでしっかり絞って、皐月賞も勝つんだべ!』
「お母ちゃん、エスパー!?」
「スペはこういうところ分かりやすいからねぇ。……まぁ、母さんに感謝、だね」
湊は、その巨大な金属製の輪――『巨大サイレントホイール』を見上げて、小さく笑った。
湊の『通常走行』は時速75kmの超高ピッチだ。北海道の広大な原野とはいえ、そんな異常なフォームで走り回っていれば嫌でも噂になる。
だからこそ、このホイールは湊にとって必須のアイテムだった。
「さあ、スペ。不退転マシーン送りだ。とりあえずこれに入って走って。これで徹底的にカロリーを消費するよ!」
「ふ、不退転マシーン?」
疑問符を浮かべつつスペが巨大ホイールの中に足を踏み入れる。湊が扉の鍵を閉めて回転具の固定を外すと、スペは走り始めた。
「あれ、なんか段々加速してるような……」
「自分の足でホイールを段々加速させちゃうから、さらに足を回さなきゃいけなくなるって仕組み。最大回転数はこっちで制御できるから、とりあえずそのまま頑張ってみて」
「はいっ! ……ふんぬぅぅぅっ!」
スペの額からはすぐに大粒の汗が吹き出し、太り気味の体が悲鳴を上げる。
しかし、彼女は諦めない。「日本一のウマ娘になる」という目標のため、そして何より、目の前で腕組みをして見守る大好きな「お姉ちゃん」の期待に応えるために。
「これくらいかな?そのペースであと二時間!」
「に、にじかぁぁぁん!?」
屋内(グラウンドの隅に設置された簡易テントの中)に、スペの絶叫とホイールの回転音が響き渡った。
U U U
それからさらに数日。巨大ホイールによる地獄のカロリー消費特訓の甲斐あって、スペの体重はみるみるうちに落ちていった。
しかし、ただ体重を落とすだけでは勝負にならない。レースに必要な実践的な筋力とスタミナ、そして勝負勘を取り戻す必要がある。
「よし、体重はほぼ元通りだね。仕上げに、今日は外で実践的なスタミナ特訓だよ」
トレセン学園の裏山に続く未舗装の山道。
スペの腰には太いロープが巻かれ、その後ろには重しとして大型トラックの古タイヤが3つ連なっている。
「ここから山頂まで、このタイヤを引いてダッシュ!」
「は、はいっ! お姉ちゃん!」
スペが力強く地面を蹴り、タイヤを引きずりながら山道を登り始める。ザッ、ザッ、と土を蹴る音が響く。
「……ちょっとペースが遅いね。皐月賞の最終直線はもっとタフだよ!」
スペの後ろから、カラカラとチェーンの音を響かせて湊がついてくる。
トレセン学園の新人トレーナーとしての『人間・日高湊』の擬態を完璧にするため、ウマ娘のトレーニングに伴走する際の彼女の愛機は、フロントにカゴのついたごく一般的な『ママチャリ』である。
「うぅ……タイヤが、引っかかって……!」
「そんなんじゃ皐月賞で後ろ向きに走るライバルにバカにされるよ!」
湊は、スペの闘争心に火をつけるために、自転車のペダルを漕ぐ足を速めた。
「ほらほら、追いついちゃうよ! スピードアップ!」
湊はあくまで「人間」として振る舞っているつもりだった。しかし、目の前で必死に走る妹の背中を見ているうちに、かつてターフで風を切り裂いていたウマソウルの本能が、わずかに漏れ出してしまう。
「もっと! もっと脚を回して!」
湊の足が、ペダルの上で目にも留まらぬ速さで回転し始めた。
それは、ウマ娘・ブルーブラーとしての片鱗――時速75kmを生み出し続ける、異常なピッチとスタミナ。
その規格外の運動エネルギーが、市販のママチャリのペダルを通して駆動系にダイレクトに伝わっていく。
ギャリリリリリリッ!!!
突如、自転車から聞いたこともないような異音が鳴り響いた。
「え?」
「……お、お姉ちゃん!?」
前を走っていたスペが振り返り、悲鳴のような声を上げる。
「お姉ちゃん! じ、自転車がっ!!」
湊が足元を見ると、限界を超えた異常な高速回転に耐えきれず、自転車のチェーンが摩擦熱で真っ赤に発光していた。
バチバチと火花が散り、チェーンオイルが焦げる刺激臭が辺りに立ち込める。
「わ、わっ!? ちょ、熱っ! ストップストップ!」
湊が慌ててブレーキを強く握りしめるが、もはやブレーキパッドの制動力など役に立たない。
パァンッ!! という破裂音と共に、赤熱したチェーンが弾け飛び、宙を舞って草むらへと消えていった。
動力を失い、バランスを崩したママチャリは、そのまま道の脇の茂みへと突っ込んでいく。
「わああああぁぁぁぁ……」
「お、お姉ちゃーーーーん!!」
ガシャーン! という派手な音と共に、湊は茂みの中に姿を消した。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
慌ててタイヤを引きずりながら戻ってきたスペが、茂みの中を覗き込む。
そこには、黒い帽子を斜めに被り直し、ジャージに葉っぱを何枚もくっつけているが綺麗に着地した湊が、前輪のひしゃげたママチャリの横でため息をついていた。
「……大丈夫。ちょっとペダルを強く踏みすぎたみたい」
「つ、強く踏みすぎたって……チェーン、真っ赤になって火花出てたよ!?」
「あんまり大きい声で言わないで。バレるから……それよりスペ、足が止まってるよ。特訓はまだ終わってない!」
「ひぃぃっ! はいっ!」
湊の誤魔化し(?)にツッコミを入れる余裕もなく、スペは再び山頂に向かって走り出した。
茂みから這い上がった湊は、完全に使い物にならなくなったママチャリを哀れむように見下ろす。
「……ハァ。ちょっとテンション上がりすぎたかぁ。……ごめんね、チャリ男(仮)」
心の中で愛車に別れを告げ、湊は帽子を目深に被り直すと、スペの後を追って『人間としての小走り』で山道を登り始めた。
数日間にわたる、巨大ホイールとタイヤ引き(と自転車の犠牲)によるダブル特訓。
結果として、スペシャルウィークは極限までカロリーを絞り出し、見事にベスト体重を取り戻した。
そればかりか、高負荷のトレーニングを乗り越えたことで、デビュー戦の時よりも一段と引き締まった筋肉と、無尽蔵のスタミナを手に入れていた。
皐月賞、本番当日。
中山レース場の控室で、勝負服に身を包んだスペが、鏡の前で軽くステップを踏む。
「うん! 体、すっごく軽い! これなら、どこまででも走れそう!」
「調子乗ってまたバカ食いしたら、次はあのホイールを背負わせて走らせるからね」
「ひぇっ……! も、もうしません! 絶対しません!」
涙目で首を横に振るスペを見て、湊はふっと口角を上げた。
「……仕上がりは完璧。スペが私の特訓についてきたんだから、負けるはずがない。自信持って!」
「はいっ! いってきます、お姉ちゃん!」
元気よく控室を飛び出していく妹の背中を、湊は静かに見送る。
人間の新人トレーナーの帽子に隠された、緑色の瞳が鋭く光った。
(さあ、見せてスペ。あなたが創る、新しい歴史の第一歩を)
最強の妹の、真の伝説が、ここから始まろうとしていた。