中山レース場の地下バ道には、重低音のように響く観客の喧騒が上から降り注いでいた。
クラシック三冠の第一関門、皐月賞。一生に一度しか出走できないこの大舞台を前に、出走を控えるウマ娘たちは皆、独特の緊張感に包まれていた。
しかし、スペシャルウィークの表情に陰りはない。ダイエットと称して課された、常軌を逸した巨大ホイールでの超絶カロリー消費特訓と、それに続く過酷なタイヤ引き特訓。それを乗り越え、完璧なコンディションとベスト体重を取り戻した彼女の脚は、今すぐにでも弾け飛びそうなほどの活気に満ちていた。
「調子は良さそうだね、スペ」
黒いウィッグにカラーコンタクト、目深に被った帽子で本来のウマ娘としての姿を完全に隠蔽した日高湊は、手元のバインダーから視線を上げ、義妹に気さくな笑みを向けた。周囲から見れば「少しドジな人間の新人トレーナー」にしか見えない彼女だが、その瞳の奥には冷徹な勝負勘が宿っている。
「はい! 体もすごく軽いです。これなら、どんなレースでも勝てる気がします!」
「頼もしいね。でも、油断は禁物だよ。みんなこの日のために仕上げてきてるんだから」
湊は周囲に聞こえないよう少し声を落とし、コースの俯瞰図を指差した。
「スペ、今日のバ場だけどさ。たぶん、最内の荒れてるところ、誰も通りたがらないと思うんだよね」
「えっ、そうなの?」
「うん。何レースかやって芝が掘れてるし、中山の急坂もあるからね。みんな少しでも走りやすい外側の綺麗な芝……もしくは、内ラチ沿いに1人分くらいだけ残っている『グリーンベルト』を走る娘もいるかな?だから、勝負所の最内はぽっかり空くはずなんだ」
「でも、荒れてる所を走ったら、足を取られてスピードが落ちちゃわない……?」
「普通のウマ娘ならね」
湊はニヤリと笑った。
「でも、スペは特訓でパワーもスタミナも限界突破してるし、そもそもあの『ピッチ走法』なら、足の抜き差しが速くて接地時間が極端に短いから、荒れの影響をほとんど受けづらい。だから、勝負所で前が開いたら、遠慮なく最短距離をブチ抜いてきな」
「……! はいっ! お姉ちゃんが一緒に作ってくれた脚、信じて走ります!」
純粋な決意を宿した明るい紫の瞳が、力強く頷く。湊は帽子を少し深く被り直し、「それじゃ、行ってきな」とスペの背中を軽く叩いて送り出した。
U U U
ゲートが開き、芝2000メートルの熾烈な戦いが幕を開けた。
「綺麗なスタートです! 先頭に躍り出たのはやはりセイウンスカイ!」
実況の言葉通り、芦毛のトリックスター・セイウンスカイが軽快なステップで先頭に立ち、レースのペースを掌握しにかかる。後続を翻弄するような絶妙な逃げ。それに釣られるように、血気盛んなキングヘイローが前へ前へと出ようとし、折り合いを欠いていた。
「キング、ちょっと焦りすぎデース……」
「ええ。それに比べて、スペちゃんは……」
観客席から身を乗り出すようにしてターフを見つめるエルコンドルパサーとグラスワンダーの視線の先には、中団のバ群にスッポリと収まり、全く無駄のないフォームで息を潜めるスペシャルウィークの姿があった。
デビュー戦からさらに研ぎ澄まされたその走りは、周囲のペースに惑わされることなく、まるで自身の内なるメトロノームに合わせているかのように精緻なリズムを刻んでいる。
「良い位置取りだ。全く掛かってねぇ」
別室のモニター前で腕を組むチームスピカの沖野トレーナーも、スペの完璧な折り合いに舌を巻いていた。
その隣で、チームリギルの東条ハナも鋭い視線を画面に送っている。彼女の教え子であるグラスワンダーやエルコンドルパサーと同世代のウマ娘たち。その中でも、無名の人間トレーナーが指導するスペシャルウィークの完成度は、不気味なほどに高かった。
レースは第3コーナーから第4コーナーへと差し掛かる。勝負所だ。
先頭のセイウンスカイが、後続を引き離しにかかる。彼女が選んだコースは、湊の予想通り――グリーンベルトだった。
『もらったね』
セイウンスカイの口元に余裕の笑みが浮かぶ。後ろとの距離、残りの体力、そしてバ場の状態。すべて計算通り。皐月賞のタイトルは私のものだ。誰もがそう確信した瞬間だった。
「――っ!?」
中団に控えていたスペシャルウィークが、突如として動いた。
外へ持ち出して進路を確保する定石を無視し、彼女はがら空きになっていた「最内の荒れたバ場」へと躊躇なく突っ込んだのだ。
「正気かしら!? あんな荒れたインコースを突くなんて……!」
ハナがモニターに張り付くようにして叫ぶ。泥濘に近く、掘り返された芝。あんな場所を走れば、スタミナを急激に削られ、スピードが乗るはずもない。
「……いや、違うぞ」
沖野の低い声が、ハナの驚愕を遮った。その目は、画面に映るスペシャルウィークの脚元を射抜くように見つめている。
「あの異常な回転数……接地の時間を極限まで削り落として、悪路の影響を相殺してやがる……!」
そう、スペシャルウィークの脚は、荒れたバ場に深く沈み込む前に、すでに次のステップへと引き抜かれていた。タイヤ引きで鍛え上げられた強靭な脚力と、超高速ピッチ走法。
沖野の脳裏に、かつて自分が担当していた青いウマ娘の姿が重なる。物理法則に喧嘩を売るような、あの理不尽なまでの特異な走法。その片鱗が、目の前のウマ娘の走りに息づいていた。
他が避ける最短距離を、ロスゼロで駆け抜ける。
まるで空間をワープしたかのような錯覚を周囲に与えながら、スペシャルウィークは瞬く間にセイウンスカイの背後へと肉薄した。
その速度は、皐月賞の短い直線において、すでに歴代のジャパンカップにおけるトップスピードの閾値すら凌駕しようとしていた。限界を超えた加速。純粋な『速さ』の証明。
その瞬間――『それ』は起こった。
ぞわり、と。
ターフを走る一部の実力者、そして観客席やモニター越しに注視していた沖野やハナ、グラスワンダーたちの脳裏に、強烈な「幻視」が強制受信された。
夜空を切り裂くように降り注ぐ、まばゆい星の雨。
宇宙の果てから飛来した彗星が、ターフという名の銀河を一直線に駆け抜けるカットイン映像。
ウマ娘の魂の奥底、ウマソウルから放出された莫大なエネルギーが、周囲の空間に『重圧(プレッシャー)』となって伝播する。
「見ててね、お姉ちゃん!」
「あれは……『領域』か!」
沖野が呻くように声を漏らした。ハナも息を呑み、言葉を失う。
一部の実力者が極限のスパートをかける際、ごく稀に発生する原理不明の現象。他者の脳裏に映像を強制受信させ、莫大な気迫で自律神経を直撃するその幻視は、シニア級のトップ層でも一握りのウマ娘しか発現できないはずのものだった。
それを、デビューして間もないクラシック級の、しかも春の段階で引き起こすなど、常識では考えられないことだ。
「なっ……!?」
先頭を走っていたセイウンスカイの自律神経を、物理的な質量を伴ったかのようなプレッシャーが直撃した。完璧だったはずの彼女のリズムが一瞬狂い、呼吸が乱れる。
慌てて背後を振り返ったセイウンスカイの瞳に映ったのは、荒れた最内から、まるで無数の星々を背負って飛翔してくるかのような、スペシャルウィークの姿だった。
(嘘、でしょ……!?)
絶望。
自身が練り上げた完璧な策と、ウマ娘としての矜持が、ただ圧倒的な『速度』と未知の領域によって粉砕される感覚。
「やああっ!!!」
スペシャルウィークが咆哮と共に、セイウンスカイを抜き去った。
あとはもう、誰も彼女の背中を捉えることはできなかった。
中山の急坂を平地のように駆け上がり、後続を完全に置き去りにして、スペシャルウィークは堂々のトップでゴール板を駆け抜けた。
「勝ったのはスペシャルウィーク! 無敗の皐月賞ウマ娘の誕生です!!」
割れんばかりの大歓声が中山レース場を揺るがす。
「スペちゃん……」
「アンビリーバボー、デース……」
グラスワンダーとエルコンドルパサーは、言葉を失ってターフに立つ友を見つめていた。同世代のライバルが、想像を絶する早さで圧倒的な高みへと駆け上がっていく姿。それは彼女たちの闘争心に火をつけると同時に、底知れぬ恐れを抱かせるには十分すぎる光景だった。
世間も、そして実力者たちも、この異例の早期「領域」発動に度肝を抜かれていた。
無名の人間トレーナーが、どうやってこの原石をここまで磨き上げたのか。
だが。
(……まぁ、みんな驚いてるみたいだけどさ)
歓声の中、ウイニングライブに向かうスペを笑顔で見守りながら、湊は帽子の下で密かに苦笑していた。
(実は北海道で私と併走トレーニングしてた時、私が後ろ走りで煽りまくったら、スペのやつブチギレて……とっくにあの『シューティングスター』を出してたんだけどね)
世間を震撼させた歴史的偉業の裏にある、あまりにも泥臭く、そして理不尽な真実。
「最速のウマ娘」のソウルを宿す義姉と、それに食らいついてきた妹。
日高湊にとって、今日のスペシャルウィークの走りは奇跡でも何でもなく、ただの「日常の延長」でしかなかったのだ。