無敗のまま皐月賞を制覇し、さらにはクラシック級の春という異例の早さで「領域」を開花させたスペシャルウィーク。
そのセンセーショナルな勝利は、トレセン学園内にとどまらず、瞬く間に日本中の競バファンの間で大きな話題となっていた。
「いやぁ、今年の皐月賞は本当に痺れました! スペシャルウィークさんのあの末脚、まさに夜空を切り裂く流星のようでしたね!」
トレセン学園のグラウンド脇。
興奮気味にまくしたてるのは、競バ雑誌『月刊トゥインクル』の敏腕記者、乙名史(おとなし)だった。
彼女の目は、グラウンドで軽快に汗を流すスペシャルウィークを追いかけながらも、その傍らでストップウォッチを片手にタイムを計る人物――日高湊へと向けられていた。
「でも、私が今日ここに来た理由は、スペシャルウィークさんだけじゃありません。日高湊トレーナー、あなたにも密着取材をお願いしたいんです!」
「私に、ですか?」
湊は黒い帽子のツバを軽く指で押し上げ、どこか間の抜けた声を出した。
「ええ! 無名の新人トレーナーが、どうやってあそこまでのウマ娘を育て上げたのか。世間の競バファンは今、あなたの手腕に興味津々なんですよ。なんでも、スペシャルウィークさんとは実の姉妹だとか! 姉はトレーナーとして、妹はウマ娘として二人三脚でダービーを目指す……読者が食いつかないわけがありません!」
乙名史記者の鼻息は荒い。
皐月賞での圧倒的なパフォーマンスの裏には、必ず高度なトレーニング理論と緻密な戦略があるはずだ。彼女はそう確信していた。
「いやぁ、そんな大層なものじゃないですよ。スペが元々素直で、才能があっただけなんで」
「またまた、ご謙遜を! 数日間の密着取材、どうかよろしくお願いしますね!」
強引に押し切られる形で、乙名史記者の密着取材がスタートした。
湊としては、あまり表立って目立つのは避けたかった。自分の「正体」を探られるリスクが高まるからだ。
しかし、ここで頑なに取材を拒否すれば、かえって不審に思われる。湊は「あくまで平凡で運のいい新人人間トレーナー」を演じ切る腹を括った。
取材初日。乙名史記者は、最新のスポーツ科学に基づいた最先端のトレーニング風景が見られると期待してグラウンドを訪れた。
しかし、彼女の目の前で繰り広げられていたのは、予想とは全く異なる光景だった。
「ほらスペ、ピッチが落ちてる! ダービーの距離を走り切るには、もっとリズミカルに脚を回す!」
「はいっ! お姉ちゃん!」
湊が乗る新しいママチャリ(二代目)が先行し、その後ろをスペシャルウィークが追いかける。一見するとよくある風景だが、よく見ればスペの腰には太いロープが巻かれ、後ろには依然としてトラックの古タイヤが引きずられていた。
「……あの、日高トレーナー。随分と……その、前時代的というか、泥臭い特訓なんですね。もっとこう、トレッドミルとか、データ測定とかは……」
「あー、そういうのは性に合わなくて。ウマ娘の脚の筋肉は、実際に土を蹴って、重みを感じないと仕上がらないんですよ。ね、スペ」
「はい! お母ちゃん……じゃなくて、お姉ちゃんの言う通りに走ってたら、息も全然上がらなくなりました!」
泥だらけになりながらも、スペの表情は明るい。そして何より、その走りのフォーム。
基本に忠実な差しウマ娘のフォームでありながら、足の回転(ピッチ)が異常に速く、無駄がない。
(なんだろう、この違和感は……)
乙名史記者はペンを走らせながら、首を傾げた。
確かにスペの素質は素晴らしい。だが、それを導く湊のペースメイクが、あまりにも「完璧」すぎたのだ。
自転車を漕ぎながら、後ろを走るスペの呼吸、歩幅、疲労の度合いを、まるで自分自身の体のように正確に把握し、絶妙な速度調整を行っている。
それは、長年ウマ娘と共に走り続けてきたベテラントレーナーか、あるいは――。
「……まるで、日高トレーナー自身がターフを走っているかのような、洗練されたペースメイクですね」
乙名史記者が何気なくそう漏らした瞬間、湊の肩がピクリと動いた。
「……たまたまですよ。毎日一緒に走ってれば、息遣いだけで大体わかるようになるもんです」
湊は振り返らずに答え、帽子のツバをぐっと深く被り直した。
決定的な出来事は、数日後の併走トレーニング中に起きた。
その日は、他のチームのウマ娘数名に協力を仰ぎ、ダービーを見据えた長距離の模擬レース形式の練習が行われていた。
乙名史記者は湊の隣で、双眼鏡を覗き込みながらメモを取っていた。
レースは中盤。スペはバ群の中団でじっと息を潜めている。
「ペースが少し遅いですね。これだと、前を走る逃げウマ娘に有利な展開になりそうですが……」
「いや、落ちてきますよ」
湊が、手元のストップウォッチを見つめたまま、ポツリと呟いた。
その声は、普段の「ちょっと抜けた新人トレーナー」のトーンとは全く違う、冷徹で、絶対的な確信に満ちた低い声だった。
「え?」
「先頭のあの子、歩幅を広げて無理にスピードを維持してる。あれじゃあ最終コーナー手前で脚が上がる。……3、2、1……ほらね」
湊がカウントダウンを終えた瞬間、先頭を走っていたウマ娘のペースがガクンと落ち、バ群がぐっと圧縮された。
そこを見計らっていたかのように、スペが絶好のタイミングで抜け出し、一気に加速していく。
「すごい……! 完璧な読み……!」
乙名史記者は驚嘆の声を上げた後、ふと隣に立つ湊の横顔を見上げた。
帽子の陰に隠された顔。黒いカラーコンタクトが入っているはずのその瞳の奥に、一瞬だけ、ゾッとするほど冷たい「勝負師」の光を見た気がした。
それは、ウマ娘たちの限界のさらに先、次元の違う高みから全てを見下ろしているような、圧倒的な強者の視線。
(……この感じ、どこかで……?)
乙名史記者の脳裏に、数多のレース取材の記憶が駆け巡る。
そして、ある一つの強烈な情景がフラッシュバックした。
9年前。共同通信杯。
当時、無敗の快進撃を続けていた『皇帝』シンボリルドルフ。誰もがルドルフの勝利を疑わなかったそのレースで、最後方から、まるでジョギングでもしているかのような涼しい顔で、異常な高ピッチ走法のみで皇帝を抜き去っていった『青いウマ娘』。
あの時、ターフを去る青い幻影がふと見せた、退屈そうにすら見える冷徹な瞳。
乙名史記者は息を呑んだ。
日高湊の顔立ち。少し低めの声。そして、先ほど見せた異常なまでのレース勘と、あの瞳。
「……日高、トレーナー」
「ん? なんですか?」
湊が振り返る。
乙名史記者は、心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、核心に触れる質問を口にした。
「不躾な質問で申し訳ありません。あなた……9年前、トレセン学園に……ウマ娘として在籍していませんでしたか?」
その言葉が出た瞬間。
湊の背中に、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
(ヤバい。この記者、勘が良すぎる。完全にあの時の私と結びつけてる……!)
ここで少しでも動揺を見せれば、あるいは沈黙すれば、百戦錬磨の記者の疑念は確信に変わってしまう。
どうする? 笑って誤魔化すか? それとも――。
コンマ数秒の思考の末、湊が導き出した最適解は「全力の道化」だった。
「えっ? 9年前? 私がウマ娘……?」
湊はわざとらしく目を丸くして振り返ろうとした――その時。
自らの足元にあった、グラウンド整備用のホースに「思い切り」足を引っかけた。
「あ、わっ……!?」
バランスを崩した湊は、両手を派手に振り回しながら、近くに積んであったカラーコーンの山へと真っ逆さまに突っ込んでいった。
ガシャアァァァン!!
「いっったぁぁーい!! な、なにこれ、誰よこんなとこにホース置いたの!」
「お、お姉ちゃん!? 大丈夫!?」
模擬レースを終えて戻ってきたスペが、慌てて駆け寄ってくる。
カラーコーンの山から這い出てきた湊は、黒いウィッグがズレないように帽子を両手で深く押さえつけ、ジャージを泥だらけにしながら涙目で立ち上がった。
「い、痛いよぉスペ……。もう、私ってばいっつもこうなんだから……。あ、乙名史さん、すみません、見苦しいところをお見せして! で、なんでしたっけ? 私がウマ娘? あはは! ないない! 私、走るのとか本当に苦手で、学生時代も体育の成績ずっと2でしたから!」
泥だらけの顔で、えへへと間抜けに笑う湊。
その姿は、先ほどまでの「冷徹な勝負師」の面影など微塵もなく、ただのドジで憎めない新米トレーナーそのものだった。
そのあまりにも見事な転けっぷりと間抜けな様子に、乙名史記者はポカンと口を開けたまま固まってしまった。
(……私の、思い過ごし……?)
あの伝説の「ブルーブラー」が、ホースに躓いてカラーコーンに突っ込んで泣き言を言うだろうか。いや、絶対にあり得ない。あの青い幻影は、もっと孤高で、近寄りがたい存在だったはずだ。
「……いえ。すみません、私の勘違いだったようです。ちょっと、昔取材したウマ娘さんに雰囲気が似ていたもので……忘れてください」
乙名史記者は苦笑いしながらメモ帳を閉じた。
帽子を深く被り、スペに泥を払ってもらっている湊は、その言葉を聞いて心の中で安堵の特大の息を吐き出した。
(あぶなっ……! ギリギリセーフ。これからはもっと『人間』らしくポンコツに振る舞わないと……)
数日後、『月刊トゥインクル』の最新号が発売された。
表紙を飾ったのは、力強くターフを駆けるスペシャルウィークの姿。そして、特集記事の見出しにはこう躍っていた。
『無敗の流星を導く、異端のルーキー! 人間・日高湊トレーナーの型破りな指導法に迫る!』
記事の中では、湊の指導法が「一見泥臭いが、ウマ娘の基礎能力を極限まで高める理にかなった手法」として大々的に称賛されていた。ドジで親しみやすい人柄であるというエピソード(カラーコーンへのダイブ)も添えられており、トレセン学園の内外で「凄腕の人間トレーナー」としての湊の評価を決定づけるものとなった。
「お姉ちゃん、すごいです! 雑誌に見開きで載ってますよ!」
「あー……うん。まぁ、これで変に怪しまれることはなくなったかな」
トレーナー室で雑誌を広げて喜ぶスペを横目に、湊は一人、深く帽子を被り直した。
世間の目は完全に欺いた。これで、自分はただの「人間のトレーナー」として、堂々とスペの隣に立つことができる。
(さあ、次は日本ダービーだよ、スペ。あんたが本当の「日本一」になるための、最大の試練だ)
正体を隠し通した青い影は、妹の輝く未来だけを見据え、静かに微笑んだ。