Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第9話 日本ダービー

競バの祭典、日本ダービー。

東京レース場、芝2400メートル。この大舞台をひと目見ようと詰めかけた十三万人を超える大観衆の熱気は、初夏のうららかな空気を震わせるほどのうねりとなっていた。

ウマ娘にとって、一生に一度しか出走できないクラシック級の頂点を決める戦い。パドックから地下バ道へと向かうスペシャルウィークの背中を、黒い帽子を目深に被った日高湊が静かに見送る。

 

「スペ。調子はどう?」

「うん! ホイール特訓のおかげで、スタミナは全然余裕だよ。どこまでも走れそうな気がする!」

「うん。……でも、油断は禁物だよ。皐月賞の時より距離は伸びるし、あの時いなかった強敵もいる。それに……」

 

湊は周囲に誰もいないことを確認し、声を一段階落とした。

 

「前に言った通り、『アレ』はまだ早いからね。使う必要なんてない。スペの今の脚なら、真っ向勝負で勝てる」

「わかってるよ、お姉ちゃん! 私の足だけで、絶対に勝ってみせる!」

 

力強く頷いた妹をターフへと送り出し、湊はトレーナー席へと歩を進めた。

 

ゲートに、選ばれしウマ娘たちが収まっていく。

皐月賞で辛酸を舐めたキングヘイローやセイウンスカイ。そして今回、最大のライバルとして立ち塞がるのは、無敗のまま別路線からこのダービーに乗り込んできた怪鳥、エルコンドルパサーだった。

 

「エルちゃん、すごい気迫……」

 

隣のゲートに収まったエルコンドルパサーから発せられる熱気は、これまでのウマ娘たちとは一線を画していた。

チームリギルの東条ハナによる徹底した管理と、最先端のスポーツ科学。それによって鍛え上げられたエルの肉体は、クラシック級の春とは思えないほどの完成度を誇っている。

 

大歓声が静まり返り、緊張の糸が張り詰めた瞬間。

――ガシャンッ!

一斉にゲートが開き、各ウマ娘がターフへと飛び出した。

 

「スタートしました! 日本ダービー、先頭に立つのはやはりこのウマ娘、セイウンスカイ!」

 

実況の声が響く中、セイウンスカイが軽快にハナを切り、ペースを作り始める。スペシャルウィークは中団でしっかりと折り合いをつけ、その少し前方にエルコンドルパサーが陣取っていた。

巨大なケヤキの木を越え、長い向正面。ウマ娘たちの足音が重なり合い、芝を蹴る音がリズミカルに響き渡る。

スペの息は全く上がっていなかった。あの地獄のような巨大ホイールとタイヤ引きの特訓が、彼女に無尽蔵のスタミナを与えていたのだ。

 

やがてレースは第4コーナーを回り、東京レース場が誇る525メートルの長い直線へと差し掛かる。

 

「さあ、いよいよ最後の直線! セイウンスカイが逃げる! 後続はどう動く!?」

 

ターフの熱気が頂点に達したその時、中団で息を潜めていたスペシャルウィークが動いた。

 

瞬間――

世界が反転する。

深く澄んだ夜空のキャンバスに、一筋の流星が走り抜ける。

 

 

 

「シューティングスター」

 

 

「やああああっ!!」

幻視が明け、咆哮とともにスペのピッチが極限まで跳ね上がる。

一歩、また一歩。異常なまでの高速ピッチが芝を抉り、凄まじい推進力を生み出して、あっという間に前を走るエルコンドルパサー、そして先頭のセイウンスカイへと襲いかかる。

 

「スペシャルウィーク、恐ろしい末脚! 一気に先頭へ踊り出たッ!」

 

歓声が悲鳴に変わる。

誰もが、無敗の二冠ウマ娘の誕生を確信した。あの理不尽な加速の前では、どんな戦術も無力だと。

 

だが。

 

「……まだ、終わってませんヨォォォッ!!」

 

完全に置き去りにされたはずのエルコンドルパサーから、凄まじい闘気が立ち上った。

仮面の奥の瞳が紅く燃え上がり、彼女の周囲の空気が一変する。

 

――世界から、一瞬だけ音が消えた。

 

実況も、十三万人の歓声も消え去り、静寂が訪れる。

エルコンドルパサーの背後に、雄大なアンデス山脈と、黄金のコンドルが舞い上がる幻視が……ほんの一瞬、ノイズのようにチラついて、すぐに消えた。

 

 

 

「プランチャ・ガナドール!」

 

 

 

「なっ……!?」

 

観客席の別室でモニターを見つめていた東条ハナが、思わず立ち上がった。

 

「領域の、片鱗……!? ばかな、エルの今の完成度ではまだそこには至らないはず……!」

 

ハナの計算では、エルの実力はまだ「領域の一歩手前」だった。

しかし、目の前で「シューティングスター」を放つスペの背中を見たエルコンドルパサーは、自身の肉体の限界を闘争心のみで強引にこじ開け、ウマソウルから未完成のエネルギーを引きずり出したのだ。

 

「オーララ……これは、予想外デース!!」

 

エルコンドルパサーの脚が、あり得ないほどのストライドでターフを削り取った。

完全な領域ではない。持続時間も短く、反動も大きい。

だが、その一瞬の爆発力は、間違いなく「シニア級トップ層」のそれに匹敵するものだった。

 

猛烈な勢いで、エルがスペシャルウィークに並びかける。

 

(嘘!? エルちゃん、ここまで追い上げてくるの!?)

 

スペは驚愕した。

北海道での特訓。湊の背中。それを信じて磨き上げたピッチ走法と、シューティングスター。それで十分だと思っていた。

だが、エルコンドルパサーの気迫は、その予想をはるかに上回って迫ってくる。

 

残り100メートル。

エルコンドルパサーとスペシャルウィークが、完全に横並びで死闘を繰り広げている。

 

「譲りませんよ、スペちゃん!!」

「私も、負けないっ!!」

 

二人の意地とスタミナが激突する。

しかし、エルの「未完成の領域」による加速の勢いは凄まじく、わずかに、本当にわずかにだが、エルの鼻先が前に出ようとしていた。

 

(……ダメだ。このままじゃ、負けちゃう……!)

 

スペの心に焦りが生まれた。

彼女の夢は、「日本一のウマ娘」になり、そして何より、大好きな「お姉ちゃん」に自分の勝利を届けること。

湊は言った。「『アレ』はまだ早い。使う必要はない」と。

だが、目の前の怪鳥は、自分の足の速さだけでは、今はまだ届かない壁として立ちはだかっている。

同着になんてしたくない。私は、誰よりも早く、あのゴール板を駆け抜けたい!

 

残り10メートル。5メートル。

ゴール板が目の前に迫る。

絶対に、私の方が前に出る。

 

 

最後の一完歩。

右足が芝を蹴り抜く、まさにその一瞬。

 

「……(ソニックブースト)」

 

ゴールラインを通過する瞬間、ピタリと並んでいた二人の均衡が崩れ、スペシャルウィークの身体がフッと前へ押し出された。

 

「スペシャルウィーク、差し切ったァァァッ!! エルコンドルパサーの猛追を振り切り、見事、日本ダービーを制覇! 無敗の二冠達成です!!」

 

十三万人の歓声が爆発する。エルコンドルパサーが信じられないという顔で隣を見つめる中、スペは天に向かって力強く拳を突き上げた。

 

 

U U U

 

 

レース後の検量室前。

日本中が新しいダービーウマ娘の誕生に沸き返る中、スペは一人、湊の前に正座させられていた。

 

「……スペ」

「うぅ……」

 

帽子を深く被った湊が、腕を組みながらジト目で妹を見下ろしている。

 

「"アレ"はまだ見せるには早いって、レース前に言ったよね?」

「ご、ごめんなさい! でも、エルちゃんがすっごく強くて、あのままじゃ追いつかれちゃうって思って……! ほんの一瞬、最後の一歩だけだったから、誰にもバレてないと思うし!」

 

必死に弁解するスペを見て、湊は深くため息をついた。

 

「はぁ……。あのさ、あのままでも勝ってたよ?」

「ええ!?」

 

目を丸くするスペに、湊は呆れたように肩をすくめた。

 

「初めて他人の領域のプレッシャーを受けて、びっくりしちゃったね。でも、スペの脚ならあのまま押し切れてた。ああいう不自然な加速は、見る人が見れば違和感を覚えるんだからね。普通の人はただの勝負根性だと思ってるだろうけど」

 

湊は小言を言いながらも、無敗で二冠を達成した妹の頭を、最後は優しく撫でた。

 

「でも、よく勝ち切った。おめでとう、スペ」

「えへへ、ありがとう、お姉ちゃん!」

 

 

U U U

 

 

一方、誰もいなくなった観客席の別室で。

チームスピカの沖野トレーナーは、一人でダービーのゴール前、同着かと思われた最後の瞬間のスロー映像を繰り返し再生していた。

 

「……領域の片鱗を見せたエルコンドルパサーの猛追。確かに凄まじかったが、スペシャルウィークのスタミナとピッチなら、あのままスペシャルウィークが逃げ切っていたはずだ。……だが、最後の一完歩。あの『余分』とも言える不自然な伸びはなんだ?」

沖野は映像を何度も巻き戻す。

スペシャルウィークのフォームは崩れていない。だが、物理法則を無視したかのように、最後の一歩だけ、急激に前へと押し出されている。

それは、普通のウマ娘の「勝負根性」で片付けられるような加速ではなかった。

 

「……これ、どこかで……」

 

沖野の脳裏に、9年前の記憶が鮮明に蘇る。

誰もいないターフ。自分の担当だった青いウマ娘が、面白半分に見せてくれた『ふざけた加速』。

 

「……マジかよ」

 

沖野はモニターの電源を切り、ふっと笑いを漏らした。

日高湊という「人間トレーナー」。そして、彼女が育て上げる、伝説の青いウマ娘の影を継ぐスペシャルウィーク。

 

「こりゃあ、秋が楽しみになってきやがったぜ……」

 

沖野の呟きは、誰もいない部屋に静かに溶けていった。

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