「……3分。あと3分だけ……」
座椅子に深く腰掛けたまま、私は自分に言い聞かせていた。
時計の針は深夜23時を回って日付が変わるまであと10分といったところ。
赤ん坊――あの子は、三連休初日の急成長が嘘だったかのように、その後は手のかからない子だった。
とはいえ、慣れない子育てに疲労は溜まっていた。
今日が三連休の最終日、明日からは学校があるということもそれに拍車をかける。
「高羽が来たら……相談しなきゃ、明日からの……こ、と…………」
三連休の疲労と、隣に「味方がいる」という不覚な安心感。
重くなった瞼の裏で、タブレットに映し出された『23:59』の表示、それを最後に私の意識はそこでぷっつりと途切れた。
「ね~ね~、お腹空いた~」
耳元で、鈴を転がすような声がした。
その声と体を揺すられた感触で目を覚ます。
お腹が空いたんだろう、三日間世話してきたのだからある程度分かる。
「……承知です~」
寝ぼけ眼を擦りながら立ち上がる。
「ミルク~」
「少々お待ちくださいませ~……今お湯を……っ!?」
キッチンへ向かおうとした足が止まる。
心臓が口から飛び出しそうな勢いで、私は叫び声を上げた。
「うわぁっ!?」
「うおぉっ」
大声をあげながら振り向くと、目の前の「それ」も驚いたかのように目を丸くした。
うさ耳のロンパースは足元に無惨に弾け飛び、代わりに私の押し入れから勝手に出したであろう黒いTシャツを、ダボダボのワンピースのように着た少女。
推定10歳。
昨日までは私の腕の中に収まっていたはずの命が、今は対等な視線で私を見つめている。
「ビビったぁ……」
パニックのまま、私は床に散らばったベビー用品を必死にかき集めた。
高羽が実家から持ってきたもの、買い足した西竹屋の消耗品類。
それらを段ボールに詰め込み、衣類を詰め込んだビニール袋を上に積み上げ。
「お引き取りください!」
丁重に差し出した。
「てか怖っ!なんですぐデカくなんの?怖っ!!」
段ボールの上に積んだビニール袋を盾にするように抱えながら感情を吐き出すと、少女は「ん~」と指を顎に当てて考えながら。
「ま~今どきは、何もかものスピードが速いんですわ」
と宣った。
「得体の知れないものは…「わっ」…お断りっ!」
私は少女の細い腕を掴み、力尽くで玄関へ押し出そうとした。
けれど、彼女の体はまるで根を張った大木のようにびくともしない。
「ちょっと、動いてよ!」
「い~~~や~~~!!!」
押し問答の末、私の手がすっぽ抜けた。
反動で少女は床をゴロゴロと転がり、そのまま窓のアルミサッシに頭を強かに打ち付けた。
「があっ、くぅう~……」
「わっ、だ、大丈夫!?」
ぶつけた場所を両手で押さえ、蹲る少女。
その姿が、あまりにも「ただの子供」のように痛そうに見えて、つい駆け寄ろうとしてしまった。
「頭痛い~! たすけて~!」
『助けて? そないなこと気軽に言えるのが私の娘やなんて、ほんま驚きやわ』
ふいに、脳裏に冷たい声が蘇る。
『この世で頼れるんは自分一人や言うたよな? もう忘れてしもたん?』
「……っ」
差し伸べようとした指先が、凍りついたように止まる。
力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
「私、子供助けてる暇なんて無いよ……」
コン、コン、コン。
静まり返った部屋に、律儀なノックの音が響いた。
時計を見ると、1時50分。
交代の時間には少し早いが、あの几帳面な隣人が来たのだとすぐに分かった。
説明しなきゃ。
でも、なんて?
私が混乱で固まっている一瞬の隙をついて、少女がひょいと立ち上がり、玄関へ駆け出した。
「はやと~お腹空いた~。たすけて~?」
「……は?」
扉が開く。
その先の高羽はこの一年の付き合いで一度も見たことのない、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっている。
名前は隼だけど。
「……とりあえず、上がらせてもらうわ」
高羽が一歩、サンダルを脱ぎながら部屋にあがってくる。
その瞬間。
ぐぅ~~~
少女の腹の虫が大きな鳴き声を響かせた。
余りにも静寂な部屋に響き渡る腹の音。
呆れたような表情の高羽が少女に声を掛けようとした、まさにその瞬間。
そういえば、私も夜ごはん食べ損ねてたな、と思い至ったその瞬間。
ぐぅ~~~
またも腹の虫が鳴き声を上げた。
今度は、私のお腹から。
えぇ?と言いたげな表情で高羽が私を見る。
隣の部屋に住んでいるとはいえ、流石に異性のクラスメイトにお腹の音を聞かれた私は赤面するしかなく。
気まずい沈黙が三人の間に流れる。
それを破ったのは。
「たすけて~~~?」
高羽と私の二人に向かって、瞳を潤ませて媚びたように小首を傾げて見せた少女だった。
「連休前に作り置きしといて良かったわ、マジで」
一度自室に戻ると、配信で作って冷凍していたミートソースと、
これまた冷凍しておいた白飯でさっと作ったミートドリアをおぼんに持参して再度、酒寄宅を尋ねる。
時間も無かったのでチーズの焦げ目には満足してないし、バターライスに玉ねぎも入っていない。
せめてもの彩りとばかりに散らしたパセリが今は何故か無性に虚しい。
焦げ目はバーナーでもあればなんとかなったんだが……ああ、今はいいや。
「ほれ、おあがりよ、ってな。冷めやすくしちゃいるが、器はアチぃから気ぃつけろ」
「……ほんと、ゴメン高羽。私にまで」
「どうせこいつ優先にして晩飯食い損ねたんだろ。
明日からガッコなんだからそれ食ってさっさと寝ろ」
「……うん、いただきます」
と、酒寄が行儀良く手を合わせる。
ここまで促されてようやくスプーンを動かし、ドリアを口に運ぶ酒寄。
『おいしい』という感情と『申し訳ない』という感情が同居したような、逆に器用だなという感想の出る表情で次々とドリアが吸い込まれていく。
その対面で酒寄をひたすらじっと見つめている少女。
酒寄のドリアが半分は消えたころになって、左手でスプーンを握ってドリアに突き刺した。
左利きか?と思ったがどうやら対面の酒寄の動作を鏡写しで真似たようだ。
不器用にスプーンでドリアを掬い取って口に運び、もむもむと咀嚼すると。
「―――ん~っ!!」
目を見開いた。
大きなその瞳に星を幻視するようなリアクション。
「すごいっ!ナニコレっ!ん~っ!!」
かっこむかっこむ。
熱さを注意していたため、器を持ってとはいかなかったものの、酒寄以上のペースで吸い込まれていく。
少女のリアクションに酒寄も唖然とし、スプーンが止まっている。
「ドリアだな、旨ぇか?」
「どりあ!大好き!」
そこまで評価してもらえると料理人冥利に尽きると言うか、じゃあもそっと手間掛けてやれば良かったかなと言うか。
「この茶色いのなに?下の白いつぶつぶは?上の細かい緑のは?」
「ミートソースと米とパセリ。ミートソースはひき肉と野菜たっぷりで栄養満点だぞ~」
少女の矢継ぎ早の質問に答えていると酒寄が卓上のタブレットを起動し、推しであるヤチヨの配信を流し始めた。
配信をBGMに、酒寄に後回しにしていたこと尋ねる。
「……で、聞きそびれてたんだが、こいつがあの赤ん坊ってことでOK?」
「たぶん、そう。
なんで急にこんな大きくなったのかはわからないけど……そうだ、あなたどこから来たの?」
急に水を向けられた少女はドリアを掬う手を止めると、そのまま左手で窓の外の満月を指差した。
「つ、月?」
「かなぁ」
「はぇ~ルナリアン、ムーンレィスか?『みんな、地球ってとってもいいところだぞ』って?」
ネタが分からんと酒寄が呆れた目を向ける。
確かに30年前のアニメだが名作だぞ。
「で?宇宙人は何しに来たの?侵略?」
「う~ん。
なんかあんまよく覚えてないんだけど~、とにかく毎日超~つまんなくてぇ。
楽しいところに逃げた~い!って思った気がする」
「逃げんな~」
「え~~なんでぇ~~?」
いつの間に食べ終わったのか少女はスプーンを置いて拳を振り上げて抗議する。
おい、米粒残ってんぞ食いきれ。
食べ終わってねえじゃねえか。
「か~!フンッ、逃げるのは簡単だけどその後の再スタートって大変だよ、覚悟あんの?」
「覚悟~?やりたくなかったらやんない、やりたかったらやる!」
「……シンプルだな。その考え方嫌いじゃねえ、けどよ」
一度、言葉を切る。
酒寄にも聞かせるように、わざと説教臭い語彙を選ぶ。
「逃げが一概に悪いとは言わねえよ。
ただ酒寄の言う通り、その後を考える必要はある。
逃げたこと自体が後々自分を苦しめるってこともあるからな」
「はやとの言ってること難しぃ~」
ま、今は分かんなくてもそのうち分かるようになるさ、と頭をわしゃわしゃと撫でる。
わ~~~とされるがままの少女に、酒寄がタブレットを操作して画面を見せる。
「あのさ、ちなみに。これに心当たりは?」
表示されているのは『竹取物語』。
「現存する日本最古の物語」ともいわれるそれを画面をスワイプしながら、少女に説明する。
「月からやってきた姫が竹の中から出てきて、翁が拾って育てて。
結婚迫られたりとか、いろいろ」
「けっこん?」
タブレットを横目に、酒寄の分のドリアに視線が行っている少女。
おい足りねえのか、足りねえかそりゃ。
いきなり10年分成長してるもんな。
我慢できないとばかりに酒寄の皿をハシッと掴む。
「出てきたのは竹じゃなくてっ、電柱だったけどっ」
酒寄の片手が持っていかれまいと器を掴んだ。
「あんた、もしやかぐや姫なの?」
「そこまで。足りねえなら持ってくるから、皿から手ぇ離せ」
「ほんとぉ!?」
「あっぶな!?」
綱引きのようになっていた皿を片方が急に離すとどうなるか。
反動で引き寄せられた器をひっくり返すまいと両手でしっかり支える酒寄。
「ただし」
「はぇ?」
「米粒を残すな。残ってるのをキレイにしたら持ってきてやる」
「んぇ~!わかったぁ。んぐんぐ……んと、何だっけ?」
「だからぁ」
素直に皿に残っている米粒をスプーンでよじよじと集め、口に運ぶ少女。
案外素直だな、と思いつつ約束を守るために一度酒寄の部屋を退室。
「んで……じゃあはやとはこのおじいさんなわけ?」
「違うわ、白髪でもねえし俺は拾ってねえ」
しようとしたら流石に聞き逃せない発言が耳に飛び込んできたため、反論。
こちとらつい先月17歳の誕生日を迎えたばかりだ。
「じゃいろはがおじいさん?」
「80年後の姿でも見えちゃってるのかなぁ!違うよ~!?」
眉を吊り上げ、片目をピクピクさせたかと思うと両目をカッと見開いて否定する酒寄。
少女はその表情を見てもなんのそのと笑っている。
「ヌッハッハ~」
「ってか、なんで私の名前……はあ、まあいいやそこは」
酒寄がドリアを口に運ぶのを再開した。
口の中に運ばれるスプーンを少女が涎を垂らしながら見ている。
こりゃ早々に次を持ってこないとまた開戦するな、とさっさと自室へ。
とは言えドリアは時間掛かるしな、と頭を悩ませる。
自室の冷蔵庫と冷凍室の中身を思い浮かべる。
それとキッチンのタッパーに残っている、ドリアに使った余りのミートソース。
「あ、あれで良いか」
冷凍室に常備している冷凍うどんをレンジにぶち込み、700wで2分。
その間にミートソースを小鍋で温め直し、醬油と白だしで味を『和』に寄せる。
加熱が終わり熱々になったうどんをどんぶりにあけ、その上に和風ミートソースをかける。
仕上げに窪ませた中央に卵黄を落とし、粉チーズをたっぷりと振りかける。
余った卵白はラップで包み、タッパーに保存して冷蔵庫へ。
今度中華スープの具にでもするか、と考えながら酒寄の部屋を再訪問。
「おまちどう、和風ミート釜玉うどんだ」
酒寄が最後の一口を名残惜しそうに食べている間に、少女の前に丼を置く。
箸はまだ使えないだろうからと自分の部屋から持ってきたフォークも置いてやる。
「わぁい!でもうどん?どりあじゃなくて?」
「あれはちっと時間が掛かるからな。食いたきゃまた今度作ってやるよ。
ま、食ってみろ。フォークの使い方は分かるか?」
「わかんない!」
「りょ~かい」
フォークで卵黄を崩して混ぜてやる。
うどんの白とミートソースの赤に、鮮やかな黄色が絡みつく。
ふぉぉおお~、っと目を輝かせる少女の目の前に、フォークを突き刺して強引に巻いたうどんを差し出す。
「いただきますっ!」
先ほどの酒寄を真似たのか、行儀よく手を合わせてから飛びついた。
「すごい!なんか、とろとろ?つるつる?してる!さっきのとまた違う!」
「そうかそうか、次はどうする?自分で食うか?」
「じぶんでやりたい!」
「そか、ほれ」
フォークを手渡すとさっきまでのスプーンと同じで左手に持ち替え、不器用にもフォークでうどんを巻こうと四苦八苦する。
巻くのはまだ上手く出来ないようだが、うどんをフォークで刺して啜るように食べ始めた。
「ちゅる……んで、お話はどうなるの?」
「あん?」
「あぁ……竹取物語のね」
ドリアを食べ切ってお腹の虫が満たされたのか、若干目がとろんとしている酒寄が続きを話し始める。
「え~、お迎えが来て、翁たちが引き渡すまいと戦うもむなしく、
姫は羽衣を着せられて地球のことは忘れる……で、帰る」
「わぁ~あ……え?ちゅづきは?」
目を輝かせてうどんを啜りながらタブレットをスワイプするが、画面は黒い枠外が表示され、最後のページまで戻されるだけ。
「ない。終わり。めでたしめでたし」
「よく考えるとなんもめでたくねえよなこれ。翁たちも帝もかぐや姫も」
「え~!?月に帰って終わり!?なにそれ、超~バッドエンド!!」
「ヌハハハー!」
少女はテーブルに手をつき、ぴょんぴょんと跳ねながら不満を訴える。
抗議しながらも食べ進めていたのか、もう丼は空っぽだ。
「これかぐや姫絶対不幸じゃん!しかもいい話風になってるのが余計許せないよ!」
「帝はかぐや姫からの贈り物を焼くしな」
涙を流しながら畳みかける。
そんな少女を尻目に、酒寄は空になった皿をまとめて引き上げて流しに運んだ。
「これは、こういうお話なの」
そのまま流しの上の段差に置いてある歯ブラシを手に取って歯磨きを始める。
「バッドエンドやぁだやだ!ハッピーなのが良~い~!ラぁ~ララッラぁラ~♪」
のたうち回って駄々をこねる少女。
暴れながら歌まで歌い始めた。
「どうしようもないじゃん。暴れたって歌ったって、決まってることが変わるわけじゃないし」
酒寄は歯磨きをしながら振り返り、少女を見下ろしながら告げる。
俺からはそれは自分自身にも向けて言っているようにも見えた。
「受け入れて覚悟するしか、ない」
その姿があまりにも綺麗で。
だからこそ、痛々しくて見ていられなかったから。
「言ってることは、分からんでもねえけどよ」
つい、口を挟んでしまった。
「でも俺は、決まってるからって従うのは性に合わねぇな。
どうせ同じ結末になるんなら、尚更好きにやったほうが気分良いだろ?
『どうせなら楽しんだもん勝ち』ってな」
この言葉だけでこいつを変えられるのなら、どれほど楽だろうか。
それでも、言わずにはいられなかった。
それこそ、好きにやった方が気分が良いから。
少女はそんな俺たちの顔をじっと見ていた。
酒寄と、俺の顔を。
じっと。
両方を見比べるように。
両方に魅入られたかのように。
沈黙に支配された部屋にシャコシャコと歯磨きの音が鳴り響く。
酒寄が口を濯ぎ終わったころ、唐突に少女が力強く。
「よし、決めた!」
決然と、にこやかに言い放った。
「自分でハッピーエンドにする!
そんで、ハッピーエンドまで彩葉と隼斗も連れてく!三人一緒に!」
どこかで見たような、くるっと回ったターン。
ピースサインのように、3本の指を立てながら。
酒寄は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、直ぐに眉尻を吊り上げた。
「……ハッピーエンドいらない。フツーのエンドで結構です」
「うそうそうそうそ、そんなわけないでしょ~?」
言いながら部屋の隅の布団へ歩き出そうとした酒寄に少女が待ったをかけた。
両腕で酒寄を止めながら上目遣いでにへら、と笑顔を作っている。
一方、俺はというと。
「ッフフ、ハッハッハッハ……。一緒にハッピーエンドまで連れてく、ね」
「んぇ、隼斗?」
「それがお前の『やりたいこと』、か。良いんじゃねえの」
少女に向かって話していると、無意識に口の端が吊り上がる。
「好きにやった方が気分良いっつったのは俺だしな」
「そりゃ、結構なことでございますが」
ゆらり、と空気が揺らぐ。
目を向けると、そこには眠気で目の据わった酒寄。
「今、三連休最終日の3:00。明日ってか、もう今日から学校。色々お腹いっぱい」
「寝かして」
その言葉を最後に、酒寄が畳まれた布団に倒れこんだ。
しんと静まり返った部屋に、酒寄の規則正しい寝息だけが響き始める。
「じゃ、私も寝るね!おやすみ、隼斗!」
止める間もなく少女が酒寄をきちんと敷いた布団に寝かせ、彼女の背中にぴたりとくっついて目を閉じた。
まもなく、部屋に響く寝息が二つに増えた。
「……明日っからのことを相談しようと思ってたんだが」
にしても無防備すぎんだろ。
独り言のように呟いて、酒寄の部屋を後にする。
鍵だけ拝借して外から戸締りをし、ドアの郵便受けに入れておく。
窓の外では、まだ満月が白々と世界を照らしていた。
ROSOさん、評価いただきありがとうございます。
ベルク@チョモランマさん、tdzさん、感想いただきありがとうございます。
お気に入り登録いただいた方々もありがとうございます。
とても励みになります。