スマコンを目元に装着する。
軽く息を吐いてから、もう一度、ゆっくり吸う。
――っ。
瞼を閉じた瞬間、現実の気配が遠のいた。
無音。
一拍遅れて、深海に沈むような低い音が鼓膜を撫でる。
音と光だけがやけに鮮明だ。
視界いっぱいに、宇宙が広がる。
無数の星々が瞬き、黒の奥行きに溶けている。
俺の身体は重力から解き放たれたように、ただ前へと流れていく。
星が、後ろへ、後ろへと遠ざかっていく。
――潜る。
そんな感覚があった。
宇宙でありながら、どこか水の中にいるような錯覚。
やがて。
視界の奥で、何かが弾けた。
水飛沫のように光が散って――その中心に、明らかに場違いなものが立っていた。
巨大な鳥居だ。
鮮烈な、朱。
それは空間そのものを切り裂くように、そこに『在った』。
ふと視線を落とす。
足元は、水面だった。
どこまでも続く水平線。
なのに、沈まない。
足首ほどの浅さだ。
静かな湖の上に、無数の灯篭が浮かんでいる。
揺れる灯りが、波紋とともにゆらゆらと広がっていく。
空は――燃えていた。
鳥居の朱がそのまま滲み出したかのような、真っ赤な夕焼け。
境界のない世界が、ただ染め上げられている。
そのとき。
「───太陽が沈んで、夜がやってきます」
振り返るまでもない。
そこに立っているのは、案内人。
ツクヨミの管理人――月見ヤチヨ。
彼女が微笑む。
次の瞬間、空が動いた。
夕焼けが流れ、色が剥がれ落ちるように消えていく。
代わりに、深い黒が広がり――
星。
無数の星々が一瞬で流れた。
残像だけがわずかに動き続けている。
ここは常夜の世界。
鳥居を潜れば、それぞれのログアウト地点に戻る。
俺も、酒寄も、もう慣れたものだ。
本来なら飛ばせる演出だが――
「……まあ、たまにはいいか」
小さく呟いて、肩の力を抜く。
ヤチヨに向かって、ひらひらと手を振った。
彼女は何も言わず、ただにこやかに会釈を返す。
それだけで十分だ。
俺はそのまま、鳥居へと足を進める。
水面を踏む。
感触はない。
ただ、波紋だけが応える。
灯篭の灯りが揺れる。
朱の門を潜る。
――視界が反転して。
気づけば俺は薄暗い路地裏に立っていた。
ネオンの光が壁に滲み、遠くから喧騒が流れてくる。
ツクヨミの繁華街、そのメイン通りを一本外れた裏路地。
いつもながら、目に入ってくる情報量の多さが凄まじい。
看板、ネオン、UI。
人、人、人。
犬耳、猫耳、狸の耳――視界の隅で、何かの尻尾が揺れた。
……多すぎる。
判別する暇もなく、形だけが視界をかすめていく。
視界が、埋まる。
左目を眼帯で塞いでいても、これだ。
意図して視界を狭めているのに情報が多すぎる。
両目であれば尚のことだろう。
「……さて」
軽く首を鳴らして目元を揉む。
VRで意味があるかは知らんが、癖みたいなもんだ。
酒寄はもう来ているだろうか。
それとも――
「かぐやは、まだキャラメイク中だろ」
あいつのことだ。
無駄に凝って時間をかけている可能性が高い。
面倒なことになる予感は、全く消えていない。
あいつが何も起こさないはずがない。
昨晩と今日だけで身に染みている。
……まあ、それ込みで楽しめそうだ。
ウィンドウを軽くタップ。
衣装をライバー用からプライベート用へ切り替える。
一拍遅れて、布が浮いた。
触れている感覚はない。
袖がふわりと持ち上がって、落ちた。
気づけば黒の着流しに変わっていた。
……これでいい。
右手に出現したハットを被り、軽く位置を直す。
配信外でまで目立つのは面倒だ。
袖に腕を隠しながら一歩踏み出す。
歩くたびにカランコロンと下駄が鳴る。
さて。
あいつらは、もう来てるかな?
……まともに済むとは、これっぽっちも思ってないが。
石作りの階段の上、朱塗りの巨大な鳥居の根元。
俺はそこに背を預け、二人の到着を待っていた。
ハットのつばを深く下げ、腕を組む。
ここから見下ろす街の灯りは現実のそれよりもずっと煌びやかで、美しい。
カラン、と石段を叩く乾いた音が聞こえた。
顔を上げれば、青を基調としたフード付きの着物に狐の耳と尻尾というアバターの酒寄と、
その隣できょろきょろと落ち着きなく跳ねるように歩く朱色の影が見えた。
……変な毛玉。いや、違う。
見覚えがある気もするが、考えるのをやめた。
あんなんツクヨミで見たことないし。
「……思ってたより時間掛かったな」
組んでいた腕を解き、一歩前に出る。
隣の酒寄は、俺のこの「お忍び」の姿で何度か会ったことがある。
呆れたような、それでいてどこか安心したような視線をこちらに向け、小さく頷いた。
だが、その隣の『ウサギ』は違った。
「えっ、あっ。こ、こんにちは?こんばんは? ……えっと、誰?」
かぐやが足を止め、不思議そうに首を傾げる。
長い髪が揺れ、頭の上の大きな耳がぴょこりと動いた。
彼女の翠の瞳が、俺の全身を品定めするように舐める。
無理もない。
現実とは違う姿のアバター、しかも地味な黒一色の着流し姿だ。
おまけにハットで顔を半分隠している。
「誰、って。……忘れるのが早すぎんだろ。ったく、誰の金で買ったスマコンで来たんだ?」
苦笑まじりに、少しだけハットのつばを押し上げた。
現実と何ら変わらない、俺自身の声。
「えっ」
かぐやの動きが止まる。
数秒の沈黙。
やがてその瞳が、大きく見開かれる。
「ええっ!? もしかして、隼斗!」
跳び上がるような勢いで、彼女が詰め寄ってくる。
近づけば近づくほど、彼女のアバターがいかに細部まで作り込まれているかが分かった。
鮮やかな朱の着物ドレスに、竹のような黄緑の羽織の裏地。
月を映したような金の長髪に三日月の髪飾り、感情を映し出す長い兎のたれ耳。
そして何より、その感情に直結したような表情の豊かさ。
「うそ、全然雰囲気違う! 何その格好、かっこいい!渋い!」
「……声で気づけよ。あと、あんまり騒ぐな。変装してる意味ねえだろ」
あと、頼むから本名で呼ぶな。
マジで。
身バレするから。
騒がしく俺の周りを回り始めた彼女を見て、俺は隣の酒寄と視線を交わした。
酒寄は、ただ「諦めて」と言わんばかりに、静かに肩をすくめている。
……ところで。
さっきから、彼女が動くたびに足元で「アン!」だの「わふっ!」だの喧しいやつがいる。
正直、視界に入った瞬間から嫌な予感はしていた。
だが、あまりに理不尽な光景に俺の脳が必死にデバッグを拒否していた。
「……さっきから、ずっと気になって、というか。見えないふりをしてたんだが」
「んぇ?なに?」
「『それ』、……まさか」
「ん!犬DOGE!」
「アンっ!」
かぐやがひょいと抱き上げたのは、緑のちゃんちゃんこを羽織った、どこからどう見ても『例の犬』だった。
俺と目が合うなり、犬DOGEは嬉しそうに尻尾を振って、高く弾むような声を上げる。
眠たげだった目はパッチリと開き、口角を上げて笑っている。
「ああ、それね。さっき合流した時も驚いたんだけど、なんか付いてきちゃったみたいよ」
酒寄が、すでに一周回って落ち着いた様子で肩をすくめる。
「さっき『それ何?』って聞いたら、『犬DOGE!連れてこれるんだ~♪』って。
……まあ、かぐやなら有り得そうじゃない?」
「有り得るわけねえだろ!?」
思わず声を荒げた。
『ツクヨミ』は独立した仮想世界だ。
携帯ゲームキットの、それも非正規のキャラクターをそのまま持ち込むなんて、
仕様として存在するはずがない。
「わふっ?」
犬DOGEは俺の剣幕に驚いたのか、首を傾げて少しだけ情けない顔をしてみせた。
そのあまりの「生きてる感」に、毒気を抜かれる。
「えー、隼斗もびっくりしてる?でもほら、可愛いよ?全然吠えないし、お利口さんなんだから」
「……いや、今さっき吠えただろ」
「隼斗に挨拶したんだよ!ログインしたらいつの間にか足元にいたの。不思議だよねー!」
不思議、で済む問題じゃない。
俺や酒寄のようなヘビーユーザーですら知らない、未知の同期現象。
「……はあ。まあいい。ここで考えててもラチがあかねえ。
チュートリのヤチヨには会ったんだろ?」
「うん!アバターの作り方教えてもらった!」
「ならチートとかバグとかだったらそん時に弾かれてるだろ、多分……」
ため息をつき、再びハットを深く被り直した。
もういいや、俺が運用してるワケでも無いし。
チート判定だったら不正に厳しい運営が見逃すはずも無い。
「さて。……それじゃあ行くか。変なのが一匹増えたが、二人はもう居るしな」
俺は下駄を鳴らし、ネオンが蠢く繁華街へと一歩を踏み出した。
背後に「わーい! 散歩だー!」と跳ねるウサギと、その足元を元気に駆け回る奇妙な犬の気配を感じながら。
「あと、本名で呼ぶのやめろ。身バレするってマジ。ここでは『ジュンヨウ』な」
「え~なんでぇ~」
「なんでもなにも。長けりゃ『ジュン』でも良いから」
「あ、私のことは『いろ』ね。あんたは……そのままで良いか」
「かぐやはかぐやだからね!」
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