「トレーナー……私は、置いていかれるのか?」
夕暮れのグラウンド。
手元のストップウォッチへ落ちかけた視線が、その一言で止まった。
意味を飲み込むより先に、今日のオグリの様子が頭をよぎる。
走りに切れがない。
集中していないわけじゃない。けれど、どこか噛み合っていなかった。
「……どうしたの? 調子、悪そうだね」
声をかけると、オグリはターフの上で立ち止まった。
西日が長い影を芝へ落とす。
赤い空が、美しい芦毛を寂しげに染め上げていた。
伏せられた耳。視線は落ちたまま。
空気が、静かに重さを増していく。
間を置いてから、ぽつりと言った。
「聞こえてきたんだ」
「え?」
「卒業したら、ウマ娘とトレーナーは自然と離れるものだと。そういう話をしていた」
掠れた声だった。
「卒業したら、私は担当じゃなくなる」
少しの沈黙。
「そうしたら、君はいなくなるのか」
胸の奥が痛んだ。
契約。
卒業。
担当変更。
そういう現実を、考えてしまったのだろう。
冷たい風が吹き抜ける。
薄く伸びた影が芝の上で揺れた。
「そんなわけないでしょ」
私は一歩近づいて、オグリの手を取った。
その指先が、冷えている。
「私はオグちゃんのトレーナーだよ。卒業したから終わり、なんて思ってない」
「……」
「オグちゃんが嫌だって言わない限り、私は側にいるつもりだけど?」
ぴくり、と耳が動いた。
「……本当か」
「本当」
「私を置いて、行ったりしないのか」
「しないよ。約束する」
そう答えると、オグリは小さく息を吐いた。
その表情が緩む。
「そうか……よかった」
握られた手に、ゆっくり力がこもる。
そして――真っ直ぐに、私を見たまま言った。
「君が隣にいると、ちゃんと走れる」
「卒業しても……ずっと隣にいてくれ」
心臓が大きく跳ねた。
たぶん本人は、変なことを言っている自覚なんてない。
でも、そんな顔で言われたら、意識しないほうが無理だ。
熱くなる頬を誤魔化せないまま立ち尽くしていると、オグリは満足したように頷いた。
「安心したら、身体が軽くなった。もう一本走ってくる」
そう言って、スタート位置へ戻っていく。
私はしばらく、その背中を見ていた。
――ずっと隣にいてくれ。
頭の中で、何度も声が響く。
それはもう、トレーナーに向ける言葉ではない気がした。
顔が熱い。
落ち着こうとして、ようやく手元のストップウォッチへ視線を落とす。
無意識に、次のラップを測り始めていたらしい。
刻まれていくタイムは、迷いが晴れたことを物語っていた。