ブルアカ転生〜カヨコのエロ同人描いてた俺が本人に惚れられるまで〜   作:どうたぬき

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第9話:シャーレの夜

カチ、カチ、と静まり返った執務室に、壁掛け時計の秒針の音だけが規則正しく響いている。

 

深夜のシャーレ。窓の外にはD.U.地区の夜景が広がっているが、オフィスの中はデスクのスタンドライトだけが、狭い空間を暖色に染め上げていた。

 

デスク横のソファに、カヨコがいる。当番として残ってくれている彼女は、いつもの黒パーカーに脚を折り込んで、音楽雑誌をめくっていた。その手元には、俺が少し前に淹れたブラックコーヒーのマグカップ。すでに中身は半分ほどに減っていて、白い陶器の縁にかすかな唇の跡がある。

 

あの非常階段の夜から、俺たちの距離感は変わった。

 

変わった、という言い方は正確ではないかもしれない。カヨコが俺の左手中指にあのリングを嵌めた瞬間に、距離は「決定された」のであって、その後の日常は決定事項の上に積まれていった地層のようなものだ。こうして深夜のオフィスに二人きりでいることも、時折目が合って短いキスを交わすことも、全部あの契約の延長線上にある。

 

契約。

 

俺は今でもあの行為を、恋愛のカテゴリに入れていいのか分からない。カヨコが俺を「好きだから」リングを嵌めたのか、「縛りたかったから」嵌めたのか、その二つに区別がないのか。分からないまま、俺は毎日この金属の圧迫感を左手中指に感じて生活している。外す気はない。だが「外す気がない」ということと、「意味を理解している」ということは、別の話だ。

 

キーボードを叩く手が、止まった。

 

画面に並ぶ書類の文字が、頭に入ってこない。もう三十分は同じ行を見ている。

 

理由は分かっている。

 

この数日、原作知識の引き出しの奥から、ずっと無視してきたデータが這い出してきている。キヴォトスを揺るがす未曾有の危機。あの「最終編」の足音が、もうすぐそこまで来ている。

 

表面上のシグナルはまだ微弱だ。だが俺のデータベースは正確に告げている。この穏やかな夜、カヨコがソファでコーヒーを飲んでいるこの時間、こういう日常が根こそぎひっくり返される瞬間のカウントダウンが始まっていることを。

 

左手中指のリングに、無意識に右手の親指が触れた。

 

金属は冷たい。常に冷たい。体温で温まりそうなものだが、このリングはいつ触れてもひんやりとしている。まるでカヨコの手の温度が、あの非常階段の夜のまま封じ込められているかのように。

 

その冷たさに触れるたびに、契約の重さが指から腕を伝って胸の奥に落ちてくる。

 

俺が死んだら……あるいは帰ってこなかったら。このリングはただの金属の輪に戻る。契約は破棄される。カヨコが自分の意志で、初めて自分の手で結んだ契約が、俺のせいで無になる。

 

アルの言葉が蘇る。「あの子……自分の居場所をなくしたことがあるのよ」

 

居場所だけじゃない。俺が帰ってこなければ、カヨコは自分が「繋いだ」ものを失う。他人に奪われるのではなく、自分が選んだ相手の不在によって。

 

カサリ、とソファの方で音がした。

 

視線を向けると、カヨコが雑誌から目を上げて、こちらを見ていた。俺のキーボードを叩くリズムが止まっていることに気づいたのだろう。彼女の切れ長の瞳は、何も聞かず、何も言わず、ただ静かに俺の横顔を捉えていた。

 

その目が少しだけ、細くなった。

 

見抜かれている。何を考えているかまでは分からなくても、俺の中に何か重いものがあることを、カヨコの目は正確に計測している。

 

だが彼女は何も言わない。突っ込んでこない。それがカヨコの間合いの取り方だ。

 

俺は画面に視線を戻し、無意味にスクロールバーを動かした。文字は相変わらず読めない。左手のリングが、キーボードに触れるたびにカチカチと小さく鳴っている。

 

カタ、とキーボードから手を離した。

 

これ以上取り繕っていても仕方がない。俺は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いでから、ゆっくりとカヨコの方を向いた。

 

カヨコはすでに雑誌を閉じて、俺を見ていた。来るのを待っていた、という目だった。

 

「……カヨコ」

 

「ん」

 

「ちょっと、真面目な話していいか」

 

声のトーンが変わったのを、カヨコの耳は正確に拾った。マグカップをローテーブルに置き、背筋がわずかに伸びる。

 

俺は椅子に座ったまま、言葉を選んだ。

 

転生者だとは言えない。原作知識の存在も言えない。だがこの女は俺のレシートから同人作家であることを看破し、ヘドバンのフォームにダメ出しをし、非常階段で俺の指にリングを嵌めた女だ。嘘は通じない。通じないなら、言える範囲の本当のことだけで勝負するしかない。

 

「近いうちに……そう遠くないうちに、すごく大きな仕事が来る」

 

「……大きな仕事」

 

「ああ。シャーレの先生として、俺がどうしても前に出なきゃいけない場面が。命がけになるかもしれない」

 

カヨコは黙っている。俺は続けた。

 

「正直に言う。どうなるか、俺自身にも読みきれない。……怖いんだ、カヨコ。俺は、怖い」

 

口にした瞬間、自分の声が震えているのが分かった。

 

怖い。最終編が怖い。だが本当に怖いのは——

 

俺はちらりと自分の左手を見た。中指のリング。

 

「お前がこれを俺に嵌めただろ。……あの時から、怖さの種類が変わったんだ」

 

カヨコの目が、わずかに動いた。

 

「前は、ただ漠然と怖かった。でも今は俺が帰ってこなかった時に、このリングがどうなるのか。お前が自分で選んで結んだものが、俺のせいで……」

 

「先生」

 

カヨコが遮った。静かだが、明確に。

 

「それ、私が決めること」

 

「……」

 

「先生が帰ってこなかった時のことを先生が心配するの、おかしいでしょ。帰ってくる側の人間が、帰ってこなかった場合の責任取れるわけないんだから」

 

論理的に正しい。正しいのだが、それで恐怖が消えるわけではない。カヨコもそれは分かっている。分かった上で、感情の慰めではなく、事実の構造だけを指摘してきている。

 

カヨコはそれ以上は何も言わなかった。マグカップを手に取り、冷めたコーヒーを一口飲んだ。その動作がやけに静かで、彼女なりに俺の言葉を胸の中で処理しているのだと分かった。

 

重い沈黙がオフィスに降りてくる前に、俺は意識的にスイッチを切り替えた。

 

「まぁ、なんてね」

 

両手をパッと広げて、わざとらしく笑ってみせる。

 

「こう見えてもさ、エデン条約でさえくぐり抜けてきた男だぜ? シャーレの先生を舐めてもらっちゃ困る」

 

ふんぞり返って見せた。胸を張った。声は明るくした。

 

カヨコはソファから動かない。雑誌を膝の上に置いたまま、俺のその「ふんぞり返った姿」を、じっと見ている。

 

見ている目が、さっきと違う。

 

冷たいのではない。突き放しているのでもない。ただ、正確に見ている。

 

俺の空元気。声の張り。胸を張った角度。そして、右手の指先の震え。全部。

 

カヨコは何も言わなかった。

 

ただコーヒーのマグカップを口元に持っていく途中で、一瞬だけ視線を落とした。マグカップの縁に映る自分の唇を見たのか、それとも何か別のものを見たのか。その一瞬の視線の落とし方だけが、カヨコが今の俺の虚勢をどう受け止めているかの、唯一の手がかりだった。

 

「……そう。頼もしいね」

 

ドライな声。いつものカヨコの温度。俺の虚勢を否定しない。肯定もしない。張らせたままにしておいてくれる。

 

それが優しさなのか、契約者としての判断なのか。多分、両方だ。カヨコにとってその二つは分離していない。

 

俺は笑顔を維持したまま、椅子をくるりと回して画面に向き直った。キーボードに指を置く。相変わらず文字は頭に入ってこない。だが手を動かしていないと、指の震えが止められない。

 

カチ、カチ。カチカチカチ。

 

タイピングの音と、時計の秒針の音が、静かに混ざり合った。

 

「先生」

 

カヨコの声がした。ソファのスプリングが鳴る音。立ち上がった気配。足音が近づいてくる。

 

俺が振り返る前に、カヨコの手が俺の椅子の背もたれを掴んだ。力が加わり、椅子がぐるりと回される。

 

正面を向かされた。視界がカヨコで埋まる。

 

彼女は俺の椅子の肘掛けに両手を置いて、身を屈めていた。パーカーのフードが少し浮いて、襟元から鎖骨のラインが覗いている。あの首元のほくろが、スタンドライトの光の中にある。

 

「カヨ——」

 

カヨコの右手が、俺の左手を取った。

 

リングのある、左手を。

 

彼女の指が、俺の中指に嵌まったリングに触れた。爪の先で、金属の表面を一周なぞった。あの非常階段の夜と同じ動作。自分が嵌めたものを確認する動作。

 

「……まだ、あるね」

 

「当たり前だろ。外してねえよ」

 

「知ってる」

 

カヨコの声は平坦だ。だが彼女の指は、リングから離れた後も俺の手を握ったままだった。

 

そして顔を近づけてきた。

 

俺が身構える間もなく、カヨコの唇が俺の唇に触れた。

 

柔らかい。冷めたコーヒーの苦みが、かすかに唇の表面に残っている。カヨコの吐息が俺の鼻にかかる。目を開けたまま、至近距離でカヨコの睫毛の本数まで数えられそうな距離で、彼女は俺の唇を塞いでいた。

 

深くはない。だが長い。

 

彼女の瞳は閉じていない。開いたまま、俺を見ている。確認している。自分の所有物が、まだここにあることを。

 

やがてカヨコは唇を離した。水音はほとんどしなかった。静かに、引き剥がすのではなく、離れていくように。

 

至近距離。カヨコの息が俺の唇に当たっている。

 

「先生が怖がってることの半分は、多分、正しい」

 

カヨコが言った。声が低い。

 

「でも残りの半分は先生が一人で勝手に背負ってるだけ」

 

「……」

 

「私は、先生に帰ってきてほしいとか、そういうことを言いたいんじゃない」

 

カヨコの指が、俺の左手中指をリングごとぎゅっと握った。

 

「これを嵌められた人間が帰ってこないなんて、あり得ないから」

 

根拠はない。論理もない。願望ですらない。

 

カヨコの口調は祈りではなく、契約の条項を読み上げるような声。お前はこれに同意したのだから、破棄は認めない、と。

 

「……お前さ」

 

俺の声が掠れた。

 

「それ、呪いだぞ」

 

「……知ってる」

 

カヨコは小さく鼻を鳴らした。呪いと言われて、否定しなかった。

 

カヨコの手が離れた。俺の椅子から一歩退き、パーカーのポケットに手を突っ込む。いつもの姿勢。いつものカヨコ。

 

さっきまでのリングに触れ、キスをし、俺の指を握ったあの数分間が、まるで何事もなかったかのように。

 

だが俺の左手は、まだ握られた時の圧力を覚えている。リングが皮膚に食い込んだ感触が残っている。

 

「……カヨコ」

 

「なに」

 

「一つだけ、けじめをつけさせてくれ」

 

カヨコが振り返る。ほんの少しだけ、眉が上がった。

 

「この仕事が片付いたら、全部の修羅場が終わったら。俺はお前に、全部話す。俺が何者で、何を知っていて、なんでお前のことを最初からこんなに知っていたのか。全部」

 

カヨコは黙って俺の顔を見ていた。

 

「……それ、今じゃダメなの」

 

「ダメだ。今話したら、俺は多分、お前に甘えてしまう。知っていることを全部お前に預けて、お前に判断させて、お前に背負わせてしまう。……それは、嫌だ」

 

自分でも驚くほど、真っ直ぐな声が出た。

 

カヨコの目が、数秒間、俺の目を探った。嘘を探しているのではない。本気かどうかを測っている。

 

「……ふーん」

 

今回のそれは「契約に新しい条項が追加されたことを認めた」音だった。

 

「じゃあ、その話、楽しみにしてる。……面白くなかったら怒るから」

 

「……面白いかどうかは保証できねえな。しょうもない話だぞ、多分」

 

「先生のしょうもない話は、だいたい面白いから」

 

ヘドバンのフォームにダメ出しされた夜。エロ同人のレシートを仕分けされた日。全部、カヨコは「しょうもない」を面白がってくれた。

 

俺は息を吐いた。長い、長い息だった。肺の底に溜まっていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。

 

恐怖は消えていない。最終編は来る。このリングが「ただの金属の輪」に戻る可能性は、まだ俺の頭の中に存在している。

 

だが、呪いをかけられた。

 

帰ってこないという選択肢は存在しない、と。契約者に、そう宣告された。

 

呪いでいい。呪いだから効く。論理で組み上げた覚悟なんかより、カヨコの一言の方が、俺の足を前に動かす力になる。歪んでいる。だがこの女との関係は最初から歪んでいて、その歪みごと引き受けると決めたのは俺だ。

 

「……そろそろ夜が明けるね」

 

カヨコが窓の外に目をやった。D.U.地区の地平線が、藍色から薄紫へと滲み始めている。

 

「ほんとだ。……お前、先に帰っていいぞ。残りの書類は俺がやるから」

 

「……ん」

 

カヨコはパーカーのフードを直し、鞄を肩にかけた。自動ドアの前まで歩いていく。

 

その背中を見送りながら、俺はふと、本当にふと、同人作家としての業が、場違いにもむくりと頭をもたげてくるのを感じた。

 

朝焼けの薄紫の光がカヨコの黒髪の輪郭をなぞっている。パーカーの裾が歩くたびに揺れて、時折その下のウエストのラインが見え隠れする。ドアに向かう横顔。睫毛の影。ほんの少しだけ気怠そうに傾いた首の角度。

 

——描きたい。

 

最終編が怖い。リングの意味はまだ分からない。全部話す日のことを考えると胃が痛い。

 

だが今、この瞬間、朝焼けのカヨコを描きたいという衝動だけは、恐怖とは無関係に、俺の右手のペンダコをズキリと疼かせていた。

 

「……先生、なに見てるの」

 

ドアの前で、カヨコが振り返った。

 

「……いや。朝焼けが綺麗だなって」

 

「……ふーん」

 

今回のそれがどういう意味なのか、俺にはまだ分からなかった。

 

カヨコが出て行った後、一人になったオフィスで、俺はデスクの引き出しからスケッチブックを引っ張り出した。描く。今のカヨコを、記憶が鮮明なうちに。線を引く右手は、さっきまでの震えが嘘のように安定していた。

 

スケッチブックを押さえる左手を動かすたび、中指のリングがデスクに当たって、カチリと小さく鳴った。




日常編 完!
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