ブルアカ転生〜カヨコのエロ同人描いてた俺が本人に惚れられるまで〜 作:どうたぬき
第10話:接続
「各システム、多次元解釈演算の同期を開始。ウトナピシュティムの本船、全機関、臨界へ」
ブリッジに響く明星ヒマリの声。自らの天才を疑わない、あの澄んだ声。それが、俺の耳に届いた最後の明確な「世界の音」だった。
俺は「シッテムの箱」のインターフェースへ、汗ばんだ手のひらを押し当てた。
その瞬間、
世界が、
爆ぜた。
――――――ッ!!!
声にならない。
音にならない。
脊髄を灼熱が駆け上がる。視界が白い。白いのに痛い。網膜の裏側で火花が散っている。耳の奥がキィィンと鳴っている。歯の根が浮く。内臓だ。内臓全体が共振しているみたいに震えて、胃のあたりがひっくり返る。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
重力が消える。上下が消える。自分という輪郭が、境界を失って、端から霧散していく感覚。指先が溶ける。膝が溶ける。思考の枠組みがバラバラにほどけて、単語にならない信号だけが神経を駆け巡る。
遠くで、誰かの声がした。
リンの張り詰めた指示。ユウカが何かを叫んでいる。アヤネがオペレーションを読み上げる声。それらがすべて、水の底へ沈んでいくように、遠ざかり、歪み、擦り切れていく。
(ああ、これ、死ぬかもしれないな)
冷静な自己診断だった。痛みのど真ん中で、妙に客観的な自分がそんなことを考えている。変なものだ。
そして、その直後。
意識の一番奥で、もう一人の自分が、別のことを考えていた。
(でも、手は離さない)
離すわけがない。離したら終わりだ。離したら、ここまで積み上げてきたものが全部、無になる。
指に力を込める。シッテムの箱の表面に、汗と脂の跡がつくほどの力で。この手を離さなければ、まだ繋がっていられる。まだ戻れる。
意識が完全に途切れる、そのコンマ一秒前。
俺の脳裏に浮かんだのは、カヨコだった。
あの非常階段の夜。ドレスを脱いで裸足でコンクリートに立っていた彼女が、俺の左手を取って、中指にリングを押し込んだ。きつい。骨に当たる。でも、痛くはなかった。
(やり遂げる。絶対に)
その一閃を最後に、俺の意識は、白い奔流の中へと墜ちていった。
◇ ◇ ◇
暗闇。
冷たい。まず冷たい。手首に食い込む拘束具の金属が、体温を吸い取っていく。カビの匂い。湿ったコンクリートの匂い。そして、かすかに混ざる火薬の残り香。
カイザーPMCのクーデター。
思い出すのは、臭いだ。暗い部屋に充満した、汗と鉄と恐怖の匂い。耳の奥にまだ残っている、遠くの銃声。一定のリズムで響く爆発音が、腹の底に響く低周波になって、座っているだけで吐き気がする。
知ってたんだ。これが来ることは、全部。
原作知識が、カイザーのクーデターの全貌を教えていた。拉致されることも、シャーレが占拠されることも、カンナが動くタイミングも、ラビット小隊が突入してくるルートも。全部、頭の中のデータベースに揃ってた。
でも。
頭で知っているのと、実際に拘束具の冷たさを肌で感じるのとでは、全部が違った。
画面越しに「ここ熱い展開だな」と思ってた銃撃戦。それが現実になると、鼓膜が破れるかと思った。弾丸が耳元を通り過ぎる風圧で、首の産毛が逆立つ。硝煙の煙たくさに咳き込みながら、泥に塗れた手で這いずって、カンナの怒鳴り声を聞きながら、俺も叫んでた。何を叫んだか覚えてない。多分、指示でもなんでもない、ただの悲鳴だった。
泥に塗れた手。カンナの鋭い眼光。必死に銃を構えるラビット小隊の背中。モエの高笑い。サキの的確な援護射撃。ミヤコの揺るがない指揮。それらの全部が、画面の中の「イベントシーン」じゃなかった。匂いがあって、温度があって、失敗したら本当に誰かが死ぬ、現実だった。
(原作知識があったから、動けた。でも、それだけだ。知識は地図であって、実際に歩く脚じゃない。歩く脚は、俺の、この震える脚だった)
知っていることと、やることの差。
それは、俺がこの世界に来てから、ずっと背中に張り付いている実感だった。
◇ ◇ ◇
空が、赤い。
思い出すだけで、今も肌が粟立つ。
サンクトゥムタワーの出現。空を裂くように現れた、あの巨大な構造物。地平線の端から端までを覆い尽くす、異様な紅色の空。太陽の光がその色に染まって、地上に落ちる影までもが赤黒く滲んで見えた。
来る、と知っていた。
原作知識が、これから起こる災厄の全貌を俺にだけ教えていた。サンクトゥムが現れる理由も、その背後にいる存在も、これから何が起きるのかも。全部、頭に入っていた。
でも、「知っていたから怖くなかった」かというと嘘だ。
知っていたからこそ怖かった。
何も知らなければ、ただの「異常現象」だった。でも知っている俺には、あの赤い空が「これから始まるすべての地獄の、最初の一行」だということが、骨の髄まで分かっていた。予知が現実になる恐怖。待っていたものが本当に来てしまった時の、心の底からせり上がってくる震え。
知っていることは、時に刃になる。
だが刃は、握っているだけでも、丸腰よりはマシだった。
どこを切ればいいか分からなくても、切る意志さえあれば。
◇ ◇ ◇
そして。
暗転。
シャーレのオフィス。いつものデスク、いつものソファ、いつものコーヒーメーカー。それが全部、色を失っていた。色彩の反転、世界がネガフィルムのように、暗い部分が白く、白い部分が黒く、現実の裏側に引きずり込まれたような空間。
そこに、彼女は立っていた。
シロコ。
でも、俺が知っているシロコじゃない。
もっと冷たい目をした、もっと静かな声の、もっと深い闇を背負った、もう一人のシロコ。
シロコ*テラー。
「全てを常世に送ることが、自分の本質」
凍りつく声。同じ声なのに……そう、声は同じなんだ。それが何より怖かった。
つい数日前、モモトークに「先生、今日はちゃんとご飯食べた」と送ってきたシロコ。カップ麺はご飯じゃないと怒ったシロコ。「ん。おやすみなさい、先生」とスタンプを押したシロコ。
彼女の声帯から発せられているはずのこの声が、まったく同じ音色で、世界の終わりを宣告している。
そのギャップが、俺の胸を引き裂いた。
彼女の「もう一つの姿」が、今、目の前にいる。
その背後。
歪んだ空間の裂け目。ワームホールの縁が、現実を引き裂くように震えている。その向こう側にいた。
白い影。
人の形をしている。全身を包む白い衣。顔を覆うデスマスク。
プレナパテス。
俺の全身の毛穴が、一斉に収縮した。
他の誰が見ても、あれは「未知の脅威」だ。理解不能な敵。倒すべき存在。
でも、俺は知っている。
あれは先生だ。
別の時間軸で、生徒を失い、全ての可能性を使い果たし、それでも諦めきれずにこの時間軸へとやって来た、もう一人の「先生」。
この世界の誰も、あの影が「先生」だとは気づかない。
でも俺だけは、画面の前で、何十時間もかけてあの最終編を読み込んだ者として、あの影の正体を、動機を、絶望の深さを、全部知っている。
(あれは……)
自分の心臓を、冷たい手で握られたような感覚。
あの影と俺は、出発点が同じだ。違うのは結果だけ。俺はまだ誰も失っていない。あの影は、全てを失った。
俺がああなる可能性は、ゼロじゃない。
もし俺が違う選択をしていたら。もし俺がカヨコにリングを嵌められていなかったら。もし俺が「帰る場所」を持たずにこの世界を彷徨っていたら。
(いや、違う)
俺は頭を振った。
(俺はああならない。なってはいけない)
あの非常階段の夜に、カヨコが俺の指に嵌めたリング。きつくて、冷たくて、骨に当たって、でも絶対に外せない、あの金属の輪。
あれが俺の「違う」だ。
意識が、さらに深い闇へと沈んでいく。
断片が途切れる。記憶のページが一枚ずつ、闇に呑まれていく。
◇ ◇ ◇
落下感が、不意に止まった。
痛みが潮のように引いていく。さっきまで全身を焼いていた灼熱も、鼓膜をつんざいていた耳鳴りも、いつの間にか消えていた。白い光が消え、代わりに立ち込めたのは記号のような静寂。
空間の質が変わった。
床があるのかさえ分からない。足の裏に感触はない。空気は冷たく、肺の奥を刺す。だが息を吸っても、呼吸をしている実感が薄い。現実感を欠いた場所。意味が、形になる前の、余白。
振り返る。
そこに、それは立っていた。
仕立ての良い外套。折り目の一つまで計算された衣服。長い指先の、不自然なまでの優雅さ。立ち姿は完璧で、まるで美術館の彫像がそのまま歩き出したかのようだった。
そして顔がない。
顔があるべき場所に、ただ歪んだ「表情の画」だけが貼りついている。本物の目も鼻も口もない。だが確かに「見て」いる。顔のパーツを超越した次元で、何かが俺を認識している。
フランシス。
かつてゴルコンダと呼ばれていた存在の新しい貌。ゲマトリアの一人。物語の構造を解析し、終着点を観測するだけの存在。
「これは、面白い」
彼は、こちらの反応を待たずに、まるで独白のように言葉を零した。声には温度がない。だが、感情がないわけではない。知的好奇心だけが、蒸留された純度で抽出されている。
虚空を掴むような仕草で、手が動く。ページをめくるような、あるいは文字を書き記すような、優雅で、しかしどこか機械的な指の動き。
「構造の連続性の中に、これほど異質な『個』が紛れ込んでいる。頁の余白に、知らぬ誰かの落書きを見つけた気分だ」
——落書き、か。
黙ったまま、その言葉だけを頭の中で拾った。
俺のスケッチブックの余白には、いつもそういうのが溢れていた。衝動だけで走り描いた断片。納得のいかないコマの横に書き殴った、感情的な線。誰に見せるでもない、ただ吐き出すための痕跡。
俺の存在は、この世界の「余白」に描かれた落書きだというのか。
そうかもな、と、思った。否定する気にはなれなかった。
「しかし」
フランシスの声の温度が、一段、下がった。
「面白い事象は、しばしば構造を破壊する」
彼の手が、ゆっくりと水平に開かれる。掌の上に、何か見えないものを載せるような仕草。
「お前というイレギュラー。時空の隙間から滑り落ちた『異物』。それが紛れ込んだ瞬間から、構造は歪み始めていた。頁の文字は滲み、伏線は千切れ、用意されていた終着点は既に過去のものとなった」
何を、言っている。
「お前は知っているのだろう? この先に起こるべき筋書きを」
フランシスの貌が、こちらを向いた。
顔のない「画の表情」が、俺の目を覗き込む。瞳孔のない視線が、俺の内部にまで届くような感覚。
「だが、知識は地図に過ぎない。地図が正確でも、歩く者の足取りまでは規定できない」
冷たい何かが、背筋を這い降りた。
「変数が一つ増えただけの話ではない。お前という『異物』は、この舞台にあまりにも深く根を張りすぎた」
フランシスの声は淡々と続く。
「生徒たちはお前に影響され、選択を変え、行動を変えた。鬼方カヨコは特に顕著だ。彼女は本来、ここまで能動的に『誰か』を選ぶ個体ではなかった。お前の存在が、彼女の行動原理を根底から書き換えている」
カヨコの名前が出た瞬間、俺の指が、左手の中指が、ピクリと反応した。
「その積み重ねが、構造そのものを別の形へと変貌させている。頁の文字の一部は滲み、本来予定されていたいくつかの場面は、既に過去のものとなった」
フランシスの声は、淡々としていた。そこには悪意も嘲笑もない。ただ、観測した事実を述べているだけの声。
「お前の持つ『地図』はまだ有効だろう。だが、終着点が地図の通りである保証は、どこにもない。これだけ構造が変質したのだ。結末が同じである可能性の方が、むしろ低い」
指先が、震えた。
原作知識が、使えない。
俺の唯一の武器。この世界で俺が「先生」をやれていた根拠の大半。カイザーと互角にやりあえたのも、エリドゥを駆け抜けられたのも、エデン条約を調印出来たのも、ラビット小隊と打ち解けたのも、全部、原作知識という地図があったからだ。
その地図が、もう役に立たない。
知らない未来に、たった一人で放り出される。
恐怖が、歯の根を鳴らした。膝が笑う。
そしてフランシスは、もうこちらを見ていなかった。
言いたいことは言い終わった、というように、虚空の一点を見据えて、見えないテクストを指で辿っている。自分の中で観測結果を咀嚼して、一人で満足している。
ゲマトリアはいつもこうだ。勝手に来て、勝手に解釈して、勝手に帰る。
フランシスの外套の輪郭が、端から薄れ始めた。長い指先が霧のようにほどけていく。貌に貼りついていた「画の表情」が、空白の中へと溶けていく。
去る気だ。俺が何を思っているかなんて、最初から興味がない。
膝が笑っている。喉が張り付いている。頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどう考えればいいか分からない。
でも、何か言わないと、このまま飲まれる。
「——おい」
声が出た。掠れてて、割れてて、情けない声。
フランシスは振り返らない。半分透けたまま、消えかけている。
聞いてなくてもいい。聞いてないだろうし。
「……お前の言う通りだよ。落書きだ。プロットもない。終着点もない。余白に書き殴っただけの、走り描き」
膝がガクガクしてて、立ってるのがやっとだ。かっこいい台詞なんか出てくるわけがない。
「地図もなくなった。……何すりゃいいかも分かんねえ」
フランシスの姿がさらに薄くなる。あと数秒で消える。
左手の中指で、リングが骨に当たった。カチ、と、この静かすぎる空間に小さく鳴った。
「でも、帰るから。全員連れて、帰る」
それだけだった。
論破でも、啖呵でも、決意表明でもない。半分溶けた脳から辛うじて絞り出した、ぐちゃぐちゃの戯言。
フランシスは何も言わなかった。振り返らなかった。彼の姿は霧みたいにほどけて、空白の中に溶けて、消えた。
聞いていたのかいなかったのか。
多分どうでもいい。ゲマトリアにとっては、俺の言葉なんか観測データの一行に過ぎない。
余白の空間が端から崩れ始める。闇が戻ってくる。
◇ ◇ ◇
意識が、元の肉体へと引き戻されていく。
闇へと、落ちていく。
落ちながら、俺は思った。
(帰る。全員連れて、キヴォトスに帰る。便利屋の事務所に帰る。あのうるさい日常に帰る。それだけだ)
それしか出てこなかった。覚悟とか、決意とか、そういう立派なもんじゃない。ただ「帰る」という言葉にしがみついてるだけだ。
結末は決まっていない。
原作は消えた。
未来は読めない。
何をすればいいか、分からない。
分からないまま、左手の中指の重さだけを握り締めて、俺の意識は、完全に途絶えた。