(完全版)リュカとビアンカ、息子に愛を語る。 作:アロンの杖
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[chapter:“祈り”に付いての体験談。]
時期はボカさせていただくが、何とか大学を卒業して暫く経った時の事である。
この時期、私達一家はある種の“霊障”に悩まされており(例えば私の場合は頭の中に変な考えがなんの脈絡も無く浮かんでは消えて行く、とか身体が異常に重くて気怠くなったり、だとか←母の場合はもっと直接的に夜中に家の中を何かが“ピチャピチャ”と這いずり回る音を聞いたりしていたそうだ)、その解決方法を当時お世話になっていた“霊能力者”の方へと頼る事となった、すると。
その霊能力者曰く“本来ならば生まれて来られる筈だった、息子さんの兄弟姉妹の魂達が“水子霊”となって祟っている、これを鎮めなくてはならない”との事であり、“出来ればご両親、それもお母さんに至急、供養してもらった方が良いのだが・・・”との言葉であったモノの父は元々“幽霊なんか信じない”と言っていた人間であり、対する母もその時は精神的に参ってしまっていた為に、急遽私が代理で行う羽目となったのである。
やり方を教えてもらってからと言うもの、私は懸命に祈りを捧げ続けた、その当時の私は介護職に就いていたのだがどんなに仕事が大変で疲れていても決して欠かさず、休むことなく“貴方達を忘れてしまって申し訳ない、
それを最初の2、3ヶ月近くは毎日二時間ずつ続け、仕事に行く前や仕事帰りに必死になって祈り続けた、そんなある日の事。
いつもと同じように水子霊達に意識を向けて祈り始めた私の胸の中に、突如として“もういいよ?”、“もう解った”と言う“感覚的メッセージ”が届いたのである。
それを霊能力者の方に相談した所、“今度は1時間ずつ祈りなさい”と言われた為にその通りにしていると、今度は1ヶ月程度が経った時にまた“もういいよ?”と言うメッセージが届き、それを霊能力者に相談した所、“今度は30分ずつやりなさい”と言われた。
私はすっかりその気になって祈り続けていった←勿論、最初の内は“自分が助かりたい”と言う気持ちはあったが祈りを捧げている最中はそれを脇に追いやり、本当に真剣に相手と向き合い、水子霊達に祈りを捧げ続けていったのだ。
そうして今度は2週間が経過した頃、また胸の内に“もういいよ?”と言う感覚がやって来た(他の方はどうだか解らないが、私の場合は“霊的存在”のメッセージはまず胸に“感覚的想念”としてやって来て、それを後から頭でしっくりくる言葉に直す、と言う手法を取るのだ)。
これを再び霊能力者に相談した所、“今度は15分ずつやりなさい”と言われた為にその通りにしているとー。
それから1週間が過ぎたある日、祈りを捧げようとしていた私の元へまた“もういいよ?”と言うメッセージが届いたのである。
私はそれを霊能力者の方に伝えて水子霊の様子を見てもらった所、“兄弟達はみんな成仏出来たようだ”、“君は許されたんだよ?”と言われ、そしてその日を境にして霊障もピタリと止んだのだがこの体験は他ならぬ私自身にとても大切な気付きをもたらした。
それは“謝る”と言うことについてだったが“絶対に許さない”と、“一番苦しかった時期に、一番気付いて欲しかった時期に、一番謝って欲しかった時期に何の謝罪も反省もしなかったお前を、一番我等を苦しめ続けたお前の事を何があっても許しはしない”とそう言ってどこまでも此方を蔑み憎んで攻撃し続けてくる相手に対し、許してもらえるように、許してもらえるまで謝り続けること。
それがどうやら“謝る”と言う事なのだと直感的に理解したのだ。
そしてそれは=で“誠意を尽くす”と言う事なのだと悟ったのだがこれに先立つ事数年ほど前に、私は別の女性予言者からある教えを受けていた。
彼女曰く「“努力した”とは目標として掲げていた物事が達成された時に、初めてそう言えるのだ」との事だったのだが、その時は何の事だか解らなかった私にもしかし、ようやくにしてその言葉の意味が理解できる日がやって来たのである。
誠意を尽くせば必ず思いは伝わり願いは叶う、そしてそれこそが“努力した”と言う事であり、そして更に言うならばそれは=で“祈る”と言う事なのだと、未熟者ながらに私は体感したのであり、大切な経験として己の中へと修めたのであったがしかし、ではそれは一体、何故なのか、と言う問いに対する“答え”を、この時の私はまだ見出す事が出来ずにいたのであるモノの元々、“祈り”とはそれ自体が極めて純化された思念エネルギーの結晶体、その発現そのものに他ならないのである。
ありとあらゆる障害にも負けず、様々な誘惑にも決して惑わされる事も無く、ただただただただ、どこまでもどこまでもひたすらなまでにその事だけを追求して行った結果として、それを貫き通して行った結果として最後の最後で現れる、余計なモノを全て刮ぎ落とした純粋なる思念エネルギーの塊であり、“偽りなき真心の顕現”それそのものに他ならないモノなのである。
それは全てを超越しては必ずや相手の心の奥底にまで、それも直接的なまでに轟き響くモノなのであり、その結果として思いは通じて願いは叶うモノなのだ、と言うことを、私はまだ理解できずにいたのである。
ではどうして“祈りの思念エネルギー”が全てを超越して対象の本質に徹底的に作用するのか、と言えばそれはこの純粋法力は、かつて宇宙全体を創世した“始源の超神”の放つ“愛の光り輝き”と全く同質のモノだからである。
私達のような“真っ当なる一般人”、つまりは“霊なる者達”と言うのは誰もがこの“始源の超神”の“分身体”、即ち“分御霊”を魂の奥深くに秘め宿している訳であり、それとは本当に純粋なる領域に立ち返った瞬間にのみ繋がる事が出来るのだが、この“分御霊”の放つ力は“絶対的意志力に支えられている無限エネルギー”とでも言う事が出来る代物であって、要するに“始源の超神”の放つ特大級の“深域精神感応波”なのである(私達人間の言葉に直せばこの表現が最も近しいだろうと思われる)。
それは“意志の力”だけで宇宙全体に歪みを発生させ、現実を作り変えてしまう程にまで強烈なパワーを秘めている訳であり、それによって“許さない”と言う怒りの意識に作用して“許す”と言う慈愛の波動に作り変えてしまう効能を有しているのだ←要するに己の願い通りに現実を作り変えてしまう力を、“真っ当な人間達”ならば誰もが持っている、と言う訳である(またこれにはもう一つ、“本当に申し訳ない事をしてしまった”、“なんとかして償いたい”と言う加害者の被害者に対する“どこまでも謙虚で真摯な気持ち”が“偽り無き真心”、その光り輝きとして相手に伝わった瞬間、被害者側の“恨みに染まった頑なな心”の闇が晴れて傷が癒され、解きほぐされて行く事に拠る“因象”である事も付け加えさせていただく)。
それによって“許さない心”を“許す意識”に変える事が出来るのだが、ここにはいくつかの注意点が存在する。
まず一つ目に、“誠意を尽くせば必ず思いは伝わり願いは叶う”と言うのはあくまで“自然状態下では”と言う前置詞が付く、と言う事であり、その二つ目は基本的に“祈りを捧げている最中はその内容を第三者に知られてはならない”と言うモノである。
一つ目の注意点から解説して行くと、基本的にこの世と言うのは“意志と意志のぶつかり合い”の世の中であり、尚且つ誰もが“足の引っ張り合いをしている”と言う事実を見つめ直す必要がある。
例えばとある女子に好きな男子が出来たとして、“そのハートを射止めたい”と思った時に別の誰かが同じ思いを抱いていたなら、当然そこでは“意志と意志のぶつかり合い”が生じる訳であるがこの時、より多くより強く祈りを捧げて努力した者が(即ちより多くより強く誠意を尽くした者が)最終的な勝者となり新しい現実を作り出す事が出来るのだ(ちなみに“足の引っ張り”とは“前世からのカルマ”や“周囲の妬み”、“恨み”だと思って下されば解りやすいだろうか)。
そして二つ目に関してなのだが、実は神道の大元である“古神道”に於いては“願いというのは秘密にする事で神が宿る”と言う教えが存在している、つまり“秘密”は“火水”であり“火水”はやがて“カミ”となる、と言うモノである(そして“カミ”とは=で“神”である)。
その為、決して願い事の内容を自分と神以外の誰かに知られてはならないのである(そうしなければ“効力がなくなってしまう”とされている)。
注)他にも“誠意を尽くす”と言うのは人を見て行わなければならない。
例えば最初から“こちらにたかってやろう”、“利用してやろう”等と考えている人間に“誠意だ”等と言っても無駄であるし、第一危険である。
それに加えて“過度な被害者意識”や“被害妄想”を抱いている人間にも気を付けなければならい(あまり他人様の事を悪し様に言いたくは無いのだがそう言う人間と言うものは、そもそも意識や性根が歪んでいる場合が殆どであり一般的な常識が通用しないのである)。
皆様方もどうか気を付けてもらいたいモノである。