平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
咲花月の一日。
朝の光は、まだ薄かった。
窓の隙間から差し込む淡い光が、木造りの部屋の床を細く照らしている。
外では早起きの鳥が鳴き、遠くで家畜小屋の戸が開く音がした。
いつもと変わらない、イギー村の朝。
いつもと変わらない、イギー村の朝。
だが、その朝は、もういつもの朝ではなかった。
今日、アレン・レグロスは村を出る。
王都、花都ブロッサへ向かうために。
そして、その先にある名門魔法学校ロゴスへ入学するために。
その大事な日の始まりに、アレンは妙な温もりで目を覚ました。
「……ん」
半分眠ったまま、彼はぼんやりと天井を見上げた。
見慣れた梁。
少し歪んだ天井板。
窓から入る朝の匂い。
そこまでは、いつも通りだった。
ただ、腕が重い。
布団の中に、何かがいる。
柔らかくて、温かくて、やけに近い。
アレンは寝ぼけた頭でゆっくり視線を下ろした。
白い髪があった。
長く、絹糸のようにさらさらした白い髪。
その白い髪の主は、アレンのすぐ隣で、実に安らかな寝息を立てていた。
「……」
アレンは、そっと目を閉じた。
夢だ。
そう判断した。
今日が王都へ向かう大事な日だから、緊張で変な夢を見ているのだろう。
そうに違いない。
なぜなら、目を開けたら隣にナナティナが寝ているなど、あっていいはずがないからだ。
たしかに彼女は距離感が壊れている。
腕にくっつく。
気づけば隣にいる。
放っておくと、こちらの生活空間へ当然のように入り込んでくる。
だが、さすがに同じ寝台で眠っているのは別問題だった。
だから夢だ。
そうでなければ困る。
アレンはもう一度眠ろうとした。
しかし。
「……む」
腕に触れる感触が、やけに現実味を帯びていた。
柔らかい。
温かい。
白い髪が首筋に当たって、少しくすぐったい。
しかも、ナナティナは眠ったままアレンの服を掴んでいる。弱く、けれど確かに。
まるで、離れることを拒むように。
アレンは、恐る恐る目を開けた。
ナナティナがいた。
隣に。
完全に。
すやすやと。
「……」
アレンの意識が、一瞬で覚醒した。
「うわああああああっ!?」
彼は寝台から転げ落ちた。
背中を床に打ちつけ、派手な音が部屋に響く。
「いってぇ!?」
その悲鳴に、ナナティナがゆっくりと目を開けた。
白い髪を枕の上に広げたまま、眠たげな目でアレンを見る。
まるで何もおかしなことなど起きていないかのような顔だった。
「……アレン。朝からうるさいぞ」
「それ俺の台詞じゃねぇかな!? 何でお前が俺の隣で寝てんだよ!」
ナナティナは少し考えた。
考えている時間があること自体、アレンには嫌な予感しかしなかった。
「起こそうとして」
「うん」
「隣に座ったら」
「うん」
「眠くなってしまった」
「うん?」
「で、寝た」
「いや、流れるように侵入してるんじゃねぇよ!」
アレンは頭を抱えた。
王都へ向かう朝。
人生の大きな節目。
その始まりがこれでいいのか。
いや、ナナティナが関わると大抵こうなるのだから、ある意味いつも通りなのかもしれない。
そう思いかけて、アレンは深く息を吐いた。
「お前なぁ……今日が何の日か分かってるか?」
「咲花月の一日」
「そうじゃなくて!」
「王都へ行く日だろう?」
ナナティナは身体を起こし、白い髪を軽く払った。
朝の光を受けて、その髪が淡く輝く。
彼女は寝起きだというのに、どこか浮世離れした美しさを持っていた。
けれど、その口から出てくる言葉は相変わらずだった。
「だから起こしに来た」
「結果、自分が寝てたら意味ねぇだろ」
「アレンの寝床はいい匂いがする」
「なに言ってんの!?」
騒ぎを聞きつけたのか、廊下の向こうからガレンの声が飛んできた。
「朝から何を騒いでおる、馬鹿孫!」
「俺は被害者だぞ爺ちゃん!」
「なら早く支度しろ! 馬車が来るぞ!」
現実は待ってくれない。
今日、アレンとナナティナはイギー村を出る。
今までのように、畑に出て、ガレンに怒鳴られ、村人にからかわれ、ナナティナに振り回される日々は、ここで一区切りを迎える。
そう思った瞬間、アレンの胸の奥が少しだけ重くなった。
だが、その余韻に浸る暇もない。
「ほら、行くぞナナティナ。まず着替えだ」
「分かった」
「あと、今後は勝手に俺の寝台へ入るな」
「なぜだ?」
「そこから説明しなきゃ駄目か!?」
「私はアレンの精霊だぞ」
「精霊でも駄目なもんは駄目!」
アレンはそう叫びながら、慌ただしく支度を始めた。
β
家を出ると、そこには見慣れない豪華な馬車が停まっていた。
磨かれた黒い車体。
金の装飾。
ナチュレ家の紋章。
手入れの行き届いた馬。
御者台には、王都までの案内を任されたナチュレ家の兵士が座っている。
それは、イギー村の土の道には少し不釣り合いなほど立派な馬車だった。
朝の村は、すでに人でいっぱいだった。
ガレンが家の前で腕を組んでいる。
村長が杖をついて立っている。
畑仕事仲間の若者たちがいる。
子供たちがそわそわと馬車の周りを見ている。
年寄りたちは、まるで孫を送り出すような目でアレンを見ていた。
そして少し離れた場所には、シェリー・ナチュレと執事のケビンの姿もあった。
「……なんか、大げさじゃねぇか?」
アレンは思わず呟いた。
だが、そう言いながらも、胸の奥は落ち着かなかった。
見送られることに慣れていない。
からかわれることには慣れている。
怒られることにも慣れている。
頼まれごとを押しつけられることにも、まあ慣れている。
けれど、こうして村中の人間が集まり、自分の出発を見送ってくれるという状況は、どうにもむず痒かった。
今日のアレンは、いつもの農民服ではない。
灰色を基調にした上着。
白いシャツ。
動きやすい黒いズボン。
靴も磨かれている。
シェリーが用意してくれた、王都へ行っても恥ずかしくない服だった。
農家の息子が着るには、少しばかり上等すぎる。
ナナティナもまた、白い髪によく似合う淡い色の服を着ていた。
キャベット町で買った硝子玉の髪飾りも、きちんと髪に留められている。
「シェリー様」
アレンは少し照れくさそうに頭を下げた。
「服、ありがとうございます。俺にはちょっと立派すぎるけど」
「王都へ行くのですもの。それくらい当然ですわ」
シェリーはいつものように扇子を広げていた。
だが、その顔はどこか寂しそうだった。
気丈に振る舞っている。
いつもの調子で言葉を返している。
けれど、微笑みの奥にある感情までは隠しきれていない。
アレンはそれに気づいた。
気づいて、少しだけ困った。
こういう時、何を言えばいいのか、彼はあまり得意ではない。
「私からも感謝する」
ナナティナが真面目な顔で言った。
「この服は動きやすい。あと、皆が私を見る目が少し変わった」
「それは、あなたが元から目立つからですわ」
シェリーは少しだけ笑った。
だが、すぐに目を伏せる。
「……本当に、行ってしまうのですわね」
その声は、とても小さかった。
アレンは少しだけ視線を泳がせる。
村を出ると決まってから、実感はあまりなかった。準備も慌ただしく、王都やロゴスの話はどこか遠いもののように感じられていた。
けれど、こうして見送られると分かる。
本当に出ていくのだ。
この村から。
ガレンの家から。
畑と、夜警と、見慣れた道から。
「卒業したら、帰ってきますよ」
アレンは、自然とそう言っていた。
シェリーが顔を上げる。
「……え?」
「ロゴスがどんなところか知らないですけど、俺の家はイギー村ですから。爺ちゃんもいるし、畑もあるし、皆もいる」
アレンは肩をすくめた。
「だから、卒業したら必ず帰ってきます」
シェリーは一瞬、言葉を失った。
それから扇子で口元を隠す。
「そ、そうですの。まあ、当然ですわね。あなたのような問題児、王都に置きっぱなしにされたら王都の方々も困りますもの」
「え、ひどくないですか?」
「事実ですわ」
「別れ際くらい優しくしてくれてもいいのに」
「十分優しくしております」
シェリーはそっぽを向いた。
しかし、その耳が少しだけ赤いことに、アレンは気づかなかった。
代わりに気づいたのはナナティナだった。
「……む」
彼女はアレンの横腹をつまんだ。
「いだっ!? 何すんだよ!」
「なんとなく」
「なんとなくで俺の肉を持っていくな!」
「アレンが悪い」
「理不尽!」
ケビンが静かに言う。
「仲がよろしいことで」
「どこを見てそう思ったんですかね!?」
村人たちが笑った。
その笑い声は、いつもの村のものだった。
アレンがサボれば飛んでくる笑い。
ナナティナが変なことを言えば広がる笑い。
何でもない日々の中にあった、当たり前の音。
それが、今日は少しだけ胸に染みた。
ガレンはその様子を見ながら、ゆっくりとアレンの前へ歩いてきた。
「アレン」
「……爺ちゃん」
ガレンは相変わらず厳しい顔をしていた。
皺の刻まれた顔。
太い腕。
畑仕事で硬くなった手。
いつもアレンを怒鳴り、叱り、時に拳骨を落としてきた祖父。
だが、その目は少しだけ柔らかい。
「ロゴスへ行ったら、しっかり学べ」
「ああ」
「調子に乗るな」
「努力する」
「返事が弱い」
「乗りません」
「よろしい」
ガレンは小さく息を吐いた。
「お前は馬鹿だ。サボる。口も悪い。だが、見捨てることだけはせん」
「褒めてるのか刺してるのか分からねぇな」
「両方だ」
ガレンはアレンの肩に手を置いた。
その手は重かった。
子供の頃、レグロス村から連れてこられた時にも、この手はアレンの肩にあった。
何も言えず、ただ焼け跡の方ばかり見ていた少年を、ガレンは黙って連れ帰った。
あれから何年も経った。
アレンは育った。
怒られながら。
サボりながら。
それでも、生きてきた。
「守りたいものがあるなら、学べ。力だけで何とかなると思うな。困った時は人を頼れ。分からん時は聞け。意地で黙るな」
「……分かってるよ」
「本当か?」
ガレンの眉が動く。
「ああ」
ガレンは短く頷く。
「行ってこい、アレン・レグロス」
その名を呼ばれて、アレンの胸が少し熱くなった。
レグロス村。
失くした故郷。
もう戻れない場所。
けれど、自分が背負うと決めた名。
「……行ってきます」
アレンは馬車へ乗り込んだ。
ナナティナも続く。
窓の外では、村人たちが手を振っている。
「アレン兄ちゃん、ちゃんと勉強しろよー!」
「サボるなよー!」
「王都で迷子になるなよ!」
「ナナティナちゃん、アレンを頼むよ!」
「分かった。私が見張ろう」
「おい、そこは守るじゃねぇのかよ!」
笑い声の中、馬車が動き出す。
車輪が土の道を進む音が、ゆっくりと響く。
イギー村が少しずつ遠ざかっていく。
ガレンの家。
畑。
小さな道。
村人たちの姿。
シェリーの白い扇子。
子供たちの手。
ガレンの背中。
全部が窓の向こうで小さくなっていく。
アレンは黙って見ていた。
ナナティナが隣に座り、そっと袖を掴む。
「寂しいのか?」
「……まあ、少しな」
「私はいるぞ」
「知ってる」
「なら大丈夫だ」
ナナティナは当然のように言った。
その言葉は単純だった。
だが、今のアレンには、それで十分だった。
「ああ。そうだな」
彼は小さく笑い、もう一度だけ村の方を見た。
β
王都までの道のりは、アレンが想像していたよりもずっと長かった。
イギー村を出た馬車は、まず村道を進んだ。
土の道。
見慣れた畑。
低い石垣。
小さな林。
窓の外に流れていく景色は、アレンがよく知っているものばかりだった。
だが、馬車が進むにつれて、その景色は少しずつ変わっていった。
畑の間を抜ける細い道は、やがて広い街道へ出る。
踏み固められた土の道には、商人の荷馬車や旅人の姿が増え、ところどころに石で補強された部分も見えた。
イギー村の近くでは見かけない立派な馬車も通る。
荷を積んだ商人たち。
護衛を連れた旅人。
制服を着た兵士。
窓の外を見るたび、アレンは自分が村から遠ざかっているのだと実感した。
「人が増えたな」
「村ではないからか?」
隣に座るナナティナが尋ねる。
「たぶんな。王都に近づくほど、道も人も増えるんだろ」
「王都は、人がたくさんいる場所なのだな」
「らしいぜ。俺も実際に見るのは初めてだけどな」
馬車は朝から進み続けた。
途中で何度か休憩を挟み、馬に水を飲ませ、アレンたちも簡単な食事を取った。
ナナティナは持たされた包みの中身を見て、「これは全部食べていいのか」と相変わらずのことを言い、案内役の兵士を困らせた。
夕方になる頃には、イギー村の気配は完全に消えていた。
遠くに見える山の形も、風の匂いも、道を行き交う人々の顔も、もうアレンの知っているものではない。
駅へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
そこから二人は、夜行列車へ乗り換えた。
夜の駅は、村の夜とはまったく違っていた。
灯りが多い。
人の声が多い。
荷物を運ぶ音、駅員の声、汽笛の響き、車輪の軋む音。
すべてが重なり合い、アレンの耳には少し騒がしく感じられた。
「……夜なのに、なぜこんなに人がいるのか」
「夜は眠るものではなかったか?」
「普通はそうだけど、駅ってのは違うんだろうな」
アレンはそう答えながらも、自分でもよく分かっていなかった。
夜行列車は、普通の列車だった。
煙突から煙を吐き、鉄の車輪を鳴らしながら、暗い線路の上を進んでいく。
座席に腰を下ろすと、ナナティナは最初こそ窓の外を眺めていた。
暗闇の中に流れる灯り。
遠ざかる駅。
夜の平野。
たまに見える小さな町の明かり。
その一つ一つを不思議そうに見ていたが、しばらくすると眠気に負けたらしい。
当然のように、アレンの肩にもたれて眠った。
「……まあ、いいけどよ」
アレンは小さく呟いた。
列車の揺れ。
車輪の音。
肩にかかるナナティナの重み。
窓の外には、知らない夜が流れている。
目を閉じると、イギー村を出た時の光景が浮かんだ。
手を振る子供たち。
シェリーの扇子。
ガレンの背中。
遠ざかっていく家。
それらを思い出しているうちに、アレンもいつの間にか眠っていた。
翌朝。
目を覚ますと、窓の外には知らない町と川が流れていた。
朝日を受けた水面がきらきらと光り、遠くには白い石造りの橋が見える。
駅に停まるたび、人が乗り、人が降りる。
村では見かけない服装の者も多い。
商人らしき男。
軍服姿の女性。
大きな鞄を持った学生らしき少女。
アレンはそのたびに窓の外を見て、まるで別の国へ来たような気分になった。
「世界って、広いんだな」
思わず漏れた言葉に、ナナティナが首を傾げる。
アレンは窓の外を見たまま答えた。
「イギー村もキャベット町も、俺にとっては大きな世界だった。でも、こうして見ると、まだまだ知らない場所ばっかりだ」
「なら、これから知ればいい」
「簡単に言うな」
「難しいのか?」
「……いや」
アレンは少し笑った。
「案外、それでいいのかもな」
昼過ぎ。
夜行列車を降りた二人は、さらに別の列車へ乗り換えることになった。
王都圏へ入るための、魔導機械式列車である。
駅のホームへ入ってきたその車両を見た瞬間、アレンは思わず口を開けた。
「……なんだ、これ」
煙突がない。
煤も出ていない。
車体は四角く、磨かれた金属と塗装で覆われている。普通の列車よりも滑らかで、どこか異国の乗り物のようだった。
屋根の上には細い金属の腕のような装置があり、上空に張られた線へ触れている。
「これが魔導機械式列車か」
案内役の兵士が説明する。
「架線から電力を受け、車内の魔力変換器で魔力へ変換して走ります。王都圏では主要な交通手段になりつつあるそうです」
「電力を魔力に……」
アレンは窓に張りつくように外を見た。
「王都って、そんなことまでできるのかよ」
ナナティナも隣で車両の中を眺めている。
「人間の技術力というのは凄いな」
「ああ、そうだな」
魔導機械式列車は、滑るように動き出した。
普通の列車より揺れが少ない。
音も静かだった。
窓の外を、またも見慣れない風景が流れていく。
村。
畑。
川。
遠くには山並みが連なり、その奥に巨大な火山の影が見えた。
やがて、建物が増え始めた。
道はさらに整い、橋は立派になり、人の往来も多くなる。
荷馬車だけではなく、魔導車らしきものも見えた。街道沿いには、王都へ向かう人々の姿が続いている。
アレンは、世界が広がっていくのを感じていた。
イギー村が小さいことは知っていた。
キャベット町を見た時も、町とはすごいものだと思った。
だが、王都へ近づくにつれて、その感覚はさらに塗り替えられていく。
自分が知っていた世界は、本当に小さかったのだ。
そして夕方頃。
アレンは、それを見た。
「……あれが」
地平の向こうに、巨大な都市があった。
五弁花のような形をした巨大な城壁。
その内側から伸びる高い塔。
そして都市全体を包むように、薄く輝く巨大な膜。
――『花都ブロッサ』
ベータシィア王国の王都。
アレンは息を呑んだ。
「でけぇ……」
列車が城壁の門をくぐる。
その瞬間、窓の外に広がる景色が一気に変わった。
石畳の大通り。
整然と並ぶ街路樹。
季節の花が植えられた花壇。
高い王都式建築の建物。
魔導街灯。
馬車。
魔導車。
制服姿の兵士。
優雅な服装の貴族らしき人々。
荷物を運ぶ職人。
店先で声を張る商人。
人、人、人。
どこを見ても人がいる。
「……人が多いな」
ナナティナが呟いた。
「町だからな、って言いたいところだけど、これは俺も多すぎると思う」
「建物も多い」
「多すぎるな」
「匂いも多い」
「それは町でも言ってたな」
ナナティナは窓の外を見つめていた。
だが、ふと視線を上げる。
都市を覆う薄い光の膜。
「アレン。あれは何だ?」
「ああ、あれか」
アレンも見上げた。
「四精大結界ってやつらしい。シェリー様から聞いた。王都を守る結界なんだとさ」
「王都を守る」
「魔物や悪魔兵器の襲撃からな。すげぇよな、都市丸ごと包んでる」
ナナティナは黙って結界を見つめていた。
その目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……どこか、苦しそうだ」
「え?」
「分からない。だが、そう感じる」
アレンはもう一度、結界を見上げた。
彼には、美しく巨大な光の膜にしか見えない。
王都を守る奇跡。
多くの人々を救っているもの。
絶対の安心を与えるもの。
だが、ナナティナは違うものを感じ取っているらしい。
「ナナティナ?」
「……何でもない」
彼女はそう言って、視線を外した。
アレンは気になったが、追及はしなかった。
列車はゆっくりと速度を落とし、王都ブロッサ中央駅へ入っていった。
β
駅に到着すると、案内役はナチュレ家の兵士から王宮所属のウィッチへ引き継がれた。
凛とした制服姿の女性だった。
立ち居振る舞いに無駄がなく、言葉遣いも丁寧だが、どこか事務的な冷たさがある。
アレンは、王都の人間というものは皆こうなのだろうかと少し身構えた。
「アレン・レグロス様、ナナティナ様ですね。ロゴス入学までの間、お二人には王都内の宿泊施設で過ごしていただきます」
「宿?」
「はい。手続きや学力診断、入学準備がありますので、しばらく王都に滞在していただきます」
「なるほど」
「なお、基本的に宿泊施設内では自由にして構いませんが、無断外出は禁止です」
アレンは固まった。
「……無断外出禁止」
「はい」
「完全に?」
「完全にです」
「ちょっと散歩とか」
「禁止です」
「王都見物とか」
「禁止です」
「ですよねぇ……」
ナナティナが首を傾げる。
「なぜだ?」
ウィッチはにこりと笑った。
「お二人は現在、王国にとって非常に重要な保護対象であり、同時に観察対象でもあります。勝手に外へ出られると困ります」
「観察対象」
アレンの顔が引きつった。
「言い方が怖いんですが」
「事実ですので」
「王宮の人ってはっきり言うなぁ……」
そうして連れて行かれた宿は、アレンの想像を遥かに超えていた。
広い玄関。
磨かれた床。
高い天井。
ふかふかの絨毯。
壁に飾られた絵画。
花瓶に活けられた季節の花。
宿というより、貴族の屋敷に近い。
アレンは入口をくぐった時点で、すでに足元が落ち着かなかった。
部屋に通されると、さらに固まった。
「……何だこれ」
寝台が二つ。
大きな窓。
柔らかい椅子。
立派な机。
綺麗な食器。
壁には見たことのない魔導灯。
部屋の隅には、冷たい箱。
すべてが、村の生活とは違っていた。
村の家には、必要なものしかなかった。
椅子は座れればいい。
机は物が置ければいい。
寝台は眠れればいい。
だが、この部屋のものは違う。
どれも、便利で、整っていて、少し怖いくらい綺麗だった。
「これは何だ?」
ナナティナが箱を指す。
案内役のウィッチが答える。
「保冷箱です。中に食べ物や飲み物を入れておくと、冷えた状態を保てます」
「冷たい箱……」
アレンは恐る恐る開けた。
中からひんやりとした空気が流れ出る。
「うおっ、本当に冷たい!」
「食べ物を入れるのか?」
「ナナティナ、お前が入るなよ」
「入るわけないだろ」
「少し考えた顔しただろ」
「失礼だな」
次にアレンが驚いたのは、壁に取り付けられた通信機だった。
「こちらは王都内通信用の有線通信機です。王宮、宿の受付、指定された施設へ連絡できます」
「風信機とは違うんですか?」
「王都内では電話線を使った通信機が整備されています。風信機は遠距離通信用ですね」
「王都すげぇ……」
アレンは思わず感心した。
王都では、人の声すら線を通って届く。
村では、何かあれば走る。馬を出す。手紙を書く。風信機など領主家のような場所にしかない。
だが王都では、それが部屋に置かれている。
その差に、アレンは少しだけ圧倒された。
そして最大の衝撃は、浴室だった。
アレンは蛇口をひねった。
水が出た。
「……出た」
もう一つをひねった。
湯が出た。
「お湯まで出たあああっ!?」
アレンは思わず叫んだ。
「噂で聞いてたけど、本当にひねると出るのか! しかもお湯まで!? どうなってんだこれ!」
ナナティナも隣から覗き込む。
「水が勝手に出るな」
「勝手じゃない。ひねったら出る」
「ひねると水が出る。王都はすごいな」
「俺、王都で生きていける気がしねぇ」
アレンはそう呟きながら、部屋へ戻った。
そこで、改めて現実を思い出す。
寝台は二つ。
だが、部屋は一つ。
「……」
アレンはちらりとナナティナを見た。
ナナティナはふかふかの寝台に手を置き、目を細めていた。
「柔らかい」
「お、おう」
「これは良い」
彼女はそのまま寝台に座り、軽く弾んだ。
「おお」
「遊ぶな」
「楽しい」
「まあ、そう見える」
ナナティナは寝台の感触に夢中だった。
アレンは少しだけ意識していた自分が馬鹿らしくなり、深くため息をついた。
「……まあ、いいか」
王都に来ても、ナナティナはナナティナだった。
そのことに、少しだけ安心した。