平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
草原に、風が吹いていた。
王都ブロッサの喧騒は、どこにもない。
石畳を走る車輪の音も、魔導車の低い駆動音も、店先で客を呼ぶ声も、遠くから響く鐘の音も、すべて消えていた。
あるのは、見渡す限りの草原。
青い空。
どこまでも続く地平線。
そして、その中央に立つ一人の男。
黒い髪を後ろへ撫でつけた、長身の男だった。
白いシャツ。黒いズボン。
この世界では見慣れない服装。
貴族でも、騎士でも、ウィッチ軍の関係者でもない。
それなのに、ただ立っているだけで周囲の空気を支配している。
男の視線は、アレンではなくナナティナへ向けられていた。
「久しぶりだな。ナナティナ」
その声は穏やかだった。
怒りも、焦りも、敵意もない。
けれど、アレンの背筋には冷たいものが走った。
この男は危険だ。
悪魔兵器を前にした時のような、分かりやすい恐怖ではない。
もっと静かで、深く、底が見えない。
まるで、自分たちの立っている場所そのものを、この男が握っているような感覚があった。
「……お前は」
ナナティナが低く呟く。
その声には、いつものからかうような余裕がなかった。
白い髪が風に揺れる。
彼女の瞳は、男を見つめたまま動かない。
アレンはナナティナの前に一歩出た。
「誰だ、お前は」
男は、そこでようやくアレンを見た。
その目に浮かんでいたのは、敵意ではない。
興味だった。
珍しい生き物を見つけた学者のような、静かな好奇心。
「私はレゾンデートル」
男はゆっくりと名乗った。
「精霊界の使徒だ」
「使徒……?」
アレンは眉をひそめる。
聞き慣れない言葉ではない。
四恵教会の古い話や、村の年寄りたちの昔話の中に、似たような響きはあった。
精霊神の使徒。
精霊界から世界へ現れ、精霊を導く存在。
だが、それは神話や伝承の中の話だ。
目の前にいる人間の姿をした男が、本当にそんな存在だとは、簡単には信じられなかった。
「精霊界の……使徒」
ナナティナが、その言葉を繰り返した。
その瞬間、彼女の表情がわずかに歪む。
記憶の底で、何かが動いたのだ。
白い空間。
光の結晶。
どこまでも澄んだ輝き。
その前に立つ男。
声。
何かを告げる声。
ナナティナ。
お前は――。
「……っ」
ナナティナは額を押さえた。
「ナナティナ?」
アレンが振り返る。
ナナティナは小さく首を振った。
「分からない。だが……私は、この男を知っている」
レゾンデートルは微笑んだ。
「当然だ。君の誕生には、私が深く関わっている」
「な、なに?」
アレンの声が低くなる。
「おい、それどういう意味だ」
「言葉通りだよ、アレン」
レゾンデートルは穏やかに言った。
「だが、今の君に全てを説明しても理解は難しいだろう。ナナティナ自身も、まだ何も思い出せていないようだ」
ナナティナはレゾンデートルを睨んだ。
「私は……お前と話していた気がする」
「そうだ」
「ここではない場所で」
「その通り」
「だが、思い出せない」
「それも想定内だ」
レゾンデートルは静かに頷いた。
「世界を越えた影響だ。君の存在は特別だからね。記憶の欠落が起こることは分かっていた」
「だったら、戻せるのか」
ナナティナの声がわずかに揺れた。
レゾンデートルは穏やかに答える。
「精霊界へ戻れば、いずれ思い出す」
風が止まったような気がした。
嫌な予感を覚える。
レゾンデートルは続ける。
「迎えに来た、ナナティナ。君は本来、ここにいるべき存在ではない」
「……」
「精霊界へ帰ろう。君の記憶も、君の使命も、すべてそこで取り戻せる」
ナナティナは黙っていた。
白い瞳がレゾンデートルを見つめる。
その奥で、迷いのようなものが揺れた。
自分は何者なのか。
どこから来たのか。
何のために存在するのか。
ナナティナにとって、それはずっと空白だった。
記憶喪失という言葉で片づけていた。
だが、その空白の向こうから現れた男が言う。
帰れば思い出せる、と。
自分を知ることができる、と。
ナナティナは一瞬だけ、目を伏せた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「断る」
短い言葉だった。
レゾンデートルの目がわずかに細くなる。
「理由を聞こう」
「私はアレンの精霊だ」
ナナティナは、迷いなく言った。
「だから、アレンのそばにいる」
アレンは思わず彼女を見た。
ナナティナの横顔は真剣だった。
いつものような気まぐれも、からかうような余裕もない。
ただ、そう決めている。
それだけの顔だった。
「ナナティナ……」
「私は、私の記憶が何であろうと、今はアレンの精霊だ」
レゾンデートルは黙ってナナティナを見つめた。
それから、ゆっくりとアレンへ視線を移す。
「なるほど」
その声には、わずかな驚きが混じっていた。
「男性が精霊と契約を結んだと聞いた時は、報告の間違いかと思ったが……実物を見ると興味深い」
「見世物じゃねぇぞ」
アレンは低く言う。
レゾンデートルは笑った。
「失礼。だが、本当に興味深いのだよ」
彼はナナティナを見る。
「なるほど……ナナティナなら可能か」
「何がだ」
「君とナナティナの契約だ」
レゾンデートルの視線が、アレンの奥を覗くように細くなる。
「人間の男性が精霊と契約する。通常なら成立しない。少なくとも、この世界の魔法体系ではね。だが、ナナティナは通常の精霊ではない。彼女が媒介となれば、確かに例外は起こり得る」
「勝手に分析してんじゃねぇよ」
「分析は大切だ。君もロゴスで学ぶことになる」
「今その話してねぇだろ!」
レゾンデートルは楽しそうに目を細めた。
「ふふ。君は思ったより面白い」
「こっちは全然面白くねぇぜ」
アレンは一歩前へ出た。
「ナナティナは帰らないって言った。聞こえただろ」
「ああ、聞こえた」
「なら帰れ」
「それはできない」
レゾンデートルの声が、少しだけ低くなる。
空気が変わった。
草原を撫でていた風が止まり、周囲の色がわずかに冷える。
「私にも事情がある。ナナティナは精霊界にとって重要な存在だ。本人が拒んだからといって、はいそうですかと諦めるわけにはいかない」
ナナティナがアレンの袖を掴む。
アレンはその手を一瞬だけ見てから、前を向いた。
「つまり、力ずくってか?」
「できれば穏便に済ませたい」
「穏便に誘拐する気か」
「言い方が悪いね」
「やってることが悪いんだよ!」
アレンは息を吸った。
胸の奥に、白い力の気配を探る。
ナナティナの存在が、すぐそばにある。
自分の外側にいる彼女。
けれど、契約を通して繋がっている精霊。
「ナナティナ」
「分かっている」
ナナティナの声が静かに返る。
「来い」
アレンは低く告げた。
「魔装」
白い光が草原に弾けた。
ナナティナの姿が溶けるように消え、アレンの内側へ入る。
白い魔導服が形成される。
泥に汚れるはずもない純白の生地。
風に翻る白いローブ。
髪は白く染まり、瞳には銀に近い輝きが宿る。
アレンは白い光を纏って立った。
レゾンデートルは、その姿を見て初めて、はっきりと表情を変えた。
「……ほう」
感嘆だった。
「魔装か」
「驚いたか?」
「驚いたとも。君は本当に、ナナティナと深く繋がっているのだな」
『アレン、油断するな』
胸の奥でナナティナの声が響く。
『あいつは危険だ』
「分かってる」
アレンは地面を蹴った。
白い光をまとい、一気に距離を詰める。
レゾンデートルは動かない。
アレンは拳に白い魔力を集め、そのまま男の顔面めがけて殴りかかった。
だが。
「直線的だ」
レゾンデートルの身体が、紙一枚の差で横へ流れた。
拳は空を切る。
「っ!」
「踏み込みは悪くない。だが、上体が先に動いている。視線も素直すぎる」
「先生かよ!」
アレンは即座に振り返り、今度は蹴りを放つ。
しかし、レゾンデートルはそれも軽く避ける。
「蹴りはさらに雑だ。慣れていないね」
「うるせぇ!」
「魔装の身体能力に振り回されている。力を得たばかりの人間にありがちなことだ」
「本当に先生みたいに言うな!」
アレンは白い光弾を放つ。
小さく圧縮したそれは、イギー村でグリムリを倒した時よりもさらに速い。
だが、レゾンデートルは軽く首を傾けるだけでそれを避けた。
白い光弾は草原の向こうへ飛び、地面を軽く抉って消える。
「悪くない。威力を抑える判断もできている」
「褒められても嬉しくねぇ!」
『アレン、数で攻めろ』
「分かってる!」
アレンは両手を広げた。
白い光が揺らぐ。
自分自身を思い描く。
走る自分。
殴る自分。
敵の注意を引く自分。
「出ろ、分身!」
アレンの左右に、白い光を纏った分身が二体生まれた。
さらにもう一体。
三体の分身が草原を駆ける。
本体を含め、四方向からレゾンデートルを囲む。
「今度はこれだ!」
アレンと分身たちが同時に攻撃を仕掛けた。
拳。
蹴り。
光弾。
白い軌跡が草原の上で交差する。
レゾンデートルは、その中心で静かに動いた。
一歩。
半身。
手首の動き。
肩をわずかに引く。
大きな動きはない。
だが、すべての攻撃が届かない。
「ほう……その力をそのように使うか」
レゾンデートルは楽しげに呟いた。
「本来の術式とは違うが、発想は悪くない。自分の代わりに畑仕事をさせるよりは、よほど戦闘的だ」
「何でそれ知ってんだよ!?」
「報告書に書いてあった」
「プライバシーって知ってるか!?」
「精霊界の使徒には、あまり縁のない概念だ」
「最悪だな使徒!」
「手本を見せよう」
レゾンデートルが、ゆっくりと手を上げた。
その瞬間、アレンの背筋が冷えた。
『アレン、防げ!』
ナナティナの声が響く。
レゾンデートルの指先に、白い光が灯った。
それは、とても小さな光だった。
詠唱もない。
ただ、白い光が一点に集まる。
次の瞬間。
光線が放たれた。
「っ!」
アレンは咄嗟に横へ跳んだ。
白い光線が、彼のすぐ横を通り抜ける。
音はほとんどなかった。
だが、草原の地面が一直線に裂けた。
アレンの分身の一体が、その光に触れた瞬間、霧のように消える。
「……今の」
アレンは息を呑む。
見覚えがあった。
自分がウォーカー型を撃ち抜いた時の光。
山の頂上を削り飛ばした、あの白い光。
それとよく似ている。
だが、違う。
アレンの光が荒々しい濁流なら、レゾンデートルの光は細く澄んだ刃だった。
無駄がない。
揺らぎがない。
必要なところだけを、正確に貫く。
『アレン』
ナナティナの声が、わずかに震えていた。
『あいつは……私と同じ力を使っている』
「同じ力?」
『……正確にはそれに近い。だが、もっと古い。もっと直接的だ』
アレンはレゾンデートルを見た。
「お前、ウィッチなのか?」
その問いに、レゾンデートルは少しだけ笑った。
「私は男だよ」
「俺も男だよ!」
「そうだったね」
「そうじゃなくて!」
アレンは歯を食いしばる。
今の攻撃は魔法に見えた。
だが、何かが違う。
シェリーのように短杖を使っていない。
精霊の気配もない。
魔力の動きも感じられない。
アレンがこれまで見てきたウィッチの魔法とは、明らかに別物だった。
レゾンデートルは静かに言う。
「これは精霊界側の力だ。君たち人間が『魔法』と呼ぶものとは、少し構造が違う」
「本当に使徒ってわけかよ」
「最初にそう言っただろう」
「名乗れば信じるほど素直じゃねぇんだよ!」
アレンは再び動いた。
だが、戦況は悪くなる一方だった。
分身は次々と撃ち抜かれる。
光弾は避けられる。
接近しても届かない。
レゾンデートルは余裕を崩さない。
それどころか、アレンの動きを見ながら、時折小さく頷いている。
「魔力の出力は高い。ナナティナが媒介になっているため、供給も安定している。だが、制御が粗い」
「だーかーらー先生かよ!」
「盾の発現は面白い。君の本質に合っている。だが、攻撃への転用が遅い」
「好き勝手言いやがって!」
「事実だからね」
アレンは大きく息を吐いた。
このままでは届かない。
光線を撃てば避けられる。
分身は見切られる。
盾では攻められない。
なら。
アレンは自分の両手を見た。
キャベット町で子供を守った時、白い盾が生まれた。
守りたいという思いが、形になった。
なら、その白い金属を。
盾ではなく。
腕に。
拳に。
纏えないか。
『アレン?』
「やってみる」
『何を』
「思いつきだ!」
アレンは両腕へ意識を集中した。
白い盾を思い出す。
硬く。
清らかで。
絶対に壊れない、純白の金属。
それを、腕へ。
拳へ。
殴るためではなく。
守るために。
それでも、目の前の相手を止めるために。
白い光がアレンの両腕に集まった。
形が歪む。
金属が生まれる。
だが、それは美しい装甲ではなかった。
不格好だった。
歪で、厚みもばらばらで、腕にまとわりつくような白い金属。
それでも、確かに力が宿っている。
アレンの両腕に、白い魔力を帯びた金属が纏わりついた。
「……できた」
レゾンデートルの目が、わずかに見開かれる。
「ほう」
その一瞬。
感心したように、彼の注意がアレンの腕へ向いた。
アレンはその隙を逃さなかった。
地面を蹴る。
今までで一番速く。
白い光が草を裂く。
拳を引く。
全力で、レゾンデートルの胸へ叩き込む。
「これならどうだああああっ!」
だが。
拳は届かなかった。
レゾンデートルの片手が、アレンの拳を受け止めていた。
ただの片手。
何の装甲もない、白いシャツの袖から伸びた腕。
それが、アレンの全力を完全に止めていた。
「……っ!?」
アレンの腕が震える。
白い金属が軋む。
押し込めない。
びくともしない。
レゾンデートルは、アレンの不格好な白い腕を見つめていた。
「発想は良い」
静かな声だった。
「盾を腕へ纏う。守る力を攻撃へ転用する。君らしい、粗削りな応用だ」
「なら……!」
「実に惜しい」
レゾンデートルが、反対の腕をゆっくりと構えた。
「本家を見せよう」
その言葉と同時に、白い光が彼の腕に集まった。
アレンのものとは違う。
歪みがない。
無駄がない。
光が形を取り、純白の金属が滑らかに展開されていく。
腕を覆う美しいガントレット。
細部まで緻密に形づくられた装甲。
関節部はしなやかに動き、拳には圧倒的な魔力が宿っている。
それは、アレンの不格好な腕とは比べものにならない完成度だった。
レゾンデートルが静かに告げる。
「――《聖なる剛腕》」
次の瞬間、アレンの視界が白く弾けた。
衝撃。
音が消えた。
身体が宙を舞う。
胸に、腹に、全身に、あり得ないほどの衝撃が走る。
「がっ――」
アレンは草原を何度も転がった。
魔装が弾ける。
白い魔導服がほどけるように消え、髪の色が戻っていく。
胸の奥にいたナナティナの気配が外へ弾き出される。
ナナティナの身体が、少し離れた場所へ投げ出された。
「アレン!」
彼女はすぐに起き上がり、アレンの元へ駆け寄る。
アレンは地面に倒れていた。
体が動かない。
肺がうまく空気を吸えない。
口の中に鉄の味が広がる。
彼は咳き込み、血を吐いた。
「っ……げほっ……」
「アレン!」
ナナティナが膝をつき、アレンの肩に手を添える。
その顔から、血の気が引いていた。
「お前……血が……!」
「だ、大丈夫……とは言い切れねぇな、これ……」
アレンは無理に笑おうとした。
だが、痛みで顔が歪む。
レゾンデートルが近づいてくる。
足音は静かだった。
草を踏む音すら、ほとんどしない。
ナナティナは立ち上がり、アレンの前に立った。
白い髪が風に揺れる。
その背中は小さい。
けれど、アレンを庇うようにまっすぐだった。
「来るな」
ナナティナの声は冷たかった。
草原に白い気配が満ちる。
怒り。
恐怖。
それ以上に、アレンを傷つけられたことへの拒絶。
ナナティナの奥で、何か巨大なものが目を覚ましかけていた。
レゾンデートルは、それを見て足を止めた。
そして、ふっと笑う。
両手を上げた。
「安心しろ、降参だ」
「……何?」
ナナティナが目を細める。
「方針を変えることにする」
レゾンデートルは穏やかに言った。
「ナナティナ。君を今すぐ連れ戻すのはやめておこう」
「どういうつもりだ」
「彼に興味が出た」
レゾンデートルの視線が、倒れているアレンへ向く。
「アレン。君は想定外だ。男性でありながらナナティナと契約し、『我々』に近い力を扱い、さらに術式を知らないまま本能で応用している」
「……褒めてんのか、それ」
アレンは苦しそうに言う。
「ああ、褒めているとも」
「殴った後に言うな……」
レゾンデートルは微笑んだ。
「君はナナティナの力を変える可能性がある。そして、ナナティナも君のそばにいることで、私の予想とは違う変化を見せている」
彼はナナティナを見る。
「感情が育っている。人間のようにね」
ナナティナは何も言わなかった。
ただ、アレンを庇うように立っている。
「それは良いことだ……だから預ける」
レゾンデートルは言った。
「しばらくの間、ナナティナを君に任せよう、アレン・レグロス」
「勝手に……人の精霊を貸し借りするなよ……」
「君がそう言えるなら、なおさら見てみたい」
レゾンデートルは静かに笑った。
「君たちがどこへ辿り着くのか。ナナティナが何を思い出し、何を選ぶのか。そして君が、その力をどう扱うのか」
草原の空が、少しだけ揺らいだ。
まるで、この場所そのものが薄くなっていくようだった。
レゾンデートルは最後にアレンへ視線を向ける。
「忠告しておこう」
その声から、笑みが消えた。
「君の力は、君だけのものではない。ナナティナの力であり、精霊界の力でもある。そして、悪魔にとっては極めて危険な光だ」
「……悪魔」
「この世界の悪魔はいずれナナティナに気づく。これは避けられないことだ」
レゾンデートルは続ける。
「強くなれ、アレン。今のままでは、ナナティナを守るどころか、彼女の力に呑まれる」
アレンは歯を食いしばった。
「……言われなくても」
「それから、ナナティナ」
レゾンデートルは彼女を見る。
「君が何を忘れていても、君の本質は変わらない。いずれ記憶は戻る。その時、君は選ばなければならない」
「何をだ」
「精霊界か。アレンか」
ナナティナの瞳が揺れた。
レゾンデートルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かに片手を上げる。
「では、また会おう」
次の瞬間、草原が白く溶けた。
β
「……レン」
声が聞こえた。
「アレン」
頬に、冷たい手が触れている。
アレンはゆっくりと目を開けた。
見えたのは、白い天井だった。
見慣れない豪華な天井。
王都の宿の部屋。
柔らかい寝台。
窓から差し込む夕方の光。
「……戻ってる」
アレンは呟いた。
身体を起こそうとして、思わず身構える。
だが、痛みはなかった。
さっきまで胸を潰されたような衝撃が残っていたはずなのに、今は嘘のように引いている。
口の中の血の味もない。
服も汚れていない。
まるで、草原での出来事そのものが夢だったかのようだった。
しかし。
ナナティナが隣にいた。
いつになく真剣な顔で、アレンを覗き込んでいる。
「痛くないか?」
「ああ……たぶん」
アレンは身体を動かしてみる。
腕も動く。
足も動く。
息もできる。
「何なんだよ、あいつ……殴るだけ殴って治して戻すとか、性格悪すぎだろ」
「レゾンデートル」
ナナティナはその名を呟いた。
「私は、あいつを知っている」
「思い出したのか?」
「少しだけ。だが、まだ遠い」
ナナティナは自分の胸元に手を当てた。
「精霊界。エーテルクリスタル。使徒。使命。言葉だけが浮かぶ。だが、繋がらない」
「……エーテルクリスタルなんだそれ?」
「わからない」
「そっか」
アレンは窓の外を見た。
王都ブロッサの街並みが夕日に染まっている。
あれほど遠く感じた草原は、もうどこにもない。
宿の部屋には、保冷箱も、通信機も、ふかふかの寝台もある。
戻ってきた。
しかも、おそらく誰にも気づかれていない。
アレンはふっと息を吐いた。
「……とりあえず、宿に戻してくれたことだけは感謝するか」
「おや、感謝するのか?」
「いや、やっぱしねぇ。あいつ、普通に俺をぶん殴ったし」
「あいつはアレンを傷つけた」
ナナティナの声が低くなる。
「次に会ったら、私が殴る」
「お前が言うと冗談に聞こえねぇな」
「残念ながら、冗談ではない」
「だ、だろうな」
アレンは寝台に仰向けになった。
そして、すぐに顔をしかめる。
「……いや、待て」
「どうした?」
「俺たち、無断外出したよな」
「したな」
「レゾンデートルに変な草原へ飛ばされたよな」
「飛ばされたな」
「戻ってきたよな」
「戻ってきた」
アレンは天井を見つめた。
「……これ、脱走バレてないんじゃね?」
ナナティナは少し考えた。
「そうかもしれないな」
「よし」
アレンは小さく拳を握った。
「不幸中の幸いだな。あいつ、そこだけは気が利くじゃねぇか」
「待てアレン」
「ん?」
「このこと、報告しなくていいのか?」
アレンの動きが止まった。
脳裏に、赤い軍服の王女の姿が浮かぶ。
エヴァリーナ・ウィ・ベータシィア。
鋭い眼差し。
低く重い声。
そして、あの言葉。
――貴様は隠した。
――虚偽の報告をした。
――その結果、後手を踏んだ。
「……」
アレンはゆっくりと起き上がった。
「……報告する」
「おお……意外だな」
「俺だって学習するんだよ」
アレンは頭をかいた。
「また隠して、後から大事になったら最悪だ。レゾンデートルが何者か分からねぇけど、少なくとも普通じゃない。ナナティナのことも知ってる。俺たちを王都から変な場所へ飛ばせる。しかも俺を一発でぶっ飛ばす」
「アレンは弱かったな」
「そ、そこは言い方を選べっての」
「事実だ」
「知ってる」
アレンは苦笑した。
悔しさはある。
思いきり殴られて、何もできずに負けた。
レゾンデートルは余裕だった。
アレンの魔装も、分身も、白い金属の腕も、すべて見透かされていた。
だが、それ以上に恐ろしいのは、あの男がナナティナを迎えに来たという事実だった。
精霊界。
使徒。
ナナティナの記憶。
今まで空白だったものが、少しずつ形を持ち始めている。
「ちゃんと報告する。脱走の件は……まあ、うまく言う」
「うまく?」
「散歩に出たら、謎の男に拉致された」
「まあ、間違ってはいないな」
「だろ?」
「だが、無断外出したのも事実だ」
「そこは……あーもういいや。正直に言う」
アレンは肩を落とした。
「怒られるなぁ」
「アレンは怒られるのに慣れている」
「慣れても嫌なもんは嫌なんだって」
ナナティナは少しだけアレンの袖を掴んだ。
「私も一緒に怒られる」
「そこは心強いな」
「元は私が原因だ……それに、私はアレンの精霊だからな」
アレンはナナティナを見た。
レゾンデートルの言葉が蘇る。
精霊界か。
アレンか。
いつかナナティナは選ばなければならない。
その時、自分はどうするのか。
何も分からない。
けれど、今は。
「ナナティナ」
「なんだ?」
「お前は、俺の精霊だよな」
ナナティナはきょとんとした。
そして、当然のように頷いた。
「今言ったではないか」
アレンは小さく笑った。
「なら、いい」
「どうした?」
「今はそれで十分ってこと」
ナナティナは少しだけ不思議そうに首を傾げた。
夕暮れの光が、部屋の中へ差し込んでいた。
王都ブロッサの空は、花の都らしく淡い茜色に染まっている。
その美しい景色の向こうで、アレンは知らない。
精霊界の使徒が、自分に興味を抱いたこと。
ナナティナの失われた記憶が、少しずつ目覚めようとしていること。
そして、自分の白い力が、この世界だけでなく、精霊界と悪魔の因縁にまで繋がっていることを。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
ロゴスへ行く前から、すでに平穏は遠ざかっている。
「……はあ」
アレンは深くため息を吐いた。
「入学前からこれかよ」
ナナティナは隣で淡々と言う。
「退屈しなくていいな」
「前向きすぎるわ」
それでも、アレンは立ち上がった。
報告しなければならない。
今度は、隠さずに。
面倒なことになるのは分かっている。
怒られるのも分かっている。
だが、それでも。
もう、知らなかったでは済まされない場所へ、自分は足を踏み入れている。
アレン・レグロスは、王都の夕暮れを背に、ナナティナと共に部屋を出た。
第1章まで読んでいただきありがとうございます‼︎
次章からようやくタイトル通りの学校編になります。
次からは週一か週二のペースでの投稿になりますので何とぞよろしくお願いします