平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する   作:ワタリ3@ぼちぼち浮上

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第1章これで完結です


エピローグ3 レゾンデートル

 

 草原に、風が吹いていた。

 

 王都ブロッサの喧騒は、どこにもない。

 石畳を走る車輪の音も、魔導車の低い駆動音も、店先で客を呼ぶ声も、遠くから響く鐘の音も、すべて消えていた。

 あるのは、見渡す限りの草原。

 

 青い空。

 

 どこまでも続く地平線。

 

 そして、その中央に立つ一人の男。

 

 黒い髪を後ろへ撫でつけた、長身の男だった。

 

 白いシャツ。黒いズボン。

 

 この世界では見慣れない服装。

 

 貴族でも、騎士でも、ウィッチ軍の関係者でもない。

 それなのに、ただ立っているだけで周囲の空気を支配している。

 

 男の視線は、アレンではなくナナティナへ向けられていた。

 

「久しぶりだな。ナナティナ」

 

 その声は穏やかだった。

 怒りも、焦りも、敵意もない。

 けれど、アレンの背筋には冷たいものが走った。

 

 この男は危険だ。

 

 悪魔兵器を前にした時のような、分かりやすい恐怖ではない。

 もっと静かで、深く、底が見えない。

 まるで、自分たちの立っている場所そのものを、この男が握っているような感覚があった。

 

「……お前は」

 

 ナナティナが低く呟く。

 その声には、いつものからかうような余裕がなかった。

 白い髪が風に揺れる。

 彼女の瞳は、男を見つめたまま動かない。

 

 アレンはナナティナの前に一歩出た。

 

「誰だ、お前は」

 

 男は、そこでようやくアレンを見た。

 その目に浮かんでいたのは、敵意ではない。

 

 興味だった。

 

 珍しい生き物を見つけた学者のような、静かな好奇心。

 

「私はレゾンデートル」

 

 男はゆっくりと名乗った。

 

「精霊界の使徒だ」

 

「使徒……?」

 

 アレンは眉をひそめる。

 聞き慣れない言葉ではない。

 四恵教会の古い話や、村の年寄りたちの昔話の中に、似たような響きはあった。

 

 精霊神の使徒。

 

 精霊界から世界へ現れ、精霊を導く存在。

 

 だが、それは神話や伝承の中の話だ。

 目の前にいる人間の姿をした男が、本当にそんな存在だとは、簡単には信じられなかった。

 

「精霊界の……使徒」

 

 ナナティナが、その言葉を繰り返した。

 その瞬間、彼女の表情がわずかに歪む。

 記憶の底で、何かが動いたのだ。

 

 白い空間。

 

 光の結晶。

 

 どこまでも澄んだ輝き。

 

 その前に立つ男。

 

 声。

 

 何かを告げる声。

 

 ナナティナ。

 

 お前は――。

 

「……っ」

 

 ナナティナは額を押さえた。

 

「ナナティナ?」

 

 アレンが振り返る。

 ナナティナは小さく首を振った。

 

「分からない。だが……私は、この男を知っている」

 

 レゾンデートルは微笑んだ。

 

「当然だ。君の誕生には、私が深く関わっている」

 

「な、なに?」

 

 アレンの声が低くなる。

 

「おい、それどういう意味だ」

 

「言葉通りだよ、アレン」

 

 レゾンデートルは穏やかに言った。

 

「だが、今の君に全てを説明しても理解は難しいだろう。ナナティナ自身も、まだ何も思い出せていないようだ」

 

 ナナティナはレゾンデートルを睨んだ。

 

「私は……お前と話していた気がする」

 

「そうだ」

 

「ここではない場所で」

 

「その通り」

 

「だが、思い出せない」

 

「それも想定内だ」

 

 レゾンデートルは静かに頷いた。

 

「世界を越えた影響だ。君の存在は特別だからね。記憶の欠落が起こることは分かっていた」

 

「だったら、戻せるのか」

 

 ナナティナの声がわずかに揺れた。

 レゾンデートルは穏やかに答える。

 

「精霊界へ戻れば、いずれ思い出す」

 

 風が止まったような気がした。

 嫌な予感を覚える。

 

 レゾンデートルは続ける。

 

「迎えに来た、ナナティナ。君は本来、ここにいるべき存在ではない」

 

「……」

 

「精霊界へ帰ろう。君の記憶も、君の使命も、すべてそこで取り戻せる」

 

 ナナティナは黙っていた。

 白い瞳がレゾンデートルを見つめる。

 その奥で、迷いのようなものが揺れた。

 

 自分は何者なのか。

 

 どこから来たのか。

 

 何のために存在するのか。

 

 ナナティナにとって、それはずっと空白だった。

 記憶喪失という言葉で片づけていた。

 だが、その空白の向こうから現れた男が言う。

 

 帰れば思い出せる、と。

 

 自分を知ることができる、と。

 ナナティナは一瞬だけ、目を伏せた。

 

 しかし、すぐに顔を上げる。

 

「断る」

 

 短い言葉だった。

 レゾンデートルの目がわずかに細くなる。

 

「理由を聞こう」

 

「私はアレンの精霊だ」

 

 ナナティナは、迷いなく言った。

 

「だから、アレンのそばにいる」

 

 アレンは思わず彼女を見た。

 ナナティナの横顔は真剣だった。

 いつものような気まぐれも、からかうような余裕もない。

 

 ただ、そう決めている。

 

 それだけの顔だった。

 

「ナナティナ……」

 

「私は、私の記憶が何であろうと、今はアレンの精霊だ」

 

 レゾンデートルは黙ってナナティナを見つめた。

 

 それから、ゆっくりとアレンへ視線を移す。

 

「なるほど」

 

 その声には、わずかな驚きが混じっていた。

 

「男性が精霊と契約を結んだと聞いた時は、報告の間違いかと思ったが……実物を見ると興味深い」

 

「見世物じゃねぇぞ」

 

 アレンは低く言う。

 

 レゾンデートルは笑った。

 

「失礼。だが、本当に興味深いのだよ」

 

 彼はナナティナを見る。

 

「なるほど……ナナティナなら可能か」

 

「何がだ」

 

「君とナナティナの契約だ」

 

 レゾンデートルの視線が、アレンの奥を覗くように細くなる。

 

「人間の男性が精霊と契約する。通常なら成立しない。少なくとも、この世界の魔法体系ではね。だが、ナナティナは通常の精霊ではない。彼女が媒介となれば、確かに例外は起こり得る」

 

「勝手に分析してんじゃねぇよ」

 

「分析は大切だ。君もロゴスで学ぶことになる」

 

「今その話してねぇだろ!」

 

 レゾンデートルは楽しそうに目を細めた。

 

「ふふ。君は思ったより面白い」

 

「こっちは全然面白くねぇぜ」

 

 アレンは一歩前へ出た。

 

「ナナティナは帰らないって言った。聞こえただろ」

 

「ああ、聞こえた」

 

「なら帰れ」

 

「それはできない」

 

 レゾンデートルの声が、少しだけ低くなる。

 

 空気が変わった。

 

 草原を撫でていた風が止まり、周囲の色がわずかに冷える。

 

「私にも事情がある。ナナティナは精霊界にとって重要な存在だ。本人が拒んだからといって、はいそうですかと諦めるわけにはいかない」

 

 ナナティナがアレンの袖を掴む。

 

 アレンはその手を一瞬だけ見てから、前を向いた。

 

「つまり、力ずくってか?」

 

「できれば穏便に済ませたい」

 

「穏便に誘拐する気か」

 

「言い方が悪いね」

 

「やってることが悪いんだよ!」

 

 アレンは息を吸った。

 胸の奥に、白い力の気配を探る。

 ナナティナの存在が、すぐそばにある。

 自分の外側にいる彼女。

 けれど、契約を通して繋がっている精霊。

 

「ナナティナ」

 

「分かっている」

 

 ナナティナの声が静かに返る。

 

「来い」

 

 アレンは低く告げた。

 

「魔装」

 

 白い光が草原に弾けた。

 ナナティナの姿が溶けるように消え、アレンの内側へ入る。

 白い魔導服が形成される。

 

 泥に汚れるはずもない純白の生地。

 

 風に翻る白いローブ。

 

 髪は白く染まり、瞳には銀に近い輝きが宿る。

 

 アレンは白い光を纏って立った。

 レゾンデートルは、その姿を見て初めて、はっきりと表情を変えた。

 

「……ほう」

 

 感嘆だった。

 

「魔装か」

 

「驚いたか?」

 

「驚いたとも。君は本当に、ナナティナと深く繋がっているのだな」

 

『アレン、油断するな』

 

 胸の奥でナナティナの声が響く。

 

『あいつは危険だ』

 

「分かってる」

 

 アレンは地面を蹴った。

 白い光をまとい、一気に距離を詰める。

 レゾンデートルは動かない。

 アレンは拳に白い魔力を集め、そのまま男の顔面めがけて殴りかかった。

 

 だが。

 

「直線的だ」

 

 レゾンデートルの身体が、紙一枚の差で横へ流れた。

 拳は空を切る。

 

「っ!」

 

「踏み込みは悪くない。だが、上体が先に動いている。視線も素直すぎる」

 

「先生かよ!」

 

 アレンは即座に振り返り、今度は蹴りを放つ。

 しかし、レゾンデートルはそれも軽く避ける。

 

「蹴りはさらに雑だ。慣れていないね」

 

「うるせぇ!」

 

「魔装の身体能力に振り回されている。力を得たばかりの人間にありがちなことだ」

 

「本当に先生みたいに言うな!」

 

 アレンは白い光弾を放つ。

 小さく圧縮したそれは、イギー村でグリムリを倒した時よりもさらに速い。

 

 だが、レゾンデートルは軽く首を傾けるだけでそれを避けた。

 

 白い光弾は草原の向こうへ飛び、地面を軽く抉って消える。

 

「悪くない。威力を抑える判断もできている」

 

「褒められても嬉しくねぇ!」

 

『アレン、数で攻めろ』

 

「分かってる!」

 

 アレンは両手を広げた。

 白い光が揺らぐ。

 自分自身を思い描く。

 

 走る自分。

 

 殴る自分。

 

 敵の注意を引く自分。

 

「出ろ、分身!」

 

 アレンの左右に、白い光を纏った分身が二体生まれた。

 

 さらにもう一体。

 

 三体の分身が草原を駆ける。

 本体を含め、四方向からレゾンデートルを囲む。

 

「今度はこれだ!」

 

 アレンと分身たちが同時に攻撃を仕掛けた。

 

 拳。

 

 蹴り。

 

 光弾。

 

 白い軌跡が草原の上で交差する。

 レゾンデートルは、その中心で静かに動いた。

 

 一歩。

 

 半身。

 

 手首の動き。

 

 肩をわずかに引く。

 大きな動きはない。

 だが、すべての攻撃が届かない。

 

「ほう……その力をそのように使うか」

 

 レゾンデートルは楽しげに呟いた。

 

「本来の術式とは違うが、発想は悪くない。自分の代わりに畑仕事をさせるよりは、よほど戦闘的だ」

 

「何でそれ知ってんだよ!?」

 

「報告書に書いてあった」

 

「プライバシーって知ってるか!?」

 

「精霊界の使徒には、あまり縁のない概念だ」

 

「最悪だな使徒!」

 

「手本を見せよう」

 

 レゾンデートルが、ゆっくりと手を上げた。

 

 その瞬間、アレンの背筋が冷えた。

 

『アレン、防げ!』

 

 ナナティナの声が響く。

 

 レゾンデートルの指先に、白い光が灯った。

 

 それは、とても小さな光だった。

 

 詠唱もない。

 

 ただ、白い光が一点に集まる。

 

 次の瞬間。

 

 光線が放たれた。

 

「っ!」

 

 アレンは咄嗟に横へ跳んだ。

 

 白い光線が、彼のすぐ横を通り抜ける。

 

 音はほとんどなかった。

 

 だが、草原の地面が一直線に裂けた。

 

 アレンの分身の一体が、その光に触れた瞬間、霧のように消える。

 

「……今の」

 

 アレンは息を呑む。

 

 見覚えがあった。

 

 自分がウォーカー型を撃ち抜いた時の光。

 

 山の頂上を削り飛ばした、あの白い光。

 

 それとよく似ている。

 

 だが、違う。

 

 アレンの光が荒々しい濁流なら、レゾンデートルの光は細く澄んだ刃だった。

 

 無駄がない。

 

 揺らぎがない。

 

 必要なところだけを、正確に貫く。

 

『アレン』

 

 ナナティナの声が、わずかに震えていた。

 

『あいつは……私と同じ力を使っている』

 

「同じ力?」

 

『……正確にはそれに近い。だが、もっと古い。もっと直接的だ』

 

 アレンはレゾンデートルを見た。

 

「お前、ウィッチなのか?」

 

 その問いに、レゾンデートルは少しだけ笑った。

 

「私は男だよ」

 

「俺も男だよ!」

 

「そうだったね」

 

「そうじゃなくて!」

 

 アレンは歯を食いしばる。

 今の攻撃は魔法に見えた。

 だが、何かが違う。

 

 シェリーのように短杖を使っていない。

 

 精霊の気配もない。

 

 魔力の動きも感じられない。

 

 アレンがこれまで見てきたウィッチの魔法とは、明らかに別物だった。

 レゾンデートルは静かに言う。

 

「これは精霊界側の力だ。君たち人間が『魔法』と呼ぶものとは、少し構造が違う」

 

「本当に使徒ってわけかよ」

 

「最初にそう言っただろう」

 

「名乗れば信じるほど素直じゃねぇんだよ!」

 

 アレンは再び動いた。

 だが、戦況は悪くなる一方だった。

 分身は次々と撃ち抜かれる。

 光弾は避けられる。

 接近しても届かない。

 レゾンデートルは余裕を崩さない。

 それどころか、アレンの動きを見ながら、時折小さく頷いている。

 

「魔力の出力は高い。ナナティナが媒介になっているため、供給も安定している。だが、制御が粗い」

 

「だーかーらー先生かよ!」

 

「盾の発現は面白い。君の本質に合っている。だが、攻撃への転用が遅い」

 

「好き勝手言いやがって!」

 

「事実だからね」

 

 アレンは大きく息を吐いた。

 このままでは届かない。

 光線を撃てば避けられる。

 分身は見切られる。

 盾では攻められない。

 

 なら。

 

 アレンは自分の両手を見た。

 キャベット町で子供を守った時、白い盾が生まれた。

 守りたいという思いが、形になった。

 なら、その白い金属を。

 盾ではなく。

 

 腕に。

 

 拳に。

 

 纏えないか。

 

『アレン?』

 

「やってみる」

 

『何を』

 

「思いつきだ!」

 

 アレンは両腕へ意識を集中した。

 

 白い盾を思い出す。

 

 硬く。

 

 清らかで。

 

 絶対に壊れない、純白の金属。

 

 それを、腕へ。

 

 拳へ。

 

 殴るためではなく。

 

 守るために。

 

 それでも、目の前の相手を止めるために。

 

 白い光がアレンの両腕に集まった。

 形が歪む。

 金属が生まれる。

 だが、それは美しい装甲ではなかった。

 

 不格好だった。

 

 歪で、厚みもばらばらで、腕にまとわりつくような白い金属。

 それでも、確かに力が宿っている。

 アレンの両腕に、白い魔力を帯びた金属が纏わりついた。

 

「……できた」

 

 レゾンデートルの目が、わずかに見開かれる。

 

「ほう」

 

 その一瞬。

 

 感心したように、彼の注意がアレンの腕へ向いた。

 

 アレンはその隙を逃さなかった。

 

 地面を蹴る。

 

 今までで一番速く。

 白い光が草を裂く。

 拳を引く。

 全力で、レゾンデートルの胸へ叩き込む。

 

「これならどうだああああっ!」

 

 だが。

 

 拳は届かなかった。

 

 レゾンデートルの片手が、アレンの拳を受け止めていた。

 ただの片手。

 何の装甲もない、白いシャツの袖から伸びた腕。

 それが、アレンの全力を完全に止めていた。

 

「……っ!?」

 

 アレンの腕が震える。

 白い金属が軋む。

 押し込めない。

 びくともしない。

 レゾンデートルは、アレンの不格好な白い腕を見つめていた。

 

「発想は良い」

 

 静かな声だった。

 

「盾を腕へ纏う。守る力を攻撃へ転用する。君らしい、粗削りな応用だ」

 

「なら……!」

 

「実に惜しい」

 

 レゾンデートルが、反対の腕をゆっくりと構えた。

 

「本家を見せよう」

 

 その言葉と同時に、白い光が彼の腕に集まった。

 アレンのものとは違う。

 

 歪みがない。

 

 無駄がない。

 

 光が形を取り、純白の金属が滑らかに展開されていく。

 

 腕を覆う美しいガントレット。

 

 細部まで緻密に形づくられた装甲。

 関節部はしなやかに動き、拳には圧倒的な魔力が宿っている。

 それは、アレンの不格好な腕とは比べものにならない完成度だった。

 

 レゾンデートルが静かに告げる。

 

「――《聖なる剛腕》」

 

 次の瞬間、アレンの視界が白く弾けた。

 

 衝撃。

 

 音が消えた。

 

 身体が宙を舞う。

 

 胸に、腹に、全身に、あり得ないほどの衝撃が走る。

 

「がっ――」

 

 アレンは草原を何度も転がった。

 魔装が弾ける。

 白い魔導服がほどけるように消え、髪の色が戻っていく。

 胸の奥にいたナナティナの気配が外へ弾き出される。

 ナナティナの身体が、少し離れた場所へ投げ出された。

 

「アレン!」

 

 彼女はすぐに起き上がり、アレンの元へ駆け寄る。

 アレンは地面に倒れていた。

 体が動かない。

 肺がうまく空気を吸えない。

 口の中に鉄の味が広がる。

 

 彼は咳き込み、血を吐いた。

 

「っ……げほっ……」

 

「アレン!」

 

 ナナティナが膝をつき、アレンの肩に手を添える。

 

 その顔から、血の気が引いていた。

 

「お前……血が……!」

 

「だ、大丈夫……とは言い切れねぇな、これ……」

 

 アレンは無理に笑おうとした。

 だが、痛みで顔が歪む。

 レゾンデートルが近づいてくる。

 足音は静かだった。

 草を踏む音すら、ほとんどしない。

 

 ナナティナは立ち上がり、アレンの前に立った。

 

 白い髪が風に揺れる。

 その背中は小さい。

 けれど、アレンを庇うようにまっすぐだった。

 

「来るな」

 

 ナナティナの声は冷たかった。

 草原に白い気配が満ちる。

 

 怒り。

 

 恐怖。

 

 それ以上に、アレンを傷つけられたことへの拒絶。

 ナナティナの奥で、何か巨大なものが目を覚ましかけていた。

 

 レゾンデートルは、それを見て足を止めた。

 

 そして、ふっと笑う。

 

 両手を上げた。

 

「安心しろ、降参だ」

 

「……何?」

 

 ナナティナが目を細める。

 

「方針を変えることにする」

 

 レゾンデートルは穏やかに言った。

 

「ナナティナ。君を今すぐ連れ戻すのはやめておこう」

 

「どういうつもりだ」

 

「彼に興味が出た」

 

 レゾンデートルの視線が、倒れているアレンへ向く。

 

「アレン。君は想定外だ。男性でありながらナナティナと契約し、『我々』に近い力を扱い、さらに術式を知らないまま本能で応用している」

 

「……褒めてんのか、それ」

 

 アレンは苦しそうに言う。

 

「ああ、褒めているとも」

 

「殴った後に言うな……」

 

 レゾンデートルは微笑んだ。

 

「君はナナティナの力を変える可能性がある。そして、ナナティナも君のそばにいることで、私の予想とは違う変化を見せている」

 

 彼はナナティナを見る。

 

「感情が育っている。人間のようにね」

 

 ナナティナは何も言わなかった。

 

 ただ、アレンを庇うように立っている。

 

「それは良いことだ……だから預ける」

 

 レゾンデートルは言った。

 

「しばらくの間、ナナティナを君に任せよう、アレン・レグロス」

 

「勝手に……人の精霊を貸し借りするなよ……」

 

「君がそう言えるなら、なおさら見てみたい」

 

 レゾンデートルは静かに笑った。

 

「君たちがどこへ辿り着くのか。ナナティナが何を思い出し、何を選ぶのか。そして君が、その力をどう扱うのか」

 

 草原の空が、少しだけ揺らいだ。

 まるで、この場所そのものが薄くなっていくようだった。

 レゾンデートルは最後にアレンへ視線を向ける。

 

「忠告しておこう」

 

 その声から、笑みが消えた。

 

「君の力は、君だけのものではない。ナナティナの力であり、精霊界の力でもある。そして、悪魔にとっては極めて危険な光だ」

 

「……悪魔」

 

「この世界の悪魔はいずれナナティナに気づく。これは避けられないことだ」

 

 レゾンデートルは続ける。

 

「強くなれ、アレン。今のままでは、ナナティナを守るどころか、彼女の力に呑まれる」

 

 アレンは歯を食いしばった。

 

「……言われなくても」

 

「それから、ナナティナ」

 

 レゾンデートルは彼女を見る。

 

「君が何を忘れていても、君の本質は変わらない。いずれ記憶は戻る。その時、君は選ばなければならない」

 

「何をだ」

 

「精霊界か。アレンか」

 

 ナナティナの瞳が揺れた。

 レゾンデートルはそれ以上何も言わなかった。

 ただ、静かに片手を上げる。

 

「では、また会おう」

 

 次の瞬間、草原が白く溶けた。

 

     β

 

「……レン」

 

 声が聞こえた。

 

「アレン」

 

 頬に、冷たい手が触れている。

 アレンはゆっくりと目を開けた。

 見えたのは、白い天井だった。

 見慣れない豪華な天井。

 

 王都の宿の部屋。

 

 柔らかい寝台。

 

 窓から差し込む夕方の光。

 

「……戻ってる」

 

 アレンは呟いた。

 身体を起こそうとして、思わず身構える。

 だが、痛みはなかった。

 さっきまで胸を潰されたような衝撃が残っていたはずなのに、今は嘘のように引いている。

 

 口の中の血の味もない。

 

 服も汚れていない。

 

 まるで、草原での出来事そのものが夢だったかのようだった。

 

 しかし。

 

 ナナティナが隣にいた。

 いつになく真剣な顔で、アレンを覗き込んでいる。

 

「痛くないか?」

 

「ああ……たぶん」

 

 アレンは身体を動かしてみる。

 腕も動く。

 足も動く。

 息もできる。

 

「何なんだよ、あいつ……殴るだけ殴って治して戻すとか、性格悪すぎだろ」

 

「レゾンデートル」

 

 ナナティナはその名を呟いた。

 

「私は、あいつを知っている」

 

「思い出したのか?」

 

「少しだけ。だが、まだ遠い」

 

 ナナティナは自分の胸元に手を当てた。

 

「精霊界。エーテルクリスタル。使徒。使命。言葉だけが浮かぶ。だが、繋がらない」

 

「……エーテルクリスタルなんだそれ?」

 

「わからない」

 

「そっか」

 

 アレンは窓の外を見た。

 王都ブロッサの街並みが夕日に染まっている。

 あれほど遠く感じた草原は、もうどこにもない。

 宿の部屋には、保冷箱も、通信機も、ふかふかの寝台もある。

 

 戻ってきた。

 

 しかも、おそらく誰にも気づかれていない。

 アレンはふっと息を吐いた。

 

「……とりあえず、宿に戻してくれたことだけは感謝するか」

 

「おや、感謝するのか?」

 

「いや、やっぱしねぇ。あいつ、普通に俺をぶん殴ったし」

 

「あいつはアレンを傷つけた」

 

 ナナティナの声が低くなる。

 

「次に会ったら、私が殴る」

 

「お前が言うと冗談に聞こえねぇな」

 

「残念ながら、冗談ではない」

 

「だ、だろうな」

 

 アレンは寝台に仰向けになった。

 そして、すぐに顔をしかめる。

 

「……いや、待て」

 

「どうした?」

 

「俺たち、無断外出したよな」

 

「したな」

 

「レゾンデートルに変な草原へ飛ばされたよな」

 

「飛ばされたな」

 

「戻ってきたよな」

 

「戻ってきた」

 

 アレンは天井を見つめた。

 

「……これ、脱走バレてないんじゃね?」

 

 ナナティナは少し考えた。

 

「そうかもしれないな」

 

「よし」

 

 アレンは小さく拳を握った。

 

「不幸中の幸いだな。あいつ、そこだけは気が利くじゃねぇか」

 

「待てアレン」

 

「ん?」

 

「このこと、報告しなくていいのか?」

 

 アレンの動きが止まった。

 脳裏に、赤い軍服の王女の姿が浮かぶ。

 

 エヴァリーナ・ウィ・ベータシィア。

 

 鋭い眼差し。

 

 低く重い声。

 

 そして、あの言葉。

 

 ――貴様は隠した。

 

 ――虚偽の報告をした。

 

 ――その結果、後手を踏んだ。

 

「……」

 

 アレンはゆっくりと起き上がった。

 

「……報告する」

 

「おお……意外だな」

 

「俺だって学習するんだよ」

 

 アレンは頭をかいた。

 

「また隠して、後から大事になったら最悪だ。レゾンデートルが何者か分からねぇけど、少なくとも普通じゃない。ナナティナのことも知ってる。俺たちを王都から変な場所へ飛ばせる。しかも俺を一発でぶっ飛ばす」

 

「アレンは弱かったな」

 

「そ、そこは言い方を選べっての」

 

「事実だ」

 

「知ってる」

 

 アレンは苦笑した。

 悔しさはある。

 思いきり殴られて、何もできずに負けた。

 レゾンデートルは余裕だった。

 アレンの魔装も、分身も、白い金属の腕も、すべて見透かされていた。

 だが、それ以上に恐ろしいのは、あの男がナナティナを迎えに来たという事実だった。

 

 精霊界。

 

 使徒。

 

 ナナティナの記憶。

 

 今まで空白だったものが、少しずつ形を持ち始めている。

 

「ちゃんと報告する。脱走の件は……まあ、うまく言う」

 

「うまく?」

 

「散歩に出たら、謎の男に拉致された」

 

「まあ、間違ってはいないな」

 

「だろ?」

 

「だが、無断外出したのも事実だ」

 

「そこは……あーもういいや。正直に言う」

 

 アレンは肩を落とした。

 

「怒られるなぁ」

 

「アレンは怒られるのに慣れている」

 

「慣れても嫌なもんは嫌なんだって」

 

 ナナティナは少しだけアレンの袖を掴んだ。

 

「私も一緒に怒られる」

 

「そこは心強いな」

 

「元は私が原因だ……それに、私はアレンの精霊だからな」

 

 アレンはナナティナを見た。

 レゾンデートルの言葉が蘇る。

 

 精霊界か。

 

 アレンか。

 

 いつかナナティナは選ばなければならない。

 その時、自分はどうするのか。

 何も分からない。

 

 けれど、今は。

 

「ナナティナ」

 

「なんだ?」

 

「お前は、俺の精霊だよな」

 

 ナナティナはきょとんとした。

 そして、当然のように頷いた。

 

「今言ったではないか」

 

 アレンは小さく笑った。

 

「なら、いい」

 

「どうした?」

 

「今はそれで十分ってこと」

 

 ナナティナは少しだけ不思議そうに首を傾げた。

 

 夕暮れの光が、部屋の中へ差し込んでいた。

 王都ブロッサの空は、花の都らしく淡い茜色に染まっている。

 その美しい景色の向こうで、アレンは知らない。

 精霊界の使徒が、自分に興味を抱いたこと。

 

 ナナティナの失われた記憶が、少しずつ目覚めようとしていること。

 

 そして、自分の白い力が、この世界だけでなく、精霊界と悪魔の因縁にまで繋がっていることを。

 

 ただ一つだけ、分かっていることがあった。

 ロゴスへ行く前から、すでに平穏は遠ざかっている。

 

「……はあ」

 

 アレンは深くため息を吐いた。

 

「入学前からこれかよ」

 

 ナナティナは隣で淡々と言う。

 

「退屈しなくていいな」

 

「前向きすぎるわ」

 

 それでも、アレンは立ち上がった。

 報告しなければならない。

 

 今度は、隠さずに。

 

 面倒なことになるのは分かっている。

 怒られるのも分かっている。

 だが、それでも。

 

 もう、知らなかったでは済まされない場所へ、自分は足を踏み入れている。

 アレン・レグロスは、王都の夕暮れを背に、ナナティナと共に部屋を出た。

 




第1章まで読んでいただきありがとうございます‼︎
次章からようやくタイトル通りの学校編になります。
次からは週一か週二のペースでの投稿になりますので何とぞよろしくお願いします
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