平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
羽風月の一日。入学日の朝
王都の宿の一室で、アレン・レグロスは鏡の前に立ち尽くしていた。
「……まさか、成人してから学校に行くことになるとはな」
ぼそりと呟く。
鏡の中には、見慣れない男が映っていた。
灰色を基調とした制服。
襟元はきっちりと詰まり、背中には短いマント、袖口には控えめな刺繍が施されていた。
ロゴスが、アレンのためだけに用意した男性用制服。
本来、ロゴスの制服は女子生徒用しか存在しない。
当然だ。魔法学校ロゴスは、ほぼ貴族令嬢のための学校である。
そこへ男が入学するなど、学校側にとっても前代未聞だったのだろう。
その結果、王宮とロゴスが相談し、急ごしらえで作ったのがこの制服だった。
立派だ。
あまりにも立派すぎる。
普段のアレンが着ている農作業着とは、布の質からして違う。肌触りは滑らかで、縫い目も細かく、ボタン一つまで妙に高そうだった。
だからこそ、アレンは顔をしかめた。
「に、似合わねぇ……」
鏡の中の自分が、完全に借り物の貴族みたいに見える。
いや、貴族には見えない。
貴族の服を無理やり着せられた農民に見える。
実際それに近しいが。
アレンはマントの端をつまみ、眉間にしわを寄せた。
「何だよ、この短い布。これいる? 寒さ対策にもならねぇぞ」
「飾りではないのか?」
後ろからナナティナが覗き込んできた。
白い髪に、白い硝子玉の髪飾り。
彼女は今日も平然としている。
精霊であるナナティナには、ロゴスの制服はない。
代わりに王宮が用意した白を基調としたドレスを着ていた。
素材が良いせいか、ただでさえ人間離れした白い娘が、ますます浮世離れして見える。
アレンは鏡越しに彼女を見た。
「どう思う?」
「立派に見える」
「似合うとは言わないのか」
「……」
「おい、黙るなよ!」
ナナティナは少し考えた。
「まぁ、服は立派だ」
「俺は?」
「アレンも、立派になろうとしているように見える」
「んーフォローが下手すぎる!」
「難しいな」
「あぁ難しいな……俺の存在も」
アレンは頭を抱えた。
ナナティナは近づき、制服の襟元をじっと見る。
「でも、悪くない」
「本当か?」
「うむ。いつもの土の匂いは少ないが、アレンだ」
「それ褒めてる?」
「私は褒めている」
「なら、ありがたく受け取っておきますことよ」
アレンはため息をついた。
今日から、ロゴスの生徒。
貴族令嬢だらけの魔法学校に、平民出身の男として入学する。
考えただけで胃が重くなる。
だが、もう逃げられない。
エヴァリーナに命じられた。
ガレンにも送り出された。
ナナティナもいる。
そして、アレン自身も分かっていた。
自分は学ばなければならない。
あの力を。
守るための戦い方を。
守りたいものを壊さないための方法を。
「よし、行くか」
アレンが言うと、ナナティナは当然のように腕に抱きついた。
「うむ」
「……学校でそれやるの?」
「駄目なのか?」
「駄目というか、目立つ」
「アレンはもう目立ってる」
「そうだけど!」
β
ロゴスへ向かうための石板ゲートと呼ばれるものは、王都の王宮管理区画にあった。
一般人が立ち入ることのできない区域で、周囲には王宮ウィッチと騎士が配置されている。
その巨大な石の門には魔法文字が刻まれ、発電機や魔導機械式の装置がいくつも連なっていた。
アレンはそれを見上げ、思わず呟いた。
「これが、ロゴス行きの石板ゲートというやつか。物々しいな……」
「文字通り石の扉だな」
ナナティナが言う。
「くぐると別の場所へ出るらしい」
「便利だな」
「便利だけど、なんか怖くね?」
案内役の王宮ウィッチが微笑んだ。
「ご安心ください。ロゴスへの転移は王宮管理の安定回線です。座標の秘匿もされておりますので、許可なく辿り着くことはできません」
「あ、安定回線……どゆこと?」
アレンには半分も分からなかった。
だが、とにかく安全らしい。
王宮ウィッチが機械のレバーを引くと、発電機が動き出し石板ゲートが淡く輝く。
刻まれた魔法文字が白く輝き、光が門のように開く。
「では、アレン・レグロス様。ナナティナ様。こちらへ」
「様って呼ばれるの、まだ慣れねぇ……」
「アレン様」
「お前まで真似するな」
ナナティナは少し楽しそうだった。
二人は石板ゲートへ足を踏み入れる。
視界が白く染まった。
一瞬、足元が消えるような感覚。
次の瞬間。
風が吹いた。
β
石板ゲートを抜けた瞬間、アレン・レグロスは足元を疑った。
「……は?」
目の前に広がっていたのは、地上ではなかった。
雲が近い。
風が強い。
空が広すぎる。
足元には、魔法文字が刻まれた石の床がある。
王都にあった専用石板ゲートから移動した先だ。
そこは、空に浮かぶ小さな島だった。
アレンは思わず一歩下がり振り向く。
背後には王都とはまた違った形の石板ゲートが建っていたが、既に王都へ繋がるゲートは閉じられてた。
代わりに見えるのは、青空と、遥か下に広がる雲だった。
「……いやいやいや」
アレンは乾いた笑みを浮かべた。
「聞いてない。これは聞いてないって!」
隣に立っていたナナティナは、白い髪を風に揺らしながら周囲を見回していた。
「おお、浮いているな」
「見れば分かる!」
「下に地面がないな」
「言語化しなくていい!精神に攻撃するな!」
「もしかして、アレンは高いところが『苦手』なのか?」
「苦手っていうか、これはもう命が危うい場所だろ!」
足元はしっかりしている。
石床も、島そのものも、揺れていない。
それでも、視界の端に空がある。
柵の向こうに雲がある。
それだけで、アレンの膝は少し笑っていた。
王都から一緒に来た案内役の王宮ウィッチが、少し困った顔をする。
「アレン殿。本島へは、あちらの石橋をお渡りください」
「い、石橋」
アレンは王宮ウィッチが指した先を見る。
小さな浮遊島から、さらに巨大な浮遊石へ向かって、長い石橋が伸びていた。
橋の先にあるのが、魔法学校ロゴスがある本島。
巨大な浮遊石を削って建てられた、城のような校舎だった。
白い外壁。
尖塔。
大きな窓。
空中庭園のように張り出した通路。
いくつもの小塔が本校舎を取り囲み、浮遊石がその周囲をゆっくり巡っている。
美しい。
壮大。
絶景。
まさに名門魔法学校と呼ぶにふさわしい威容。
だが、アレンの目はそこではなく、橋の下へ吸い寄せられていた。
橋の下には、何もない。
ただ空がある。
「……ナナティナ」
「なんだ」
「俺、ここで人生終わるかもしれん」
「まだ入学式も始まっていないぞ」
「入学前に退学したい」
「それはできるのか?」
「分からん。やってみる価値はある」
「逃げるな、とエヴァリーナに言われていただろう」
「王女様の言葉が空より重い……」
その時、橋の向こうから一人の女性が歩いてきた。
灰色の上品な教師服。
きっちりまとめた髪。
鋭い目。
背筋はまっすぐで、歩き方に無駄がない。
彼女はアレンたちの前で足を止め、淡々と一礼した。
「アレン・レグロスですね」
「あ、はい」
「ナナティナ様もご一緒ですね」
「そうだ」
「私はミリアナ・クーゼン。ロゴス教務主任、ならびに今年度の一年生担任を務めます」
ミリアナ・クーゼン。
元王国ウィッチ軍所属の教師。
その名は、王都の宿で説明を受けた時にも聞かされていた。
厳格。
規律重視。
問題行動には容赦なし。
アレンは会って数秒で理解した。
この人は、ガレンとは別方向に怖い。
「入学式の開始まで時間がありません。移動します」
「先生」
「何でしょう」
「ここ……、渡らないといけませんよね?」
「当然です」
「で、ですよねぇ……」
ミリアナはアレンの顔色を見て、眉をひそめた。
「高所が苦手なのですか」
「苦手というか、地面が好きです」
「落下防止の結界があります。通常の事故で落ちることはありません」
「通常じゃない事故の余地を残さないでほしいんですが」
「歩きなさい」
「はい」
ミリアナは容赦なく橋へ向かった。
アレンは一歩踏み出す。
その瞬間、風が吹いた。
雲が動く。
遥か下の空が見える。
アレンの足が止まった。
「……無理」
「アレン」
ナナティナが隣から覗き込む。
「顔が白いぞ」
「魔装すると白くなるけど、今は魂が白くなってる」
「よく分からない」
「俺も分からないな」
アレンは反射的にナナティナへしがみついた。
白髪の娘の肩に腕を回し、必死に橋の中央を見る。
ナナティナは少しだけ目を瞬かせた。
「おお、アレンが抱きついてきた」
「今だけだ! 生命維持の一環だ!」
「そうかそうか」
ナナティナはなぜか少し満足そうだった。
「では、私が運ぶか?」
「それは男として何か大事なものを失う!」
「既にしがみついているが」
「言うな!」
ミリアナが振り返った。
「レグロス。早くしなさい」
「はいぃ……」
アレンはナナティナに半分支えられながら、石橋を渡った。
風が吹くたびに肩が跳ねる。
下を見ない。
絶対に見ない。
見ると終わる。
ナナティナはそんなアレンを見ながら、淡々と歩く。
「アレン」
「何だ」
「ロゴスは面白そうだな」
「初手で命を削ってくる学校が面白いか?」
「高いところは新鮮だ」
「俺には恐怖だよ」
ようやく橋を渡りきった時、アレンは膝に手をついた。
「……勝った」
「橋にか?」
「自分にさ」
「まったく、大げさだな」
「お前には分からん戦いがあるんだよ」
ミリアナは冷静に言った。
「入学式の会場へ向かいます。遅れれば、さらに目立ちますよ」
「これ以上目立つの確定なんですか?」
「男性生徒はあなた一人です」
「もう帰りたい」
「歩きなさい」
「はい」
β
ロゴスの校舎は、外から見た以上に広かった。
高い天井。
白石の廊下。
壁に飾られた歴代の校長や著名なウィッチの肖像画。
窓の外には空と雲。
廊下の途中には、浮遊石を利用した小さな庭園まである。
アレンは歩きながら、口を開けそうになるのを何度も堪えた。
王都もすごかった。
だが、ロゴスはまた違う。
ここは王国の魔法教育の中心。
貴族令嬢たちが集い、魔法を学び、ウィッチとして育つ場所。
自分が来るはずのなかった場所だ。
その実感が、歩くたびに重くなっていく。
やがて、入学式の会場である大講堂へ着いた。
扉の前には、新入生らしき少女たちが何人も集まっている。
淡黄色の上等な制服。
ウィッチ見習いを表すマント。
整えられた髪。
付き添いの貴族家の者たち。
その空間へアレンが入った瞬間、空気が変わった。
「噂の男性の契約者?」
「本当に入学するの?」
「平民だと聞きました」
「へぇ……あれが」
「隣の白い方が精霊?」
「人型精霊なんて初めて見ましたわ……」
ひそひそ声が耳に刺さる。
貴族令嬢たち。
在校生らしき上級生。
入学式を見に来た親たち。
全員が、露骨にではないにせよ、アレンを見ていた。
珍しいものを見る目。
怪しいものを見る目。
値踏みする目。
アレンの胃がきゅっと縮む。
村に帰りたい。
心の底から思った。
イギー村なら、誰かがからかってくる。
祖父が怒鳴る。
子供たちが走ってくる。
ナナティナが変な質問をする。
ここには、その全部がない。
あるのは、知らない視線ばかりだった。
「アレン」
ナナティナが袖を掴む。
「顔がまた変だ」
「何度も言うけど俺、すごく村に帰りたい」
「もう帰れないぞ?」
「分かってるけどさぁ……」
ミリアナが足を止めた。
「ナナティナ様は、精霊の待機席へご案内します」
「待機席?」
ナナティナが眉を寄せる。
「入学式中、生徒の契約精霊は別室で待機します」
「私はアレンのそばにいる」
「式典中の規則です」
「嫌だ」
空気が一瞬固くなる。
ミリアナの目が鋭くなった。
だが、アレンは慌ててナナティナの肩に手を置いた。
「ナナティナ」
「嫌だ」
「すぐ終わるって。たぶん」
「アレン一人で大丈夫か?」
「大丈夫だよ。入学式で死にはしないだろ」
「橋で死にそうだった」
「それは忘れてくれ」
ナナティナは不満そうだった。
だが、最終的には頷いた。
「何かあれば呼べ」
「どうやって?」
「強く呼べ」
「シンプルだな」
そう言って、ナナティナは案内役の教師についていった。
白い髪が会場の奥へ消える。
その瞬間、アレンは急に心細くなった。
一人。
完全に一人だ。
「レグロス、席へ」
ミリアナに促され、アレンは大講堂へ入った。
自分の席には、名前札が置かれていた。
アレン・レグロス。
その文字を見て、少しだけ胸が熱くなる。
同時に、周囲の視線がさらに強くなった。
隣に座る令嬢が、ちらりとこちらを見る。
前の席の少女が、友人らしき相手と小声で話す。
後ろからも視線を感じる。
アレンは背筋を伸ばした。
変に縮こまれば、余計に見られる気がした。
堂々としていろ。
そう自分に言い聞かせる。
だが、心の中ではずっと叫んでいた。
ナナティナ、早く帰ってこい。
β
入学式は、始業式も兼ねていた。
大講堂には新入生だけでなく、在校生も集まっている。
二年生、三年生、そして一部の四年生。
上級生たちの制服は同じ形でも、着こなしや雰囲気が違った。立ち姿や視線に、明らかな自信がある。
壇上には教師陣が並ぶ。
その中央に立ったのは、ミリアナ・クーゼンだった。
「これより、ロゴス魔法学校入学式ならびに始業式を行います」
硬く、よく通る声。
ざわめきが静まる。
ミリアナは書類を開いた。
「新入生の名前を読み上げます。呼ばれた者は返事をし、起立すること」
次々と名前が読み上げられていく。
貴族家の令嬢たちが返事をし、立ち上がる。
どの子も姿勢がよく、声が澄んでいる。
アレンは小さく息を吐いた。
場違い感がすごい。
やがて、ミリアナの声が少しだけ変わった。
「セレッサ・ウィ・ベータシィア」
「はい」
柔らかく、しかし芯のある声が響いた。
桃色の髪を持つ少女が立ち上がる。
第三王女セレッサ。
会場の空気が自然と引き締まった。
王族。
それも、第一王女エヴァリーナの妹。
セレッサは穏やかに微笑み、優雅に一礼する。
その姿は、まさに王女だった。
アレンは思わず見入った。
「あれが第三王女……」
シェリーとも違う。
エヴァリーナとも違う。
柔らかいが、弱くない。
そんな雰囲気があった。
ミリアナは続ける。
「ミーナ・ミュラー」
「はいっ」
少し緊張した声。
立ち上がったのは、茶色がかった髪の少女だった。
他の令嬢たちに比べると、表情に硬さがある。
だが、その目は真面目そうだった。
周囲が少しざわめく。
「平民出身の……」
「今年の首席でしょう?」
「入学前学力試験で一位だったとか」
アレンは目を丸くした。
平民。
今、確かにそう聞こえた。
貴族ではない。
それでもロゴスへ入学できる。
しかも首席。
「……平民でもウィッチになれるのか」
アレンは小さく呟いた。
自分が知っていた世界では、魔法を使うのはほとんど貴族女性だった。
平民出身のウィッチがまったくいないわけではないと聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
ミーナは周囲の視線に少し縮こまりながらも、しっかり前を向いていた。
「ゾーイ・レイナニーア」
「はい」
次に立った少女を見て、会場の空気がまた変わった。
銀色の髪を二つの輪っかにして結ばれた髪型。
月光のような瞳。
褐色肌と、どこか異国的な雰囲気。
隣国、月都レイナニーの王族。
制服も母国の文化を取り入れているのか、紺色を基調とした改造を施している。
ゾーイ・レイナニーア。
彼女はおおらかな笑みを浮かべ、周囲へ軽く手を振った。
貴族令嬢たちが少し戸惑う。
王族なのに、どこか自由だ。
アレンは思わず苦笑した。
「あの人、すげぇ自然体だな……」
そして。
ミリアナが、次の名を読み上げた。
「アレン・レグロス」
大講堂が静まり返った。
その静寂が、痛いほどだった。
アレンは立ち上がる。
「……はい」
声が少し掠れた。
次の瞬間、ざわめきが一気に広がった。
「本当に男性ですわ」
「魔装を発現したという噂は本当なの?」
「平民の男が精霊契約など前代未聞だ……」
「王宮が認めたのか?」
「そんな存在がロゴスに」
新入生。
在校生。
親貴族。
すべての視線がアレンへ集まる。
逃げたい。
本気で逃げたい。
橋より怖い。
アレンは奥歯を噛みしめた。
ここで俯けば負けだ。
誰に対しての勝ち負けなのかは分からない。
だが、レグロスの名を使わせてもらったのだ。
失くした故郷の名前を背負っている。
ここで小さくなるわけにはいかない。
アレンは無理やり前を向いた。
ミリアナが静かに告げる。
「静粛に」
その一言で、ざわめきは徐々に収まった。
名前の読み上げが終わる。
続いて、ミリアナが新入生と在校生へ向けて挨拶をした。
「ロゴスは、王国の未来を担うウィッチを育てる場です。魔法は誇りであると同時に責任です。
『清く、正しく、華麗に、逞しく』……それがウィッチとしての在り方です。ここで学ぶ者は、
身分や家名に甘えることなく、自らを律しなければなりません」
厳格な声だった。
だが、その言葉には重みがある。
アレンは、キャベット町での失敗を思い出した。
力だけでは守れない。
それを知ったからこそ、ここに来たのだ。
「今年度より、ロゴスには新しい学長が着任します」
ミリアナが壇上の端へ視線を向ける。
「レオノーラ・ノイル学長です」
空気が揺れた。
在校生たちの間に、明らかなざわめきが生まれる。
「ノイル……?」
「あの香水会社の?」
「混沌姫ですわ」
「伝説の決闘狂がロゴスの学長に……?」
アレンは首を傾げた。
『混沌姫』。
何だその二つ名。
壇上へ、一人の女性が歩いてきた。
長い黒髪。
黒いドレス。
優雅な足取り。
教師というより、舞台に現れた女優のような雰囲気。
彼女は壇上の中央に立つと、にこりと微笑んだ。
「皆さん、こんにちは。今日からロゴスの学長を務めることになったレオノーラ・ノイルです」
声は柔らかい。
だが、妙に通る。
「わたしのことを人気香水ブランドの社長として知っている子もいれば、昔の二つ名で知っている子もいるでしょうね。
ええ、混沌姫です。残念ながら本人です」
会場がざわつく。
ミリアナがわずかに眉を寄せた。
レオノーラは気にしない。
「ロゴスは伝統ある学校です。規律も大事。礼儀も大事。努力も大事。ですが――」
彼女はそこで、にっこり笑った。
「面白くない優等生だけでは、世界は守れません」
空気が止まる。
「想定外の敵。想定外の力。想定外の事件。そういうものは、いつも規則の外からやってきます。
だから皆さんには、正しさだけでなく、しなやかさも学んでもらいます」
アレンは思わず聞き入った。
この人は、ミリアナとまるで違う。
規則を重んじる教師ではない。
規則の外側まで見ている人間だ。
「新入生の皆さん。ようこそ、ロゴスへ。貴族も、平民も、王族も、留学生も、そして少し珍しい男の子も」
レオノーラの視線が、ちらりとアレンへ向いた。
アレンは肩を跳ねさせる。
「ここへ来た以上、あなたたちは皆、学ぶ者です。よく失敗し、よく考え、よく立ち上がりなさい。
失敗しない子より、失敗した後にどうするか分かる子の方が、わたしは好きです」
彼女は楽しそうに笑った。
「以上。長い挨拶は嫌いなので、これで終わります」
短い。
本当に終わった。
会場は一瞬呆気に取られ、すぐに拍手が広がった。
アレンはぽかんとしていた。
「……学長って、あんな感じでいいのか?」
答えてくれるナナティナはいない。
アレンは少しだけ心細くなりながら、壇上のレオノーラを見上げた。
彼女は、どこかこちらを面白がっているようにも見えた。
β
入学式が終わると、新入生たちはそれぞれ案内を受けて寮や教室へ向かうことになった。
ただし、アレンだけは少し事情が違う。
男子寮など、ロゴスには存在しない。
そもそも、男性生徒が入学する想定がなかった。
そのためアレンの部屋は、教師寮の一角に特別に用意されていた。
「教師寮かぁ……」
アレンは廊下を歩きながら、渡された地図を見る。
隣には、ようやく合流したナナティナがいる。
ナナティナは戻るなり、当然のようにアレンの袖を掴んだ。
「どうだった、精霊待機席」
「騒がしかった」
「精霊も騒ぐのか」
「小さいのが多かった。犬もいた。鳥もいた。私を見て、みんな驚いていた」
「だろうな」
「私はアレンのそばの方がいい」
「俺も一人はきつかった」
「ふふ、そうか」
ナナティナは少し満足そうだった。
アレンは地図を眺める。
「えーっと、教師寮は……この廊下を曲がって、階段を降りて、東棟へ……東ってどっちだ?」
「アレン」
「何だ」
「迷っているな?」
「ま、まだ迷ってない。迷う直前だ」
「それはもう迷っている」
その後、二人は見事に迷った。
同じような白い廊下。
似たような階段。
外へ出たと思ったら空中庭園。
戻ったと思ったら別の棟。
途中で出会った生徒に道を聞こうとしたが、アレンを見るなり相手が固まってしまい、妙な沈黙になったため、何も聞けなかった。
「……ロゴス、広すぎる」
「村なら迷わない」
「村と比べるのは無理がある、高低差が激しい」
「王都よりは静かだ」
「静かだけど視線が痛い」
アレンは地図を逆さにしたり戻したりした。
「いや、この地図、絶対おかしいだろ」
「地図のせいにするのはよくない」
「ナナティナまで先生みたいなこと言うな」
その時、背後から声がした。
「迷子の子猫ちゃんかしら?」
アレンは振り返った。
そこに立っていたのは、先ほど壇上で挨拶をした女性。
レオノーラ・ノイルだった。
「学長……?」
「ええ。本人です」
レオノーラは微笑んだ。
「教師寮へ行きたいのでしょう?」
「分かるんですか」
「新入生がこの廊下で地図を逆さにしていたら、大体迷子よ」
「これ逆さだったんかい!」
「ええ、分からなかったの?」
ナナティナが、すっとアレンの前に半歩出た。
レオノーラをじっと見る。
警戒している。
アレンは小声で言った。
「ナナティナ?」
「この女、強い」
レオノーラの目が楽しそうに細くなる。
「あら。分かるの?」
「分かる」
「いい感覚。さすが精霊って所かしら」
「そうだ」
「アレン君の精霊」
「そうだ」
ナナティナはアレンの腕に抱きついた。
「アレンは渡さない」
「え?」
アレンは間の抜けた声を出した。
レオノーラは一瞬きょとんとし、それから楽しそうに笑った。
「あらあら。そういう警戒?」
「そういう警戒だ」
「な、ナナティナさん、学長相手に何言ってんの?」
「この女は危険だ」
「実力的に?」
「それもある。だが、雰囲気が危険だ」
「雰囲気」
レオノーラは口元に指を当てた。
「ふふ。嫌われてしまったかしら」
「嫌いではない」
ナナティナは真顔で言う。
「だが、油断ならない」
「それは光栄ね」
アレンは頭を抱えた。
「すみません、レオノーラ先生。ナナティナ、たまにこういうこと言うんです」
「構わないわ。精霊に警戒されるのは慣れているもの」
「慣れることなんですか、それ」
「昔はいろいろあったのよ」
レオノーラは軽く手招きした。
「案内してあげる。ついてきなさい」
β
レオノーラの案内は、驚くほど分かりやすかった。
曲がる場所。
階段。
目印になる像。
窓から見える塔。
彼女はそれらを軽く説明しながら進む。
歩き方は優雅なのに、どこか自由だった。
教師というより、ロゴスを自分の庭のように歩いている。
「アレン君」
「はい」
「今日は大変だったでしょう」
「……まあ、かなり」
「視線が痛かった?」
「痛かったです」
「でしょうね」
レオノーラは振り返らずに言った。
「わたしも、昔はよく見られたわ」
「先生も?」
「ええ。平民出身だったから」
アレンは目を瞬かせた。
「平民だったんですか?」
「そうよ。今は爵位を持っているけれど、ロゴスに入った時は何もなかった。家名も、後ろ盾も、上品な振る舞いもね」
「意外です」
「今は貴族に見える?」
「ええ、見えます」
「ありがとう。努力と金と香水の成果ね」
「最後のが妙に生々しいな」
レオノーラはくすくす笑った。
「当時は大変だったわ。平民風情が、身の程知らずが、って何度も言われた。だから決闘で黙らせたの」
「黙らせ方が力技すぎる」
「あなたも力技は嫌いじゃないでしょう?」
「まぁ否定できないのが悔しいです」
「でもね」
レオノーラは足を止め、アレンを見た。
「見られることには、そのうち慣れるわ。陰口にもね。大事なのは、あなたが何を学びに来たかを忘れないこと」
アレンは黙った。
レオノーラの声は軽い。
だが、その言葉は妙に胸に残った。
「あなたは珍しい。とても珍しい。だから騒がれる。怖がられる。試される。利用しようとする人も出るでしょう」
「……」
「でも、それだけで終わるかどうかは、あなた次第よ。平民だとか、男だとか、前例がないとか。そういう札を、相手に貼られっぱなしにしないこと」
「札?」
「ええ。人はすぐ他人に札を貼るの。貴族。平民。王族。男。女。問題児。天才。異常。便利でしょう? 考えなくて済むから」
レオノーラは微笑む。
「でも、あなた自身がどういう人間かは、あなたの行動でしか示せない」
アレンは拳を握った。
「……俺は、まだ何も示せてない気がします」
「なら、これから示せばいい」
レオノーラはあっさりと言った。
「入学初日から完璧な子なんて、面白くないもの」
「面白いかどうかが基準なんですね」
「ええ、もちろん」
ナナティナがレオノーラをじっと見る。
「お前は、アレンをからかっているのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「応援しているわ」
ナナティナは少し考えた。
「なら、少しだけ認める」
「ありがとう、アレン君の精霊さん」
「だが、油断はしない」
「ふふ。恋敵として?」
ナナティナの目が細くなった。
「む……やはり危険だこの女」
「な、ナナティナ、本当にやめような?」
レオノーラは楽しそうに笑った。
「あなたたち、面白いわね。エヴァが気にかけるわけだわ」
「エヴァ?」
「第一王女殿下のことよ」
「愛称で呼ぶんですか!?」
「昔からの友人だから」
「じょ、情報量が多い……」
アレンは頭を押さえた。
第一王女を愛称で呼ぶ学長。
平民出身で貴族令嬢を決闘で黙らせた過去。
香水会社の社長。
そして今はロゴスの校長。
この人も、この学校も、普通ではない。
やがて、教師寮の一角へ着いた。
他の寮とは少し離れた静かな区画。
窓からは空中庭園と、遠くの雲が見える。
扉の前には、小さな札がかかっていた。
アレン・レグロス。
「ここがあなたの部屋よ」
レオノーラが言った。
「本来は若い教師用の部屋だけれど、男子生徒用の寮が存在しないから、特例ね」
「すみません、いろいろ面倒かけて」
「いいのよ。学校なんて、面倒ごとがあってこそ動くものだから」
「そういうものですか」
「そういうものにしていくの」
レオノーラはにこりと笑った。
「明日から授業が始まるわ。今日は荷物をほどいて、休みなさい。迷子になったら、近くの教師か上級生に聞くこと」
「俺が聞いたら、相手が固まるんですが」
「まぁ、それも経験かしらね」
「厳しい」
「頑張りなさい、アレン・レグロス君」
レオノーラは軽く手を振った。
「ようこそ、ロゴスへ」
そう言って、彼女は廊下の向こうへ去っていった。
ナナティナはその背中をじっと見送る。
「強い女だった」
「そうだな」
「油断ならない」
「お前だけだよ」
「だが、悪い女ではなさそうだ」
「そこは分かるのか?」
「分かる」
ナナティナはアレンの袖を掴んだまま言った。
「アレンを見る目が、少し優しかった」
「……そっか」
アレンは扉の札を見る。
アレン・レグロス。
ロゴスの生徒としての自分の名。
村の農民だったアレンではなく。
ただのイギー村のアレンでもなく。
レグロス村の名を背負った、新しい自分。
不安はある。
視線も怖い。
橋も怖い。
貴族令嬢だらけの学校生活など、想像するだけで胃が痛い。
けれど、少しだけ。
本当に少しだけ。
ここでなら、何かを学べるのかもしれないと思った。
アレンは深く息を吸い、扉を開けた。
「よし」
「何がよしなのだ?」
「とりあえず、初日で退学にはならなかった」
「目標が低いな」
「最初は低いところからでいいんだよ。少しずつ上げていけばいいのさ」
ナナティナは部屋へ入り、早速2つある寝台の1つを押した。
「柔らかい」
「またそれか」
「王都の宿よりは硬い」
「比較対象が豪華すぎる」
アレンは荷物を下ろし、窓の外を見た。
雲の上にある学校。
ロゴス。
ここから、新しい日々が始まる。
男でありながら魔装を使う異端の生徒として。
ナナティナという規格外の精霊と共に。
そして、守りたいものを守る力を学ぶために。
アレン・レグロスのロゴスでの生活が、ようやく始まった。
いよいよ学校編です。