平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
白翼月の二十二。
ベータシィア王国の南西にある小さな農村、イギー村は、朝から麦の匂いに包まれていた。
春の名残を含んだ風が、黄金色に色づき始めた麦畑を撫でていく。
穂はまだ完全には垂れていない。
だが、もう少しすれば収穫の時期。
農家にとっては忙しい季節である。
畑の手入れ。
水路の確認。
害獣除けの柵の補修。
倉庫の整理。
収穫に備えた道具の点検。
やることはいくらでもあった。
朝から村中が動いている。
男たちは鍬を担ぎ、女たちは道具を整え、子供たちは邪魔にならないように端へ追いやられながらも、何か手伝えることはないかと走り回っていた。
そんな忙しい朝だからこそ、ガレンは麦畑の真ん中で孫に向かって怒鳴っていた。
「アレン! てめぇ、どこ行きやがった!」
麦畑のど真ん中で、白髪混じりの老人が鍬を握りしめている。
顔には深い皺。
背は年齢の割にまだしゃんとしており、腕も太い。
若い頃は相当な力自慢だったのだろうと、一目で分かる老人だった。
ガレンの視線の先には、畑仕事の道具が置きっぱなしになっていた。
鍬。
手袋。
水筒。
そして、昼飯用に持ってきた包み。
肝心の孫だけがいない。
「またか、あの馬鹿孫が……!」
ガレンの額に青筋が浮かぶ。
近くで作業していた村人たちが、慣れた様子で笑った。
「ガレン爺さん、アレンならさっき水路の方へ行ったぞ」
「いや、俺は村の広場に向かうのを見たな」
「違う違う。あいつ、領主様の方へ歩いていったぞ。にっししーって顔で」
「それだ!」
ガレンは鍬を地面に突き立てた。
「あの野郎、また領主様を丸め込みやがったな!」
その頃。
アレンは、実に爽やかな顔でサボっていた。
畑から少し離れた水路沿い。
木陰の下に腰を下ろし、口には草の茎をくわえている。
灰がかった金髪を雑に後ろで結び、少し吊り気味の目を半分だけ開けて、麦畑を眺めていた。
年齢は十七歳。
背は高く、農作業で鍛えられた体つきは同年代より一回り大きい。
日に焼けた肌。
動きやすい粗布の服。
使い込まれた革靴。
黙っていれば、粗野だが妙に目を引く青年だった。
――黙っていれば、である。
「いやぁ、白翼月の風ってのはいいねぇ。こう、働く気力を根こそぎ奪ってくれるっていうか」
「奪われてはいけませんわよ、農家の子でしょう?」
アレンの隣で、若い女性が呆れた声を出した。
シェリー・ナチュレ。
このイギー村一帯を治めるナチュレ家の貴族ウィッチである。
年齢は二十代半ば。
明るい栗色の髪を上品にまとめ、村道には少々不釣り合いな仕立てのいい外出着を着ている。
ただし足元は村歩き用の丈夫なブーツで、手には散歩用の革紐を握っていた。
その先にいるのは、大型犬のような生き物。
ラブラリー。
ふさふさした淡い緑の毛並み。
丸い黒目。
大きな垂れ耳。
毛並みの色を除けば人懐っこい大型犬そのものだが、ただの犬ではない。
シェリーと契約している、大型犬型の精霊である。
精霊とは、ウィッチの相棒となる存在。
契約したウィッチに寄り添い、魔法を支え、時には家族のように暮らす。
姿は個体によってさまざまで、ラブラリーのように動物に似た姿を取る精霊も多い。
もっとも、ラブラリー本人はそんな難しいことなど知らぬ顔で、今日も尻尾をぶんぶん振っていた。
「わふっ」
アレンはその頭をわしわしと撫でた。
「よーしよしよし。ラブラリーは分かってるなぁ。労働に疲れた若者には休息が必要だって」
「まだ働いておりませんよね?」
「いーや、心が疲れてるんですぅ。朝から爺ちゃんに『働け、馬鹿孫』ってゲンコツ喰らった俺の繊細な心がそりゃもう泣いているわけですよ」
「その程度で傷つく心なら、もう少し繊細に生きてくださいまし」
シェリーがため息をつく。
その後ろに控えていた初老の執事が、静かに眼鏡を押し上げた。
ケビン。
ナチュレ家に仕える執事であり、シェリーの幼い頃からの世話役である。
背筋はぴんと伸び、髪には白いものが混じっているが、所作に隙はない。
彼は淡々と告げた。
「お嬢様。そろそろお戻りになりませんと、午前の書類確認が遅れます」
「分かっていますわ、ケビン」
「それと、農作業を放棄している青年の相手をなさる時間も、本来の予定にはございません」
「わ、分かっていますわ」
「さらに申し上げますと、村で一番関わりの多い若い男性だからといって、必要以上に会話を引き延ばすのは、いささか見苦しいかと」
「ケ、ケビン?」
シェリーの笑顔が固まった。
アレンが口元を押さえて笑う。
「おやおやぁ? 村で一番関わりの多い若い男性って、あれれーもしかして俺っちのことかしらん?」
「黙りなさい、アレン」
「しかも必要以上に会話を引き延ばしてるって? いやぁ困るなぁ、シェリー様。俺みたいなド平民にそんな熱い視線を送られちゃあ」
「送っておりません!」
「でも俺、顔はいいからな」
「自分で言わないでくださいまし!」
シェリーの顔が赤くなる。
彼女は咳払いをして、慌てて視線をそらした。
「だ、だいたい、あなたは平民で、わたくしはこの地を預かるナチュレ家の当主ですのよ。立場というものがございますし、そもそもあなたのように畑仕事をサボる不真面目な殿方など、わたくしの好みとは――」
「お嬢様の好みは、背が高く、体格がよく、少々粗野だが根は優しく、目つきが悪く、笑うと妙に人懐っこい男性でしたな」
「ケビン!?」
「え、完全に俺じゃん」
「黙りなさいと言っています!」
アレンは腹を抱えて笑った。
ラブラリーも楽しそうに「わふわふ」と鳴く。
シェリーは真っ赤になりながら扇子を広げた。
「と、とにかく! わたくしはラブラリーの散歩と村の見回りをしていただけですわ! あなたを探していたわけではありません!」
「へぇ。じゃあなんで俺が畑を抜け出した瞬間、都合よくここに?」
「そ、それは……領主として村人の動向を把握する責務があるからですわ」
「俺ひとりの動向を?」
「あなたは問題児ですから!」
「領主様に特別扱いされちゃってるぅ」
「そういう意味ではありません!」
シェリーは肩で息をした。
ケビンが静かにハンカチを差し出す。
「お嬢様。心拍が上がっております」
「だ、誰のせいだと思っているのですか……!」
アレンは木にもたれたまま、にやにやしていた。
その態度が余計に腹立たしい。
だが、不思議と本気で嫌いにはなれない。
シェリー自身、それが困りものだった。
ナチュレ家の周囲では、同年代の貴族令嬢たちが次々と婚約し、結婚し、子を産み始めている。
会うたびに「シェリー様はまだ?」と悪気なく聞かれる。
最近では母からも、遠回しに見合いの話を振られる。
そんな中、村で最もよく顔を合わせる若い男がアレンだった。
口は悪い。
態度も悪い。
畑仕事はサボる。
貴族相手にも遠慮がない。
しかし、子供には優しい。
老人の荷物は黙って持つ。
魔物が出れば真っ先に武器を持って駆ける。
そして何より、背が高く、体格がよく、目つきが悪い。
シェリーの好みに、かなり刺さっていた。
だから困る。
非常に困る。
「……本当に、性格さえまともなら」
「ん? 何か言ったか、シェリー様?」
「何も言っておりませんわ!」
「えー、本当に?」
そう言って笑ったアレンが、ふと右肩を動かした。
――ほんの一瞬、表情が歪む。
すぐに笑みに戻したが、遅かった。
シェリーは領主である。
そして訓練されたウィッチでもある。
村人の顔色を見ることには慣れている。
怪我を隠す農夫も、熱を隠して働こうとする老人も、彼女は何度も見てきた。
アレンのごまかし方は、あまりにも分かりやすかった。
「アレン」
「ん?」
「あなた、右肩をかばっていますわね」
空気が止まった。
アレンは数秒だけ沈黙し、それから大げさに笑った。
「いやいやいや、何のことかしら? 私めの右肩は今日も元気いっぱい、白翼月の風に祝福されて――」
「ラブラリー」
「わふっ」
ラブラリーが素早く回り込み、アレンの右腕に鼻先を押し当てた。
「いっでぇ!?」
アレンが飛び上がる。
シェリーは目を細めた。
「ほら」
「裏切ったな、ラブラリー! 昨日ジャーキー分けてやっただろ!」
「わふ」
「それとこれとは別、みたいな顔すんな!」
ケビンが静かに口を開いた。
「昨夜、北の畑でグリムリが出たと聞いております」
「誰から聞いたんだよ」
「村の者全員から」
「なんてこったい、口軽いな、あいつら!」
「報告の義務でございます」
小鬼魔グリムリ。
畑を荒らし、家畜を盗み、時には納屋に忍び込んで食料まで漁る小人型の魔物である。
背丈は人間の子供ほど。
曲がった背中に、痩せた手足。
手には粗末な棍棒を持っている。
一体一体は大した魔物ではない。
だが、群れる。
ずる賢く、夜陰に紛れて食料や家畜を狙うため、農村にとっては非常に厄介な相手だった。
昨夜、北の畑に現れたグリムリは五体。
アレンはそれを、村に入る前に一人で片付けた。
そして、その際に右肩へ棍棒をもらっていた。
シェリーはしゃがみ込み、アレンの肩に手を伸ばす。
「見せなさい」
「やだ」
「なぜですの」
「ここで治ったら爺ちゃんに働かされるからだ」
即答だった。
シェリーは一瞬、本気で言葉を失った。
アレンは真剣な顔で続ける。
「聞いてくれシェリー様。俺は今、怪我人として正当な休息を要求している。これは人道問題だ」
「昨夜、黙ってグリムリを五体相手にした罰ですわ」
「罰!? 村を守ったのに」
シェリーは懐から魔道具、短杖《ワンド》を取り出し、それをアレンの肩にかざした。
淡い花色の魔力が集まる。
花、鳥、風、月。
この国ベータシィア王国で知られる四属性の一つ。
花属性。
その基本魔法である治癒だ。
傷口を塞ぐほどの大怪我ではない。
骨も折れていない。
だが、打撲の痛みと筋肉の強張りは残っていた。
すぐに治せる怪我だ。
アレンは慌てて身を引こうとする。
「待て待て待て! 本当に治す気か!?」
「当然ですわ」
「俺の休息権は!?」
「知りません」
「貴族の横暴!」
「領主の慈悲です。――治癒魔法《安らぎの草原》」
短杖の先から出る薄い緑色の光が、アレンの肩に触れた。
温かい魔力が染み込んでいく。
痛みが薄れ、強張っていた筋肉がほぐれ、肩の重さが消えていった。
アレンは苦い顔で肩を回す。
「おーう……マジ治っちまった」
「感謝してよろしいのですわよ」
「ありがとう。だが恨む」
「……まったくもう」
その時だった。
背後から、低い声がした。
――「治ったか」
アレンの顔が引きつった。
振り向くと、鍬を担いだ祖父のガレンが立っていた。
「げ」
「げ、じゃねぇ」
ガレンは鼻を鳴らす。
「領主様が治してくださると思ってな。少し待っていた」
「爺ちゃん……まさか俺を売ったのか!?」
「売ってねぇ。畑に戻すだけだ」
「それを世間では人身売買って言うんだよ!」
「言わん。行くぞ、馬鹿孫」
ガレンはアレンの襟首を掴んだ。
アレンは引きずられながら、必死にシェリーへ手を伸ばす。
「シェリー様ぁ! 俺を保護して! 領主の権限で!」
「しっかり働いてくださいまし」
「裏切り者ぉぉぉ!」
ラブラリーが楽しそうに吠えた。
ケビンは静かに頭を下げる。
「お嬢様、村の治安維持に貢献した労働力を畑へ返還できましたな」
「言い方」
シェリーは呆れながらも、少しだけ笑った。
アレンはサボり魔だ。
口は軽い。
態度も悪い。
畑仕事からはすぐ逃げる。
けれど昨夜、グリムリが村へ近づいた時、誰よりも早く槍を持って飛び出したのも彼だった。
だから村人たちは、彼に文句を言いながらも、どこかで信頼している。
ガレンが本気で見捨てないのも。
シェリーが怪我に気づいて治すのも。
ラブラリーが尻尾を振って懐くのも。
すべて、理由があった。
β
夕方まで、アレンは徹底的に働かされた。
午前中にサボった分も含めて、である。
水路の泥をさらい、壊れた柵を直し、麦畑の端を見回り、倉庫の荷運びまでやらされた。
白翼月の風は涼しいはずなのに、気づけば服は汗と土で汚れていた。
日が傾く頃には、アレンの魂は半分ほど畑に吸われていた。
「死ぬ……俺は今日、麦畑に殺される……」
「大袈裟だ」
ガレンは土を払いつつ言った。
「この程度でへばるなら、今夜の見回りは休め」
その一言で、アレンの顔つきが変わった。
先ほどまでのだらけた空気が、すっと消える。
「いや、行く」
短い返事だった。
ガレンは目を細める。
「昨日怪我したばかりだろうが」
「もう治った」
「領主様に治してもらっただけだろ」
「違う。俺の超自然治癒力だ。最近、覚醒した」
「馬鹿言ってねぇで帰るぞ」
ガレンは呆れたように言った。
けれど、それ以上は止めなかった。
止めても無駄だと知っていたからだ。
アレンがイギー村に来たのは、五年前のことだった。
故郷のレグロス村を失い、母方の祖父であるガレンに引き取られた。
最初の頃、アレンはよく夜中に目を覚ました。
火の匂いに怯えた。
大きな羽音に顔を強張らせた。
物音がすると、寝床から飛び起きて外へ出ようとした。
――やがて、彼は笑うようになった。
畑仕事をサボり、子供たちと遊び、領主の貴族をからかい、ガレンに拳骨を落とされるようになった。
だが、村の外に危険がある時だけは、今でも顔が変わる。
――もう二度と、村が燃えるのを見たくない。
アレンはそう口にしたことはない。
けれど、ガレンには分かっていた。
「無茶はするなよ」
ガレンが低く言う。
アレンは軽く笑った。
「へへ、俺がいつ無茶したよ」
「昨日」
「記憶力いいな、爺ちゃん。まだボケてないな」
「毎日お前に怒鳴ってりゃ鍛えられる」
「なるほど、俺のおかげだな」
「調子に乗るな」
拳骨が飛んできた。
アレンは笑いながら避けた。
β
夜。
イギー村の灯りは、麦畑の向こうに小さく浮かんでいた。
昼間は明るく広がっていた畑も、夜になるとまるで別のものに見える。
麦の穂は黒い波のように揺れ、風が吹くたびに、ざわざわと低い音を立てる。
その音は、慣れていなければ誰かの囁きにも聞こえるだろう。
アレンは槍を担ぎ、村の外れを歩いていた。
隣には、夜警仲間のミドがいる。
ミドはアレンより少し年上の農夫で、気のいい青年だった。
体格は悪くないが、魔物退治に関してはアレンほど慣れていない。
片手には警笛。
腰には短剣とカンテラ。
村の夜警としては、これでも十分な装備である。
「お前さぁ」
ミドが呆れたように言った。
「昨日怪我したんだろ。普通、今日は休むだろ」
「もう治ったって」
「領主様に治してもらったんだろ」
「違う。俺の超自然治癒力が――」
「それさっきも聞いた」
「ちっ、同じネタは二回までか」
ミドはため息をついた。
「だいたい、グリムリ五体を一人で相手にするなよ。笛吹けって決まりだろ」
「吹こうと思ったら向こうから来た」
「絶対嘘だな」
「にゃんだとー?」
「お前、村に入られる前に片付けようとしただけだろ」
アレンは答えなかった。
槍を肩に担いだまま、昨夜グリムリが出た畑の端を見る。
荒らされた麦は昼のうちに処理した。
飼料袋も戻した。
家畜小屋の鍵も増やした。
それでも、一度魔物が現れた場所は油断できない。
グリムリはずる賢い。
仲間が様子を見に戻ってくることもある。
食料の場所を覚えれば、次はもっと奥まで入り込もうとする。
アレンはそういうことを、村の夜警で学んでいた。
魔法は使えない。
ウィッチでもない。
だからこそ、見落とせない。
小さな違和感を見落とせば、誰かが怪我をする。
――最悪、死ぬ。
そういう場所に、自分が立っていることを知っている。
「……ん?」
ふと、アレンは足を止めた。
ミドもつられて止まる。
「どうした?」
「静かすぎるな」
「静か? 夜なんだから普通じゃねぇか」
「いや、違う」
アレンは村の方へ視線を向けた。
家畜小屋が並ぶ一角。
鶏小屋、山羊小屋、牛の小屋。
普段なら、夜でも何かしら音がする。
鶏が小さく鳴く。
山羊が身じろぎする。
牛が鼻を鳴らす。
生き物がいる場所には、生き物の音がある。
だが今は、妙に静かだった。
まるで小屋の中の家畜たちが、息を殺しているようだった。
「もしかして昨日のグリムリの仲間じゃないのか?」
ミドが小声で言う。
アレンは首を横に振った。
「グリムリ程度なら、家畜は騒ぐ。あいつら臭ぇし、足音もうるせぇ。鶏なんか真っ先に鳴く」
「じゃあ、何だよ」
「分からん」
アレンの声が低くなる。
「でも、グリムリより『嫌なやつ』かもな」
森の方から風が吹いた。
湿った土の匂い。
木の匂い。
その奥に、獣臭い何かが混じっている。
アレンは槍を握り直した。
体の奥に、冷たいものが落ちる。
この感覚を、彼は知っていた。
村の外に、よくないものがいる。
「ミド、お前は村側にいろ」
「は? お前一人で行く気かよ」
「違う。村側を見てろって話だ。もし森の外にもう一体いたら、家畜小屋を狙われる」
「でもよ」
「何かあったら笛を鳴らせ。聞こえたら戻る」
ミドはすぐには頷かなかった。
アレンが無茶をすることを知っていたからだ。
昨日もそうだった。
グリムリ五体を見つけて、笛も吹かずに突っ込んだ。
村に入られる前に止める。
アレンはいつも、それを優先する。
「……無茶すんなよ」
「俺がいつ無茶したよ」
「昨日」
口を叩きながらも、アレンの目は笑っていなかった。
ミドは渋々頷く。
「分かった。でも危なかったらすぐ戻れよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「へいへいほー」
「ふざけんな」
アレンは軽く手を振り、森へ向かった。
その背中を見送りながら、ミドは警笛を強く握った。
β
森に入ると、空気が変わった。
村の灯りは木々に遮られ、星明かりも枝葉に砕かれる。
昼間なら子供たちが木の実を拾いに来ることもある森だが、夜は違う。
足元の枝。
湿った落ち葉。
木々の隙間。
どこに何が潜んでいてもおかしくない。
アレンはカンテラの火を消し、足音を殺して進んだ。
槍の穂先を低く構える。
耳を澄ませる。
鳥の声がない。
虫の音も少ない。
森全体が、何かに怯えて黙り込んでいるようだった。
「……やっぱ、何かいるな」
小さく呟いた時。
――白い光が揺れた。
森の奥。
月明かりではない。
松明でもない。
魔導灯があるような場所でもない。
もっと澄んだ、不思議な光だった。
冷たいようで、温かい。
見たことがないのに、なぜか目を離せない。
その光だけが、夜の森の中で浮かび上がっていた。
アレンは息を殺し、茂みを分ける。
そして、見た。
三体の獣型魔物。
狼に似た姿をしているが、普通の狼ではない。
体は一回り大きく、背中の毛は黒い棘のように逆立っている。
口元からは鋭い牙が覗き、黄色く濁った目がぎらぎらと光っていた。
魔狼ファングル。
深い森に棲む狼系の魔物である。
グリムリとは比べものにならない。
一体でも、大人が数人がかりで追い払う相手だ。
それが三体。
家畜が静まり返っていた理由を、アレンはすぐに理解した。
あれは、騒いでいなかったのではない。
怯えすぎて、鳴けなかったのだ。
「冗談だろ……」
喉の奥で呟く。
ここで笛を吹けば、ミドが来る。
だが、農夫のミドでは一瞬で噛み殺されるかもしれない。
アレンは腰の警笛に伸ばしかけた手を止め、槍を強く握り直した。
ファングルたちは、何かを取り囲んでいた。
アレンはその中心を見る。
――白髪の娘がいた。
腰まで届く、真っ白な髪。
夜の森の中で、そこだけ切り抜かれたように浮かび上がる白い肌。
眠たげにも見える細い目。
年はアレンと同じくらいか、少し上にも見える。
彼女は地面に座り込み、自分の周囲に薄く白い光の膜を張っていた。
結界魔法、のように見えた。
ファングルが牙を立てようとするたび、その膜が淡く光って弾いている。
だが、光は不安定だった。
揺らぎ、薄れ、また戻る。
長くは持たない。
彼女は、奇妙なほど落ち着いていた。
怯えて泣くでもない。
助けを求めるでもない。
ただ、目の前の魔物を不思議そうに見ている。
「……なんだこいつらは?」
場違いなほど澄んだ声が、森に落ちた。
アレンは思わず顔をしかめる。
「何だって……魔物に決まってんだろ」
小声で突っ込んだ、その時だった。
一体のファングルが、結界の隙を狙って跳んだ。
牙が白い光へ迫る。
光の膜が激しく揺れた。
白髪の娘が、わずかに傾く。
アレンの体は、考えるより先に動いていた。
「ちっ!」
茂みを蹴る。
槍を構える。
ファングルの横面めがけて、石突きを叩き込む。
鈍い音がした。
不意を突かれたファングルが横へ吹き飛ぶ。
残り二体が一斉に振り向いた。
黄色い目が、アレンを捉える。
獣の殺意が、夜の森に満ちた。
足が震えそうになる。
逃げたいと思った。
当たり前だ。
ファングル三体など、村の若者が一人で相手にするものではない。
それでも、アレンは白髪の娘の前に立った。
村の外で危険を見つけたなら、村に入る前に止める。
誰かが襲われているなら、見捨てない。
それが愚かだと分かっていても、体がそう動く。
五年前から、ずっとそうだった。
「おい、そこの白いの!」
アレンは槍を構えたまま叫ぶ。
「何してんのか知らねぇが、死にたくなきゃ下がってろ!」
白髪の娘がゆっくりと顔を上げた。
純白の髪が、夜風に揺れる。
その瞳は、どこまでも静かだった。
「……お前は誰だ?」
「こっちの台詞だ!」
ファングルが低く唸る。
三体。
槍一本。
背後には、正体不明の白髪の娘。
状況としては、最悪だった。
アレンは冷や汗を流しながら、口元だけで笑う。
「昨夜はグリムリ五体。今夜はファングル三体かよ」
槍を握る手に力を込める。
心臓がうるさい。
肩は治った。
体も動く。
けれど、勝てるかどうかは別問題だった。
それでも、退けば彼女が死ぬ。
そう思った瞬間、選択肢は消えた。
「やるしかねぇ……ああ、やってやるさ!」
アレンは悪態をつきながら、槍の穂先をファングルへ向けた。
夜の森で、白髪の娘が小さく首を傾げる。
その横顔は、奇妙なほど静かだった。
まるで、今この瞬間から何かが始まることを、最初から知っていたかのように。