平民男子、最強精霊に懐かれ令嬢だらけの魔法学校に入学する   作:ワタリ3@ぼちぼち浮上

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第4話 成人の日の鐘

 

 渡風月の三日。

 

 イギー村の畑は、昼の熱をまだ少しだけ残していた。

 

 麦の刈り入れを終えた畑には短い株が並び、土の匂いを含んだ風が、夕暮れの村をゆっくりと撫でていく。

 

 空は茜色に染まり、遠くの森の影が少しずつ濃くなっていた。昼間は人の声と農具の音で騒がしかった畑も、今は一日の仕事を終えたように静まり返っている。

 

 アレン・レグロスは、肩に鍬を担ぎながら、あくびを噛み殺した。

 

「あー……腰が折れる。今日という今日は、俺の腰が労働に反乱を起こすぞ」

 

「アレンの腰は反乱するものなのか?」

 

 隣を歩いていたナナティナが、尋ねてきた。

 

 白い髪を背中に流した娘。

 

 夕暮れの光を受けたその髪は、麦畑の中で不思議なほど目立っている。村に来たばかりの頃は、何もかもを珍しそうに眺めていた彼女も、今ではアレンの隣を歩く姿がすっかり村の風景に馴染み始めていた。

 

 イギー村に来たばかりの頃は、水を飲むことすら不思議そうに眺めていた彼女だが、最近はだいぶ村の暮らしにも慣れてきている。

 

 村人と交流していくうちに常識もある程度身に付いてきた。

 

 少なくとも、鶏を見て「食べていいのか?」と尋ねなくなった。

 

「比喩だ、比喩。こう、働きすぎて体が文句言ってるって意味」

 

「なるほど。では、アレンの腰は実に怠け者なのだな」

 

「俺じゃなくて腰のせいにしてくれるあたり、優しさを感じるねぇナナティナさん」

 

「アレンは元から怠け者だ」

 

「言ってくれるぜ」

 

 ナナティナは、少しだけ得意げに目を細めた。

 

 からかわれている。

 

 最初は何も知らない記憶喪失の娘だと思っていたが、最近のナナティナは妙なところで知恵をつけてきた。

 

 とくに、アレンを困らせる言葉を覚えるのが早い。

 

 誰から覚えたのかは分からない。だが、アレンを見てから言葉を選んでいるあたり、ただ覚えているだけではなく、きちんと使いどころまで理解しているらしい。

 

 成長している。

 

 学習している。

 

 それは間違いない。

 

 問題は、その方向が少しばかり悪戯寄りであることだった。

 

「しかし、今日はよく働いていたな」

 

「あ?」

 

「麦の束を運んでいた。水も汲んでいた。ガレンに怒られる前に動いていた。これは良いことだ」

 

「……お前、褒めてんのか?」

 

「成長を褒めている」

 

 ナナティナは淡々と言った。

 

「アレンは偉い」

 

「っ……」

 

 真正面から言われて、アレンは思わず視線をそらした。

 

 からかわれるのには慣れている。

 

 悪口を言われるのにも、軽口を返すのにも慣れている。

 

 だが、こうして真っ直ぐ褒められると、どうにも反応に困る。

 

「なんだ。照れてるのか?」

 

「急に褒めるな。調子狂うだろが」

 

「『褒めると調子が狂う』か。やれやれ難しいな、人間は……それともアレンだけか?」

 

「ったく。お前もだいぶ人間っぽくなってきたな」

 

 アレンは苦笑し、ナナティナを見た。

 

 最初の頃の彼女は、何を見ても首を傾げていた。井戸も、鍋も、家畜も、畑仕事も、村人同士の挨拶も、まるで初めて世界を見る子供のように眺めていた。

 

 だが、今は違う。

 

 村人に挨拶を返せるようになった。食事の前に手を洗うことも覚えた。

 

 ガレンに叱られたら、ひとまず黙って聞くことも覚えた。

 

 そして何より――。

 

「お前、最初に比べたらかなりマシになったよな」

 

「マシとは?」

 

「村の暮らしにも馴染んできたし、変なものを勝手に食おうとしなくなったし、子供たちに変な知識を吹き込む回数も減った」

 

「む、褒めているのか?」

 

「褒めてる褒めてる。大成長だ」

 

「仕返しのつもりか?」

 

 ナナティナは頬を膨らませる。

 

 その表情も、以前にはなかったものだ。

 

 無表情で、眠たげで、何を考えているのか分からなかった白髪の娘は、少しずつ、村の中で表情を覚えている。

 

「記憶は戻ったのか?」

 

「どうだと思う?」

 

「だから泳がせるな」

 

「相変わらずだ。何にも覚えていない……まぁ別にいいだろ?」

 

「え?」

 

 アレンは足を止める。

 

「自分のことだぞ。気にならないのか?」

 

「ないものを気にしても仕方ない。今の私は、お前といるのが楽しいからな」

 

「相変わらず俺への好感度高いな、俺なにしたっけ?」

 

「私を助けた。お前も記憶喪失か……あいや、ただの鳥頭か」

 

「こんのやろう」

 

 アレンが呆れると、ナナティナは当然のように腕に抱きつく。

 

 相変わらず距離が近い。

 

 最初から近かったが、最近は遠慮を覚えるどころか、むしろ自然な動作として腕に

抱きついてくる。

 それがいつものことになってしまっている自分にも、アレンは少しだけ呆れていた。

 

「歩きにくいんだが」

 

「離れると迷うかもしれないからな」

 

「もう村の地形に慣れただろ? それに畑から家まで一本道だ」

 

「油断はよくないぞアレン」

 

「それ、俺がいつも爺ちゃんに言われてるやつ」

 

「ガレンが言うなら正しい言葉だな。覚えとけ」

 

「都合のいい時だけ爺ちゃんを味方につけるな」

 

 言いながらも、アレンは袖を振り払わなかった。

 

 あの夜、森でファングルに襲われていた正体不明の白髪の娘。

 彼女が何者なのかは、今も分からない。

 ナチュレ家のシェリーも周辺領や貴族家へ照会を出してくれたが、ナナティナという名の娘に心当たりがある家はなかった。

 

 記憶も戻らない。

 

 ただ、不思議な力を持っている。

 

 アレンに触れた時に白い光を放ち、ファングル三体を消し飛ばした力。

 

 しかし、村に保護してから今日まで、その力は一度も使われておらず、その正体も、はっきりしないままだ。

 それでも、ナナティナはイギー村に馴染み始めていた。

 村人たちは最初こそ遠巻きにしていたが、今では「アレンのところの白い娘」として受け入れている。

 子供たちはよく彼女に話しかけるし、年寄りたちは勝手に孫を見るような目を向ける。

 シェリーは少し複雑そうな顔をしていたが、定期的に様子を見に来ていた。

 

 何も起こらない日々。

 それは、ありがたいことだった。

 

 以前、隣のエリドール領で悪魔兵器が出たという報告が入った時、イギー村にも強い緊張が走った。

 

 ナチュレ家は見回りを増やし、村では夜警の人数も増やされた。村長は避難場所を確認し、ガレンも槍や古い防具を点検していた。

 

 けれど、それから数日が経った。

 

 国のウィッチ軍が鎮圧したという知らせも届いた。

 

 エリドール領を襲った悪魔兵器の大半は破壊され、ナチュレ領へ流れ込んだ個体も確認されていない。

 警戒は続いている。

 

 だが、人間というものは、いつまでも張り詰めたままではいられない。

 

 畑仕事はある。

 家畜の世話もある。

 食事も作らなければならない。

 そうして日々を過ごすうちに、村の緊張は少しずつ薄れていった。

 

 今日も、そういう日のはずだった。

 

「なあ、ナナティナ」

 

「なんだ?」

 

「今日が何の日か知ってるか?」

 

 アレンが何気なく尋ねると、ナナティナは少し考えた。

 

「渡風月の三日」

 

「お、正解。暦も覚えたか」

 

「ガレンが教えてくれた。間違えるとアレンが笑うから覚えろ、と」

 

「爺ちゃん、俺を何だと思ってんだ」

 

「怠け者」

 

 アレンは軽く肩をすくめた。

 

「んで、渡風月の三日ってのは、俺の誕生日だ」

 

「誕生日」

 

「そう。生まれた日。で、今日で十八歳。成人ってやつだな」

 

「人間は成人すると、何が変わる?」

 

「うーん……まあ、村じゃ一人前扱いされる。仕事も責任も増える。あと、酒も飲める」

 

「酒」

 

 ナナティナの目が少しだけ光った。

 

「食べ物か?」

 

「飲み物だ。お前はまだ駄目」

 

「なぜだ」

 

「記憶喪失の謎の娘にいきなり酒飲ませるほど、俺も爺ちゃんも命知らずじゃねぇんだわ」

 

「なんだ、つまらないな」

 

「つまらんで済むならいいけどな」

 

 ナナティナは不満そうに頬をわずかに膨らませた。

 

 その仕草が妙に子供っぽくて、アレンは笑った。

 

「今日はアレンが大人になった日ということだな」

 

「そうだ」

 

「なら、私も祝おう」

 

「お、何してくれるんだ?」

 

「そばにいてやる」

 

 ナナティナはアレンの腕にしがみつく。

 

「い、いや、いつも通りじゃねぇか」

 

「いつも通りが一番良い、ガレンもそう言っていたろ?」

 

「爺ちゃんの言葉、便利に使いすぎだろ……とりあえずいったん離れろ」

 

「む、小心者め」

 

「どこで覚えたその言葉」

 

 アレンはそっとナナティナを腕から剥がす。

 

「心臓に悪いって」

 

 そう言いながらも、アレンの口元は緩んでいた。

 

 成人。

 

 十八歳。

 

 言葉にすると、少しだけ胸の奥が重くなる。

 

 生まれ故郷のレグロス村が焼かれた日から、もう何年も経った。両親の顔を思い出すと、今でも胸が痛む。

 もし、レグロス村が今も残っていたら。

 両親が生きていたら。

 今日という日を、どんなふうに祝ってくれただろう。

 そんな考えが、ふと頭をよぎる。

 

 だが、すぐにナナティナが袖を引いた。

 

「アレン」

 

「あ?」

 

「腹が減った」

 

「……そこはぶれないな、さすがナナティナさん」

 

「私は成長したからな。腹が減った時は言葉で伝えるさ」

 

「えらいえらい」

 

「ふふ……もっと褒めろ、褒めたたえろ」

 

「あーらナナティナ様。本日は大変お利口でございますことよ」

 

「そのシェリーみたいな言い方、アレンには似合わないし気持ち悪い」

 

「難しいな、お前」

 

 そんな軽口を叩きながら、二人はガレンの家へ向かった。

 

       β

 

 家に帰ると、いつもと匂いが違った。

 

 扉を開けた瞬間、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 

 煮込んだ野菜の甘い匂い。

 

 焼きたてのパン。

 

 普段より明らかに手の込んだ料理の気配。

 

 アレンは目を丸くした。

 

「え……爺ちゃん?」

 

 居間では、ガレンが大皿を食卓に並べていた。

 

 分厚く切った肉。

 

 豆と根菜の煮込み。

 

 焼いた魚。

 

 蜂蜜を塗ったパン。

 

 小さな果物の菓子まである。

 

 農家の食卓としては、かなり豪華だった。

 

「遅かったな」

 

 ガレンはぶっきらぼうに言った。

 

「今日はもう畑に戻らんでいい。手を洗ってこい」

 

「いや、あの、爺ちゃん様やい……」

 

「何を突っ立ってる。飯が冷める」

 

 アレンは口を半開きにしたまま、食卓を見た。

 

 ガレンがこういうことをするのは珍しい。

 

 祝う時でも、普段ならもっと質素だ。

 

「……もしかして俺の成人祝い?」

 

「他に何があるだ馬鹿孫」

 

「いや、なんか……すげぇな」

 

「十八だ。成人の日くらい、少しはまともな飯を食わせる」

 

 ガレンはそっぽを向いた。

 

「……お前の母さんにも、そう言われとったからな」

 

 その言葉に、アレンは黙った。

 

 母の記憶は、もう少しずつ薄れている。

 

 声も、顔も、完全には思い出せない時がある。

 

 それでも、優しかったことだけは覚えている。

 

 誕生日になると、いつも少しだけ甘いものを作ってくれたことも。

 

「……そっか」

 

 アレンは頭をかいた。

 

「ありがとな、爺ちゃん」

 

「礼を言う前に手を洗え。泥だらけだ」

 

「はいはい」

 

「はいは一回だ」

 

「ほーい」

 

「アレン」

 

 ガレンの声が低くなる。

 

「……はい」

 

 ナナティナが横でじっと食卓を見つめていた。

 

「これは、全部食べていいのか?」

 

「全部は駄目だ。みんなで食うぞ」

 

「みんなで」

 

「そう。爺ちゃんと俺とお前で」

 

「……私もいいのか?」

 

「突然遠慮してどうした!? ……当たり前だろ。お前も家にいるんだから」

 

 ナナティナは少しだけ目を瞬かせた。

 

 そして、静かに頷いた。

 

「そうか。私はここにいるか」

 

「いるいる。……なんだよ珍しく空気読んで」

 

「遠慮なしに食べる」

 

「切り替え早い。さっさと手を洗うぞ」

 

 アレンが言うと、ナナティナは素直に桶の方へ向かった。

 

 その背中を見ながら、ガレンが小さく鼻を鳴らした。

 

「だいぶ人らしくなったな」

 

「そうだな、最近、言葉巧みにからかわれて辛いぜ」

 

「お前に似たかもな……だが、お前より物覚えがいい」

 

「成人祝いの日に孫を落とすなよ」

 

「事実だ」

 

「辛いぜ。まぁ認めるけどな」

 

 食卓につくと、ナナティナはいつもより大人しくしていた。

 

 最初の頃なら、見たことのない料理にすぐ手を伸ばしていたはずだ。だが今日は、アレンとガレンが食べ始めるのを待っている。

 

 アレンはそれに気づき、少し驚いた。

 

「ちゃんと待てるようになったんだな」

 

「馬鹿にするな。食べる前には、まず皆が揃うのを待つ。常識だぞ」

 

「最初の頃のお前に言ってやりたいよ」

 

 食事前の祈りをし、ナナティナは満足そうに肉を口に運んだ。

 

 そして、目を細める。

 

「これは美味い」

 

「だろ? 爺ちゃんの料理、見た目は荒いけど味はいいんだよ」

 

「見た目は余計だ」

 

 ナナティナは煮込みを食べ、パンを食べ、果物の菓子を食べた。

 

 そのたびに少しずつ表情が変わる。

 

 驚いた顔。

 

 考える顔。

 

 満足そうな顔。

 

 アレンはそれを見て、なんとなく笑ってしまった。

 

「な、何だ」

 

「いや。お前、飯食ってる時は分かりやすいな」

 

「美味いものは良い」

 

「そりゃそうだな」

 

「アレン」

 

「ん?」

 

「成人、おめでとう」

 

 何気ない声だった。

 

 けれど、その一言に、アレンは箸を止めた。

 

 眠たそうな眼は相変わらずだが、優しい笑みを浮かべ、アレンを見ている。

 

「……おう」

 

 アレンは照れくさそうに笑った。

 

「ありがとな」

 

「ふん、私は常識を身につけていると証明できたな」

 

「そこで自慢しなけりゃ完璧だった」

 

「なんだ完璧ではないのか?」

 

「惜しい」

 

「なら、次は完璧を目指そう」

 

「やってみせろよナナティナ」

 

 ガレンが静かに杯を置いた。

 

「十八か」

 

 低い声だった。

 

「お前も、大きくなった」

 

「急にどうしたんだよ」

 

「今日くらい言わせろ」

 

 アレンは口を閉じた。

 

 ガレンは深く皺の刻まれた手で、ゆっくりと杯を握る。

 

「レグロス村からお前を連れてきた時は、どうなるかと思った。泣きもせず、笑いもせず、ただ焼け跡の方ばかり見ていたからな」

 

「……んなもん、覚えてねぇよ」

 

「だろうな。覚えておらん方がいいこともある」

 

 ガレンは一口飲む。

 

 居間の空気が、少しだけ静かになった。

 

 ナナティナも食べる手を止めている。

 

 杯を置き、ガレンはアレンを見る。

 

「だが、お前は生きた。ここで育った。酷いサボり癖はある。口も悪い。調子にも乗る。だが、誰かを見捨てるような男にはならなかった」

 

「褒めてる途中でザクザク刺してくるの、爺ちゃんらしいわ」

 

「最後まで聞け」

 

「はい」

 

「成人だ。これからは、今までよりも多くの責任を背負うことになる。だが、全部を一人で背負うな。人を頼れ。守りたいものがあるなら、なおさらだ」

 

 ガレンの視線が、ほんの一瞬だけナナティナへ向いた。

 

「守るというのは、無茶をすることだけではない」

 

 アレンは、その言葉に返事ができなかった。

 

 無茶をするな。

 

 それは、何度も何度も言われてきた。

 

 けれど、いざ何かが起きた時、自分が本当に立ち止まれるのかは分からない。

 

 焼け落ちた故郷の記憶は、今も胸の奥に焼き印のように残っている。

 

 もう二度と、目の前で誰かを奪われたくない。

 

 それだけは、理屈ではどうにもならなかった。

 

「……分かってるよ」

 

 アレンは小さく言った。

 

「たぶんね」

 

「たぶんを付けるな」

 

「努力しますことよ」

 

「変な言葉で逃げるな」

 

 ガレンは呆れたように息を吐いた。

 それで、少しだけ空気が緩んだ。

 食事は穏やかに進んだ。

 ナナティナが酒を飲みたがり、ガレンに止められた。

 アレンが肉を多めに取ろうとして、ナナティナにじっと見られた。

 ガレンが珍しく昔の失敗談を話し、アレンが笑った。

 

 その時間は、ひどく穏やかだった。

 

 だからこそ。

 

 ナナティナだけが、時折、窓の外へ視線を向けていることに、アレンは途中で気づいた。

 

「ナナティナ?」

 

「……」

 

「どうした?」

 

 ナナティナはしばらく黙っていた。

 

 白い睫毛が、ランプの灯りを受けて影を落とす。

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「何かが、いる」

 

 アレンの背筋に、冷たいものが走った。

 

 ガレンも表情を変える。

 

「……魔物か?」

 

「違う……と思う」

 

 ナナティナは眉を寄せ、頭を抱える。

 珍しく、はっきりしない顔だった。

 

「嫌な感じだ。黒くて、濁っていて……けれど、空っぽではない」

 

「空っぽじゃない? どういう意味だ?」

 

「分からない。近いのか、遠いのかも分からない。ただ……」

 

 ナナティナは自分の胸元に手を当てた。

 

「すごく、ざわざわする」

 

 アレンとガレンは顔を見合わせた。

 

 エリドール領の悪魔兵器。

 

 その単語が、二人の間に無言で浮かんだ。

 だが、ここ数日は何もなかった。

 見回りも異常なし。

 ナチュレ家からも、新しい報告は来ていない。

 

「……念のため、明日の朝に村長へ話しておく」

 

 ガレンが言った。

 

「今夜は戸締まりをしっかりする。アレン、お前も外へ出るな」

 

「分かってる」

 

「本当か?」

 

「今日は成人祝いだぞ。さすがに騒ぎ起こしたりしねぇよ」

 

 アレンは軽く笑った。

 だが、ナナティナは笑わなかった。

 ただ、じっと窓の外を見ていた。

 

       β

 

 夜。

 イギー村は静まり返っていた。

 家々の灯りは落ち、畑の向こうには薄い月明かりが広がっている。

 風が麦を揺らし、遠くで夜鳥が鳴いた。

 それは、いつもと変わらない村の夜だった。

 だが、一度ナナティナの言葉を聞いてしまうと、その静けささえ不気味に思えた。

 アレンは寝台に腰掛け、靴紐をほどいていた。

 成人祝いだからといって、特別なことがあるわけではない。

 明日になればまた畑仕事だ。

 ガレンに叩き起こされ、麦の世話をし、ナナティナに変な質問をされる。

 

 そういう日常が続く。

 

 そのはずだった。

 

「アレン」

 

 部屋の入口から声がした。

 ナナティナが立っていた。

 

「どうした。眠れないのか?」

 

「落ち着かない」

 

「昼間のやつか?」

 

「ああ」

 

 ナナティナは部屋に入ってきた。

 そして、当然のようにアレンの寝台の端に腰を下ろす。

 今のナナティナは、シェリーが用意した薄い生地の寝巻を着ている。

 

 普段よりも体の線が分かりやすく、ナナティナのメリハリのある体型にアレンは思わず視線をそらした。

 

「ああもう、近って」

 

「なんだ、今日は離れている方だ」

 

「どこ基準だよ」

 

「私基準」

 

「雑な基準だな」

 

 アレンはため息をつきながらも、追い出しはしなかった。

 ナナティナの横顔は、いつもより硬い。

 彼女自身も、何を感じているのか分からないのだろう。

 

「怖いのか?」

 

 アレンが尋ねると、ナナティナは少し考えた。

 

「怖いというより、『心配』だ」

 

「心配?」

 

「アレンが傷つく心配だ」

 

 アレンは一瞬、息を詰まらせる。

 

「なぜそう思ったか知らねえけど……俺はそう簡単に傷つかねぇよ」

 

「嘘だ。ファングルに噛まれた」

 

「あれは不意打ちだった」

 

「痛そうだった」

 

「確かに痛かったさ、でも治っただろ」

 

「それでもだ」

 

 ナナティナは、アレンの手を握った。

 

「アレン」

 

「な、何だよ」

 

「遠くへ行くなよ」

 

「俺がどこに行くんだって言うんだよ?」

 

「私の見えないところで、勝手に傷つくな」

 

「それは……難しい注文だな」

 

「守れ。自分を」

 

「命令かよ」

 

「お願いだ」

 

 アレンは黙った。

 

 お願い。

 ナナティナの口から、そんな言葉が出るのは珍しかった。

 いつもは偉そうに、当然のように、距離感を壊してくる娘だ。

 そんな彼女が、今は不安そうに自分の手を握っている。

 アレンは頭をかいた。

 

「……分かったよ。できるだけな」

 

「できるだけでは足りない」

 

「どうした本当に、今日は変だぞ?」

 

――「アレン……お前本当は……」

 

 その時だった。

 遠くで、鐘が鳴った。

 

 一度。

 

 低く、重く。

 

 村の空気を震わせるように。

 アレンの表情が変わった。

 ナナティナも顔を上げる。

 鐘は、続けて鳴った。

 

 二度。

 

 三度。

 

 夜の警鐘。

 

 火事ではない。

 

 魔物でもない。

 

 村に危険が迫っている時の鳴らし方だった。

 

「……おいおい」

 

 アレンは立ち上がった。

 部屋の外から、ガレンの足音が聞こえる。

 

「アレン!」

 

「分かってる!」

 

 アレンは上着を掴み、部屋を飛び出した。

 居間では、ガレンが古い槍を手にしていた。

 顔つきは完全に戦時のものだった。

 

「村長のところへ行く。お前は避難誘導だ」

 

「例の悪魔兵器か?」

 

「まだ分からん。だが、見張りが西の方角に光を見たらしい」

 

 西。

 

 エリドール領の方角。

 

 アレンの喉が鳴った。

 

 ガレンは短く言う。

 

「領主様は不在だ。今夜はキャベット町へ向かっている。ウィッチ軍へも知らせは飛ばしたが、こんなド田舎だ、到着には時間がかかる」

 

「じゃあ、村には今……」

 

「戦えるウィッチはいない」

 

 その言葉は、重かった。

 イギー村はナチュレ領の中の小さな村だ。

 普段の守りは領主家の見回りと村の自警でどうにかしている。

 

 魔物なら追い払える。

 

 盗賊なら戦える。

 

 だが、悪魔兵器は違う。

 あれは、村人が武器を持ってどうにかできる相手ではない。

 

「たしか避難場所は……」

 

「北の石倉だ。村長が誘導している。お前は子供と年寄りを優先しろ」

 

「爺ちゃんは?」

 

「俺は村長と見回り組をまとめる」

 

「無茶すんなよ」

 

「馬鹿孫、それはこっちの台詞だ」

 

 ガレンはアレンを睨んだ。

 

「いいか。お前は戦うな。村人を逃がすことだけ考えろ」

 

「……分かってる」

 

「本当だな?」

 

「成人早々死にたくないからな!」

 

 アレンはそう叫び、外へ出た。

 ナナティナも後を追ってくる。

 

「お前は避難しろ! 北の石倉だ、この間案内したろ?」

 

「嫌だ」

 

「即答すんな!」

 

「アレンのそばにいる」

 

「今はそういう場合じゃ――」

 

 言いかけた瞬間。

 

 ――村の西側で赤黒い光が瞬いた。

 

 次の瞬間、轟音。

 遠くの納屋が爆ぜた。

 火の粉が夜空に舞う。

 村のあちこちから悲鳴が上がった。

 アレンの血の気が引いた。

 

 あの光を。

 

 彼は知っている。

 

 かつて故郷を焼いたものの仲間。

 黒鉄の脚で地面を踏み荒らし、赤黒い光で家を撃ち抜く兵器。

 

「……ウォーカー型だ!」

 

 村の誰かが叫んだ。

 

 西側の道。

 暗闇の向こうから、巨大な影が現れた。

 

 四本の金属脚。

 

 蟹のような異様な姿。

 

 分厚い装甲。

 

 胴体中央の砲口。

 

 その赤黒い単眼のような光が、夜の村を見下ろしていた。

 

 ウォーカー型の悪魔兵器。

 

 エリドール領から逃げ出した一体が、ついにイギー村へ辿り着いたのだ。

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