鬼切与力つなもり事件帖 日常語り   作:mimick

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鬼切りと若だんな

 

 日本橋通町の往来は、昼下がりだというのに芋を洗うようだった。火付盗賊改方与力、渡辺源一郎は人波を縫いながら、ふと立ち止まった。

 

 軒を連ねる大店のなかでも、ひときわ間口の広い一軒がある。藍染めの暖簾に白く染め抜かれた屋号──長崎屋。廻船と薬種を商う、江戸でも指折りの大店である。

 

「──ここか」

 

 源一郎は呟いた。独り言は癖のようなものだ。

 

 お鈴の障りが、このところ思わしくなかった。豊川稲荷の勧請は既に済んでいたが、過渡期というものなのだろう。不安定なところがあり、気を鎮める薬が必要だった。

 

 狐憑きの障りに効く生薬など、そうそう手に入るものではない──。だが日の本中から薬種を集めるというこの店ならばあるのではないかと、情報通の灰狐から聞いていたのだ。

 

 暖簾をくぐろうとして、源一郎は足を止めた。

 

 ──妙だ。

 

 店先の喧騒の奥、帳場のさらに向こう。建物の気配がどこかおかしい。人の熱に混じって、別の匂いがする。古木のような、山奥の湿った苔のような、人ならぬものの気配。そしてそれは、一つや二つではなかった。

 

「……ほう」

 

 源一郎の口の端がわずかに上がった。そのまま暖簾を潜る。

 

「いらっしゃいまし。お武家様、本日はどのような御用向きで」

 

 帳場から、初老の番頭が腰低く出てきた。如才ない商人の顔である。源一郎が薬を求めに来た上客と見て、揉み手で応対しようというのだろう。

 

 だがその番頭の脇に立っていた手代が、すい──とこちらを向いていた。

 

 切れ長の目をした、見るからに男前の若者。江戸の娘なら十人が十人振り返るだろう、整った顔立ちの──だが源一郎は、その若者を一目見て目を細めた。

 

 ──人ではない。

 

 白く清浄な気配。古く、気高く、底の知れぬもの。獣でも、ありふれた付喪神でもない。もっと位の高い、神に近いなにか。

 

 ──白沢か。いや、それにしても。

 

 ここでは仁吉と呼ばれるその白沢もまた、暖簾をくぐった侍を一目見て、なんだこれは、と背筋が凍らせた。

 

 羽織袴の六尺近い長身の侍。顔立ちは涼やかで、物腰はのんびりとしている。武張ったところは見受けられない。それだけならば世間にいくらでもいる、剣の心得のある若い侍。そう見える。そう見えるはずだった。

 

 だが仁吉の千年を超える目には、違うものが映っていた。

 

 穏やかな佇まいの奥に、深い淵が口を開けている。人の身でありながら、そこに在るだけで妖を竦ませる気配。並みの武士の器量ではない。もっと根源的な、生き物としての格の違い。蛇を前にした蛙が動けなくなるように、仁吉の千年の本能がこの男から目を離すなと叫んでいた。

 

 この男、底が知れぬ──。仁吉は思わず一歩退いていた。

 

 奥から、もう一人の手代が出てくる。源一郎にも勝るとも劣らぬ偉丈夫、佐助。犬神の彼もまた、源一郎を見た瞬間に毛が逆立つのを感じた。獣の本能がけたたましく鳴っている。

 

「……おい仁吉。あれは」

 

 佐助が仁吉を見た。仁吉はわずかに首を振るのみ。

 

 二人の脳裏に同じ名がよぎっていた。

 

 江戸の妖の間では囁かれる名がある。人でありながら人ならぬものを視、人ならぬものを斬ることもある。江戸中の妖が畏れる化け物がいる、と。

 

 ──かの頼光四天王、渡辺綱の末裔。今代の鬼切り。

 

「仁吉」

「ああ」

 

 二人の手代は申し合わせたように、ゆっくりと一太郎のいる店の奥の方へ、わが身を割り込ませる位置取りに移り警戒した。客への所作は崩さない。だがその足は、間違いなく若だんなと武士との間に立つための一歩だった。

 

 目聡い番頭が、二人の手代の妙な動きに気づいて、おや、という顔をする。だが妖の見えぬこの番頭には、何が起きているのかも分からない。

 

 そして──源一郎もまた、それを見ていた。

 

 ──気づかれたか。

 

 二人の妖が自分の正体を、少なくともただの侍ではないと見抜いたのが分かった。そして、その警戒が店の奥の「何か」を守るための構えであることも。

 

 源一郎は両手をだらりと下げたまま、敵意のないことを示すように、ゆっくりと言った。

 

「薬を求めに参った。ここには珍しい薬もあると聞いてな」

 

 その声に、白沢と犬神はいっそう身を硬くした。

 

 §

 

「──仁吉、佐助。いるかい」

 

 澄んだ声が奥からした。

 

 佐助がしまったという顔をする。仁吉が振り返るより早く、奥に続く障子が開いて、一人の若者が顔を出していた。

 

 細面の青白い顔をした若者だった。年の頃は十七、八か。仕立ての良い着物の上からでも、その身体の線の細さが知れる。病がちなのだろう。──だがその目は澄んでいて、聡明な光を宿していた。

 

 長崎屋の跡取り、一太郎である。

 

「若だんな、お戻りください」

 

 仁吉が抑えた声で言った。常になく硬い。一太郎はその兄やの様子に、おや、と思った。仁吉が客の前でこんな顔をするのは珍しい。

 

 そして一太郎は、土間に立つ侍を見──次の瞬間、息を呑んだ。

 

 この武士のせいだろうか。

 

 店の妖たちがしんと息を潜め、静まり返っている。さっきまでそこかしこで、きゅわ、きゅわと鳴いていた鳴家たちが、いつの間にか柱の陰に隠れて武士を伺っていた。

 

 長崎屋に巣食う妖たちが畏れている──。

 

 だが、それより一太郎を驚かせたのは別のことだった。

 

 武士の視線が、さり気なくだが、まっすぐに鳴家の隠れた柱を捉えている。人には見えぬはずの妖たちの気配を、確かに目で追っている。

 

 この人、視えてる──と、一太郎の胸がとくんと鳴った。

 

 己と同じだ。人ならぬものを視る目。江戸広しといえど、妖が見える者などそうそう出会うものではない。一太郎は生まれてこのかた、妖を視る人間に会ったことがほとんどなかった。

 

 そして、源一郎もまた、一太郎を見ていた。

 

 病みつきのひ弱な若者。だがその目は、はっきりと自分が妖を見ていることに気づいていた。

 

──視える者か。

 

 源一郎やお鈴と同じだ。源一郎の屋敷にいる、狐憑きの娘と。

 

 二人の視える者の目が合った。

 

 土間と帳場、そのわずかな距離を挟んで、火盗改の鬼切りと長崎屋の若だんなは、しばし互いを見つめ合った。

 

 ──佐助と仁吉はその間に立ったまま、動けずにいた。

 

 一太郎を退かせたい。だが下手に動けば、この男がどう出るか分からない。間合いの内に踏み込まれている。もしも動かれたらどうにもできない──。仁吉の千年の経験が警鐘を鳴らし続けていた。

 

 この男の前で、軽はずみは命取りだ。

 

 沈黙を破ったのは一太郎だった。

 

「お武家様は」

 

 ひゅう、と細い息を継いで、若だんなはおっとりと、しかしまっすぐに問うた。

 

「とても良い目をお持ちなのですね」

 

 仁吉と佐助の顔色が変わった。

 

 源一郎は、ふ、と息を吐く。緊張を解くような人の好い笑みが、その口元に浮かぶ。

 

「ああ。見えすぎる目を持つと苦労するな、互いに」

 

 その瞬間、ぴんと張り詰めていた土間の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 その様子を柱の陰で鳴家が一匹、おそるおそる顔を出して伺っていた。

 

 §

 

「奥へ、お通しいたしましょうか」

 

 一太郎が言うと、仁吉が即座に遮った。

 

「若だんな」

「仁吉」

 

 一太郎はやんわりと、しかし引かぬ声で兄やの名を呼んだ。

 

「お客様だよ。それに、私と同じものが視える御方だ。粗略にはできない」

 

 仁吉は唇を引き結んだ。一太郎の言うことは正しい。だが正しさと、若だんなの身の安全とは別の話だ。仁吉にとって、この世のすべてに優先するのはただ一つしかない。

 

 源一郎は、二人の手代の張り詰めた様子を見て、努めて穏やかに切り出した。

 

「ふと思いついて、たまたま立ち寄っただけだ。奥まで上がる気はない。ここで用が済むなら、それで構わん」

 

 土間に立ったまま、源一郎は続けた。

 

「ただ薬が必要でな──。日の本中の薬種を集めるという、こちらの店ならばと聞いて参った」

「それはそれは……ありがたいことです。では、どのような、お薬がお入り用でしょうか」

 

 番頭が商人の顔で問うた。妖の見えぬこの番頭にとっては、源一郎はただの上客の侍にすぎない。

 

 源一郎は少し言いよどんだ。

 

「……気を鎮める薬だ。心の臓が高ぶり、寝付けず、夜ごとうなされる。近ごろは食も細っている」

 

 常の病なら源一郎とて医者を呼ぶ。だがお鈴の不調は、ただの病ではない。狐憑きの障りが、騒いでいるのだ。豊川稲荷の白狐が分霊を勧めるほど、その障りは深くなっている。そういう次第を、妖の見えぬ番頭にどう語ればよいものか。

 

 その逡巡を一太郎は見ぬいていたのだろうか。

 

「番頭さん」

 

 一太郎が静かに言った。

 

「あとは私が承ります。仁吉、薬棚の鍵を頂戴な」

「若だんな」

「いいから」

 

 番頭は怪訝な顔をしたが、若だんなの言葉とあって帳場を譲った。仁吉が苦い顔で薬棚の鍵を差し出す。その手が源一郎の方を警戒してわずかに止まったのを、源一郎は見逃さなかった。

 

 §

 

 一太郎は上がり框に腰を下ろし、源一郎と向かい合った。佐助がすかさずその背後に控える。仁吉は薬棚の前に立ち、いつでも動けるように身構えていた。

 

 一太郎は変わらず、おっとりと微笑んだ。

 

「お武家様。立ち入ったことを伺いますが」

 

 ひゅう、と細く息を継ぐ。

 

「その御方は、人でいらっしゃいますか」

 

 源一郎の目がわずかに見開かれた。

 

 仁吉と佐助もはっとした。若だんなは、何を見抜いているのか。

 

 源一郎はしばし黙してから苦笑した。

 

「敵わぬな。だが、少し違う。薬を必要としているのは混ざり者でな。狐憑きの血を引く女だ」

 

 その言葉に、店の奥で何かがぴくりと動く気配がした。仁吉も佐助もそれを感じた。長崎屋の主筋にもまた、人ならぬものの縁がある。いや、それを口にする訳にはいかないが──。

 

 一太郎の胸が、また、とくんと鳴った。

 

「狐憑きの、お血筋」

 

 一太郎には心当たりがありすぎた。己の祖母もまた、人ならぬもの。狐の妖。皮衣と呼ばれる大妖。一太郎の身に流れる薄い妖の血は、その祖母から受け継いだものだ。

 

──この御方の探している娘も、私と同じ。血のあわいに生きている。

 

 とても他人事とは思えなかった。

 

「気を鎮める、と仰いましたが」

 

 一太郎は薬棚の方をちらりと見た。

 

「狐憑きの障りには、ただの鎮静の薬は効きが浅うございます。血の昂ぶりを抑えるなら、茯神に酸棗仁。それに竜骨を少し」

 

 すらすらと薬の名が出てくる。源一郎は感心した。この病弱そうな若者は、薬種の知識においては玄人に違いない。

 

「ですが──」

 

 一太郎は言葉を切った。

 

「血に潜むものを薬で抑え込むのは、その場しのぎにございます。狐が騒ぐのには、騒ぐだけのわけがある。抑えるより」

 

 一太郎は源一郎の目をまっすぐに見た。

 

「なだめて、やらねば」

 

 源一郎は驚いたように目を瞬かせた。

 

 白狐や師である俊源が言っていたことと同じだ。お鈴の狐を躾け、なだめ、守ってやらねばならぬ、と。この若者は薬学の知識だけでなく、人ならぬものの理を肌で分かっている。

 

「お主」

 

 源一郎は低く言った。

 

「ただの薬種問屋の倅では、ないな」

 

 その一言に、仁吉がすっと前に出た。

 

「お武家様」

 

 声は丁重だった。だがその丁重さの底には、抜き身の刃のような硬さがあった。

 

「若だんなは生まれつき身体が弱く、長く座っておられるのも障ります。お薬のことでしたら手前どもが調合いたします。どうぞ御用は手前に」

 

 一太郎と源一郎の間に白沢が割って入った形だった。これ以上若だんなを近づけまいという意志が、その全身から滲んでいる。

 

 源一郎はその仁吉を見上げた。

 

 穏やかな目だった。だがその目の奥に、仁吉は底知れぬものを見た。深い淵を覗き込んだような。

 

「白沢か、珍しい」

 

 源一郎が静かに言った。

 

 仁吉の肩がわずかに揺れた。やはり見抜かれている。この武士は、自分の正体をはじめから知っていた。

 

「そちらは犬神だな。古いな、二方とも。この若だんなを長く守ってきたのだろう」

 

 源一郎は佐助にも目をやった。佐助の喉がごくりと鳴る。

 

 源一郎は刀の柄からわざと手を遠ざけ、両手を膝の上に置いた。敵意のないことをはっきりと示す所作。

 

「案ずるな。私は薬を求めに来ただけだ。お主たちの大事な若だんなを害する気は毛ほどもない」

 

 その「大事な若だんな」という言い方に、仁吉も佐助も内心ぎくりとした。守るべきものの何たるかまで見透かされている。

 

 源一郎は続けた。声に、ふと苦いものが混じる。

 

「私にも……守りたい女がいる。今、床に臥せっているその者のために、こうして薬を求めに来た。そういう意味では、お主たちと同じかもしれん」

 

 仁吉はその言葉に、わずかに構えを解いた。

 

 千年を生きた白沢の目は嘘を見抜く。この武士の言葉に偽りはなかった。江戸中の妖が一目置く鬼切りが、たった一人の女のために大店の暖簾をくぐり、秘すべき事情を打ち明けた。

 

 その姿はどこか、自分たちに似ていた。

 

「仁吉」

 

 一太郎が兄やを呼んだ。先ほどとは声の色が違う。

 

「お薬をお分けしよう。茯神、酸棗仁、竜骨。それに──」

 

 一太郎は少し考えて付け加えた。

 

「遠志をひとつまみ。心を落ち着けて、よく眠れるように」

 

 仁吉はしばし一太郎を見つめ、それから小さく息を吐いた。若だんながこうと決めたら聞かぬのは知っている。それにこの武士の言葉に偽りがないことは、もう分かっていた。

 

「かしこまりました」

 

 仁吉は薬棚に向き直った。無数の小抽斗の一つ一つに生薬が収められている。慣れた手つきで抽斗を開け、薬研ですり潰して量を計り、薄紙に分けてゆく。その手際は、さすが江戸一の薬種問屋の手代だった。

 

 源一郎はその様子を土間から眺めていた。

 

 ふと、足元で小さな気配が動いた。

 

 見ると数寸ほどの、丸い顔をした小鬼が一匹、おそるおそる源一郎の傍まで近寄ってきていた。きゅう、と蚊の鳴くような声を漏らす。鳴家だった。

 

 先ほどまで源一郎の気配に怯えて柱の陰に隠れていた一匹が、興味に負けて出てきたらしい。源一郎が人ならぬものを視る目でじっと見下ろすと、鳴家はびくりと身を震わせた。

 

 だが源一郎は、ふっと口元をやわらげた。

 

「怖がらずともよい。何もせぬ」

 

 源一郎がしゃがみ込んで、そっと指を差し出す。鳴家はしばし迷うように身をくねらせていたが、やがてちょこちょこと近寄って、その指先をつんとつついた。

 

 きゅわ、と嬉しそうな声がした。

 

 それを見ていた一太郎が目を丸くする。

 

「人見知りする鳴家が出てくるなんて」

 

 一太郎は思わず、ふふ、と笑みをこぼした。

 

 長崎屋の鳴家は臆病だ。見知らぬ者にはなかなか寄りつかない。それがあれほど警戒していた鬼切りに、こうもあっさりと……

 

 柱の陰からほかの鳴家たちもわらわらと顔を出してきた。一匹が大丈夫ならと、つられて出てきたのだろう。たちまち源一郎の足元は、きゅわきゅわと鳴く小鬼で賑やかになった。

 

「これは参ったな」

 

 源一郎が苦笑する。その膝に、肩に、鳴家たちがよじ登ってくる。妖にも名の知られた男が、小鬼たちに埋もれて困り果てた顔をしている。

 

 佐助が毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。仁吉の手が、薬を計る途中でふと止まる。

 

 二人の兄やが長年見守ってきた光景がある。一太郎の周りに、いつも妖が集まる光景だ。鳴家は心根の優しい者に寄ってゆく。害さぬ者を見分ける。

 

 その妖たちが、今この鬼切りに。

 

「仁吉」

 

 佐助が小声で言った。

 

「あの旦那、案外」

「ああ」

 

 仁吉は薬を薄紙に包みながら、ぽつりと応じた。常の硬さは、もうその声になかった。

 

「どうやら、そこまで悪い人間ではないようだ」

 

 §

 

 薬包ができあがった。

 

 仁吉がそれを丁寧に包み、源一郎の前に差し出した。鳴家たちは名残惜しそうに、源一郎の膝から下りてゆく。

 

「茯神、酸棗仁、竜骨、遠志。一日に二度、白湯で煎じてお飲ませください」

 

 仁吉の口調は、すっかり商人の手代のそれに戻っていた。そして、丁寧さに隠れたく刃も、素手になりをひそめていた。

 

「それと──」

 

 仁吉は少しためらってから付け加えた。

 

「血に潜むものをなだめるには、薬だけでは足りませぬ。その御仁を独りにせぬことです。怖くないと、そばにいると伝えてやることが、なによりの薬かと」

 

 それは千年を生きる白沢の知恵であると同時に、病弱な一太郎の傍に在り続けた者の、実感のこもった言葉だった。

 

 源一郎は薬包を受け取り、頭を下げた。

 

「かたじけない。恩に着る」

 

 武家が町人の手代に頭を下げる。仁吉はわずかにたじろいだ。源一郎は立ち上がりながら、一太郎を見た。

 

「世話になった。礼を言う。改めて──私は渡辺源一郎。本役御先手組、火付盗賊改方の与力として勤めておる」

 

 その名乗りに仁吉と佐助が息を呑んだ。やはり、と。火盗改の鬼切り。近頃は剣鬼と──人の間でも囁かれることもある。あの名の持ち主。

 

 だが一太郎は、そんな名にもおっとりと頭を下げ返した。

 

「長崎屋の一太郎にございます。またいつでも、お薬の入り用がございましたらおいでくださいまし」

 

 源一郎はその言葉に、ふと目を細めた。

 

 この若だんなには、自分が何者であるか、もう察しがついているはずだ。それでも変わらぬおっとりした笑みで、また来いと言う。

 

「ああ。また来よう」

 

 源一郎は暖簾の方へ足を向けた。土間を出ようとして、ふと立ち止まる。

 

「一太郎殿」

「はい」

「お主のような者は、独りで抱え込みがちだ」

 

 源一郎は振り返らずに言った。

 

「視えすぎる目は、時に重荷となる。もし持て余すことがあれば、本所にある渡辺の屋敷を訪ねてくるとよい。同じものを視る者同士、分かり合えることもあろう」

 

 一太郎の胸があたたかくなった。

 

 己と同じ目を持つ者にこんなふうに言われたのは、初めてだった。

 

「ありがとう、存じます」

 

 源一郎は片手を軽く挙げて、暖簾をくぐっていった。日本橋の往来の喧騒が、その姿をたちまち呑み込んでゆく。

 

 §

 

 ──暖簾がゆらりと揺れて、収まった。

 

 店の奥に続く障子の陰から、屏風のぞきがぬっと顔を出した。石畳紋の派手な着物を着た付喪神である。

 

「ふん。ようやく行ったか、あの物騒なの」

 

 強がってはいるが、その声はまだ少し震えていた。

 

「派手好みのくせに、恐ろしくなって隠れていたのはどこの誰だい」

 

 仁吉が横目で言うと、屏風のぞきはばつが悪そうにそっぽを向いた。

 

 一太郎は、源一郎の去った暖簾をしばらく見つめていた。膝の上には、いつの間にか鳴家が二、三匹登ってきている。

 

「佐助。仁吉」

 

 一太郎はぽつりと言った。

 

「私はてっきり、世に己ひとりかと思っていたよ。妖が視えて、その血をわずかにでも引いて、どこにも居場所のないような──」

 

 二人の兄やが若だんなを見た。

 

「だけど、あの方も同じだったのだね。視えすぎる目を持って、それでも人の世で、守りたい者のために生きている」

 

 一太郎は、ふ、と笑った。青白い顔に、いつもより少しだけ血の気が差していた。

 

「なんだか、心強いよ」

 

 仁吉は何も言わなかった。だが若だんなのその横顔を見て、千年を生きた白沢は内心でこう思っていた。

 

 ──あの鬼切りに世話になることが、これからあるかもしれない。

 

 それは決して、悪いことばかりではないのかもしれぬ、と。

 

 日本橋の昼下がり──。長崎屋の暖簾が、また一つ風に揺れていた。

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