渡辺源一郎──二十五歳。火付盗賊改方与力。独身。
この三つの事実が並ぶと、江戸の武家社会においては些か具合が悪い。与力ともなれば一家の主として屋敷を構え、妻を迎え、子を成して家督を継がせるのが世の道理というものである。ましてや源一郎は六尺近い長身に、腕も立てば禄も悪くない。縁談の一つや二つ、向こうから舞い込んで然るべき身の上であった。
──いや、実際、舞い込んではいるのだ。
問題は──その全てが、悉く破談になるということであった。
§
「坊ちゃん、良い話がございますよ」
その日、おたかが嬉々として源一郎の書院にやって来たのは、夕餉の支度が始まる少し前のことだった。夏の西日が障子を灼くように照らし、庭では蝉が最後の力を振り絞るように鳴いている。山王祭の一件から暫くが過ぎ、束の間の平穏が渡辺家に訪れていた頃のことだ。
「良い話とは」
「御縁談でございます」
おたかの顔は満面の笑みである。源一郎は思わず眉間に皺を寄せた。
「……また、か」
「『また』とは何ですか、『また』とは。坊っちゃんがいつまでもお独りでいらっしゃるから、こうして私が走り回らねばならないのですよ」
おたかは腰に手を当て、源一郎を見下ろした。齢五十を過ぎてなお矍鑠《かくしゃく》としたこの女は、源一郎の乳母にして渡辺家の家政を一手に取り仕切る女傑である。亡き父、藤治郎の代から仕え、母のいない源一郎を赤子の頃から育て上げた。それゆえにこの家で最も口やかましく、そして最も源一郎の幸せを願っている人物でもあった。
「此度のお相手は小石川の御家人、三田村様の御息女でございます。歳は坊っちゃんの三つ下、器量よしで裁縫も茶の湯も嗜まれるとか。三田村様は勘定所にお勤めのれっきとした御家人、家柄も申し分ございません」
おたかは得意げに語った。
「三田村……聞いたことはあるな」
「それはそうでしょう。小石川では名の通った御家ですもの。しかも先方から渡辺家にと仰ってくださっているのですよ。坊っちゃんが火付盗賊改方で手柄を立てたことが噂になっているのでしょうね。ここを逃す手はございません」
「俺は別に──」
「坊っちゃん」
おたかの声が一段低くなった。
「藤治郎様が最期まで心残りであったことです。旦那様は私に息子を頼むとおっしゃいました。渡辺家の跡継ぎを絶やすわけにはまいりません。それとも、私が生きている内に子を見せてくださる気はないのですか」
源一郎は返す言葉もなく黙り込んだ。おたかが父の名を出すのは切り札であり、そうなるともう逃げ場がない。
「……わかった。話だけは聞こう」
「まぁ、それはようございました!」
おたかは手を打ち、嬉しそうに書院を出ていった。その足取りの軽いこと。源一郎は溜息をつき、天井を仰いだ。
──縁談、か。
前世の感覚では二十五歳で結婚を急かされるのは早い気もするが、この時代では遅すぎるくらいだ。武家の男が二十五にもなって独り身でいるなど、余程の変わり者か──さもなくば、何かしらの事情があると見られても仕方がない。
実際、源一郎には事情があった。
ただし、その事情というのは病や借金や不祥事といった人の世の話ではなく──もっと、こう、人ならざるものに纏わる厄介な話なのである。
§
その夜──。
夕餉を終え、源一郎が書院で書物を広げていると──部屋の隅に、小さな影が現れた。
障子の向こうから滲むように姿を現し、畳の上をヒタヒタと近づいてくる。黒い着物に黒髪を垂らした幼い少女。座敷童の菖蒲であった。
「源一郎」
小さな声。だが、いつもの声音とは少し違う響きがあった。
「ああ、菖蒲か。どうした」
「おたかが騒いでた」
「……聞いていたのか」
「聞いてた」
菖蒲は源一郎の傍にちょこんと座った。行灯の明かりに照らされたその顔は、無表情ながら、いつもより少しだけ不機嫌そうに見える。
「縁談」
「ああ」
「また」
「……また、だな」
源一郎は苦笑した。菖蒲の「また」には、おたかの「また」とは全く異なる意味が含まれているのを源一郎は重々承知していた。
菖蒲は膝を抱え、源一郎をじっと見上げた。
「三田村」
「知っているのか」
「知らない」
菖蒲は短く答えた。そして、小さな手で自分の鼻を摘んだ。
「くさい」
「……臭い?」
「うん。くさい」
それきり菖蒲は黙り込み、源一郎が何を聞いても「くさい」としか言わなかった。やがて飽きたのか興味を失ったのか、ふわりと影に溶けるように消えていった。
源一郎は暫し考え込んだ。
菖蒲が言う「くさい」は、文字通りの臭気のことではない。座敷童として長い年月を生きてきた菖蒲には、人の世の澱や穢れを嗅ぎ分ける力がある。菖蒲が「くさい」と言った家は──これまで、例外なく問題を抱えていた。
──そして例外なく、縁談は破談になってきたのだ。
§
渡辺源一郎の縁談が尽く潰れるという事実は、本所界隈ではそれなりに知られた話であった。
最初の縁談が来たのは源一郎が二十歳の頃である。相手は深川の御家人、永井家の長女。当時まだ存命だった藤治郎が張り切って話を進め、見合いの日取りまで決まりかけたところで──永井家の当主が突如として御役御免となった。
表向きは勤務不良とのことだったが、実のところは、永井家が代々抱えていた莫大な借金が露見したのだ。先代から受け継いだ負債に加え、当主自身も吉原通いで散財を重ねていたらしく、家財を売り払ってもなお返しきれぬほどの額であったという。
縁談は当然、白紙に戻った。初めての縁談が破談となり、藤治郎やおたかは残念がったが、後になって借金の額を聞き及ぶと顔色を変えた。
「危ないところでしたねぇ。あんな家と繋がりを作っていたら、渡辺家まで借金まみれにされるところでした」
二度目は二十二の年。番町の御家人、黒田家の次女との話であった。これも順調に進んでいたのだが、見合いの前日になって当主が急逝。黒田家の親族間で遺産を巡る激しい争いが勃発した。兄弟姉妹が入り乱れ、果ては訴訟沙汰にまで発展し、黒田家の評判は地に落ちた。
「まあまあ、あの黒田様のところがねぇ……。兄弟で刃傷沙汰の一歩手前だったとか。ぞっとしますよ。坊っちゃん、あの話がなくなって本当に良うございました」
三度目は二十三の年。本所の御家人、大野家の一人娘。器量よし、気立てよし、家柄も申し分なし──おたかが「今度こそ」と鼻息を荒くしたその矢先、大野家の娘が突然出家すると言い出した。
後になって分かったことだが、娘には以前から密かに想い人がおり、その男と添い遂げられぬことを悲観しての出家騒ぎであったという。つまり、最初から源一郎など眼中になかったのだ。
「とんだ思い違いをさせられましたこと。あちらにはあちらの事情があったのでしょうが……まあ、そんな浮いた娘を嫁に迎えなくて正解でしたよ」
おたかは毎回、破談の直後こそ落胆するものの、暫くして相手の家の事情が明るみに出ると手の平を返したように「縁がなくて良かった」と安堵するのだった。
──だが、近所の人々の目はもう少し穿った見方をしていた。
一度や二度なら偶然で済む。三度四度と続けば、それはもう偶然ではない。渡辺の若旦那に縁談を持ちかけると、相手の家に災いが降りかかる──そんな噂が、いつしか本所の町に広まっていた。
「渡辺様のお宅にはお化けでもいるんじゃあるまいか」
そう、本所材木問屋の主人が言ったとか言わないとか──。
源一郎はその噂を聞く度に、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。何故ならば、渡辺家の屋敷には、お化けどころか座敷童がいるのだ。
それも、極めて見る目の厳しい座敷童が……