キヴォトスの夜は、独自の輝きを放っている。
学園都市特有の、空に浮かぶ巨大なヘイローの数々が、淡い光を街並みに落としていた。だが、どれほど技術が発展し、神秘と青春の光が満ちていようとも、街の死角には必ず濃い影が落ちる。
ゲヘナ学園の管轄区域、その一角にある寂れた路地裏は、まさにそうした世界の吹き溜まりだった。
自動販売機の壊れた蛍光灯が、チカチカと不快な音を立てて明滅している。
その薄暗闇の中に、1人の少女が佇んでいた。
鬼方カヨコ。便利屋68の課長であり、普段は社長であるアルの突飛な思いつきを冷ややかに、しかし忠実にサポートする参謀役だ。
白と黒のコントラストが効いた髪を静かに揺らし、彼女は誰もいない路地裏の壁に背を預けていた。
カヨコの耳には、携帯音楽プレーヤーのイヤホンが差し込まれている。流れているのは、重苦しくも繊細な旋律を刻むクラシック音楽。彼女は目を閉じ、その音の調律に意識を集中させていた。
「……少し、ベースの音がズレてる。あとでイコライザーをいじらないと」
ぽつり、と呟いた声は、夜の静寂に溶けて消える。
カヨコは周囲から「近寄りがたい」「怖そう」という印象を持たれがちだ。事実、彼女の纏う空気は鋭く、他者を容易に寄せ付けない。
だが、その本質を知る者は便利屋の仲間たちを含めて極めて少ない。
彼女が何を考え、何を目的にこの混沌としたゲヘナの街で暮らしているのか。その核心は、誰にも触れさせない領域にあった。
ふと、カヨコは音楽を止めた。イヤホンを耳から外し、首にかけ直す。
鋭い視線が、路地裏の奥、さらに暗い闇の向こうへと向けられた。
「(……不協和音が近づいてくる。耳障りな、品のない足音)」
心の中でそう毒づいた直後、乱暴な笑い声と共に、数人の人影が路地に滑り込んできた。
彼女たちの頭上には、ゲヘナの生徒であることを示す歪んだヘイローが浮かんでいる。手にはそれぞれ、違法に改造されたアサルトライフルやサブマシンガンが握られていた。
この界隈を縄張りにしている、質の悪いスケバンの集団だった。
「あァ? 何だお前。こんなところで一人で何してんだよ」
先頭に立つ、赤髪を雑に結い上げたスケバンが、銃口をカヨコに向けながら下卑た笑みを浮かべた。
「ゲヘナの生徒か? あいにく、ここはアタシらのシマなんだわ。身ぐるみ置いて、泣きながらお家に帰るか、ここでハチの巣になるか、どっちがいいか選ばせてやるよ」
スケバンたちの取り巻きが、下品な声を上げて 同調する。
銃という圧倒的な暴力を背景にした、キヴォトスでは日常茶飯事の脅迫。
しかし、カヨコの表情には微塵の動揺もなかった。
ただ、酷く退屈そうな、あるいは心底から失望したような視線を彼女たちに送るだけだった。
「……用がないなら、向こうに行って。私は今、音楽を聴いているの」
「は? 何言ってんだこの女。状況が分かってねえのか?」
赤髪のスケバンが、苛立ったように引き金に指をかけた。
「おい、ビビらせてやれ!」
次の瞬間、狭い路地裏に激しい銃声が轟いた。
何発もの弾丸がカヨコの足元のコンクリートを削り、激しい火花と火薬の匂いが立ち込める。
通常の人間であれば恐怖に竦むか、あるいはキヴォトスの生徒であっても武器を構えて応戦する場面だ。
だが、カヨコは一歩も動かなかった。弾丸が彼女の衣服の端をかすめても、その瞳は微塵も揺るがない。
「……終わり?」
カヨコは静かに、しかし冷徹な声で言った。
「その程度の音しか出せないなら、最初から引き金を引かないで。耳が汚れる」
「このアマ、舐めやがって……! 本当に殺されたいようだな!」
激昂したスケバンが、今度はカヨコの胸元を正確に狙って銃を構え直した。
だが、その攻撃が放たれることはなかった。
カヨコが、ゆっくりと歩みを進めたからだ。その一歩は、不思議なほど重く、路地裏全体の空気を一瞬にして凍りつかせるような威圧感を放っていた。
「(本当に、品のない生き物。知性も、美意識も、何一つ持ち合わせていない)」
カヨコは冷ややかにスケバンたちを見据える。
「いいよ。どうせ、『小腹も空いていた』ところだし」
「あ? 何をごちゃごちゃ言って――」
スケバンが言い終えるより早く、カヨコの顔面に『異変』が起きた。
彼女の美しい、陶器のような白い肌。その下顎から首筋にかけて、突如として鮮やかな紋様が浮かび上がったのだ。
それは、まるで緻密に作られた教会のステンドグラスのようだった。様々な色彩が複雑に絡み合い、怪しく、そして神聖な光を放ちながら皮膚の裏側から浮き出てくる。
「な、何だそれ……!? お前、顔が……!」
スケバンたちが一歩、後ずさりした。キヴォトスの如何なる「神秘」とも異なる、異質な気配。それは、生物としての根本的な恐怖を呼び覚ますものだった。
鬼方カヨコ。彼女の『正体』は、この世界における通常の生徒などではなかった。
彼女は、人類とは異なる進化を遂げた13の魔族の頂点に立つ種族。人間のライフエナジー、すなわち生体エネルギーを摂取して生きる吸血族――『ファンガイア』の一員だった。
ファンガイア。それは古来より人間の間で吸血鬼伝説の元となったとされる、圧倒的な力を持つ超生物である。
彼らは普段、人間の姿に擬態して社会に紛れ込んでいるが、その本質は冷徹な捕食者だ。
彼女のファンガイアとしての真名は――『愛玩庭園の片隅で巡礼者は朽ち果てる』。
それが、ゲヘナ学園の風紀委員からも一目置かれる「鬼方カヨコ」という少女の、剥き出しの真実だった。
「ひっ、悪魔か……!? いや、ゲヘナの奴らとも違う……!」
スケバンが恐怖に顔を歪め、狂ったように銃を連射した。
放たれた弾丸は、確実にカヨコの身体を捉えた。しかし、カヨコの身体に触れた瞬間、すべての弾丸はパキィンと軽い音を立てて砕け散った。
「……騒がしい」
カヨコの身体が、ステンドグラスの光に包まれる。
光が弾けると同時に、そこには人間の少女の姿は消えていた。
現れたのは、美しくも禍々しい怪人の姿。その全身は緻密なステンドグラスの体組織で構成されている。
緑と黒、そして深みのある琥珀色のガラス細工が組み合わさったような装甲。
頭部には滑らかな、しかし凶悪なラインを持つ王冠を模した角があり、鋭い眼光が暗闇の中で怪しく輝いていた。
肩や四肢の関節部分には、ガーゴイル(石像鬼)を思わせる硬質でゴシックな意匠が施されている。
その姿こそがカヨコの真の姿であり、ツノミカドヤモリを彷彿とさせる強靭で冷徹なリザードクラスの怪人ーー『ガーゴイルゲッコーファンガイア』であった。
「な、なんだよそれ……! 化け物……!」
スケバンたちは完全に戦意を喪失し、武器を投げ出して逃げ出そうとした。
だが、リザードクラスのファンガイアであるカヨコの動きは、彼女たちの想像を絶する速度だった。
カヨコは壁を蹴り、音もなく移動すると、逃げようとしたスケバンの前に回り込んだ。
その手には、自らの体組織から召喚した、ステンドグラスの装飾が施された美しい短剣が握られている。
「ファンガイアは高貴な種族。あなたたちのような有象無象とは存在の格が違うの」
怪人の姿のまま、カヨコの声が路地裏に響く。会話の際、彼女の胸元や顔など身体中のステンドグラス部分に、カヨコ自身の人間の顔が万華鏡のように美しく映し出されていた。
「人間は、私たちの糧。それ以上でも、それ以下でもない」
カヨコはファンガイアの一族であることに、深い誇りを持っていた。人間を普通に捕食することにも、罪悪感など微塵もない。
それはライオンがシカを狩るのと同じ、自然の摂理。むしろ、美しい音楽や静寂を汚す不浄な人間を間引くことは、彼女にとって一種の「調律」ですらあった。
「さあ……食事の時間だよ」
カヨコが虚空に向けて手をかざすと、彼女の意思に応じるように、空間から二本の透明な牙のような物体が実体化した。
ファンガイアの捕食器官――『吸命牙(きゅうめいが)』である。
きらきらとガラスのように輝く吸命牙が、恐怖で動けなくなった赤髪のスケバンの首筋へと突き刺さった。
「あ、ガ、は……っ!?」
スケバンは悲鳴を上げることすらできなかった。
吸命牙を通じて、彼女の体内から『ライフエナジー』が急速に吸い上げられていく。
生命の根源たるエネルギーを失っていくにつれ、スケバンの身体から見る見るうちに「色彩」が失われていった。肌は土気色を通り越し、まるで白黒写真のように完全にモノクロームへと変化していく。
それだけではない。彼女の身体そのものが、徐々に透明なガラスのような質感へと変貌していった。
「ひ、ひいいいっ! 助けて、助けてくれぇ!」
仲間が異常な方法で殺されていくのを見た他のスケバンたちが、狂ったように叫びながら路地裏を走り去っていく。だがカヨコはそれを追おうとはしなかった。
今日の食事は、この一杯で十分に事足りるからだ。
数秒の後、カヨコは吸命牙を抜いた。
ライフエナジーを完全に吸い尽くされたスケバンは、もはや人間の肉体ではなかった。そこに立っていたのは、精巧に作られた人間の形のガラス細工。
パキ、と小さな亀裂の音が響く。
次の瞬間、スケバンだったガラスの像は、音を立てて粉々に砕け散った。
きらきらと光る無数の破片が地面に散らばり、夜の闇の中で儚く消えていく。衣服も、武器も、彼女の存在していた痕跡のすべてが、完全に消滅した。
「(……ごちそうさま。少し、雑味が多かったけど、命の質としては平均点かな)」
カヨコは怪人の姿から、再び静かにステンドグラスの光を纏い、人間の姿へと戻っていく。
浮かび上がっていた首筋の紋様が消え、いつもの冷徹で美しい、鬼方カヨコの顔に戻る。彼女は衣服についた目に見えない埃を払うように、軽く肩を叩いた。
ファンガイアの食事は、人間の食事とは比較にならないほど効率が良い。
普通に飲食をすることもできるし、カヨコ自身もコーヒーやチョコレートのような嗜好品は好むが、やはりライフエナジーに勝る栄養源はない。
こうして時折、街の害獣とも言える不届き者を『処分』がてら捕食することで、彼女は自らの生命力と、ファンガイアとしての高いプライドを維持していた。
地面には、先ほどまで人間が存在していたことを示すものは何も残っていない。ただの綺麗なガラスの砂粒が、風に吹かれて消えていくだけだ。
「……さて」
カヨコは再びイヤホンを耳に装着した。
スマートフォンの画面を操作し、先ほど止めたクラシックの楽曲を再生する。
今度は、先ほど感じた音のズレが、不思議と気にならなくなっていた。自らの身体の調律が整ったからだろう。
「(アルたちに、余計な心配をかけるわけにはいかないし。そろそろ事務所に戻らないと)」
便利屋68の仲間たちは、カヨコにとって奇妙な居心地の良さを提供してくれる存在だ。人間の脆さと愚かしさを体現したようなアルやムツキ、ハルカたち。
だが、彼女たちと共に過ごす時間は、ファンガイアとしての長い寿命を持つカヨコにとって、決して不快なものではなかった。
もちろん、自分が人間を喰らう怪人であることなど、おくびにも出すつもりはないが。
カヨコは静かに歩き出し、路地裏の闇から、ヘイローの光が満ちる表通りへと足を踏み出した。
彼女の背後で、壊れた自動販売機の蛍光灯が、最後に一度だけ大きくパチリと音を立てて、完全に消灯した。
ゲヘナの夜は、何事もなかったかのように、再びその不穏で賑やかな喧騒を取り戻していく。