人間態:鬼方カヨコ。その正体はーーー   作:ていん?が〜

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進行や話の都合上、オリジナルが多数含まれているので
そういうのを気にせず見ていただけると幸いです。


第2部・混血の王女と牙の貴族たちの輪舞曲
2008年sideー邂逅・デスティニー


 時を遡ること、2008年。舞台は東京の一角。

 

 そこには、近隣の住民たちの間でひときわ有名な、異様な存在感を放つ『古い洋館』が佇んでいた。

 

 建物自体は非常に荘厳で、かつては栄華を誇ったであろう立派な佇まいを残している。しかし、現在のその姿はあまりにもボロボロに荒れ果てていた。

 古びたレンガの壁には、まるで建物を締め殺そうとするかのように蔦が生え放題になっており、広大な庭には、見たこともないような奇妙な色彩と形をした怪しげな植物たちが、禍々しく生い茂っている。

 

 昼間であっても陽光を遮るその薄暗さから、近所の住民たちからは『お化け屋敷』として深く不気味がられ、子供たちは近づくことさえ恐れていた。

 

 ある日の午後、その屋敷の近くに住む主婦たちが数人、道端に集まって世間話をしていた。

 

 「ちょっと、聞いた? あの屋敷、やっぱり夜中に変な音が聞こえるらしいわよ」

 

 「嫌だわぁ、やっぱり幽霊屋敷なんじゃないの?」

 

 主婦たちが顔を寄せ合ってそんな噂話に興じていると、不意に足元の方から、どこか気の抜けたような声が聞こえた。

 

 「ニャーン」

 

 主婦たちが驚いて目を見やると、そこには一匹の野良猫が座り込み、どこからか調達してきたらしいサンマを器用に貪り食っている姿があった。

 

 「あら、猫ちゃん。びっくりさせないでよ……」

 

 胸を撫で下ろした主婦たちだったが、その直後、彼女たちは肺の空気をすべて吐き出すかのようにギョッと目を見開いた。

 

 猫のすぐ隣。地面に膝をつき、猫が食べ残したサンマの骨を、金属製の火バサミを使って慣れた手つきで拾い上げようとしている、奇妙極まりない人影が存在していたのだ。

 

 白いフード付きのコートを深く被り、顔面には異様な形状をした黒いガスマスクを装着している。

 その怪しすぎる風貌により年齢や性別も不明だが、小柄な体躯とフードの隙間から出ている薄紫のおさげから、おそらく少女であることが察せられる。

 そして不気味なマスクの奥から、じっとサンマの骨を見つめる姿は、どう見ても異常者のそれだった。

 

 「ひっ……、お、『お化け姫』よ!!」

 

 主婦のひとりが、恐怖のあまりに悲鳴混じりの声を上げた。

 

 その声に驚いたのか、ガスマスクの少女はビクッと身体を強張らせた。

 彼女は一切の声を上げることなく、拾い上げたサンマの骨を大事そうに抱え、脱兎のごとく荒れ果てた屋敷の敷地へと逃げ帰った。

 

 そして、重い玄関の扉を大きな音を立てて閉め、鍵をかけた。

 

 残された主婦たちは、恐怖に顔を青くしながら、慌ててその場を離れつつ声をひそめた。

 

 「やっぱり出たわ! 噂の『お化け姫』よ!」

 

 「本当にあそこに住んでいるのね……。一体何者なのかしら、薄気味悪い……」

 

 

 

 

 バタン! と激しく扉を閉め、薄暗い屋敷の玄関ホールへと滑り込んだ少女は、無言のまま荒い息を吐いていた。

 

 ガスマスクのフィルターを通して、ヒュー、ヒューと苦しげな呼吸音が静かな屋敷に響く。

 少女は慌てた様子で、懐から小さなゴミ袋を取り出すと、先ほど命がけで回収してきたばかりのサンマの骨を取り出した。

 

 彼女はそのまま、屋敷の奥にある台所へと向かった。

 

 古びたコンロの上には、巨大な鍋が置かれている。その中では、様々な怪しい物体や植物の根、そして化学薬品のようなものが混ざり合い、ドロドロとした紫色の謎の液体がボコボコと不気味に泡を立てて煮えたぎっていた。

 

 少女は迷うことなく、手にしたサンマの骨をその液体へとポチャン、と放り込んだ。

 

 そして、大きな木製のヘラを持ち、無言で一心不乱に鍋の中身をかき混ぜ始める。

 泡立つ液体から、魚の焦げた匂いと強烈な薬品臭が混ざり合った異臭が立ち込めるが、彼女は気にする様子もなく作業に没頭していた。

 

 「『アツコ』、またそんなことやってるの?」

 

 突然、背後から呆れたような、しかし慣れ親しんだ少女の声が響いた。

 

 驚いた少女が振り向くと、そこには灰色のブレザー制服をきっちりと着こなした、2本結びの髪が特徴的な少女――野村静香が立っていた。

 彼女は両手を腰に当て、ため息をつきながら鍋の異臭に顔をしかめている。

 

 少女――紅アツコは一切の言葉を発することなく彼女は慣れた手つきで腰の鞄から一冊のスケッチブックとペンを取り出すと、素早い動作で文字を書き殴り、それを静香の目の前に突きつけた。

 

 『ごめんなさい、静香。でも、サンマの骨から抽出できる特殊なエキスがあれば、バイオリンに塗るニスの色に、今までにない鮮やかさと深みが生まれると思うから』

 

 スケッチブックに書かれた丁寧な文字を読み、静香は呆れ顔から、一転して優しい聖母のような微笑みを浮かべた。

 

 「もう、相変わらずバイオリンのことになると周りが見えなくなるんだから。……アツコは『お父さんの作った偉大なバイオリン』を超える作品を作りたいんだもんね」

 

 静香がそう言ってアツコの頭を撫でるように手を伸ばすと、アツコはガスマスクの奥で恥ずかしそうに、コクン、と小さく頷いた。

 

 しかし、アツコはすぐにハッとしたように再びスケッチブックにペンを走らせた。

 

 『でも、さっきの野良猫の食べ残しだけじゃ、全然量が足りない。もっとたくさんのサンマの骨が必要』

 

 書き終えるや否や、アツコは火バサミを手に持ち、再び屋敷を飛び出そうと玄関へ向かって走り出した。

 

 「あ、ちょっと待ちなさいアツコ! 一人で外に出たらまた騒ぎになるって言ってるでしょ! 待ちなさい!!」

 

 14歳の中学生でありながら、自称『アツコの保護者』である静香は、慌ててその後に続いて屋敷を飛び出していった。

 

 

 

 

 

 場面は変わり、都内の洗練された撮影スタジオ。

 

 色鮮やかな照明が飛び交うなか、カメラのシャッター音が連続して響いていた。

 

 「最高だよ恵ちゃん! その笑顔、すっごく可愛い!」

 

 カメラマンの絶賛を浴びながら、完璧なアイドルのような笑顔を振りまいているのは、現在人気急上昇中のモデル、麻生恵だった。

 彼女はファンの前や仕事中、完璧な「可愛いお姉さん」としてのキャラクターを演じきっていた。

 

 やがて撮影が終了し、スタッフたちへの挨拶を終えてスタジオを出た瞬間、恵は「はぁ……」と大きなため息をつき、先ほどまでの猫被りスマイルを一瞬で消し去った。

 

 「あー、お腹すいた。無理して笑顔作ると、本当にエネルギー消費激しいわ……」

 

 恵はフラフラとした足取りで、自身が行きつけにしているスタジオから離れた古びた定食屋「お食事処 井上」へと飛び込んだ。

 

 ガラガラと扉を開け、カウンター席に腰掛けるなり、彼女は店主に声をかける。

 

 「大将! いつもの焼き魚定食、サンマでお願い!」

 

 「あいよー!」

 

 しばらくして、恵の目の前に、こんがりと黄金色に焼き上がった、香ばしい匂いを放つサンマの焼き魚定食が運ばれてきた。

 これこそが恵の大好物であり、過酷なモデル業を支える至福の源だった。

 

 「いただきまーす!」

 

 恵は嬉々として箸を持ち、ふっくらとしたサンマの身を口へと運ぶ。皮の香ばしさとジューシーな脂の旨味が口いっぱいに広がり、彼女は至福の表情を浮かべた。

 撮影の疲れが一気に吹き飛んでいくのを感じながら、恵は夢中でサンマを平らげていく。

 

 「ぷはぁー、美味しかった! やっぱりサンマは最高ね」

 

 大満足の恵が、綺麗に身を食べ終えて皿に残ったサンマの骨を眺め、お茶に手を伸ばしたその瞬間だった。

 

 恵の目の前で、信じられないことが起きた。

 

 さっきまで皿の上にあったはずのサンマの骨が、ずるり、と音を立てて滑り、まるで生きているかのようにテーブルの外へと逃げていくではないか。

 

 「えっ……!?」

 

 恵が驚愕して目を凝らすと、テーブルの端から、金属製の火バサミがニュッと伸びており、それがサンマの頭の骨をがっちりと掴んでずりずりと引っ張っているのが見えた。

 

 火バサミの主を辿ると、そこには白いフードを被り、不気味な黒いガスマスクを装着した異様な少女が、真剣な様子でサンマを強奪しようとしていた。

 そしてその背後では、制服姿の静香が顔を真っ青にしながらアツコの腰を必死に引っ張って止めようとしている。

 

 「マズイよアツコ! 人のものを勝手にとっちゃダメ! 食べ終わった後の骨だからって、立派な泥棒になっちゃうから!!」

 

 アツコは静香に引っ張られながらも、ガスマスクの奥で無邪気な喜びを隠しきれない様子で、火バサミを離そうとしなかった。

 

 

 

 数分後。

 

 定食屋のボックス席に、恵は腕を組んでドカリと腰掛け、その目の前にアツコと静香を並んで座らせていた。

 恵の額には怒りの青筋が浮かんでおり、その鋭い眼光は目の前の2人を射抜いている。

 

 「ちょっと貴女たち、一体全体どういうつもり!? 人が食べ終えたサンマの骨を火バサミで盗もうとするなんて、どんな教育を受けてきたわけ!?」

 

 恵の容赦のない説教が炸裂する。

 

 「大体、何よその格好! 白昼堂々そんなガスマスクなんて不気味なもの着けて、こんな奇行に走るなんて、恥ずかしくないの!?」

 

 アツコは恵の迫力に完全に圧倒され、シュンと肩を落として小さくなってしまった。

 彼女は怯えながらも鞄からスケッチブックを取り出すと、必死に文字を書いて恵に見せた。

 

 『ごめんなさい。でも、どうしてもサンマの骨が必要だったの。泥棒するつもりはなかったの、骨だけが欲しかったの……』

 

 「謝るなら口で言いなさいよ! なんでさっきから一言も喋らないで、そんなお面着けたままなわけ!?」

 

 喋ろうとしないアツコにすっかり痺れを切らした恵は、「もう、イライラするわね! 外しなさい!」と言って、アツコの顔を覆うガスマスクを強引に剥ぎ取ろうと手を伸ばした。

 

 「や、やめてください!」

 

 静香が慌てて恵の手を遮り、アツコを庇うように前に出た。

 

 「アツコはわざとお面を着けているわけじゃないんです! この子は……その、重度の『この世アレルギー』なんです!」

 

 「はぁ? この世アレルギー?」

 

 恵は不審そうな声を上げた。静香は真剣な表情で、大真面目に説明を続ける。

 

 「そうなんです。アツコは、この世界のすべての物質、空気、光に対して免疫機能が過剰に反応してしまう特異体質なんです。もし生身の顔をこの世界の空気に晒してしまったら、呼吸困難を起こしたり、最悪の場合は命に関わる危険もあるという恐ろしい症状なんです。だから、普段から手話や筆談でしかお話しできないんです!」

 

 静香の必死の訴えを聞いた恵は、一瞬呆然としたが、すぐにフッと鼻で笑った。

 

 「何言ってるのよ、そんな都合のいい病気、医学的にあるわけないでしょ。どうせ引きこもりか何かの思い込みよ、思い込み! ちょっと貸しなさい!」

 

 「あ、ダメ――!」

 

 気の強い恵は、静香の制止を振り切り、抵抗するアツコの頭部を固定すると、その顔面を覆っていた黒いガスマスクを、パチン、と音を立てて力任せに外してしまった。

 

 

 その瞬間、恵のすべての動きが、ピタリと停止した。

 

 

 「…………え?」

 

 恵の口から、間の抜けた声が漏れる。

 

 マスクの下から現れたのは、恵の想像を遥かに超えた、言葉を失うほどの光景だった。

 

 そこにあったのは、淡い紫色の、絹糸のように美しい髪。そして、陶器のように白く透き通った肌に、夜空の星を閉じ込めたかのような、神秘的で深い紅色の瞳。

 整いすぎたその顔立ちは、人間の手によって作られた精巧な美術品のようであり、この汚れた現実世界にはおよそ存在するはずのない、浮世離れした美しさを湛えていた。

 

 絶世の美少女。いや、もはや少女という枠を超えて――。

 

 「(……妖精……?)」

 

 恵の脳裏に、そんな単語が浮かび、彼女の思考は完全にフリーズしてしまった。

 

 モデルとして数々の美しい人間を見てきた恵だったが、アツコの持つその「異質な神秘の美しさ」の前には、ただただ圧倒されるしかなかった。

 恵の胸の奥で、ドキン…と、今までに感じたことのない、愛おしいものを保護したくなるような『母性』めいた感情が激しく芽生え始める。

 

 しかし、そんな感動の時間は一瞬で打ち砕かれた。

 

 「――っ、う…ぉ、ぶ……っ」

 

 生身の顔を晒したアツコが、突如としてみるみるうちに顔を青くしていったのだ。

 彼女は自らの美しい口元を両手で強く抑え、今にも激しく嘔吐しそうな様子で身体を折り曲げ、苦しげに悶え始めた。

 

 「大変! アツコ! 大丈夫!?」

 

 静香が悲鳴を上げる。恵もまた、アツコの急変に驚いて我に返り、慌てて彼女の肩を支えた。

 

 「ちょっと、大丈夫!? 嘘、本当に病気だったわけ!? ごめんなさい、私そんなつもりじゃ……! ほら、落ち着いて、深呼吸して! スー、ハー、スー、ハー!」

 

 恵は必死になって、アツコに深呼吸を促した。

 

 アツコは恵に支えられながら、言われた通りに必死で「スー……、ハー……」と何度も深く息を吸い、そして吐き出した。

 

 

 

 ……数分後。

 

 激しく苦しんでいたはずのアツコは、すっかり落ち着きを取り戻し、顔色の悪さも消えていた。

 彼女は、自らの身体を不思議そうに見つめ、首を傾げている。

 

 特にどこかが痛む様子も、呼吸が苦しい様子も、何一つとして残っていなかった。

 

 それを見た恵は、ハァ、と大きな安堵の息を漏らすと、すぐにまた呆れた顔に戻った。

 

 「ほら……。何ともないじゃないの。やっぱりただの思い込みじゃない」

 

 「ええっ? でも、さっきあんなに苦しそうに……」

 

 静香が困惑するなか、恵はアツコの頭を軽く小突いた。

 

 「体調が悪くなったのは、いきなりお面を外されて緊張したからでしょ。お友達の奇行に寄り添ってあげるのも大事だけど、こういう行き過ぎた思い込みを止めてあげるのも、友達の大事な役目なのよ」

 

 恵はアツコの顔をじっと見つめながら、尋ねた。

 

 「それにしても貴女、本当に綺麗な顔してるわね。中学生? もしかして学校に行ってないの?」

 

 すると、静香が少し誇らしげに胸を張って、とんでもない事実を口にした。

 

 

 「違いますよ。私はアツコの保護者兼バイオリンの生徒ですけど、アツコはこう見えてもう『20歳』、とっくに『成人』してるんですから!」

 

 

 「…………はぁ!?」

 

 恵の口から、今日一番の絶叫が響き渡った。

 

 彼女は自分の目を何度もこすり、目の前の美少女を見つめ直した。どう見ても、自分よりも遥かに年下の中学生か、せいぜい高校生にしか見えない。

 

 「に、20歳!? 嘘でしょ、私の1つ年下なわけ!? この見た目で!?」

 

 恵が驚愕のあまりにパニックに陥っていると、彼女のポケットの中で携帯電話がけたたましく鳴り響いた。

 

 恵は慌てて電話を取り出し、耳に当てる。

 

 「はい、麻生です。……え? はい……。はい、分かりました。すぐに向かいます」

 

 電話の会話が進むにつれ、恵の顔色はみるみるうちに険しくなり、先程までの勝ち気なお姉さん気質は排された。

 

 通話が切れると、恵は急ぎ足で立ち上がり、テーブルの上に定食の代金を乱暴に置いた。

 

 「『急な仕事』が入ったから、私はもう行くわ。……またね。次変なことしたら、本当に警察に突き出すからね!」

 

 恵はそう言い残すと、風のように店を飛び出していった。

 

 残されたアツコと静香は、ポカンとした様子でその背中を見送っていた。

 アツコは少し恥ずかしそうに、机の上のガスマスクを再び丁寧に付け直すと、静香の制服の裾を、小さな子供のようにぎゅっと掴んだ。

 

 「はいはい、お家に帰ろうね、アツコ」

 

 静香は優しく微笑み、アツコの手を引いて定食屋を後にした。

 

 

 

 

 

 帰り道、夕暮れ時のオレンジ色の光が、静かな住宅街を包み込んでいた。

 アツコは静香の制服の裾を小さく、弱々しく掴みながら、彼女の後ろをトボトボとついて歩いていた。

 先ほどの騒動と、自分の容姿を晒してしまった恥ずかしさから、どこか元気がなさそうだった。

 

 「大丈夫だよ、アツコ。あのお姉さんも、悪気があって怒ったわけじゃないと思うし。サンマの骨は、また今度、私が魚屋さんでたくさん貰ってきてあげるからね」

 

 静香は歩きながら、まるでお母さんのようにアツコを優しく慰め続けた。ガスマスクの奥から、アツコが嬉しそうに目を細めるのが分かった。

 

 

 

 

 やがて、あの蔦の絡まる古い屋敷の、立派な石造りの正門が見えてきた。

 

 しかし、その門の前に、見慣れない『先客』が立ち止まっていることに、静香は気がついた。

 

 それは、独特のメッシュが入った白髪を揺らし、どこか退屈そうな…しかし底知れない雰囲気を纏った一人の若い女性だった。

 彼女は屋敷の佇まいを、興味深そうにじっと見上げていた。

 

 静香は少し訝しげに思いながらも、アツコを背中に隠すようにして、その人物へと近づき、声をかけた。

 

 「あの……。ウチの屋敷に、何かご用ですか?」

 

 声をかけられた女性は、ゆっくりと振り返った。彼女の冷徹で美しい瞳が、静香、そしてその後ろに隠れているガスマスクの少女――アツコの姿を捉える。

 

 女性は一瞬だけ、その瞳の奥に奇妙な光を宿したが、すぐに穏やかな、しかしどこか含みのある微笑みを浮かべた。

 

 「あぁ……。ごめんね。怪しい者じゃないんだ」

 

 彼女は低く、心地よい声で静かに語りかける。

 

 「『日本に帰ってきた』ばかりでね。この東京の景色が少し懐かしくて……。散歩をしていたら、とても立派なお屋敷があったから、つい見惚れていたんだよ」

 

 静香は彼女の纏う、一般人とは明らかに違う静かな威圧感に身を硬くしたが、女性は敵意を見せることなく、さらに深く微笑んだ。

 

 「あぁ、自己紹介が遅れたね。そうだね……」

 

 女性はアツコの姿を見つめながら、静かに告げた。

 

 「『ユキ』と呼んでくれたらいい」

 

 その人物こそ、日本へ帰国したばかりのファンガイア――鬼方カヨコであった。

 

 夕闇が迫る東京の一角で、血塗られた(くれない)の運命と、『愛玩庭園の巡礼者』の因縁が、静かに、しかし確実に交差を始めていた。




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