人間態:鬼方カヨコ。その正体はーーー   作:ていん?が〜

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話の都合上、細かい話の流れは本編と異なるためご容赦ください。


2008年side:集結・グローリィメモリー

 これは、あの数奇な運命が東京の片隅で静かに交差を果たす前日の出来事。

 

 成田空港の国際線到着ロビーへと繋がる、狭く長い搭乗口の自動ドア。それが左右に静かに開くと同時に、日本の地へと同時に降り立った、極めて異様なオーラを放つ4人の影があった。

 

 行き交う大勢の一般の旅行客たちの中で、彼女たちの存在はあまりにも浮世離れしており、すれ違う人々が思わず二度見してしまうほどの特異な空気感を漂わせている。

 

 先頭を進むのは、ゆったりとしたラフな黒のジップアップパーカーを羽織り、白黒の髪を無造作に揺らしながら、どこか気怠げかつ冷徹な瞳で周囲の環境を観察している鬼方カヨコ。

 

 その後ろをぴったりと歩くのは、あの不気味な白狐のお面を外し、艶やかな黒髪をなびかせながら、息を呑むほどに美しい豪奢な着物を完璧に着こなしている狐坂ワカモ。

 

 さらにその後方からは、純白の白衣をきっちりと身に纏い、メカニカルなデザインの眼鏡の奥から、日本の空港が持つ近代的な最新設備に対して技術者としての興味深そうな視線を送っている白石ウタハ。

 

 そして最後尾から、神聖でありながらも、どこか見る者を底知れぬ恐怖で威圧するような純黒のシスター服の裾を美しく翻しながら、優雅に歩いてくる女――それこそが歌住サクラコであった。

 

 現在のサクラコは、一目でそれと分かるほどに、異常なまでに上機嫌な表情を浮かべていた。

 彼女の形良い唇からは、教会の厳かな賛美歌をポップにアレンジしたかのような、場違いなメロディが微かな鼻歌となって終始漏れ聞こえている。

 

 「ふんふふーん、ふーん、ふふふん……♪」

 

 そのあまりにも彼女に似合わない、浮かれきった幼児のような態度に対し、前を歩くカヨコは不快感を隠そうともせず、眉間に深い縦皺を刻みながら低く舌打ちをした。

 

 「(……何なのよ、さっきから。あの気味の悪いテンションは。見ているこっちの神経が逆撫でされる)」

 

 カヨコが心の中で毒づいた、まさにその瞬間だった。

 

 ガシャーン、と大きな荷物を積んだカートが派手に擦れ合う鈍い金属音とともに、ロビーを元気よく走り回っていた人間の小さな男の子が、サクラコの目と鼻の先で盛大に足をもつれさせ、床へと派手に転倒した。

 

 「うわああああああん!!! 痛いよおおおおお!!! ママあああああああ!!!!」

 

 子供は擦りむいた己の膝を両手で強く押さえつけ、狂ったような大音量の泣き声を上げながら、その場に激しくへたり込んでしまった。

 

 「チッ……」

 

 カヨコはあからさまに顔を顰めた。ただでさえ、人間の放つ雑踏の喧騒や無駄なエネルギーが鬱陶しくてたまらないというのに、最悪のハプニングだ。

 いや、人間の子供が転んで泣き叫ぶこと自体はどうでもいい。いつも通り、無視して通り過ぎれば、それで済むだけの話だった。

 

 

 だが、カヨコの目が戦慄により大きく見開かれる。

 

 

 よりにもよって、その子供が『歌住サクラコ』の進行方向の真ん前で転んだという事実が、この状況を最悪の極みへと変貌させていた。

 

 カヨコは、サクラコという女の本質的な凶暴性と傲慢さを嫌というほど知っている。

 サクラコにとって、人間など家畜かそれ以下の汚らわしい劣等種に過ぎない。

 そんな劣等種の1匹が自らの目の前で、これ以上ないほど不快な濁った鳴き声を上げて進行を妨害したのだ。

 

 サクラコが激昂し、その場でファンガイアとしての圧倒的な怪物の正体を現し、泣き叫ぶ子供の頭を躊躇なく踏み砕き、悲鳴を上げる周囲の人間をもろとも巻き込んで、この成田空港を血の海へと変える凄惨な殺戮劇を始めることが、カヨコの脳裏には容易に、そして確信を持って想像できてしまった。

 

 「ワカモ、ウタハ、止めるよ……!」

 

 カヨコが喉の奥から絞り出すような、極限の緊迫感を孕んだ鋭い声を響かせる。

 

 「チッ……最悪ですわ! せっかくの懐かしい帰郷が、あの無粋な女のせいで台無しですこと!」

 

 隣を歩いていたワカモの黄金の瞳に、一瞬で冷徹極まりないファンガイアとしての戦慄の殺気が宿り、いつでも獲物の息の根を止められるよう、着物の袖の中でその妖艶な指先を鋭く曲げる。

 

 「すまない、2人とも……! もっと私が周囲に注意を払っていれば……!」

 

 ウタハもまた、まるで苦虫を噛み潰したかのような険しい表情を浮かべ、眼鏡の位置を直しながら、いつでもサクラコの両腕を組み伏せて拘束できるよう、全身の筋肉を限界まで緊張させて取り押さえる準備に取り掛かった。

 

 一触即発、コンクリートの床が血で染まるカウントダウンが始まったかに思えた。

 

 

 しかし。サクラコが実際に取った行動は、カヨコたちの想定していた最悪のシナリオを遥かに超越したものだった。

 

 

 「……おや。坊や、痛くありませんか? ほら、お立ちなさい」

 

 サクラコの口から漏れ出たのは、一切の刺々しさやトゲを感じさせない、まるでどこまでも深く澄み渡った教会の鐘の音のように、優しく慈愛に満ちた柔らかな声だった。

 

 そればかりか、彼女は純黒の高級なシスター服の膝が空港の床で汚れることなど一顧だにせず、その場にそっと上品にしゃがみ込んだのだ。

 そして、怯えて泣き叫ぶ子供の小さな泥だらけの手を両手で優しく包み込み、ゆっくりとその小さな身体を立たせてあげた。

 

 「えっ……?」

 

 カヨコ、ワカモ、ウタハの3人は、あまりの衝撃的な光景に驚愕で目を見開き、言葉を失ったまま完全にその場で化石のように固まってしまった。

 

 あの人間嫌いなサクラコが、人間の手に触れている…?

 

 目の前で行われている出来事が現実のものとは到底信じられず、脳内の処理が完全に停止してしまっている。

 

 そんな3人の凄まじい動揺などどこ吹く風で、サクラコは立ち上がった子供の頭を、まるで本物の聖母であるかのように、どこまでも愛おしそうに優しく撫でながら、静かに言葉を紡ぎ続けた。

 

 「神はいつでも、貴方のその勇敢な姿を見ておられますよ。私たちが常に強き姿を周囲に示し、正しく歩まねば……神に顔向けができませんからね。さあ、涙を拭いて、前を向くのです」

 

 サクラコの全身から溢れ出る、圧倒的なまでの聖神と絶対的な慈愛のオーラに完全に包み込まれたためか、先ほどまで火がついたように泣き叫んでいた子供は、目元に涙を溜めたままピタリと泣き止んだ。

 そして、ぽかんとサクラコの美しい顔を見つめた後、その顔をパッと輝かせた。

 

 「……うん! お姉ちゃん、ありがとう!」

 

 子供は元気よくそう叫ぶと、恐怖を忘れて再びロビーの奥へと元気に走り去っていった。

 サクラコはしゃがんだ姿勢のまま、美しい微笑みをその唇に湛えながら、小さくなっていく子供の後ろ姿に向かって、パタパタと白く細い手を優しく振り続けている。

 

 「……どうなってるのですか、一体……? あの女、頭の回路が焼き切れたとしか思えませんわ」

 

 ワカモが呆然とした様子で、開いた口が塞がらないといった風に呟く。その横でカヨコは、サクラコがなぜこれほどの大ハプニングに対しても激怒することなく、ここまで異常なほどに上機嫌でいられるのか、その明確な『理由』を1人で察していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、遡ること数日前。キヴォトスのとある平原の地下に建設された、ウタハの秘密の隠れ家の一つでの出来事だった。

 

 緊急の呼び出しを受けて集まったカヨコとワカモの2人は、薄暗い地下室のモニターの前で、およそ信じられない奇妙なものを見せられていた。

 

 「いやはや……本当に、困ったことになってしまってね」

 

 大きな制御パネルの横で、非常に困惑した複雑な表情を浮かべながら、大きなペンチを持ったまま頭を掻いているウタハ。

 そして、そのすぐ真横には普段の厳格で冷徹な態度からは到底想像もつかない、まるで念願の玩具を買い与えられた幼児のような、満面の笑みを浮かべて身体を不自然にくねらせているサクラコの姿があった。

 

 「ウタハさん。いったい何があったというのですか? サクラコさんの、この異常なまでの浮かれようは…? 正直に申し上げて非常に不愉快なのですが」

 

 ワカモが軽蔑の混じった冷ややかな声でウタハに問いかける。

 

 ウタハが「実はね……」と言葉を返そうとしたその瞬間、サクラコがそれを強引な力で遮るようにして、一歩前に猛烈な勢いで踏み出してきた。

 その美しい頬は、狂おしいほどの興奮のせいで真っ赤に染まっている。

 

 「貴女たち、よく聞きなさい! 先日、あの偉大にして絶対なる『ビショップ』様から、この私に直接の秘密裏のご連絡があったのです! 『非常に重要かつ、崇高なる秘密任務があるため、キヴォトスでのすべての任務を即座に中断し、直ちに日本へと帰還せよ』、とのありがたきお言葉をいただきました!」

 

 サクラコは細い拳を強く握りしめ、恍惚とした表情で天井を見上げた。

 

 「実に22年ぶり……! 22年ぶりの、ビショップ様からの直々のご命令なのです! 私がどれほど、どれほどこの時を待ち望んでいたか貴女たちに分かりますか!? ああ、敬愛するビショップ様にようやく…ようやく再びお会いできる……! 彼の方のもとで、その忠実なる剣として再びこの身を振るえるだなんて、これ以上の至上の誉れが、この世のどこに存在するというのですか!?」

 

 完全に自分だけの世界に没入して舞い上がっているサクラコを他所に、ウタハはカヨコとワカモの二人を少し離れた暗がりのスペースへと手招きし、さらに声をひそめて重大な耳打ちを開始した。

 

 「……聞いての通りだ。この22年間、完全に音沙汰のなかったあのビショップ様が、このタイミングでサクラコを呼び戻すなんて、あまりにも不自然すぎると思わないかい? 私には、どうにもよからぬ嫌な予感しかしないんだ。何か大きな陰謀に、あの猪突猛進で視野の狭いサクラコが利用されるんじゃないかってね」

 

 ウタハは紫の瞳を深刻に光らせ、2人に問いかける。

 

 「だから私は彼女の監視役として、今回の日本行きに同行するつもりだ。……それで、君たちはどうする? このままキヴォトスに残るかい?」

 

 カヨコは少しの間、無言のまま冷たいコンクリートの床を見つめていたが、やがて小さく息を吐き出した。

 

 「私は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして現在、カヨコとワカモは日本帰国への同行を決意してこうして成田空港に立っている。

 

 彼女たちには、ファンガイアとしての揺るぎない一族の誇りはある。しかし、それは決してビショップやキングといった上位存在の都合の良い命令に、奴隷のように絶対服従で縛られるという意味ではなかった。

 彼女たちは、自らの掟を最低限守りつつも、基本的には誰にも邪魔されることなく、気ままに自由に生きたいと願う個人主義者なのだ。

 

 だからこそ、サクラコのようにビショップの足元へ馳せ参じて忠誠を誓うつもりなど毛頭なかった。

 

 それでも日本へわざわざついてきたのは、キヴォトスでのあまりにも平和で退屈な日常の連続に、本能的な飽きを感じていたからだ。

 何かが起こる、かつてのような途方もない刺激と混沌が待ち受けている予感が、彼女たちの本能を突き動かしたに過ぎない。

 

 「それじゃあ、サクラコ。行こうか」

 

 空港の広々とした到着ロビーに出たところで、ウタハが大きなトランクを持ち直しながらサクラコに向かって告げた。

 

 「ビショップ様が指定されたという、東京の合流地点へ向かうのだろう? 私もきっちりついていくよ。君を1人にするわけにはいかないからね」

 

 ウタハとしては、サクラコを日本という一般人が密集する環境で完全にフリーにした場合、もし何かの拍子に彼女が逆上した時の被害が、国家規模の尋常ではない大惨事になることを最も懸念していた。

 

 

 だ が

 

 

 「断る。ビショップ様の元へ向かうのは、この私1人だ。ウタハ、貴様は来るな」

 

 サクラコは先ほどまでの聖母の微笑みを一瞬で消し去り、氷のように冷徹な表情に戻ってウタハの言葉を冷酷に突っぱねた。

 

 「何だって? だが、サクラコ、君1人ではもしもの時に――」

 

 「くどい!!」

 

 サクラコは突如として額にどす黒い青筋を激しく立てて激昂し、空港のロビー全体に響き渡るような、鼓膜を裂くほどの鋭い怒号を放った。

 周囲の一般客たちが、何事かと一斉に恐怖の視線をこちらに向ける。

 

 「崇高にして絶対なるビショップ様に、貴様のようなただの技術屋ごときがお目通しできるなどと……自惚れが過ぎる!! 勘違いするな、ウタハ! ビショップ様がお呼びになられたのは、選ばれしこの私なのだ!! 私の神聖なる再会の瞬間を邪魔する者は、たとえ一族の同胞であっても容赦なくこの手で排除する!!」

 

 サクラコはそれだけを一方的に言い捨てると、凄まじい怒りの足取りで床を鳴らし、群衆をモーセの海割りのように掻き分けながら、一人で空港の出口へと向かって去っていった。

 

 「あ、おい! 待つんだ、サクラコ!!」

 

 ウタハが慌てて手を伸ばすが、純黒のシスター服の背中は、あっという間に人混みの奥へと消えて見えなくなってしまった。

 不安と困惑の入り混じった表情で彼女の後ろ姿を見送るウタハの肩を、カヨコが背後からポン、と軽く叩いた。

 

 「……もういいじゃない、ウタハ。あそこまで言われたんだから、放っておきなよ」

 

 カヨコは心底呆れたように小さく首を振る。

 

 「アイツの向かう先には、その崇拝してやまないビショップ様がいるんでしょ? いくらアイツでもビショップ様の監視下で暴走するなんてことはないだろうし、私たちが余計な心配をするだけ時間の無駄。……それより、せっかく22年ぶりに日本に帰ってきたんだ。アイツのことなんてさっさと忘れて、私たちは私たちで、この久しぶりの日本の街を堪能しようよ」

 

 「ふふ、カヨコさんの仰る通りですわ、ウタハさん」

 

 ワカモがクスクスと妖艶な含み笑いを漏らしながら、着物の袂から覗く白い手でウタハのもう片方の肩にそっと手を置いた。

 

 「たまには、あの頭の固い聖女様のお守りなんて忘れて、私たちだけで羽を伸ばしましょう♪ 素晴らしい刺激が、この街には満ち溢れている予感がしますもの」

 

 「……あ、あぁ……。そうだね。君たちがそこまで言うなら、今回は一旦、彼女の自主性に一任することにしようか」

 

 ウタハもこれ以上の追跡は不可能と判断し、諦めたように深い溜息をついた。

 こうして3人は成田空港のロビーで解散し、それぞれの目的のために別行動をとることに決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 成田空港から特急電車に揺られ、大都会・東京の喧騒とした市街地へとやってきたカヨコは、1人で宛てもなく静かに街を歩いていた。

 

 22年という歳月は、カヨコが記憶していたこの街の景色を、あまりにもドラスティックに変貌させていた。

 かつて存在していた古き良き昭和の面影を残す建物は悉く取り壊され、キヴォトスにも匹敵する近代的な超高層ビルや、夜でなくとも眩しく明滅する巨大な電光掲示板が至る所に立ち並んでいる。

 

 行き交う人間の服装も、誰もが片手で弄っているスマートフォンの形も、すべてがかつてとは異なっていた。

 

 「(……22年か。本当に、変わらないものなんてこの世界には何一つとして存在しないね)」

 

 どこか冷めた、突き放すような気持ちでそんな街の変化を眺めていたカヨコだったが、少し中心街から外れた静かな住宅街の入り口へと差し掛かった時、ふと、ある異様な一角の前でその足を完全に止めた。

 

 「……これは、すごいな」

 

 カヨコの赤みを帯びた瞳が、吸い寄せられるようにそこにある建造物を凝視した。

 

 それは、周囲の新築の近代的な一戸建て住宅とは明らかに一線を画す、広大な敷地の奥にひっそりと佇む、酷く古い洋館だった。

 建物全体がうっそうとした緑のツタに厚く覆われ、壁のレンガは雨風に晒されて黒ずみ、至る所が朽ち果てかけている。

 

 まさに『お化け屋敷』と呼ばれてもおかしくない、そんな不気味な場所だった。

 

 だが、カヨコの目には、その滅びへと向かって朽ち果てていく姿の中に、どうしようもないほどの「荘厳な美しさ」がハッキリと見て取れた。

 何より、その古びた屋敷の奥底から狂おしいほどに美しい『芸術の残り香』のようなものが、微かな空気の震えとなって漂ってくるのを彼女の敏感な本能が察知したのだ。

 

 カヨコが門の前に佇み、じっとその屋敷の佇まいを見つめていると、背後から静かな2つの足音が近づいてきた。

 

 「あの……。ウチの屋敷に、何かご用でしょうか?」

 

 振り返ると、そこには見慣れない制服を着た人間の少女と、白いフードを深く頭から被り、その顔面を異様な黒いガスマスクで完全に覆い隠した小柄な少女が立っていた。

 

 それこそが、あの定食屋でのサンマの骨を巡る小さな大騒動を終え、ようやく我が家へと帰ってきたばかりの静香とアツコの2人だった。

 

 カヨコは自らの正体を隠し、とっさに『ユキ』という偽名を名乗ると、かつての懐かしさからつい見惚れてしまっていたのだと、声音を和らげて静かに釈明した。

 その気怠げでありながらも、どこか洗練された大人の上品な雰囲気に完全に毒気を抜かれたのか、お人好しの静香は「よかったら、中でお茶でも飲んでいかれませんか?」と、初対面のカヨコを快く屋敷の中へと招き入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 通された洋館の居間は、外観の荒れ果てた、今にも崩れ落ちそうな様子とは全く異なり、不思議なほどに心が厳かに落ち着く、完成された芸術的空間だった。

 

 「どうぞ、ユキさん。急にお誘いしてしまったので、大したおもてなしはできませんけど」

 

 静香が丁寧に淹れてくれた、香ばしい湯気を立てる温かいお茶が、木製の古いテーブルの上にそっと置かれる。

 

 「ふふ、ありがとう」

 

 カヨコは優しく微笑み、湯呑みを両手で受け取って贅沢に一口啜った。

 温かい液体が、長旅の緊張に凝り固まっていた身体の芯へとじんわりと優しく染み渡っていく。

 

 一息ついたカヨコは、そのまま居間の壁や、部屋の隅に置かれた棚へと、何気なく視線を巡らせた。

 そして次の瞬間、彼女の端正な顔立ちに、隠しきれない微かな驚きの色が浮かび上がる。

 

 

 部屋のあらゆる場所に、様々な種類の『バイオリン』が存在していたのだ。

 

 

 壁のラックに綺麗に飾られた、深い琥珀色の艶を放つ完成品のバイオリンの数々。

 

 棚の上に置かれた、まだ木肌が完全に剥き出しのままである製作途中のボディ。

 

 そして中央の大きな作業机の上には、様々な専門的な彫刻刀や工具とともにバラバラに分解された、修理の途中とおぼしきオールドバイオリンの細かなパーツが整然と並んでいる。

 

 削られた木の独特な良い香りと、独特なニスの甘い匂いが部屋の空気に深く、濃密に染み付いていた。

 

 「……ここは、バイオリンの工房なんだね」

 

 カヨコが感嘆を込めて静かに呟くと、対面に座った静香は、まるで自分のことのように嬉しそうにその目を輝かせた。

 

 「はい! ここは昔、アツコのお父さんが使っていた大切な工房なんです。今はアツコがその意志と跡を継いで、毎日一生懸命、バイオリンを新しく作ったり、壊れたものを直したりしてるんですよ。……もしかして、ユキさんもバイオリンがお好きなんですか?」

 

 「ええ……」

 

 カヨコは目を細め、正面の壁に掛けられた一挺の、古びていながらも美しいバイオリンを見つめながら、どこか遠い過去の記憶を静かになぞるように語り始めた。

 

 「バイオリンの音色は、本当に素晴らしいよ。あれは、他のどんな楽器とも明確に違う。弾く者の魂そのものを、一切の誤魔化しなくダイレクトに感じられるし、それを聞いた者の魂を、根底から激しく揺さぶる力がある。数ある楽器の中でも、バイオリンだけは……私にとって、少し『特別な存在』なんだ」

 

 カヨコのその言葉には、かつて1986年の日本で出会った、人間でありながらも、誰よりも美しい音色を奏でていた『あの男』への、複雑な未練と情念が、本人の自覚を越えてほんの少しだけ乗せられていた。

 

 カヨコは視線をゆっくりと戻し、作業机の真横で一言も発さずに佇んでいるガスマスクの少女――アツコへと、その真っ直ぐな目を向けた。

 

 「……ここに並んでいるバイオリンたちを見れば、私にだって分かるよ。どれも本当に丁寧に、そして……言葉にできないほどの深い愛を込められて作られ、修復されている。ただ機械的に効率よく作られた既製品とは、放っている気配の格がまるで違うもの」

 

 カヨコはガスマスクで隠されたアツコの顔をじっと見つめ、慈しむような優しい眼差しを向けた。

 

 「貴女……本当に、バイオリンを心の底から愛しているんだね」

 

 その言葉を真っ正面から受け止めたアツコは、ガスマスクの奥で少し照れたように、細い身体をモジモジと小さく揺らした。

 そして慌てて鞄から使い古されたスケッチブックを取り出すと、素早い流れるような手つきで文字を書き、カヨコの目の前へと掲げて見せた。

 

 『ありがとう、ユキさん。私のバイオリンをそう言ってもらえて、すごく嬉しい』

 

 「ふふ、素直で良い子だね」

 

 カヨコが小さく満足げに笑った、まさにその時だった。

 

 カヨコの視界の端を、何かが横切ったかのような奇妙極まりない違和感が走った。

 

 「(……今、何かが、確かに動いた?)」

 

 彼女は怪しむように、複数のバイオリンが厳かに飾られている壁の方向へと、ゆっくりと歩みを進めようとした。

 

 「わーーーっ!! ダメです、ユキさん!! そこから先へは近づかないでくださいーーーっ!!」

 

 突如、それまで大人しかった静香が両手を大きく左右に広げ、必死の相好を崩さずに、カヨコの進行ルートを肉体で完全に阻むようにして立ちはだかった。

 

 「え……? 何?」

 

 「そこ、そこにあるバイオリンは、アツコがさっき表面に塗り終えたばかりの、特製のニスがまだ全然、これっぽっちも乾ききってないんです! 今ユキさんが近づいて万が一埃が舞ったり、お洋服の裾がちょっとでも触れたりしたら、取り返しのつかない大失敗になっちゃいますから! 本当に、本当にお願いですから、今すぐそこから離れてくださいーー!!」

 

 静香は顔を真っ赤にして、大袈裟なほどに大振りに手を振りながら、カヨコをテーブルの方へと必死に押し戻そうとする。

 

 カヨコの後ろでは、ガスマスクをつけたアツコが、静香の突然の過剰なまでのテンションの奇行と、カヨコの鋭い反応の板挟みになり、オロオロと細い両手を空間で彷徨わせながら、完全にハラハラとした様子でその場で固まっていた。

 

 「あ、ああ……ごめん。悪かったよ、そんなに慌てないで」

 

 カヨコは静香の予想以上の凄まじい防衛の勢いに完全に圧倒され、困ったような苦笑いを浮かべながら、大人しく一歩後ろへと下がった。

 

 「(……ただの私の気のせい、かな。ニスの独特な匂いのせいで、少し感覚が過敏になりすぎていたのかもしれない)」

 

 カヨコはそれ以上の追及を頭の中で取りやめ、再び穏やかな旅行客としての『ユキ』の表情に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京の流行の発信地であり、若者たちのエネルギーが昼夜を問わず渦巻く街――渋谷。

 

 その一角にそびえ立つ、ガラス張りのスタイリッシュな自社ビルを構える高名なモデル事務所『グレース・エージェンシー』。

 

 その最上階にある、洗練された高級家具で統一された広大な社長室の前で、所属の若手女性モデルである真央は、自身の胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、完全に浮き足立っていた。

 

 なぜなら、自社の所属モデルたちだけでなく、他の一流事務所の有名モデルたちでさえもが虎視眈々とその隙を狙っているという、誰もが羨む麗しい美貌と圧倒的なカリスマ性を兼ね備えた若き敏腕社長でもあり一流モデルでもある『五十嵐蓮』から、直々に「今夜、君と2人きりで大事な話がある」と、この社長室へと直々に呼び出されたからだ。

 

 「(もしかして……ついに私、社長に認められて、大抜擢の特別案件を貰えるんじゃ……。それとも、まさかプライベートな告白とか!?)」

 

 真央は期待に胸を膨らませ、丁寧にノックをしてから重厚なドアを開けて中へと入った。

 

 社長室の奥では、高級な革張りのソファに深く腰掛けた、非の打ち所のない甘いマスクを持つ五十嵐が、薔薇のような優雅な微笑を浮かべて待っていた。

 

 「よく来てくれたね、真央。君がこうして私の部屋に入ってきてくれて、本当に嬉しいよ」

 

 「あ、ありがとうございます、社長……!」

 

 真央がその完璧なルックスに見惚れ、完全にデレデレと締まりのない笑みを浮かべていた。

 すると五十嵐は音もなくソファから立ち上がると、真央の背後へと回り込み、流れるような手つきで社長室の分厚い扉の鍵をガチャリ、と静かに閉めた。

 

 真央はその音を聞きながらも、恐怖を抱くどころか、密室で二人きりになった状況に『あんなことやこんなこと』といった卑猥で甘い妄想を脳内で激しく爆発させていた。

 

 すると、五十嵐は真央のすぐ目の前まで音もなく距離を詰め、彼女の耳元にその冷たい吐息が触れるほどの至近距離まで、その美しい顔を近づけてきた。

 

 「君の美しさに……乾杯」

 

 五十嵐がそう囁いた、まさにその直後だった。

 

 「……え?」

 

 真央の視界の中で、信じられない異変が起きた。五十嵐の美しい端正な顎のラインから首筋にかけて、突如として、まるで教会の窓に嵌め込まれたステンドグラスのような、色鮮やかでありながらも不気味極まりない幾何学的な紋様が、シュルルル…と這い回るようにして浮かび上がってきたのだ。

 

 「しゃ、社長……? その、お顔の模様は、一体……?」

 

 真央が恐怖で声を震わせると同時に、五十嵐の身体全体が激しいステンドグラス状の光の粒子に包まれ、その肉体が瞬く間に変貌を遂げていく。

 

 光が収まったそこに立っていたのは、もはや人間の姿ではなかった。馬の頭部を模した硬質な意匠を持ち、全身が青と黒の禍々しいステンドグラスの体組織で構成された異形の怪物――『ホースファンガイア』へと、彼はその完全な正体を現したのだ。

 

 「キャ、キャァァァァァァァーーーッ!!!! 怪物!!! 助けて!!!」

 

 真央は狂ったように叫び、狂乱状態で入り口のドアへと駆け寄ってノブを激しくガチャガチャと回した。しかし、扉はびくとも動かない。

 

 「無駄だよ、真央。その扉の鍵はね、私の特注の複雑な仕組みで作られている。特定の手順を使わない限り、開けることは不可能なのさ」

 

 ホースファンガイアの、胸部と肩口にあるステンドグラスの半透明な体組織の中に、先ほどまでの五十嵐の美しい顔が不気味に浮かび上がり、嘲笑うようにそう告げた。

 

 「さあ……君のその美しい命の輝きを、私の血肉として全て捧げてもらうよ」

 

 ホースファンガイアが、逃げ場のない真央に向かってジリジリと重い足取りで近づいていく。

 恐怖にすくむ真央の頭上に吸命牙が、今まさに彼女の生命エネルギーを根こそぎ吸い尽くそうと、徐々にその姿を現し始めた。

 

 「嫌あああ! 誰か、誰か助けてええええええ!!!!」

 

 

 真央が絶望の叫びを上げた、まさにその瞬間。

 

 

 バリシャガァァァァーーン!!! と、社長室の背後にある全面ガラス張りの巨大な窓が、凄まじい衝撃とともに派手に粉々に打ち砕かれた。

 

 

 「なっ……何事だ!?」

 

 ホースファンガイアは何事かと驚愕し、咄嗟に後ろを振り向く。その結果、彼の集中力が削がれたことで、真央の頭上に展開しかけていた吸命牙は煙のように綺麗に霧散して消え去った。

 

 

 割れた窓から室内の絨毯の上へと豪快に着地したのは、『1人の若き人間の女性』だった。

 

 

 彼女の右手には、一見すると特殊な意匠を凝らされた洗練された金属製の拳銃のような形に見えるが、実はその本質はマイクロボウガンであり、対ファンガイア用の強力な銀色の特殊弾丸を射出する現代の超兵器――『ファンガイアバスター』が、鈍い銀色の光を放ちながら固く握られていた。

 

 その女性――『麻生恵』は、着地すると同時にファンガイアバスターの特殊弾倉を瞬時に変形・解放させた。

 

 シャキィィィン! と鋭い金属音を立てて銃口の先から伸びたのは、短剣のような鋭利なブレードが幾重にも連なった、長大な鎖の鞭であった。

 

 「ハァッ!!」

 

 恵が鋭い掛け声とともに手首を鮮やかにしならせると、伸びた鎖の鞭が空間を猛烈な速度で引き裂き、ホースファンガイアの硬質な胸部へと正確に炸裂した。

 

 「ガアアアアアアァァ!!!!」

 

 バチバチバチィーーン!!! と激しい火花が散り、ホースファンガイアはその凄まじい威力に耐えきれず、後方のデスクへと派手に吹っ飛んで倒れ込んだ。

 さらに恵は、戻る鎖の軌道を利用して入り口のドアノブへと鞭の先端を叩きつけ、五十嵐が施していた複雑な鍵の機構を一撃で粉々に破壊してみせた。

 

 「今のうちに逃げて! 早く!」

 

 恵が真央に向かって鋭く叫ぶ。

 

 「ひ、ひぃっ……! ありがとうございます、ありがとうございますぅぅ!!」

 

 真央は目元にボロボロと涙を浮かべながら、開いた扉を潜り抜け、廊下の奥へと全力で逃げ去っていった。

 

 「……チッ、小癪な真似を……!」

 

 デスクの残骸を押しのけ、ゆっくりと立ち上がったホースファンガイアは、その全身のステンドグラスの紋様に激しい怒りの形相を浮かび上がらせ、恵を殺意に満ちた目で睨みつけた。

 

 「貴様……! 人間の分際で、この私の食事を邪魔するか! 何者だ貴様は!」

 

 麻生恵は手元を鮮やかに操作し、ファンガイアバスターの鎖の鞭をシュルシュルと音を立てて本体の銃身の中へと瞬時に格納した。

 そして、その銃口を真っ直ぐにホースファンガイアの顔面へと突きつけながら、凛とした強い声を響かせた。

 

 「……神は過ちを犯した。貴方たちのような存在をこの地上に許してしまったという過ち…。……このアタシが正してあげるわ!」

 

 「ほざけぇぇぇ!!」

 

 恵はすかさずファンガイアバスターを本来の銃の形態(ガンモード)へと戻すと、間髪入れずにトリガーを連続で引き絞った。

 

 

 ドガガガガガアン!!!

 

 

 ファンガイアバスターから射出された、ファンガイアの肉体を内側から破壊する複数の銀色の特殊弾丸が、ホースファンガイアの身体に次々と直撃し、猛烈な爆発と煙を巻き起こす。

 

 「グアァァァッ!? バ、バカな、人間の武器がこれほどの威力を……!?」

 

 ホースファンガイアは激しいダメージに呻き、さらに恵が間髪入れずに再び鞭形態へとチェンジさせたファンガイアバスターによる、変幻自在にして容赦のない苛烈な打撃の連撃を浴びせかける。

 銃撃と鞭による完璧なコンビネーションの前に、ホースファンガイアは完全に防戦一方となり、これ以上戦うのは明白に分が悪いと即座に判断した。

 

 「クソッ……! 覚えていろ!」

 

 ホースファンガイアは残された力を振り絞り、割れた窓の方向へと文字通り這う這うの体で飛び出すと、渋谷の夜のビルの谷間へと向かって、無様に逃走を図ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 恵の猛追を振り切り、満身創痍の状態で渋谷の暗い裏路地のゴミ捨て場へと転がり込んだホースファンガイアは、壁に背中を預けながら、ハァハァと激しい苦悶の息を漏らしていた。

 

 その身体のステンドグラスからは、銀の弾丸によるダメージのせいで、パチパチと不快な火花が未だに散っている。

 

 「クソ……! クソクソクソ!!! 何なんだあの女は……! 一体どうなっているんだ……!?」

 

 ホースファンガイア――五十嵐蓮は、精神的な屈辱と肉体的な激痛のあまりに、地面のコンクリートをその拳で激しく殴りつけた。

 

 「この俺が……至高の一族たるファンガイアが、あんな人間の小娘一人の手によって、ここまで無様に追い詰められ、逃げ惑う羽目になるなどと……! 22年という長い時を経てもなお、この俺を容赦なく屠ろうとする愚かな人間が、未だにこの日本に存在しているというのか……!?」

 

 彼は、自らの傷口から溢れ出る青い光の粒子を見つめながら、絶望に満ちた声を夜の闇に響かせた。

 

 「ああ……! あの頃に……誰もが欲望のままに踊り狂い、至高の栄華を極めていた、あの狂乱のバブルの時代に戻りたい……! あの頃の俺は、誰よりも輝いていたというのに……!」

 

 ホースファンガイアは、激しい痛みに耐えながらも、あの忘れもしない輝かしい過去――1986年という激動の時代に、狂おしいほどの未練とともに深く思いを馳せるのだった。




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