長くなりすぎたので前編、中編、後編に分かれてます。
まずは前編です。
西暦1986年。日本という極東の国は、のちに誰もが羨望と侮蔑を交えて振り返ることになる『バブル経済』という名の、底知れぬ熱狂の季節を迎えていた。
街の灯りは眠ることを忘れ、人々の欲望は右肩上がりの株価や地価のグラフに綺麗に連動するように、天井知らずに膨れ上がっていた。
銀座の交差点では1万円札をこれ見よがしに掲げなければタクシーを捕まえることすらできず、高級ディスコのVIPルームでは最高級のシャンパンがまるで水道水のように惜しげもなく床へとこぼされていた。
誰もが明日は今日よりも豊かになると盲信し、土地を買えば翌日には数倍の値段で売れるという、狂った錬金術が公然と成立していた異常な時代。
そんな時代を、自らの長いファンガイアとしての生の中で最も深く愛し、その恩恵を冷徹に貪っていた男がいた。
男の名は『津上カオル』。のちの平成の世において『五十嵐蓮』という偽名を名乗ることになる男であり、その本性は高貴なるホースファンガイアであった。
津上はこの狂った景気の波に乗じるようにして、都内に一つの不動産会社を立ち上げた。
当時の不動産市場はまさに無法地帯であり、経済の仕組みなど何一つ理解していないずぶの素人であっても、銀行から湯水のように金を借りて土地を転がすだけで、数億、数十億という莫大な富を容易に手にすることができたのだ。
ましてや、津上にはファンガイアとして数え切れないほどの年月を生き、人間の愚行と歴史の変遷を見つめ続けてきた圧倒的な知識と経験があった。
それらをフルに活かした彼の経営は神がかり的な大成功を収め、会社は瞬く間に業界の寵児へと上り詰めた。
「実に素晴らしい時代だ。人間どもの強欲が、これほどまでに質の良い果実を生み出すとはね」
津上は毎夜のように最高級の贅沢を貪り、自らが生み出した富と熱狂の渦の中心で優雅に溺れていた。
彼にとってこのバブル期の日々は、これまでの退屈なファンガイア生の中で、間違いなく最も幸福で、最も充実した黄金の季節であった。
そして、敏腕社長という完璧な人間の肩書きを得た津上には、ファンガイアとしての極めて強いこだわり、すなわち『偏食』の趣味があった。
彼はそこらの有象無象の人間から生命力を奪うような、品のない真似は決してしない。
彼が至高の糧として何よりも好んだのは、美貌と気品を兼ね備えた『美女』のライフエナジーであった。
津上はその圧倒的な財力と洗練されたルックスを武器に、自らの秘書として極上の美女ばかりを次々と雇い入れた。
彼女たちは若い敏腕社長の甘い言葉と完璧な社会的ステータスに完全に心酔し、自らが極上の家畜として飼育されていることなど夢にも思っていなかった。
津上はバブルの幸福感に酔いしれながら、彼女たちの放つ芳醇なライフエナジーを最後の一滴まで美味に吸い尽くしては、次なる獲物へと乗り換えるという悪魔的な贅沢を繰り返していたのだ。
ある日の深夜、東京の喧騒から少し離れた暗い高架下の路地裏。
津上は、自らにとって通算『5人目』となる美人秘書のライフエナジーを、骨の髄まで吸い尽くしたところだった。
足元には、生命の全てを吸い付くされ、ガラスのように透明となった女の亡骸が、まるで壊れた人形のように静かに転がっている。
「ふぅ……やはり、現代の女の味は格別だ。熱狂の余韻が混ざり合って、実にとろけるような味わいじゃないか」
津上はホースファンガイアとしての異形の姿のまま、恍惚とした息を吐き出しながら、自らの鋭い爪についた光の残滓を満足げに見つめていた。
だが、その至福の余韻を切り裂くように、彼の真上から、『ひどく場違いなほどに透き通った美しい声』が静かに降ってきた。
「相変わらず、随分と偏ったお食事をされていらっしゃいますのね。『津上さん』?」
「っ……!? 誰だ!」
今の自分は、まだ人間には決して見られてはならないホースファンガイアの姿のままだ。
見られたのか、人間の分際でこの姿を――! 津上は激しい殺意をみなぎらせ、即座に上を向いた。
そこは、建設途中のビルの鉄骨が複雑に剥き出しになっている高所だった。
月光が薄暗く差し込むその不気味な鉄骨の隙間に、まるで重力を完全に無視しているかのように真っ逆さまにぶら下がっている『1人の女の影』があった。
それは、夜の闇に紛れるような艶やかな漆黒の着物を着こなし、息を呑むほどに美しい顔立ちに妖しい微笑を浮かべた、人間態の『狐坂ワカモ』であった。
「な……っ、狐坂……ワカモ……!?」
津上は驚愕のあまり、ホースファンガイアの硬質な顔の奥で激しく目を見開いた。
狐坂ワカモ。ファンガイアの一族の中でも、間違いなく最上位の階級に値する怪物。
実力だけで言えば、かの『チェックメイトフォー』に匹敵する圧倒的な力を持った本物の大物だ。
縄張りを持たずに世界各地を気まぐれに放浪し、他の同胞と群れることなど決してないはずの孤高の怪物が、なぜ自分のような一介のファンガイアにわざわざ接触を図ってきたのか。
津上の脳内に激しい警戒心と、言葉にできない不気味な疑惑が渦巻く。
ワカモは津上の動揺をまるで楽しむかのようにクスクスと低く笑うと、ぶら下がっていた鉄骨から、一切の着地音を立てることなく、ひらりと優雅に地面へと降り立った。
彼女は未だに戦闘態勢を解かないホースファンガイアの姿の津上に向かって、どこまでも楽しげに、ニコニコとした愛らしい笑みを絶やさないまま、コツコツと距離を詰めていく。
「ふふ、そんなに警戒なさることはなくてよ? 私はただ、少し懐かしいお顔が見えましたので、ご挨拶に伺っただけですわ。……それにしても、美女ばかりを狙うその徹底した『偏食』……素晴らしいこだわりですこと。一族の者として、自らの欲に忠実であることは、とても良いことですわ」
ワカモは津上のすぐ目の前でピタリと足を止めると、その美しい指先を自らの薄い唇に当て、一瞬だけ、その黄金の瞳の奥にゾッとするような冷徹な光を宿らせた。
「だけど……気をつけなさいな、津上さん。今、この日本の人間たちは、私たちが思っている以上に、その陰で静かに『牙』を研いでいますわ。うっかり油断して、その牙に深く噛まれないように、どうぞご注意を……。ふふ、ふふふふ……」
不気味な含み笑いとともに、ワカモの身体が陽炎のように激しく揺らめいた。
津上がハッと瞬きをした次の瞬間には、彼女の姿は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、夜の闇の中へと完全に掻き消えていた。
「……チッ、何が牙を研ぐだ。ただの世迷言を」
周囲の気配が消え去ったことを確認した津上は、激しい不快感とともに、その肉体を人間の姿へとゆっくりと戻した。
高級なブランド物のスーツの襟を整え、ワカモが消え去った暗闇に向かって、フンと鼻で冷たく笑う。
「人間ごときが、この至高なるファンガイアに歯向かうなど、愚かでしかない。いくら時代が変わろうが、奴らは我らの家畜であり、ただ消費されるためだけの獲物なのだ。いちいち気にする必要などない」
津上はワカモの警告を完全に切り捨て、足元に転がる女の死体を冷酷に見下ろしながら、その場を悠然と立ち去ったのだった。
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明日は中編投稿します。