人間態:鬼方カヨコ。その正体はーーー   作:ていん?が〜

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1986年side:絢爛・バブル&クロス後編

 ゆりが息を切らせながら暗い路地裏の角を曲がった、まさにその直後のことだった。

 

 背後からは、ゆりを執拗に追う津上の部下たちの足音がすぐそこまで迫っている。

 ここで見つかれば、今度こそ大勢の人間に囲まれて終わりだ。

 

 「おい、こっちに逃げたぞ!」

 

 部下2人が息を切らせてその角を曲がった。しかし、彼らがそこで目にしたのは『逃走する女の姿』ではなかった。

 

 薄暗い街灯の下、壁に押し付けられるようにして一組の男女が激しく、そして情熱的に抱き合っている姿があった。

 男は派手なチェック柄のスーツを着ており、女の身体を完全に覆い隠すようにしてその顔を激しく寄せ合っている。

 

 「……あん? なんだ、ただのバカカップルか」

 

 部下は訝しげにその男女を見つめ、舌打ちをした。

 

 「おい! そっちじゃない、あっちの路地だ! 早く来い!!」

 

 もう1人の部下が遠くから大声を出し、訝しげに見ていた部下を呼び寄せる。

 

 「チッ、待てよ!」

 

 部下たちはバタバタと騒がしい足音を立ててその場を去っていった。

 

 部下たちの足音が完全に遠ざかり、周囲に静寂が戻ったのを確認したかのように『抱き合っていた女』が男の胸を激しく押し返してその身体を強引に離した。

 

 

 美しい黒髪を乱したその女は、やはり『麻生ゆり』であった。

 

 

 ゆりは激しく乱れた息を整えながら、自らを抱きしめていた見知らぬ男に向かって、鋭い口調の中に少しのバツの悪さをにじませながら言った。

 

 「……ごめんなさい、おかげで助かった」

 

 ゆりはそう短く告げると、すぐさま踵を返し、あの秘書を追って消えたホースファンガイア――津上カオルを再び追跡しようと走り出そうとした。

 

 

 ガシッ…。

 

 

 しかし、その細い手首を、男の大きな手が強い力でガッチリと掴んで引き止めた。

 

 「な……っ、離せよ! アタシは急いでるんだ!」

 

 ゆりが怒りを込めて振り返ると、男は、信じられないほどにキザで、かつ底抜けの自信に満ち溢れた、大袈裟な笑みをその唇に浮かべていた。

 

 「そりゃあないだろ、お嬢さん。これほど美しい夜に、俺をこれほどまでにその気にさせておいて……黙って去るなんて、あまりにも罪深いと思わないかい?」

 

 男はゆりの手を掴んだまま、彼女の肩にそっと自らのもう片方の手を置き、まるでダンスのステップでも踏むかのように、ゆりの身体の周りを優雅に、大袈裟に回りながら言葉を紡ぎ続けた。

 

 「人生は短い……。だけど夜は…どこまでも長い」

 

 男はそう言って、ゆりの抵抗する隙を与えないほどの滑らかな動きで、彼女の手の甲を引き寄せると、そこにチュッと深く、情熱的なキスをした。

 

 「さあ、お礼にお前のその美しい唇を――」

 

 男はそのまま、ゆりの顔に向かって自らの唇を突き出し、キスをしようと顔を近づけてきた。

 

 

 グイ…!

 

 「ムグォ…!?」

 

 しかし、その唇がゆりの肌に触れる前に、ゆりの冷たい手のひらが男の顔面を真っ正面から思い切り鷲掴みにするようにして完全にその動きを強制停止させた。

 ゆりは男の顔を手のひらで強く抑え込んだまま、ゴミを投げ捨てるかのような冷徹な力で、そのまま思い切り横へと突き飛ばした。

 

 「うおっと!?」

 

 男が無様にバランスを崩してよろめいている隙に、ゆりは「二度とアタシの前に現れるな!」と言い放ち、その場を凄まじい速度で走り去っていった。

 

 

 

 

 

 

 同時刻、暗い工事現場の最奥。

 

 「はぁ、はぁ、はぁ……っ! 誰か、誰か助けて……!!」

 

 必死に逃げ惑う秘書は、ついに資材が山積みにされた廃工場地帯の行き止まりへと追い詰められていた。

 

 背後からは、コツ、コツ、と、濡れた地面を歩く津上の高級な革靴の音が、まるでお迎えの鐘のように一定のプレッシャーを伴ってジリジリと迫ってきている。

 

 秘書は泣き叫びながら、行き止まりの先にある古びた鉄扉のノブを何度も激しく回した。

 しかし、頑丈な鍵がかかっているのか、扉はどれほど力を込めても微動だにしない。

 

 「誰かあああああああ!!! 開けてええええええ!!!!」

 

 彼女は血がにじむほどに何度も鉄扉を拳で叩き、絶叫した。しかし、このバブルの狂乱の夜の中、こんな人気の途絶えた暗闇の底で、彼女の救いを求める声を拾う者など、誰一人として存在するはずがなかった。

 

 「追いかけっこは、もう終いだ」

 

 気づけば、津上の影が彼女の身体を完全に覆い隠すほどの間近にまで迫っていた。

 秘書が恐怖に顔を跳ね上げた瞬間、津上の冷酷な手が伸び、彼女の高級なシルクのブラウスの胸ぐらをガチリと掴む。

 

 「ひっ……いや、いやぁぁ……!」

 

 津上の頬に、再び鮮やかなステンドグラスの模様が浮かび上がる。それと同時に、彼の首元の上、空間の虚空を裂くようにして、ファンガイア特有のエネルギーの顎――『吸命牙』が不気味に出現した。

 

 津上は躊躇うことなく、その吸命牙を秘書の白い首筋へと深く突き立てた。

 

 シュゥゥゥゥゥン……!!

 

 「あ……あ、が……っ……」

 

 秘書の身体からライフエナジーが吸命牙を通して、濁流のように津上の体内へと吸い込まれていく。

 彼女の頭脳…彼女の実務能力…その高いステータスの全てが、芳醇で濃厚な極上のエネルギーとなって津上の全身の細胞を潤していく。

 

 エネルギーを完全に奪われ、ガラスのように色を失った秘書の亡骸が、地面へと物言わぬ肉塊となって崩れ落ちた。

 

 「……っ、そこまでだ! 化け物!」

 

 その瞬間、遅れて現場へと飛び込んできたゆりが、目の前の惨状を見て激しい怒りにその声を震わせた。

 

 ゆりが息を切らせて到着した時には、すでに秘書は死亡しており、完全に手遅れの状態だった。

 津上は高所に設置された鉄骨の上から、まるで哀れな虫ケラでも見つめるかのように、ゆりの姿を冷酷に見下ろしていた。

 

 「遅かったね、小猫ちゃん。彼女の命は今、私の血肉として完璧に昇華されたよ」

 

 津上は再び全身にステンドグラスの光を纏うと、一瞬にして『ホースファンガイア』へとその姿を変身させ、ゆりの目の前へと轟音を立てて飛び降りた。

 

 「ふざけるな……! お前だけは、絶対にアタシがブッ殺す!」

 

 ゆりは激しい憎悪とともに、ファンガイアスレイヤーを真っ直ぐに構え、ホースファンガイアの胸元を狙って鋭く切り掛かった。

 

 「(フン…馬鹿の一つ覚えが)」

 

 津上はゆりの単調な直線の攻撃を見切り、あざ笑うようにひょいと身体を捻ってそれを綺麗に避けた。

 激しい剣撃は完全に空回りし、ゆりの身体はホースファンガイアを通り抜けて、その背後へと大きく回る形になった。

 

 「(勝った……!)」

 

 津上がゆりの背中を仕留めんと振り返ろうとした、まさにその一瞬の隙。

 

 

 カチャァァン!

 

 

 ゆりはファンガイアスレイヤーの手元のスイッチを瞬時に切り替え、その硬質なブレードを、無数の鋭利な刃がワイヤーで繋がれた『鞭形態』へと一瞬にして変形させたのだ。

 

 「これでも喰らいな!」

 

 ゆりは振り返りざま、そのファンガイアスレイヤーの鞭を、ホースファンガイアの無防備な背中へと向かって思い切りしならせて叩きつけた。

 

 

 ビシィィィィィーーーーン!!!!!

 

 

 「なに……っ!? ぐはぁっ!?」

 

 背後からの、想定外すぎる変則的な鞭による苛烈な一撃。意表を突かれた津上は、防御が完全に遅れ、その背中のステンドグラスの皮膚に深い衝撃を受けて激しくよろめいた。

 

 ゆりは攻撃の手を一切緩めない。鞭を縦横無尽にしならせながら、ホースファンガイアの巨体に向かって目にも留まらぬ速度で鞭による猛烈な連撃を叩き込み続けた。

 

 

 バチィィン! バチィィン!! ビシィィィン!!!

 

 

 「ぐっ、おのれ……人間ごときが……があぁっ!?」

 

 対ファンガイア用に調整された鞭の衝撃が、津上の体内のステンドグラス組織を内側から激しく激震させる。

 確実にダメージが蓄積し、ホースファンガイアはついに耐え切れず、濡れたアスファルトの地面へとガクリと大きな『膝をついた』。

 

 それと同時に、体力を激しく消耗した津上はファンガイアの姿を維持できなくなり、『人間態』の姿へと戻ってしまった。

 

 「これで、終わりだ……!!」

 

 ゆりは津上が人間態に戻り、完全に隙を晒したその瞬間を見逃さなかった。

 彼女はファンガイアスレイヤーを再び強く握り締め、津上の首を確実に撥ね飛ばすための、最後のとどめの一撃を全力で繰り出そうとした。

 

 

 ガシッ。

 

 

 「あ……っ!?」

 

 しかし、振り下ろされるはずだったゆりの両手首が、後ろから伸びてきたあの派手なスーツの男の手によって再び強い力でガッチリと掴まれ、空中で完全に止められてしまった。

 

 男はゆりの両手首を掴んだまま彼女の耳元へと自らの顔を寄せ、芝居がかったあまりにもキザな声で優しく囁いた。

 

 「寂しかったろう、お嬢さん。こんな暗い場所に、お前をたった独りにさせておいて……悪かったな、もう大丈夫だ」

 

 「はあぁぁっ!? 離せって言ってんだろ、この大バカ野郎!!!」

 

 男はゆりの怒号など一切耳に入っていない様子で、そのまま彼女の華奢な身体を後ろから愛おしそうにギューッと力強く抱きしめた。

 ゆりはとどめの一撃を邪魔された怒りで狂ったように暴れるが、男は「ふふ、照れなくてもいい」と、なかなか彼女の身体から離れようとしない。

 

 「(……っ、今だ!)」

 

 津上はその信じられないほどに滑稽で、しかし自分にとっては最大の救いとなった内輪揉めの隙を、絶対に見逃さなかった。

 彼は痛む身体を必死に奮い立たせると、地面を這うようにして、廃工場の深い暗闇の奥へと向かって一目散に逃亡し、その姿を消し去ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨の滴る暗い路地裏を、津上は必死の形相で走り続けていた。

 

 ゼェ、ハァ、と、これまで出したことのないような無様な荒い息が、彼の口から漏れ出る。

 

 「(なんだ……! なんだ、あの女は……!? 奴は、俺の会社を妬んで襲ってきた、ただの暴漢などではない……! 社長としての『津上カオル』じゃない、ファンガイアとしての、本物の『俺』の正体を、まるで最初から全て知っているかのようだった……!!)」

 

 津上の脳裏に、ゆりが放ったあの凄まじい鞭の軌跡が焼き付いて離れない。

 

 「(それに、あの武器……! 普通の銃火器すら効かない俺たちの、高貴なるファンガイアの皮膚を確実に切り裂き、ダメージを与えるあの不気味な武器……! 人間風情が、あんなものを開発して俺たちに牙を向けるなど、生意気な……、不快極まるぞ……!!)」

 

 津上の胸の奥から、煮え繰り返るようなドス黒い殺意がフツフツと湧き上がってきた。

 今すぐにでも引き返し、あの生意気な女の首をへし折り、その肉体を八つ裂きにしてやりたいという、ファンガイアとしての激しい衝動が彼を支配する。

 

 

 しかし、津上の長年の経験に基づいた優秀な頭脳が、その理性を即座に、そして冷酷に引き戻した。

 

 

 「(いや、待て……。あんな武器を用意して、ピンポイントでこの俺を襲ってきたということは……。つまり、俺の正体も、身元も、敵に完全に割れていると見ていい。……そうなると、明日以降、会社に戻るのはあまりにも危険すぎる。すでにあの女の仲間どもによって、会社や自宅が完全に包囲されている可能性が極めて高い……!!)」

 

 そこまで思考が行き着いた瞬間、津上の顔が絶望と怒りで歪んだ。

 

 「(そうなると……会社を捨てるしかないというのか。俺がこのバブルの波に乗って築き上げた、あの莫大な富を、あの絢爛豪華なる幸福の日々の全てを……人間ごときのために、捨てて逃げ出さねばならんというのか……!!)」

 

 

 ドガァァァァァン!!!!!

 

 

 津上は激しい屈辱と怒りに耐えかね、逃げ込んだ路地裏のコンクリートの壁を自らの拳で思い切り殴りつけた。

 壁が激しく砕け散り、無数の破片が飛び散る。

 

 「許さん……。断じて許さんぞ、人間どもめ……!! 俺の幸福を奪った代償、いずれ必ず、何百倍にして返してやるからな……!!」

 

 津上の地獄の底から響くような怨嗟の声は、冷たい夜の廃工場地帯の静寂の中へと虚しく掻き消えていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、津上に完全に逃げられてしまった工事現場の跡地。

 

 男はゆりの身体をようやく解放すると、自らの髪をかき上げながら、どこまでもハニかんだような甘い笑みを浮かべ、ゆりの肩にそっと自らの手を置いた。

 

 「照れんなって、お嬢さん。俺たちの愛の逃避行は、これから――」

 

 

 ガシッ!!!!!

 

 

 その言葉が終わるより早く、ゆりの冷徹な両手が、男の着ている派手なスーツの胸ぐらを、凄まじい力でガッチリと掴み上げた。

 ゆりの瞳には、言葉を失うほどの、本物の殺意の炎がめらめらと燃え盛っている。

 

 「……あんた……なに?」

 

 地鳴りのような、低く冷たいゆりの声。

 

 男はゆりの尋常ではない怒りのオーラに、それまでのキザな態度を完全に喪失し、思わず目を泳がせながら、小さな声で、

 

 「ハイ……」

 

 と、情けない返事をもらすことしかできなかった。

 

 「自分が何をしたか、分かってる? アタシが、あと一歩で、あの化け物のとどめを刺せたっていうのに……。あんたが、余計な邪魔をしてくれたおかげで、全部台無しになったんだよ……!!」

 

 「え? いや、俺はただ、君が独りで寂しそうだったから……」

 

 男は何が何だか全く分かっていない様子で、的外れな釈明をのんきに続けようとした。

 

 その緊張感の欠片もないトボけたツラを見た瞬間、ゆりの理性の限界の糸が、完全にブチ切れた。

 

 「こんの……馬鹿ぁっ……!!!!!」

 

 ゆりは全身の力をその右拳へと込め、男の顔面に向かって、容赦のない渾身のストレートを叩き込んだ。

 

 

 ドゴォォォォォン!!!!!

 

 

 「ぶふぉっ!?」

 

 男はその凄まじい衝撃によって、木の葉のように派手に宙を舞い、数メートル先の地面へと無様に殴り飛ばされた。

 男の身体が地面を激しく転がると同時に、彼が大事そうに抱えていた白い毛皮付きの高級なバイオリンケースが、手元から離れて地面へとゴロゴロと転がっていった。

 

 地面に転がったそのバイオリンケースの表面には、金色に輝く美しい筆記体で、彼の名前がくっきりと刻まれていた。

 

 

 『Otoya Kurenai』――紅音也。

 

 

 「痛ててて……ひどいなぁ、せっかくの俺の天才の顔が……」

 

 音也は腫れ上がった頬を抑えながら、地面に転がったバイオリンケースを慌てて抱き起こし、無様にとほほ、と情けない声を上げていた。

 ゆりはそんな彼を完全に無視し、忌々しげに地面にツバを吐くと、怒りの足音を荒々しく響かせながら、その場を完全に立ち去っていった。

 

 

 そんな騒がしい二人の修羅場の様子を、誰もいないはずの廃工場の暗い建物の奥、冷たい鉄骨の影から、じっと凝視している一つの不気味な『影』があった。

 

 

 それは、やはり最初から全てを裏でお見通しだったかのように潜んでいた『狐坂ワカモ』であった。

 

 ワカモは闇の中から、音也とゆりの姿をその黄金の瞳に捉えながら、まるで小さな玩具を眺めるかのような、どこまでも残虐で、愛らしい微笑を浮かべていた。

 

 「チューチューチューチュー………可愛いネズミさんたち。必死にこさえたその小さな『歯』で、私たちのことを噛もうとして……本当に、健気で可愛いですわねぇ」

 

 ワカモはクスクスと低く笑いながら自らの左手を胸の前に掲げ、それを小さなネズミの頭に見立てるようにして、指先をプルプルと愛らしく動かしてみせた。

 

 「でも……。その分不相応な小さな歯が、もしも……私たちの高貴なるステンドグラスに、ほんの少しでもひびをつけようものなら……」

 

 ワカモはネズミに見立てて動かしていた自らの左手を、もう片方の右手によって、上から完全に包み込むようにして――。

 

 

 ガブッ……!

 

 

 と、骨ごと噛み砕いて食らい尽くすかのような、恐ろしい仕草で乱暴に覆い尽くしてみせた。

 

 「うふふ……。その時は、跡形もなく、綺麗に食べ尽くしちゃいますよ❤︎」

 

 ワカモは自らの薄い桃色の唇から、妖艶な舌をペロリと覗かせ、ゾッとするような仕草で舌舐めずりをした。

 

 彼女の不気味な黄金の瞳が、夜の闇の中で爛々と輝き、去りゆく2人の背中をいつまでも、いつまでも冷酷に見つめ続けていた。




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