2008年。
かつてのバブルの狂乱が嘘のように、どこか冷たく落ち着いた空気が流れる現代の東京。その一角に佇む洋館『
ソファーに腰掛け、尽きることのない世間話に花を咲かせていた鬼方カヨコは、窓の外がすっかり夜の闇に包まれているのに気づき、名残惜しそうに立ち上がった。特徴的な黒髪のメッシュを揺らしながら、彼女は人懐っこい笑みを浮かべる。
「じゃあ、そろそろ行くね。……今日は本当に楽しかった。また遊びに来るね、アツコ。今度は君のバイオリンの演奏を、ぜひ特等席で聴いてみたいな」
その言葉に、ガマスクをつけた少女、紅アツコはコクコクと何度も小さく首を縦に振った。
言葉を交わさずとも、その瞳にはカヨコの訪問を心から喜んでいた暖かな色が灯っている。
カヨコは優しく手を振り返すと、出迎えのために現れた野村静香に伴われて、ゆっくりと玄関の方へと向かっていった。
カヨコが完全に邸を出たのを見届けるため、アツコはトコトコと静かな足取りで2階の工房の窓辺へと歩み寄った。
窓ガラスの向こう、街灯の下を歩いていくカヨコの背中が見える。彼女は一度も振り返ることなく、都会の冷たい闇の中へと溶け込んで消えていった。
「(カヨコさん……。また来てくれるって。嬉しいな。でも、私の演奏なんて、本当に聴かせられるようなものじゃ……)」
アツコがそんな淡い気後れを胸の中で巡らせ、窓辺から離れようとした、まさにその時だった。
「おいおい、あの鋭い気配の姉ちゃん、やっと行ったか?」
誰もいないはずの工房の空気に、突如として、妙に軽快で生意気な男の声が鳴り響いた。
アツコは驚く様子もなく、その声がした方向へ向けてコクリと頷いてみせた。
彼女の視線の先――壁に架けられた無数のバイオリンが密集している影。
カヨコが先ほどまで、ほんの一瞬だけ妙な違和感と気配を察知していたまさにその場所から、バサバサと音を立てて『奇妙な生物』が羽ばたき飛び出してきた。
それは、金色に輝く美しい小さな翼と、爛々と赤く光る大きな目を持った、喋るコウモリ。キバットバット3世であった。
「ふぃ〜、緊張したぜ! どうよ、この俺様の完璧な隠密行動と息を潜めた演技は! まさにハリウッドも腰を抜かすオスカー賞受賞ものだろ? なあ、アツコ!」
キバットは自慢げに小さな胸を張りながら、バサバサとアツコの頭の周りを我が物顔で飛び回る。
アツコは呆れたようにかすかな息を漏らすと、傍らの机に置いてあったスケッチブックを手に取り、慣れた手つきでサラサラと文字を走らせた。
『うん。バッチリだったよ、キバット。全然バレてなかったよ』
その文字を見たキバットは、ますます調子に乗って翼を大きく広げた。
「だろぉ? どんなもんだい! この俺様にかかれば、どんな鋭い目を持った人間だろうが、完全に騙し通せるってわけよ!」
キバットは満足そうに声を上げると、アツコのすぐ近くにある作業用テーブルの上へとパタリと着地し、翼を折りたたんだ。
その時、バァン! と勢いよく工房の重い木の扉が開け放たれた。
「ちょっと、キバット! 私でユキさんを止めてないと危なかったんだからね!」
カヨコを玄関まで見送ってきた静香が、頬を膨らませて怒りながら工房に戻ってきた。静香がカヨコを誤魔化していなければ即座にバレてもおかしくない状況だったのだ。
「おーおー、耳が痛いねぇ。そんなに怒るなよ、静香。結果オーライ、すべては平和に終わったじゃねぇか」
キバットは本当に痛いところを突かれたかのように、小さな翼の先で自らの尖った耳をギュッと押さえ、わざとらしく身を縮めてみせる。
アツコはそのいつもの賑やかな光景を、ガスマスクの奥からとても微笑ましそうに、優しく見つめていた。
やがて、静香とキバットの言い合いが落ち着くと、アツコはふと、工房の奥の壁へと視線を向けた。
そこには、壁に内接された頑丈なガラスケースがあり、周囲の雑多な工具や木材とは一線を画す、圧倒的な神聖さを放つ『とあるバイオリン』が大切に保管されていた。
美しい赤褐色のボディ。まるで生きているかのような滑らかな曲線。
その高貴なる楽器の名を――『ブラッディローズ』という。
アツコの真剣な視線に気づいた静香は、怒り顔を収め、どこか誇らしげで、しかし少しだけ寂しそうな表情を浮かべて彼女の隣に並んだ。
「……アツコのお父さんがあのバイオリンの製作者だもんね」
静香の言葉に、アツコは優しく目を細めると、再びスケッチブックにペンを走らせた。
『うん。いつか、ブラッディローズを超えるバイオリンを、私のこの手で作ってみたい』
書き終えたアツコは、しかし、少しだけ困ったように眉を下げ、さらに文字を付け足す。
『だけど、あのブラッディローズが持っている、奥深い魂のような輝き……。あの独特のニスの調合が、どうしても再現できなくて。なかなか上手くいかないんだ』
それを見たキバットが、テーブルの上から力強く飛び上がり、アツコの目の前でホバリングしながら言った。
「何を弱気になってんだよ、アツコ! 親父さんの血は確実に引き継がれてるんだ。まだまだこれから、キバっていこうぜー!」
フレフレ、と応援するかのように、小さな翼を一生懸命に上下に振り上げるキバット。
アツコはその健気な相棒の姿に、勇気をもらったように力強く頷いた。
その時だった。
キイィィィィィーーーーーン!!!!!!!
突如として、工房の空気を引き裂くような、あまりにも高音で、かつ狂おしいほどの『バイオリンの音』が、静寂を破って鳴り響いた。
誰も触れていないはずの、ガラスケースの奥。
ブラッディローズの弦が、まるで見えない魂に掻き鳴らされたかのように激しく自律振動を起こしていた。
「わっ! また鳴ってる!」
静香が耳を押さえながら、びっくりしたように後ろに飛び退く。
しかし、驚愕する静香とは対照的に、アツコとキバットの目の色が、一瞬にして完全に変わった。
アツコのガスマスクの奥の瞳には、宿命を受け入れた者特有の、深い悲しみと決意の光が灯る。
「……また出やがったか」
キバットはそれまでのコミカルな態度を一切消し去り、低く、地を這うような声でボソッと呟いた。
「えっ、キバット? 今、何て?」
静香が不安そうに問いかけるが、キバットはそれを遮るように、鋭く翼を羽ばたかせた。
「なんでもねぇ! 行くぞ、アツコ!」
「――!」
アツコは声なき返事をしながら、スケッチブックを放り出し、すぐさま工房の扉へと向かって激しく駆け出した。
キバットもその背中を追うように、弾丸のような速度で飛び出していく。
「もう…2人とも車には気をつけてねー!」
静香は、あっという間に廊下の奥へと消えていく2人の背中に向かって、精一杯の大きな声を張り上げるしかなかった。
しかし、静香は知らない。
ブラッディローズが、なぜ誰も触れていないのにひとりでに音を鳴らすのか。
そして2人が何をしに飛び出して行ったのかを、彼女はまだ何も知らなかった。
夜の闇の中、ゼェ、ハァ、と、激しく肋骨を上下させながら、1人の男が逃げ込んできた。
男の姿は、恐るべきホースファンガイアそのものであった。
しかし、その正体は、かつて1986年に『津上カオル』としてバブルの頂点に君臨していたあの男――現在は『五十嵐蓮』と名を変えて生き永らえているファンガイアだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! クソッ、なんなんだ、あの女は……!」
五十嵐は、自身の胸元に刻まれた、微かに光の粒子を溢れさせる真新しい傷口を抑え、苦悶に声を歪めていた。
先ほどまで、至高のライフエナジーを持つ獲物を仕留めようとしていたところを、ファンガイアバスターを構えた麻生恵による苛烈な奇襲を受け、命からがらここまで逃げ延びてきたのだ。
無我夢中で逃げ惑い、ようやく追っ手を撒いたと確信した彼は、周囲の無骨な、錆びついた鉄骨や崩れかけたコンクリートの壁を見回した。
冷たい夜風が通り抜ける、人気の全くない不気味な空間。
「あ………ここは……っ!?」
五十嵐は、ハッと息を呑んだ。
気づいてしまった。無我夢中で逃げてきたこの場所が、一体どういう場所であるのかを。
ここは――22年前の1986年。あの麻生ゆりによって無様に鞭で打ち据えられ、高貴なるファンガイアとしてのプライドをズタズタに引き裂かれ、築き上げた莫大な富も、会社も、栄光のすべてを失って逃げ出す羽目になった、まさに『あの忌々しい始まりの場所』だったのだ。
五十嵐は激しい屈辱と怒りに耐えかね、その場で拳を強く握りしめると、地面を思い切り踏み鳴らした。
ドガァァァァァン!!!!!
ホースファンガイアとしての規格外の怪力が地面へと伝わり、彼が踏みつけたアスファルトの床に、バリバリと蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走り、無数の破片が飛び散る。
知らず知らずとはいえ、なぜこれほど忌々しい場所に、栄光を失ったあの思い出の場所に戻ってきてしまったのか。五十嵐は歯噛みした。
しかし、彼は長年を生き抜いてきた狡猾なファンガイアだった。すぐに頭を切り替え、冷酷な現実を見つめ直す。
「クソ……まただ。またすべてを捨てなければならないのか……!」
現在、彼が現代のバブルとして利用していたモデル事務所。そこは彼にとって、若い人間の濃厚なライフエナジーを合法的に囲い込める最高の『餌場』だった。
「あの事務所を捨てるのはあまりにも惜しいが……あの女に目をつけられた以上、仕方がなかろう。……今度は海外へ行こう。誰も俺の正体を知らない土地で、また一から築き上げてやればいい。俺にはその力がある……!!」
自らに言い聞かせるようにそう呟いた、その時だった。
ザッ……。
遠くの瓦礫を踏み締める、微かな足音が響いた。
五十嵐はピタリと動きを止め、ホースファンガイアの巨体を強張らせた。
「まさか……『あの女』がもう追ってきたのか!?」
彼は息を止め、周囲の暗闇に完全に気配を殺して身を潜めた。
ザッ、ザッ、ザッ……。
足音は、五十嵐が身を隠す角の向こうから、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
その角の向こう。そこにいたのは
白いフード付きのコートを深く被った一人の少女――紅アツコであった。
アツコは歩みを止めると、顔を覆っていたガスマスクをゆっくりと外した。
露わになったその美しい顔には、これから自分が行う行いへの深い悲しみが伴っていた。
しかしそれとともに、絶対に目の前のノイズを排除するという、並大抵ではない強い覚悟も伴っていた。
アツコが静かに左手を差し出すと、彼女の影から飛び出してきたキバットが、その白い肌を躊躇うことなくガブリと噛みついた。
「キバっていくぜ!」
その瞬間、アツコの両頬と首筋にファンガイアの血を引く証である極彩色のステンドグラス模様がずるずると浮かび上がる。
それと同時に、彼女の腰に魔皇力を秘めた紅のベルト――キバックルが出現した。
「変身」
アツコは声なき声で確かにそう呟くと、手の中のキバットを逆さにし、キバックルの中央へと力強く装着した。
カチャァァン!!!
凄まじい魔皇力の奔流が溢れ出し、鎖が弾け飛ぶような轟音とともに、アツコの全身を禍々しくも美しい紅と漆黒の鎧が包み込んでいく。
光が収まったそこに立っていたのは、キバの鎧を纏った戦士――仮面ライダーキバであった。
キバは静かに歩を進め、工場の曲がり角で、待ち受けていたホースファンガイアこと五十嵐と真っ正面から遭遇した。
五十嵐はその姿を目撃した瞬間、全身の血液が凍りつくかのような凄まじい衝撃に襲われ、驚愕に目を見開いた。
ありえない。そんな存在が、なぜ今、自分の目の前に立っているのか。
「キ、『キング』……!? なぜ、『キング』がここに……!?」
五十嵐の声が、恐怖で激しく震える。
キバの鎧。それはファンガイアのチェックメイトフォーの頂点であり、一族の絶対的な支配者である『キング』にしか装着を許されない伝説にして王者の証である鎧。
一介のファンガイアに過ぎない自分を粛清するために、なぜその絶対的な王が自ら現れたのか。
圧倒的な王の威圧感を前に、五十嵐はただ立ち尽くすことしかできなかった。
紅き闇の戦士キバの目が、冷酷にホースファンガイアを射抜く。
22年の因縁が交錯する廃工場で、宿命のバトルの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。
次も出来次第、投稿します。