人間態:鬼方カヨコ。その正体はーーー   作:ていん?が〜

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真名:『地獄、首が飛ぶ、あなたはキスをする』

 キヴォトスの夜が深まり、世界の境界線がさらに曖昧になっていく時間帯。

 

 ゲヘナ学園の自治区を離れ、便利屋68のオフィスを後にした鬼方カヨコは、1人の時間を過ごすために再び夜の街の静寂へと身を沈めていた。

 

 彼女の歩みは音もなく、都市の喧騒から隔絶された暗い路地裏の網目を縫うように進む。

 数日前、この場所で品のないスケバンの一味を捕食し、そのライフエナジーを我が物とした記憶が脳裏を過る。ファンガイアであるカヨコにとって人間を喰らうという行為は至極当然の権利であり、自らの高貴な血を維持するための神聖な儀式に他ならない。

 

 あの時、恐怖に駆られて逃げ出した端端の人間どもをわざわざ追わなかったのは単に一度の食事としては十分な量を摂取できていたことと、何よりも彼女たちの放つ恐怖に濁った不協和音をこれ以上聴きたくなかったという純粋な美意識によるものだった。

 

 だが、その静寂は突如として背後から現れた圧倒的な異音によって破られることになる。

 

「おや、おや……。こんな夜更けに相変わらず美しい調べを纏って歩いていらっしゃるのですね、カヨコさん」

 

 闇の奥から響いたのは、艶めかしく、同時に背筋が凍るような狂気を孕んだ女の声だった。

 

 カヨコは足を止め、ゆっくりと振り返る。イヤホンは首にかけられたままだが、その必要すらないほど、相手の放つ圧倒的な存在感が路地裏の空気を支配していた。

 

 そこに佇んでいたのは、狐の面を斜めに被り、和装をベースにした独特の意匠の衣装を身に纏った少女。

 連邦矯正局から脱獄した「七囚人」の1人であり、「災厄の狐」としてキヴォトス全土にその悪名を轟かせる百鬼夜行連合学院の停学中生徒、狐坂ワカモだった。

 彼女の周囲には、硝薬の匂いと、目に見えないほどの濃密な血の香りが漂っている。

 

「……ワカモ。やっぱり、あなただったのね」

 

 カヨコの声に驚きはなかった。ただ、旧知の友を迎えるような、あるいは少しばかり厄介な存在を前にした時のような諦めを孕んだ冷静さがあるだけだった。

 

「うふふ、お分かりになりましたか? カヨコさんの鋭いお耳をごまかすことなど、最初から考えてはおりませんけれど」

 

 ワカモは口元を袖で隠しながら、妖しく微笑んだ。その足元に目をやったカヨコは僅かに眉をひそめる。

 

 そこには、白黒のモノクロームに変貌し、まるで精巧なガラス細工のようになって転がっている人間の身体があった。

 カヨコが見覚えのある数日前にこの場所から逃げ出したはずのスケバンの生き残りだ。

 衣服の端々がガラス化し、生命の灯火が完全に消え果てている。

 

 

 パキィン。

 

 

 ワカモが軽くその遺体を踏みつけると、ガラスの像は音を立てて粉々に砕け散り、夜の風に混ざってきらきらと輝きながら霧散していった。

 

「数日前、カヨコさんがお残しになった哀れな子羊たち……。私がすべて美味しく綺麗に片付けさせていただきました。あのような不浄な存在が、カヨコさんの視界にいつまでも残っているのは不愉快極まりありませんから」

 

「わざわざ追ったの? 物好きだね。私はただ、あの時はもうお腹がいっぱいだっただけ。それに質の悪いエナジーは私の胃を汚すから」

 

「ええ、確かに雑味が多うございました。ですが、飢えを満たすための撒き餌としては十分。何より、カヨコさんの通った道に落ちている塵を掃除するのは、私のささやかな愉悦でもありますの」

 

 

 ワカモはそう言って、自らの身体から『ステンドグラス』の光を溢れさせた。

 

 

 下顎から首筋にかけて、禍々しくも美しい、朱色と漆黒のステンドグラス模様が浮かび上がる。

 彼女もまた、カヨコと同じく人間の姿に擬態してこの世界に紛れ込んでいる13の魔族の頂点――ファンガイアの一族だった。

 

 それも、獣の特性を強く色濃く受け継いだ『ビーストクラス』の上位に位置する存在。

 

 光が弾け、衣服が弾け飛ぶようにして現れたその真の姿は、見る者を圧倒する恐怖の象徴だった。

 全体として東洋の神話に語られる「九尾の狐」の意匠を持ち、背後には9本の巨大な、炎のように揺らめくステンドグラス製の尾が美しく展開されている。

 

 装甲の各部は硬質な琥珀と紅玉のガラスで構成され、その表面には常に血のような光が明滅していた。

 顔面を覆うのは、狐の面をさらに凶悪に模ったガラスの仮面。その隙間から覗く鋭い眼光は、あらゆる生命を灰にするほどの熱量を帯びている。

 

 

 その名は、フォックスファンガイア。

 

 ファンガイアとしての真名は――『地獄、首が飛ぶ、あなたはキスをする』。

 

 

 カヨコとワカモ。この2人が『旧知の仲』であるのには、深い理由があった。

 

 時は遡り、1986年。かつて人間の世界…とりわけ極東の島国である日本において、ファンガイアの一族を統べる絶対的な王、『チェックメイトフォー』の『キング』が、人間と一部の裏切り者たちの手によって打倒されるという未曾有の大事件が発生した。

 

 種族の頂点が揺らぎ、それまでの絶対的な秩序が崩壊していく様を当時日本に潜伏していたカヨコとワカモは、冷徹な目で見つめていた。

 一族の栄光に固執し、滅びゆく泥舟と化したその土地に見切りをつけた彼女たちは、信頼できる『他の2人の同族』とともに、神秘と混沌が渦巻くこの学園都市『キヴォトス』へと安住の地を移したのだ。

 

 この地であれば、ヘイローを持つ少女たちが日々銃火器を振り回し、多少の破壊や人間の消失など「日常の範疇」として片付けられる。

 ファンガイアの捕食活動を隠蔽するには、これ以上ないほど都合の良い楽園だった。

 

 ワカモは静かに光を纏い、人間の少女の姿へと戻っていく。お気に入りの狐面を少し直し、カヨコをじっと見つめた。

 

「カヨコさん、相変わらずあの『便利屋』などという人間の組織で、暇つぶしを続けていらっしゃるのですね。あの陸八魔アルという娘……。私から見れば、ただの滑稽な道化に過ぎませんのに」

 

「アルのことを悪く言わないで。彼女は…見ていて飽きない。人間にありがちな浅薄な悪への憧れを持ちながら、その根底にある脆さと、いざという時の奇妙なカリスマ性。あれは、かつての私たちの世界には存在しなかった極上の歪んだ旋律よ。便利屋のブレーンとして彼女たちの糸を引くのは悪くない娯楽だわ」

 

 カヨコは缶コーヒーの最後の一滴を飲み干し、ゴミ箱へと正確に投げ入れた。そして、鋭い視線をワカモへと向ける。

 

「それよりも、ワカモ。最近のあなたの噂、私の耳にも届いているよ。シャーレの『先生』…だったかな。あの人間に随分と熱を上げているみたいだけど……。ファンガイアとしての、私たちの『掟』のことは、まさか忘れていないよね?」

 

 カヨコの言葉には、明確な警告の色が含まれていた。

 

 ファンガイアの一族における絶対の掟――『人間を愛してはならない』。

 

 かつて、その掟を破った者は、いかなる高位の存在であろうとも、チェックメイトフォーの処刑人である『クイーン』によって無慈悲に粛清されてきた。

 人間はあくまで捕食対象であり、家畜だ。その家畜に対して、対等な愛を注ぐなど、種族の尊厳を汚す絶対の禁忌に他ならない。

 

 だが、カヨコの言葉を聴いた瞬間、ワカモは

 

 

「うふふふふ! あははははは!! あーっははははは!!」

 

 

 腹を抱えて吹き出して笑った。

 

 

 夜の路地裏にワカモの狂気に満ちた、しかし鈴の鳴るような美しい笑い声が響き渡る。

 彼女は涙を拭うような仕草をしながら、心底おかしそうにカヨコを見つめ返した。

 

「失礼いたしました、カヨコさん。まさか、あなたほどの高貴で冷静な方が、そのような滑稽な心配をなさるなんて。……『愛玩動物を愛でること』と『対等な存在として愛すること』を同じと言うのですか?」

 

「……どういう意味?」

 

「言葉の通りですわ」

 

 ワカモの瞳から笑みが消え、底知れない捕食者の冷徹さが宿る。

 

「あの『先生』という存在は、私にとって極上の、これ以上ないほど愛らしいペットなのです。好きな時に弄び、好きな時にその命の輝きを眺め、そして……好きな時に食べることができるペット。もしそのペットが死んでしまったり、飽きてしまったりすれば、また次のペットを飼えば良い。それ以上のことが、この世界にあるとお思いですか?」

 

 ワカモの言葉には、一片の迷いも、人間への同情もなかった。彼女の『愛』とは、絶対的な支配と、いつか自らの肉体へと取り込むための『蓄え』に対する執着に過ぎない。

 そこに、人間を対等なパートナーとして認めるような、歪んだ情愛など存在しなかった。

 

「(……なるほど。この女の狂気は相変わらず底が浅くて、同時にどこまでも深い)」

 

 カヨコは心の中でそう納得した。ワカモは人間を愛しているのではない。

 

 ただ、極上のエナジーを持つ特別な個体にファンガイアとしての異常な独占欲を抱いているだけなのだ。それならば、掟に触れることはない。

 

「カヨコさん。私はあの1986年の惨劇をこの目で、しかと見てまいりました」

 

 ワカモは静かに語り出した。その声には、一族の高貴な誇りと、過去への冷ややかな教訓が込められていた。

 

「掟を破り、闇に消えていった多くの同族たちの哀れな末路。それだけではありません。あのチェックメイトフォーの処刑人であったクイーン――真夜様。あの偉大なるお方が、人間の男を愛したという大罰。その結果…何が起こりましたか?」

 

 ワカモの背後で、目に見えない9本の尾が、怒りと嘲笑を込めて激しく揺らめくような気配がした。

 

「クイーンと、彼女が愛した不浄な人間。その二人が犯した最大の不敬。彼らは、私たち一族の絶対の頂点であった、あの偉大なるキングを打ち倒してしまったのです。種族の王を…人間の血が混ざった泥が汚した。……私はあの時、改めて思いましたよ。人間を愛するということは、例外なく破滅へと導かれること。自らを、そして一族を滅ぼすための、最も愚かな呪いであると」

 

 ワカモはフッと息を吐き、自らの長い髪を指先で弄んだ。

 

「私に自殺の趣味はありませんので。あのような高貴な方々の二の舞になるなど、お笑い草ですわ。ですからカヨコさん、どうぞご安心ください。私が先生をどのように扱おうとも、それは一族の誇りを汚すものではありません。いつか、あの極上のライフエナジーをこの吸命牙で啜るその瞬間まで……私は私のやり方で、あの『ペット』を飼育するだけです」

 

「……そう。それなら、私から言うことは何もないわ」

 

 カヨコは短く答え、歩みを再開した。

 

「あなたのその歪んだ『愛』が、キヴォトスの均衡を崩さない程度にしておきなさい。便利屋の仕事の邪魔をされたら、いくらあなたでも、容赦はしないから」

 

「うふふ、それはお互い様、ですわね。それでは、また。カヨコさん、良き調律の夜を」

 

 ワカモの姿は、いつの間にか夜の闇の霧へと溶けるようにして消え去っていた。

 

 後に残されたのは、先ほど砕け散ったスケバンのガラスの破片が、月光を反射して一瞬だけ輝き、そして完全に消滅していく光景だけだった。

 カヨコは再び携帯音楽プレーヤーの再生ボタンを押した。耳に流れ込んでくるのは、冷徹で、寸分の狂いもない、完璧に調律された重厚なクラシック。

 

「(人間を愛することは、破滅へと導かれること……か)」

 

 心の中でその言葉を繰り返しながら、カヨコは便利屋68のオフィスに残してきた、あのポンコツでどこまでも人間らしい社長の顔を思い浮かべていた。

 一族の誇りと、悠久の退屈。その狭間で、カヨコは自らの爪を隠したまま、再びキヴォトスの混沌とした夜の闇へと、静かに消えていくのだった。

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