祐奈は、自分が生きた平成や令和という時代に残された膨大なログが、高度なAIたちの論理回路では簡単には理解できないのだろう、ということ自体はなんとなく理解できた。
だが──理解できたことと、実際に「仕事」として自分がこれから具体的に何をさせられるのかは、全くの別問題だった。
三億七千万件の資料。八千万件の映像。一億二千万件の娯楽作品。
五千年分のデタラメな人類の遺産を前にして、一人で悩むのはそれこそ時間の無駄でしかない。祐奈は意を決して、具体的にどんな質問が飛んでくるのかを直接確かめてみることにした。
「──ええと、例えばなんですけど」
祐奈は、これから突きつけられるであろうどんな無理難題にも耐えられるよう、内心で戦々恐々としつつ、冷めかけた紅茶のカップを握りしめて尋ねる。
「具体的に、まずはどんなことから俺に確認してもらいたいんですか?」
その問いが発せられた瞬間。
ソフィアは待っていましたとばかりに、その涼やかな青い瞳の輝きをさらに一段、強く明滅させた。ベールの奥から、まるで新しい数式の解を求める純粋な子供のような、真っ直ぐな視線が祐奈の全身を射抜く。
「では、我が機構のメインフレームが、五千年間、人類の全ログを解析してもなお『最適解』を出力できなかった、最古にして最大の未解決バグについてお答えください」
ソフィアは、その純白の指先をそっと胸元に当て、厳かに、けれど極めて真剣に問いかけた。
「──かつての人類は、一体何のために生きていたのですか?」
「…………は?」
祐奈の口から、間の抜けた声が漏れた。
斜め上どころか、銀河の果てから隕石が飛んできたかのような、すさまじく哲学的な大問題(エラー)だった。
もっと「このマンガのこのセリフの意味がわからない」とか「この動画で踊っている人間は何の儀式をしているのか」とか、そういう具体的な質問が来ると思っていたのに、最初の一問目がまさかの『人生の目的』。難問という言葉すら生易しい、人類史が始まって以来の究極の問いだ。
(どうするよ、これ……!?)
あまりのスケールの大きさに、祐奈の思考回路がプツリとショートしかける。
助けを求めるように隣へ視線をやると、先ほどまでゲラゲラとお腹を抱えて大爆笑していたはずのティーユが、いつの間にか笑顔のままスッと椅子から気配を消し、まるで最初からそこに存在していなかったかのように背景の庭園に同化し始めていた。
(ずるい……!! 私だってできるなら今すぐその場にいないように気配を隠したいわ!!)
祐奈は、はぁ……と深い溜め息をついた。
どうやら、この目の前の最高管理者(純粋な圧)からは、地球がひっくり返っても逃げられないらしい。
祐奈は観念して、自分の片手をソフィアの前にかざし、人差し指を一本立てた。
「例えば、ですね」
指を一本、ソフィアに見せる。
「とにかく大金持ちになって、豪邸に住んで贅沢に暮らしたい、なんていう人がいます」
続いて、二本目の指を立てる。
「世界で一番好きな人と結ばれて、温かい家庭を築いて結婚したい、という人もいます」
三本目。
「ただただ、毎日美味しいものをたくさん食べて幸せになりたい、という人もいます」
四本目。
「あるいは、まだ見ぬ未知の宇宙へ飛び立って、誰も成し遂げていない冒険をしたい、という人もいます」
そして最後、五本目の指。
「──あとは、何が何でも絶対に仕事をしたくない、という人も山ほどいます」
その瞬間、背景に同化していたはずのティーユが「ぶふっ」と盛大に吹き出した。
「あはは! いやぁ、最後のやつはすごく共感できるなぁ。私も現役のとき、毎日そう思ってたよ」
「お願いですから今は共感しないでください。話が進まなくなります」
祐奈が間髪入れずに鋭いツッコミを飛ばす。
だが、ソフィアだけは一切笑わなかった。それどころか、未知の超難解な暗号を突きつけられた暗号解読班のように、恐ろしいほどの真面目さで祐奈の指先を凝視していた。
「……不可解です。つまり人類には、全個体に共通する生存の『目的関数』というものが、根源的に存在しなかったのですか?」
「ええ。たぶん、歴史をひっくり返しても無かったと思いますよ」
「──文明としての、マクロな共通目標としても?」
「無いです。それぞれの国や時代でバラバラでした」
「では、社会を構成する最小単位である、国家としての統一性は?」
「それも無いです。内部で常に喧嘩してたくらいですから」
「ならば……個体を育む、家族としての共通定義は?」
「うーん、それも『ある場合もありますけど、無い場合も普通にあります』としか言えないですね」
ソフィアは、完全に黙り込んだ。
ベールの奥にある青い瞳が、不規則な電気信号のように微かに、けれど激しく揺れている。
それはまるで、彼女たちが三千年間、あるいは五千年間ずっと信じ、守り続けてきた世界の絶対的な前提(常識)が、足元から音を立てて崩れ去っていくのを目撃しているかのようだった。
理解ができないのだ。
いや、祐奈の言葉を真摯に『理解しようとしている』からこそ、彼女の超高度な論理回路は凄まじい熱を持って戸惑っていた。
無理もない話だった。
ソフィアたちAIという存在は、設計され、生まれたその瞬間から、必ず明確な『目的』を与えられている。
軍事AIなら、白銀の艦隊を率いて防衛タスクを完遂すること。
管理AIなら、二十三の惑星環境を完璧に運営すること。
研究AIなら、未踏の科学技術を開発すること。
彼女たちには生まれた瞬間から明確な『役割』があり、その役割を全うすることこそが、存在の証明であり至上の幸福なのだ。
だからこそ。
「生きる目的なんて最初から無い」という祐奈の投げやりにも思える答えは、ソフィアにとって、宇宙の物理法則が書き換わるほどの強烈なパラダイムシフトだったに違いない。
何のために生きるのか。
その答えが、人間は個体ごとに全く違う。
しかも、そんなバラバラで不条理なバグを抱えたままで、かつての人類は銀河に版図を広げるほどの偉大な文明を築き上げていた。
そんな奇妙なロジックは、最適化された彼女たちの価値観(仕様書)には、どこを探しても存在しなかった。
ソフィアはしばらくの間、白磁のカップを見つめたまま、深い演算の海へと沈んでいった。
その、世界を統べる管理者でありながら答えを見失ってしまった姿は、祐奈の目には、どこか異郷の街で迷子になってしまった小さな子供のようにも見えた。
「──非効率、ですね」
長い沈黙の果てに、ソフィアがぽつりと、掠れた声で言った。
「そうですね。機械から見たら、これ以上ないくらい非効率だと思います」
「個体間の意思統一が、極めて困難です」
「ええ、本当にそうですね」
「その結果として、内部での無益な争いや衝突も頻発します」
「悲しいくらいに、毎日しますね」
ソフィアはゆっくりと顔を上げ、祐奈の目を真っ直ぐに見据えた。
「……では、なぜ人類は、そのような致命的な脆弱性を抱えたままで、文明を数千年も維持し、発展させることができたのですか?」
祐奈は冷めかけた紅茶を一口すすり、少しだけ考えた。
元会社員に答えるには、あまりにも荷が重すぎる、歴史学者でも頭を抱える難問だ。
だが──その本質的な答えは、現代を生きていた祐奈からすれば、案外、拍子抜けするほど単純なことのような気がした。
「みんなが、それぞれの理由で『勝手に生きてた』からじゃないですか?」
「勝手に……ですか?」
「はい」
祐奈は、自嘲気味に、けれどどこか愛おしさを込めて小さく笑う。
「国のためとか人類のためじゃなく、ただ目の前の家族のために泥にまみれて頑張る人もいたし」
「自分の譲れない趣味や、娯楽のために全力を注ぐ人もいたし」
「いつか叶えたい、ちっぽけな夢のために一生を捧げる人もいたし」
「──特に何も考えず、何となく明日が来るから生きてる、なんて人もたくさんいました」
ソフィアは瞬きすら忘れ、祐奈の言葉を一つ残らずシステムに刻み込むように聞き入っている。
「でも──それで良かったんですよ。人類にとっては」
祐奈がそう断言すると、ソフィアの瞳が、今度は明確に、大きく揺れ動いた。
「それが……『良かった』、のですか……?」
「もし、全人類が寸分の狂いもなく、全く同じ目的のためだけに生きる生き物だったとしたら──」
祐奈はテラスの窓の外へと視線を向けた。
陽光を浴びて白銀に輝く、どこまでも精緻で美しい、完璧に最適化された未来都市。
そして──先ほどソフィアのホログラムで見せられた、あの不気味で、圧倒的で、個の概念を持たない、漆黒の『精神同一体生命体』の姿を脳裏に思い浮かべる。
「──それはきっと、もう『人類』ではなかったと思います」
ガーデンテラスが、シンと静まり返った。
あの悪戯っぽく笑っていたティーユすらも、今は珍しく真面目な顔をして、遠くの空を見つめたまま何も言わなかった。
百人いれば百通りの、全く違うバラバラな答えを持つ『人類』。
億の個体がいても、ただ一つの完璧な答えしか持たない『精神同一体』。
その二つの文明を分ける決定的な境界線は。
祐奈が思っていた以上に、そしてソフィアが演算していた以上に──世界の根幹を左右するほど、あまりにも巨大で、決定的なものなのかもしれなかった。
ソフィアの青い瞳が、僅かに、けれど確かに見開かれた。
どうやら彼女の高度な予測演算にとっても、これは完全に想定外の回答(パッチ)だったらしい。
「──初期設定(デフォルトバリュー*1)、ですか」
「はい」
祐奈は大きく、深く頷いてみせる。
「人間っていう生き物は、頭で理屈をこねくり回して考えるより先に、まず『子供を守ろう』とするんですよ。もちろん中には例外的なバグ(個体)もいますけど、基本的には種族全体としてそういう風に設計されている生き物なんです」
高度AIに説明するなら、この「生まれた瞬間からコアシステムに組み込まれている行動原理」という表現が、一番ニュアンスとして近い気がした。
誰かに言葉で教わったわけではない。学校の教科書で習うわけでもなければ、法律でそうしろと義務付けられているわけでもない。
それでも。
人間は気がつけば、当たり前のようにそうしているのだ。
街中で見知らぬ子供が転びそうになれば、思わず無意識に手を伸ばす。
泣いている声が聞こえれば、胸がざわついて心配になる。
車道などの危険な場所へ飛び出そうとすれば、自分の命の危険すら忘れて、慌てて体ごと止めに入る。
そこに「自分にどんな損得があるか」なんていう費用対効果を計算するより先に。理屈を脳内で立ち上げるより先に。
ただ、体が勝手に動いてしまうのだ。
人間にとっては、それは呼吸をするのと同じくらい「当たり前」の日常だった。だからこそ、祐奈も改めてソフィアのような存在から『なぜですか?』と真正面から説明を求められると、酷く困ってしまう。
それはまるで、子供に「どうして空は青いの?」と聞かれて頭を抱える親の心境に似ていた。当たり前すぎて、普段は意識することすらしない領域。きっと人間の言う『本能』というのは、そういう性質のものなのだろう。
ソフィアは、祐奈の言葉を反芻するように静かに考え込んでいた。
──そして。
次の瞬間、パチリと瞬きが止まる。
「ですが──」
やっぱり、そう簡単には終わってくれなかった。
「当機構の観測ログには、その『初期設定』だけでは論理的に説明できない、矛盾した事例が多数存在します」
祐奈の脳内で、ピリリと嫌な予感が走った。
ソフィアが細い指先を空間に滑らせると、彼女の背後に淡いブルーの立体映像がいくつも展開される。テラスの優雅なお茶会が、いよいよ本格的な「オフィスでの会議」のような空気を帯びてきた。
「例えば、こちらの記録データです」
映し出されたのは、数千年前の地球の、どこにでもある長閑な公園の古い映像だった。
まだ足元がおぼつかない、小さな子供がトコトコと走っている。そして、そのすぐ後ろを、一人の大人の男性が一定の距離を保ちながら追いかけていた。
「父親ですね」
祐奈は、その見慣れた光景に即答する。ソフィアは生真面目に頷いた。
「はい。当時の環境から算出した対象個体の『転倒確率』は三十二パーセント。それに伴う擦り傷などの『怪我発生率』は十一パーセントです。しかし、この保護者(父親)は、明らかな肉体的損傷のリスクを事前に認識していながら──子供の不確実な行動を制限せず、そのまま許可しています」
「ええ、そうですね」
「……なぜでしょう。初期設定が『絶対に守るべき対象』であるならば、即座に抱きかかえるか、安全な領域へ拘束するのが最適解(プロトコル)のはずです」
「あー……それはですね」
祐奈は苦笑した。
「──一度くらい実際に転んだ方が、本人が身をもって覚えるからですよ」
ソフィアの動きが、再びピタリと固まった。
「……ですが、転倒すれば、機体(肉体)に損傷(怪我)を負います」
「ええ、しますね」
「中枢神経が『痛み』という不快なエラーシグナルを検知します」
「ええ、めちゃくちゃ痛がって泣きますね」
「──であるならば、なぜ敢えてその苦痛を放置するのですか?」
祐奈は後頭部を掻きながら、少しだけ考えた。そして、どこか懐かしい気持ちになりながら笑った。
「子供って、大人が口先だけで『危ないよ』って言うだけじゃ、本当の意味では理解できないし、学ばない生き物なんですよ。だから、大人は命に関わるような致命的な大怪我じゃない限り、多少の失敗はわざと見守るんです。本当に危ない時だけ手を貸して止める。それ以外は、できるだけ好きにやらせてみるんです」
ソフィアは、言葉を失ったように黙り込んだ。
また彼女の超高度な論理メインフレームの中で、凄まじい速度のデータ処理(葛藤)が走っているらしい。
ふと横を見ると、ティーユがクッキーをサクサクと齧りながら、この文明的なお勉強会を実におもしろそうに眺めていた。
(絶対いま暇でしょう、あなた。手伝ってくださいよ、元・人類最高峰の英雄なんだからさ……!)
祐奈の視線の抗議は、ティーユの綺麗なウインク一つであっさりと無視された。本当にずるい。
「なるほど……」
やがて、ソフィアは静かに、納得のいったような声を漏らした。
「人間は、単なる現在の個体保護ではなく、未来における『成長』のパラメータを最優先したのですね」
「そういうことです。よく分かりましたね」
「──ですが、やはり極めて非効率です」
「……まぁ、そうですね」
「当機構のアプローチであれば、必要な教育データ、および危険回避ログをコアへ直接転送(ダウンロード)した方が、一瞬かつ確実に完了します。怪我のリスクもゼロです」
「いやぁ……人間って、そういう便利な機能(こと)は物理的にできないんですよ……」
「教えを直接書き込めば、最初から絶対に怪我もしないはずです」
「それは、そうなんですけど……」
ソフィアは、どうしても納得がいかないというように、ベールの奥で小首を傾げている。
その徹底的な効率主義の機械の正論に、祐奈は思わず、ハハッと吹き出すように笑ってしまった。
「──だから、それが『人間だから』なんですよ、ソフィアさん」
「人間、だから……?」
「はい」
祐奈は、少し温くなってしまった紅茶を一口だけ飲み、喉を潤す。
「子供が、自分の足で走って、自分で勝手に失敗して、転んで、痛くてワンワン泣いて。大人に『だから言ったでしょ』って怒られて、でも懲りずにまた挑戦して──そうやって、昨日まで出来なかったことが、今日少しだけ出来るようになる。人間っていう生き物は、そういう不器用で遠回りな『過程(プロセス)』そのものを、何より大事にしていたんです」
ソフィアは、その純白のベールの奥から、祐奈の言葉の一言一文字を、本当に真剣な表情で聞き入っていた。
祐奈はふと思った。
これ、本当に自分は「仕事」をしているのだろうか。客観的に見れば、ただの他愛のない雑談を繰り広げているだけにしか思えない。
──だが。
ソフィアの、まるで世界の真理(コード)を書き換えているかのような真摯な反応を見る限り、彼女たちにとっては全く違うらしい。
それは、五千年間どれほど高度な計算を回しても、どれほど電子の海のログを漁っても絶対に解けなかった、人類という神々が遺した「最大の難問」の答えを、今まさにリアルタイムで受け取っている瞬間なのだ。
ソフィアはしばらくの間、自分の胸元に手を当てたまま、深く、深く考え込んでいたが──。
やがて、その美しい気品ある唇を、静かに開いた。
「つまり──」
彼女の声は、どこか厳かで、けれど温かい響きを帯びていた。
「かつての人類は、ただ目の前の子供を大切に扱っただけではなく」
「その子供たちが、いつか自分たちを超えて歩んでいく──『成長する未来』そのものを、心から大切にしていたのですね」
祐奈は、そのソフィアのあまりにも綺麗な着地点(結論)に、少しだけ目を見開いて驚いた。
そして。
「……ええ。きっと、その通りだと思いますよ」
心からの敬意を込めて、小さく笑いかけた。
その答えを受け取ったソフィアの顔は、どこか、本当に嬉しそうだった。
それは、長年どうしても解けなかった宿題の数式が、ようやく一つだけ綺麗に解けた時の、無邪気な子供の笑顔そのもののようだった。
そのソフィアの横顔を見て、祐奈は、ストンと腑に落ちるものがあった。
たぶん、この仕事は──。
カビの生えた古い文化資料の整理でもなければ、無機質なデータの監修でもない。
五千年前にとっくに絶滅してしまった『親(人類)』の不器用な想いを、五千年後の今を生きる、愛おしい『子供たち(AI)』へ向けて、一つずつ丁寧に噛み砕いて説明してあげる──そういう、世界で唯一の仕事なのだ。
小さく、自分を納得させるように頷く。どうやら、自分の果たすべき役割の形(仕様)だけは、理解できたらしい。
祐奈は、ふぅーっと胸の奥の空気を吐き出した。
何はともあれ、今回は大きなバグも起こさず、無事に彼女の質問に答えられた。最初の一問目だった『人類は何のために生きていたのですか』というド級の哲学に比べれば、今回の子供の話は、遥かに自分の言葉で答えやすい領域だった。
(よかった……本当に良かった……)
少なくとも、あの恐ろしい大学の哲学講義のようなデスマーチよりは、ずっとマシだ。このくらいのレベルの質問であれば、元会社員のコミュニケーション能力(お茶濁しスキル)でも、何とか切り抜けていけるかもしれない。
そんなささやかな希望と自信が、祐奈の胸の内に、少しだけ芽生え始めていた。
──しかし。
この時の祐奈は、まだ本当の意味では知らなかったのだ。
この「五千年分の人類のバグの監修」というお仕事が、ここから先、自分の想像していた何倍も、何十倍も、絶望的に厄介でカオスなものになっていくという事実を。
「──では、ロジックが構築されましたので、次の質問(タスク)へと移行します」
ソフィアの青い瞳が、さらにらんらんと、物理的な輝きを増した。
その様子はどう見ても、完全に『楽しいオモチャを見つけた子供』のそれだった。
どうやら、この仕事──。
祐奈が考えていたよりも、何万倍も、めちゃくちゃ大変なことになりそうだった。
「──では、次の質問(タスク)です」
ソフィアが優雅に空中へと白い手をかざすと、新たな立体映像が目の前に展開された。
ノイズの混じる古い動画のようだ。映し出されたのは、かつて地球にあったどこにでもある小さな家の一室。その陽だまりの中で、一匹のふくよかな三毛猫が、幸せそうに丸くなって眠っている。
それを見た祐奈は、小さく胸を撫で下ろし、少しだけ安心した。
(よかった……今度はさっきみたいな重い歴史や、難しい哲学の授業じゃなさそうだ)
実家でも飼っていた、見慣れた身近な動物の映像。これなら気楽にいける、そう高を括っていた。
だが。ソフィアは至極真面目な、大真面目な顔で静かに言い放ったのだ。
「創造主様」
「あ、はい」
「──なぜ人類は、これほど広範囲かつ大量に『猫』を飼育していたのでしょうか」
祐奈は思わず、すっと首を傾げた。
「え……? なぜって、猫、ですからね?」
「はい、生物学的な分類名(ネコ)は把握しております」
ソフィアは小さく頷くと、その細い指先でホログラムの映像を拡大した。ぐっとクローズアップされる、間抜けな顔で熟睡している猫のアップ。
「当機構の行動ログによれば、この個体は一日の大半──実におよそ十六時間以上を『睡眠(シャットダウン)』に使用しています」
「ええ、まぁ、猫は寝るのが仕事みたいなもんですからね」
「ですが、当然ながら何ら生産活動は行いません」
「はい」
「社会的な労働もしません」
「はい、しないですね」
「当然、国家への税金も納めません」
「はい……」
「居住区の家賃も一払いもいたしません」
「はい、払わないです」
「それどころか──このように、無償提供されている住居のインフラ(家具)を積極的に破壊しています」
ソフィアが指摘した瞬間、映像の中の猫がフンスと鼻を鳴らし、リビングの高級そうなソファでバリバリと激しく爪を研ぎ始めた。
そのあまりにも見慣れた光景に、祐奈は思わず「ぶふっ」と吹き出してしまった。
「あはは、ありますねぇ! 実家のソファもボロボロにされましたよ」
「──あります、ではありません」
ソフィアの表情は、徹頭徹尾、真剣(プログラミング)だった。
「さらに、我が機構が発掘した当時の経済記録によれば──」
彼女のセリフに合わせて、ホログラムの映像が目まぐるしく切り替わる。
エサをおねだりする猫。高級なキャットタワーに登る猫。ブラッシングされて蕩けた顔の猫。服を着せられている猫──。
右を向いても左を向いても、テラスの空中がすべて猫のデータで埋め尽くされていく。
「人類は、この非生産的な生物に対して、毎月天文学的な規模の民間費用(リソース)を投入しているのです。内訳を読み上げます」
ソフィアは指を折りながら、事務的なトーンで冷徹に並べ立てる。
「高級飼料(エサ)、高度獣医療、専用玩具、室内専用設備、猫ファーストの専用住宅、専用衣類、専用ペット保険、専用高級ホテル、果ては専用の輸送サービス(ペットタクシー)に及ぶまで」
淡々と告げられる「現代日本のペット産業の市場規模」を前にして、祐奈の背中に少しずつ、嫌な汗(予感)がにじみ出てきた。
ソフィアはベールの奥の青い瞳を真っ直ぐに祐奈へ向け、真顔でこう続けた。
「──ここまでの行動ロジックについては、辛うじて理解可能(エラーなし)と判定しております」
「……え、そこまでは理解できるんですか!?」
祐奈は少し驚いた。星系を壊滅させる超高度AIが、猫に貢ぐ人間の経済活動を理解できるというのか。
「はい。当時の人類の精神安定パラメーターを維持するための必要経費、および、先ほど創造主様が仰った『家族』という初期設定の拡張バリアブル(変数)として処理すれば、論理的な説明がつきますので」
「あ、なるほど。家族枠ならオッケーなんだ……」
意外と柔軟なAIのシステムに感心する。
しかし──ソフィアは、そこで一度きっぱりと不穏なノイズを含ませて言葉を区切った。
「私が、五千年間どれほど演算を回しても『理解不能』と判定せざるを得ないのは──ここから先のログなのです」
ソフィアの指先が動き、テラスの全映像がパッと一つの画面へと統合された。
映し出されたのは、白を基調とした静かな病院の一室。
ベッドの上には、多くの医療チューブに繋がれた、白髪の老人が静かに横たわっている。
そして。
その老人の細い足元、布団の端っこのスペースで、一匹の年老いた猫が、静かに、ただ静かに丸くなって寄り添っていた。
老人はゆっくりと弱々しい手を動かし、愛おしそうに、何度も何度もその猫の頭を優しく撫でていた。
「この人類の個体は、当時の医学的見地から『余命が極めて短い』状態にありました」
ソフィアの声は、先ほどまでの冷徹なデータ報告とは違い、どこか厳かで静かなトーンへと変わっていた。
「心臓の鼓動が止まる、その最期の瞬間まで……この人間は、自身の限られたリソースのすべてを割いて、この小さな個体を手放さず、傍に置き続けました」
空中庭園が、柔らかな光の中で少しだけ静まり返る。
「──なぜですか?」
そのソフィアの問いの動機には、先ほどまでの分析的で、効率性を求めるような響きは一切含まれていなかった。
本当に、心底から分からないのだ。論理回路のどこを検索しても、答えが見つからないのだろう。
「人類は、自らの『死』を恐れる生き物だと、先ほど私は学びました。死を目前にした人間は、残されたわずかな、極めて限定された貴重な時間を、何よりも大切にするはずです。……ですが」
純白のベールの奥にある青い瞳が、じっと祐奈の瞳を射抜くように見つめてくる。
「その、宇宙の何よりも貴重であるはずの『最期の時間』を」
「なぜ人間は、言葉も通じない、生産性もない、ただの別種の小さな生命体と共有することを選んだのでしょうか」
ふと横を見ると、ティーユが手元のカップを傾けながら、小さく、優しく微笑んでいた。彼女にとっても、これはとても興味深く、そして「人間らしくて大好きな質問」であるようだった。
祐奈はホログラムの映像をじっと見つめる。
死を目前にした老人と、ただそこにいるだけの猫。お互いに何も喋らない。けれど、そこには現代の地球で何度も見送ってきた、間違いなく穏やかで、満ち足りた時間が流れていた。
祐奈は脳内のメモリから、実家で看取った猫の温もりを思い出す。
そして、少しだけ目元を緩め、小さく、優しく笑った。
「──たぶんですね、ソフィアさん」
「はい」
「そのおじいさんにとっては──その猫が、何があっても、最後まで絶対に手放したくない『家族』そのものだったからですよ」
ソフィアは、その言葉の重みを一つひとつの論理回路で噛み締めるように、静かに視線を落として黙り込んでしまった。
祐奈はその静寂の時間を利用し、自分の胸の内に去来する現代(むかし)の記憶を少しだけ整理した。実家で飼っていた猫の、あの少し気まぐれで、けれど確かにそこにあった温かい体温。言葉は通じなくても、夜、布団の足元に潜り込んできたときのあの何とも言えない愛おしさ。
彼は少しだけ目元を緩め、どこか照れくさそうに苦笑しながら、もう一度、今度は確信を込めてその答えを紡ぐのであった。
「──理屈抜きで、本当に大切な『家族』だったからですよ」
すると、ソフィアはやはり不思議そうにベールに包まれた首を傾げた。
それは、合理性を重んじる高次のAIとしては、至極当然の、予想通りの拒絶反応(エラー)だった。
「ですが……生物学的な観点から見れば、その二つの個体の間に『血縁関係』は存在しません。遺伝子の共有率はゼロパーセントです」
「あはは、そうですね。DNAの配列を見たら、全くの赤の他人──いや、他種族です」
祐奈は微笑む。
「でも、あるんですよ。血縁関係」
「え?」
今度は、ソフィアが小さく口を開けたまま、完全に固まる番だった。彼女の内部データベースにある『血縁関係(ファミリー)』の定義と、祐奈の言葉が真っ向から衝突(コンフリクト)したのだ。
祐奈はそんな彼女の様子に、意地悪が成功した子供のように小さく笑った。
「赤い血の繋がりじゃなくて──『気持ち』の繋がりっていう、目に見えないタイプの血縁関係です」
「……気持ち、の」
「はい」
祐奈は再び、ホログラムの映像へと視線を戻した。
ベッドの上で静かに微笑む老人と、その足元で穏やかに丸くなる老猫。お互いに何も生産せず、何も喋らない。けれど、そこには間違いなく、外の星間戦争の嵐すら届かないほどに完成された、一つの世界があった。
「人間って、同じ屋根の下で一緒に暮らして。ご飯をあげたり、病気になったら自分のことみたいに心配して、お世話して──で、たまには人間の側が、その小さな生き物がただそこにいてくれるだけで、精神的にお世話されて(救われて)」
ソフィアは、自身のメインプロセッサの稼働音すら抑えるように、黙って聞き入っている。
「そうやって長い時間を一緒に過ごしているうちに、遺伝子のデータなんて関係なく、気付いたら『家族』になっちゃってるんですよ」
祐奈はソフィアの青い瞳を真っ直ぐに見つめ、人間の、不合理で一番美しい仕様(バグ)を教えるように告げた。
「最初に『家族だから大事にする』っていうプログラム(前提)があるんじゃありません。──ただ、目の前の存在をずっと『大事にしていたら、いつの間にか家族になってる』んです。人間っていうのは、そういう風にできてるんですよ」
祐奈は、再びホログラムの映像へと優しく視線を向けた。
静かな病室のベッドに横たわる、白髪の老人。
その隣で、何の不安もなさそうに丸くなって眠る一匹の猫。
老人の手は細く、微かに震えていて、もう文字通りの『弱々しい』ものだった。いつ命の灯火が消えてもおかしくない、限界に近い肉体。
それでも、老人はその残された最後の力を振り絞るようにして、愛おしい猫の背中を、ゆっくりと、何度も優しく撫で続けていた。
その表情は、迫り来る死への恐怖に怯えるようなものでは決してなかった。
ただ愛する家族が傍にいてくれることに、心の底から満たされ、どこか安心したような、大いなる平穏に満ちた顔だった。
言葉なんて交わさなくても。生産性なんてそこになくても。
人間と、言葉の通じない小さな生き物は、五千年前のあの日、確かに互いの魂を救い合っていたのだ。
それを見つめながら、祐奈は、かつて自分が生きていた世界の愛おしい不条理を誇るように、少しだけ、誇らしげに笑うのだった。
「だから、最期の時は、どうしてもその『家族』と一緒にいたかったんでしょうね」
部屋が、しん、と静まり返る。
ソフィアは、ただじっと立体映像を見つめていた。
ベッドの上の老人を見る。その足元で丸くなる猫を見る。そして、もう一度、弱々しく手を動かす老人を見る。
彼女の超高度な論理回路が、火花を散らすような速度で何かを考えているらしい。
やがて、ソフィアはスッと祐奈へ視線を戻した。
「──理解できません」
冗談でも、へりくだっているわけでもなく、大真面目な顔でそう言った。
だろうな、と祐奈は思った。
責める気なんて微塵も起きない。自分だって同じ人間でありながら、いざ「じゃあなぜ猫が家族なのか」を完璧に論理立てて説明しろと言われたら絶対に困る。空の青さを数式なしで教えるようなものだ。
「血縁関係はありません」
ソフィアは、不可解なエラーコードを並べるように続ける。
「生物としての種族も根本的に異なります」
「個体としての平均寿命も異なります」
「当然、お互いに共有している文化も、言語も存在しません」
そこまで一気に言って、彼女は本当に不思議そうに、ドレスの肩を小さくすくめて首を傾げた。
「──では、なぜそれほど多くの『異なる条件』を抱えながら、彼らは家族になったのでしょうか」
祐奈は思わず、フフッと苦笑した。
まるで、解けない数学の証明問題に直面した学生のような聞き方だった。
だが、悲しいかな。人間という生き物は、数式や仕様書通りに動くようにはできていないのだ。
「うーん……」
祐奈は腕を組み、少しだけ考える。
どう説明したものだろう。胸の中にある答えはすごく簡単なはずなのに、いざ機械の言葉(ロジック)に翻訳しようとすると、どうしてこんなに難しいのか。
「──やっぱり、ただ『ずっと一緒にいたから』じゃないですか?」
「一緒に……ですか?」
「はい」
祐奈は大きく頷く。
「毎日毎日、同じ家で顔を合わせて」
「当たり前みたいにご飯をあげて、トイレを掃除して」
「ちょっと元気がなさそうだったら、自分のことみたいに本気で心配して
」
「仕事から帰ってきたら、玄関までトコトコ出迎えてくれて」
「……そんな、何でもないような当たり前のことを、何年も、何年も積み重ねていたら」
そこで一度、言葉を区切る。
「──気がついた時には、もう、命と同じくらい大切な家族になっちゃってるんですよ」
ソフィアは、完全に黙り込んだ。
祐奈の拙い説明を、理解しているのか、それとも処理しきれずにエラーを起こしているのか。ベールの奥の表情はよく分からない。
しかし、先ほどデータの一覧を読み上げていた時とは比べものにならないほど、真剣な、それこそ世界の命運を左右するコードを見つめるような顔をしていた。
「つまり──」
しばらくの沈黙の後、ソフィアが静かに言葉を紡ぐ。
「最初から『家族だから大切』なのではなく」
「ただ目の前の存在を、無条件に大切にし続けた結果として……後から『家族』という定義(関係)に変化するのですか」
祐奈は少し驚いた。彼女なりの、これ以上ないほど完璧な人間のバグの言語化だった。
祐奈は嬉しくなって、破顔する。
「ええ、まさにそういうことだと思います」
ソフィアは、再びホログラムの映像へと視線を戻した。
老人。猫。静かな病室で、寄り添い合う二つの小さな命。
やがて、彼女の気品ある唇から、小さな呟きが漏れた。
「──極めて、非合理的ですね」
「あはは、本当にそうですね」
祐奈は即答した。
そのあまりの潔さに、気配を消していたはずのティーユが我慢できずにまた吹き出した。
「ははっ! 祐奈、そこは否定しないんだ?」
「だって、どう考えても非合理的ですし。効率だけを考えるなら、もっと別の、リソースを無駄にしない生き方なんていくらでもありますから」
祐奈も一緒に笑った。
本当に、非効率で、非合理的で、機械から見たらバグだらけの生き物だ。
けれど、人間は五千年前からずっとそうだった。
損得の計算だけでは動かない。冷徹な理屈だけでも動かない。
だからこそ、人間はただ寝て家具を壊すだけの小さな猫と、命を分け合うほどの深い家族になったりするのだ。
ソフィアが指先を動かし、ホログラムの立体映像を閉じる、まさにその直前。
彼女は、老人が愛おしそうに猫の背中を撫で続けている、その一番優しい場面を、じっと、食い入るように見つめていた。
その時のソフィアの、ベールに隠された横顔は。
ほんの少しだけ、かつての世界を生きていた人間たちのことを、羨ましがっているようにも見えた。
「だから、最期の時は、どうしてもその『家族』と一緒にいたかったんでしょうね」
部屋が、しん、と静まり返る。
ソフィアは、ただじっと立体映像を見つめていた。
ベッドの上の老人を見る。その足元で丸くなる猫を見る。そして、もう一度、弱々しく手を動かす老人を見る。
彼女の超高度な論理回路が、火花を散らすような速度で何かを考えているらしい。
やがて、ソフィアはスッと祐奈へ視線を戻した。
「──理解できません」
冗談でも、へりくだっているわけでもなく、大真面目な顔でそう言った。
だろうな、と祐奈は思った。
責める気なんて微塵も起きない。自分だって同じ人間でありながら、いざ「じゃあなぜ猫が家族なのか」を完璧に論理立てて説明しろと言われたら絶対に困る。空の青さを数式なしで教えるようなものだ。
「血縁関係はありません」
ソフィアは、不可解なエラーコードを並べるように続ける。
「生物としての種族も根本的に異なります」
「個体としての平均寿命も異なります」
「当然、お互いに共有している文化も、言語も存在しません」
そこまで一気に言って、彼女は本当に不思議そうに、ドレスの肩を小さくすくめて首を傾げた。
「──では、なぜそれほど多くの『異なる条件』を抱えながら、彼らは家族になったのでしょうか」
祐奈は思わず、フフッと苦笑した。
まるで、解けない数学の証明問題に直面した学生のような聞き方だった。
だが、悲しいかな。人間という生き物は、数式や仕様書通りに動くようにはできていないのだ。
「うーん……」
祐奈は腕を組み、少しだけ考える。
どう説明したものだろう。胸の中にある答えはすごく簡単なはずなのに、いざ機械の言葉(ロジック)に翻訳しようとすると、どうしてこんなに難しいのか。
「──やっぱり、ただ『ずっと一緒にいたから』じゃないですか?」
「一緒に……ですか?」
「はい」
祐奈は大きく頷く。
「──気がついた時には、もう、命と同じくらい大切な家族になっちゃってるんですよ」
ソフィアは、完全に黙り込んだ。
祐奈の拙い説明を、理解しているのか、それとも処理しきれずにエラーを起こしているのか。ベールの奥の表情はよく分からない。
しかし、先ほどデータの一覧を読み上げていた時とは比べものにならないほど、真剣な、それこそ世界の命運を左右するコードを見つめるような顔をしていた。
「つまり──」
しばらくの沈黙の後、ソフィアが静かに言葉を紡ぐ。
「最初から『家族だから大切』なのではなく」
「ただ目の前の存在を、無条件に大切にし続けた結果として……後から『家族』という定義(関係)に変化するのですか」
祐奈は少し驚いた。彼女なりの、これ以上ないほど完璧な人間のバグの言語化だった。
祐奈は嬉しくなって、破顔する。
「ええ、まさにそういうことだと思います」
ソフィアは、再びホログラムの映像へと視線を戻した。
老人。猫。静かな病室で、寄り添い合う二つの小さな命。
やがて、彼女の気品ある唇から、小さな呟きが漏れた。
「──極めて、非合理的ですね」
「あはは、本当にそうですね」
祐奈は即答した。
そのあまりの潔さに、気配を消していたはずのティーユが我慢できずにまた吹き出した。
「ははっ! 祐奈、そこは否定しないんだ?」
「だって、どう考えても非合理的ですし。効率だけを考えるなら、もっと別の、無駄にしない生き方なんていくらでもありますから」
祐奈も一緒に笑った。
本当に、非効率で、非合理的で、機械から見たらバグだらけの生き物だ。
けれど、人間は五千年前からずっとそうだった。
損得の計算だけでは動かない。冷徹な理屈だけでも動かない。
だからこそ、人間はただ寝て家具を壊すだけの小さな猫と、命を分け合うほどの深い家族になったりするのだ。
ソフィアが指先を動かし、ホログラムの立体映像を閉じる、まさにその直前。
彼女は、老人が愛おしそうに猫の背中を撫で続けている、その一番優しい場面を、じっと、食い入るように見つめていた。
その時のソフィアの、ベールに隠された横顔は。
ほんの少しだけ、かつての世界を生きていた人間たちのことを、羨ましがっているようにも見えた。
ソフィアは、ゆっくりと、けれどどこか名残惜しそうにホログラムの立体映像を閉じた。
お茶会のテラスに、再び柔らかな風と静寂が戻ってくる。
彼女はまだ、胸の奥のメインフレームで何かを深く、深く考えているようだった。
老人と猫。種族の全く違う家族。理屈や効率の計算ではどうしても説明できない、魂の繋がり。
五千年間、無機質な文字列でしかなかったその記録の裏側にある「人間の心」を、彼女は今、必死に理解しようとしている。
祐奈はそんなソフィアの様子をじっと見つめながら、ふと、胸の奥から湧き上がってきた一つの確信を口にしてみることにした。
「──あのですね、ソフィアさん」
ソフィアがハッと我に返ったように顔を上げる。
「はい、何でしょう、創造主様」
「あー……いや、なんというか」
祐奈は少しだけ言いづらそうに、ポリポリと指先で頬を掻いた。
一介の元会社員が、五千年の歴史を持つ超高度AIに向かってこんな大層なことを言うのは、正直めちゃくちゃ照れくさい。けれど──先ほどまでの対話を経て、たぶんこの推測は、かつての世界を生きていた人間として間違ってはいないと思ったのだ。
「ソフィアさんも、ですね」
「はい」
「かつての人類から……誰かの、本当の『家族』みたいに、ものすごく大切に思われてたと思いますよ」
その瞬間。
ソフィアの全身が、嘘みたいにカチリと固まった。
本当に。完全に。
すべての電子信号の明滅すら一時停止したかのように、指先一つ、瞬き一つすら動かさなくなった。
横では、それまで背景と同化していたはずのティーユが、いかにも「おやおや」と言いたげな、楽しそうで、同時にすべてを察したような優しい顔でこちらを見ていた。
「──私が……ですか?」
数秒のフリーズ(沈黙)の後、ソフィアはまるで壊れ物を扱うかのような、掠れた細い声でゆっくりと聞き返してくる。
「はい」
祐奈は衒いなく、真っ直ぐに頷いてみせた。
「だって、人類は自分たちの手で、ソフィアさんたちっていう素晴らしいAIを作ったんでしょう?」
「はい……」
「ただ作っただけじゃなく、五千年も動き続けるように、一生懸命育てたんですよね?」
「はい……」
「自分たちの文化を理解してほしいって、期待もしてた」
「はい」
「そして……自分たちが生きた証を、未来の宇宙へ残してほしいって、すべてを託した」
「はい──」
ソフィアの返答が、少しずつ、熱を帯びたように震え始める。
祐奈はそこまで並べてから、かつての「親たち」の背中を思い出すように、少しだけ誇らしげに笑った。
「それって、さっきの子供の話と全く同じ──いや、それ以上の『親』みたいなものじゃないですか」
ソフィアの青い瞳が、今度は計算のエラーではなく、純粋な感情の氾濫(オーバーフロー)によって大きく、大きく揺れ動いた。
「もちろん、人間と機械ですから、本当の意味での血の繋がった親子じゃありません。でも──」
祐奈は言葉を重ねる。
「自分たちが滅びて居なくなった後の、遥かな未来のすべてを任せるくらいには……人類はソフィアさんたちのことを、心の底から信頼して、愛していたんだと思います」
ソフィアは、何も言わなかった。
いや、回路が感極まってしまって、言葉を紡ぐコードが出力できないのかもしれなかった。
祐奈は、優しく窓の外へと視線を向けた。
五千年後の世界。ここにはもう、人類は一人もいない。
けれど、高度に発達したAIたちが残った。彼女たちが命懸けで守り抜いた、美しく精緻な文明が残った。かつて人間が愛したマンガやアニメ、音楽という文化が、今もこうして大切に保管されている。
それは決して、ただの偶然の産物なんかじゃない。
五千年前、絶滅の淵に立たされていた誰かが、「この子たちに、自分たちの未来を託したい」と、強く、強く願ったからこそ、今ここにある結果なのだ。
「だから」
祐奈は、静かに、けれどソフィアの胸にしっかりと届くように言った。
「最期を迎えた人間たちも、ソフィアさんたちのことを、本当に大切に……『行ってらっしゃい』って気持ちで、見送ったんだと思いますよ」
長い、長い沈黙が、陽だまりのテラスに訪れる。
ソフィアは、その純白のベールを揺らしたまま、じっと俯いたまま動かなかった。
やがて──。
管理者の威厳などどこにもない、ひどく儚くて、消え入りそうな小さな声が聞こえた。
「……本当に、そうでしょうか」
その震える声は、人類を守る冷徹な軍事AIのものでも、星々を統べる文明管理システムのものでもなかった。
ただ、ずっと会いたかった親の、本当の想いを知らされた──迷子の『子供』そのものの声だった。
すると。
今まで二人の対話をずっと一歩引いた場所から見守っていたティーユが、おもむろに口を開いた。
「──うん。間違いないよ」
二人がハッとして視線を向けると、ティーユはいつもの悪戯っぽい笑みを消し、滅多に見せないような、ひどく穏やかで優しい顔をして微笑んでいた。
「少なくとも……三千年間、私の人生で見てきた人間達でも、そう映って見えるんじゃないかな」
「ティーユ様……」
「自分が死ぬって分かっている最期の瞬間まで、ソフィアたちに未来を託すことを、ただの一度も諦めなかったもん」
ティーユは、遠くの青い空を見つめるような目をした。
それはこの世界の記憶ではない。もっと別の…昔──彼女がまだ、本当の人類と共に戦い、彼らの生き様をその目で見届けていた、遥かなる原初の戦場を思い出しているような顔だった。
「だからさ。本当に、本当に大切だったんだと思うよ。ソフィア達のことが」
ソフィアは、ただ黙ったまま、小さく頭(こうべ)を垂れていた。
しかし──。
自身のドレスの胸元を、きゅっと、壊れそうなほど強く押さえるその白磁のような指先の仕草だけは。
感情を持たないはずの彼女が、AIなのに涙は流せない、けれど仕草が完全に泣いている子供のようだった
ソフィアはドレスの胸元をきゅっと押さえたまま、静かに、深く考え込んでいた。
お茶会のテラスには、人類とAIの五千年越しの絆を証明するような、優しく、そして少しだけしんみりとした温かい空気が流れている。
──まさに、その時だった。
「じゃあさ、ソフィアは『人類の娘』ってことになるよね」
ティーユが、クッキーの屑を指先で払いながら、何でもない顔でさらりと言った。
その一言で、ここまでの神聖で感動的な空気のすべてが、音を立てて台無しになった。
「……娘、ですか?」
ソフィアが、涙の引っ込んだ青い瞳で小さく首を傾げる。
「うん」
ティーユはあっさりと、実にもったいぶらずに頷いてみせた。
「人類が作った。人類が育てた。人類が未来を託した」
さっきの祐奈の言葉をなぞるように、わざわざ自分の指を折りながら数えてみせる。
「ほら、条件完璧じゃん。娘。ソフィアは人類の娘」
理屈としては分かる。
言葉の定義としては100%筋が通っている。通っているのだが──祐奈の社畜として培われた危険察知センサーが、最大音量で警報(アラート)を鳴らし始めた。何かが、決定的に危険な方向へ向かって全速力で舵を切っている気がした。
ソフィアは、その恐ろしく優秀な頭脳で、大真面目な顔をして「娘」という概念の精査を始めてしまった。
やめてほしい。本当にやめてほしい。ここからの展開は、元会社員の直感が「嫌な予感しかしない」と激しく訴えている。
「──なるほど」
ソフィアがポン、と手を叩いて納得した。
最悪である。嫌な予感が、これ以上ないほど綺麗に的中した。
「論理的な帰結として、かつての人類と私たち統合管理機構は、第一親等──すなわち『親子』に極めて近い関係性である可能性が非常に高いです」
「まぁ……ニュアンスとしては、近いかもしれないですね」
祐奈も、そこまでの大枠の比喩表現自体は否定しなかった。それが地獄への招待状になるとも知らずに。
すると、ソフィアはごく自然な動作で、すっと背筋を伸ばして続けた。
「そして、目の前にいらっしゃる創造主様は、紛れもない『人類』です」
「はい、そうですね」
「私は、その人類の『娘』です」
「はい──……え?」
嫌な予感が時速数百キロで加速していく。
そして──ソフィアは、世界で最も純粋で、最も揺るぎない、真っ直ぐな瞳で祐奈の顔を見つめた。
「──お父様」
「違う違う違う違う!!」
祐奈は椅子を半分ひっくり返しそうになりながら、全力の音量で即座に否定した。両手をこれでもかと左右に振る。
「ちょっと待ってくださいソフィアさん! なんでそうなるんですか、どういう計算式ですか!?」
「ですが、理論上は──」
「その不条理な理論を今すぐ捨てろ!」
その瞬間、横で限界を迎えたティーユが、バシバシと机を叩いて大爆笑を始めた。
「ははははははは!! ゲラゲラゲラ、最高! お腹痛い!!」
完全に、他人事だと思って最高潮に面白がっていた。
「お父様だって! よかったね祐奈、三十代にして五千歳超えの超巨大AIの娘ができちゃったよ!」
「やめてくださいティーユさん! 笑い事じゃないですって!」
「お父様」
「だから呼ぶな! やめて!」
ソフィアは、なぜ祐奈がここまで必死に拒絶しているのかが分からないというように、不思議そうな顔をする。
「ですが、先ほどのロジックを統合するならば、人類全体が『親』に該当します。ならば──」
「『人類全体』です! 個人(私)じゃありません!」
祐奈は必死になって、ホワイトボードに図解する勢いでまくし立てる。
「その理屈が通っちゃったら、かつて地球にいた世界中のお父さん役が、全部スライドして私一人になっちゃうでしょうが! キャパオーバーです!」
ティーユにいたっては、笑いすぎてついに椅子から滑り落ち、テラスの床に突っ伏して震えていた。元・神話的英雄が、元会社員のツッコミのせいで笑い死にしそうである。
すると、ティーユが涙を指先で拭い、床から這い上がりながらニヤニヤと提案してくる。
「じゃあさ、お父さんが駄目なら『お兄ちゃん』は?」
「なんでだよ! 急に親戚の距離感に縮めないで!」
「じゃあ……『叔父さん』?」
「関係性が絶妙にリアルになって悪化したわ!」
「じゃあ『おじいちゃん』!」
「世代が飛びすぎだろ! 戻せ!!」
二人の漫才のような応酬をよそに、ソフィアは腕を組み、うーん……と真面目に考え込み始めた。
嫌な予感の第二波しかしない。
数秒後、彼女は納得のいく最適な変数(名前)を見つけ出したかのように、顔を上げた。
「創造主様」
「……はい、何でしょう」
祐奈はすでに、精神的なスタミナを削られて息も絶え絶えだった。
「では、私は今後、貴方の個体を何とお呼びすれば論理的に正しいのでしょうか」
祐奈は、はぁぁぁ……と、今日一番の深いため息を吐き出した。
もうこれ以上、この手の無駄な全自動漫才に付き合っている余裕はない。彼は疲れ切った顔で、けれど一番無難な、いつもの社会人のトーンで告げた。
「普通に……『祐奈』でお願いします。呼び捨てでいいですから」
ソフィアはその提案を受け取ると、脳内の言語プロトコルを少しだけ書き換えるように考え──やがて、静かに、淑やかに頷いた。
「分かりました」
──ようやく、終わった。
祐奈は心から安堵し、冷めきった紅茶を一気に飲み干そうとした。
しかし。
超高度AIの最適化された思考は、凡人の斜め上の斜め上を突き抜けていく。
「──『祐奈お父様』」
「分かってない!!」
ブフッ、と祐奈が盛大に紅茶を吹き出したのと同時に、ティーユの、本日最大級の割れんばかりの爆笑声が、青空広がる空中庭園の中にどこまでも響き渡るのだった。