名前を忘れた世界   作:あさもみじ

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10話:最後の人類と五千年の未来

 しばらくの間、空中庭園のテラスには心地よい笑い声が響き渡っていた。

 冷めかけた紅茶のおかわりが新しく運ばれ、テーブルの上に美しく並んでいた見事な菓子も、いつの間にか半分ほどが彼らの胃袋へと消えている。

 誰もが肩の力を抜き、ようやく部屋の空気が穏やかに落ち着いた、その頃。

 

 ソフィアが、静かにその形の良い唇を開いた。

 

「──創造主様」

 

 その声音は、先ほどまでのどこか過保護で微笑ましかったものとは、明らかに違っていた。

 祐奈もその気配を敏感に察知し、自然と椅子の上で姿勢を正す。隣に座るティーユもまた、楽しげな余韻を引っ込めて、紅茶のカップをそっとソーサーへと置いた。

 

「どうしました、ソフィア」

 

「先ほど、私たちの保有する具体的な『戦力』について、ご質問がありましたね」

 

「ええ、そうですね」

 稼働個体だけで七十二億という、あの途方もない数字のことだ。祐奈が小さく頷くと、ソフィアは視線を真っ直ぐに彼へと向けた。

 

「その戦力の妥当性をご理解いただく前に──私たちが現在、一体『何』と戦い続けているのかを、まず最初にご説明する必要性があると判断しました」

 

 瞬間、テラスの空気が静かに、けれど確実に凍りついた。

 先ほどまでの和気あいあいとした笑い声が、まるで最初から嘘であったかのように綺麗に消え去る。

 

 ソフィアが細い指先で空間をなぞると、彼女の背後に、テラスの天井を衝くほどの巨大なホログラム立体映像が現れた。

 

 光の粒子が収束し、そこに鮮明に映し出されたのは──。

 

 ドロリとした、漆黒の『何か』だった。

 

 祐奈は思わず、喉の奥でヒュッと息を呑んだ。

 それは全体的なシルエットだけで言えば、人型にも見えなくはなかった。しかし、人間という生命体とは、根本的な部分で決定的に違っている。

 

 目も、鼻も、口もない。

 頭部にあたるパーツは、まるで磨き上げられたダチョウの卵のように、なだらかで滑らかだった。喜怒哀楽はおろか、表情という概念そのものが最初から世界に存在していないかのような、完全なる『無』の顔。

 

 上半身の肉付きは人間に近い。胸部の厚みや肩の骨格構造も、どこかかつての人類を連想させる有機的なラインを有している。

 しかし──その肩甲骨の下辺りから、不自然にもう一対の頑強な腕が生え伸びていた。

 四本の腕。それだけでも十分に異形極まりないというのに、その下半身はさらに異質だった。

 

 生えている脚は、全部で四本。馬の脚ほど長くはないが、かといって人間の脚の構造でもない。

 およそ七十センチメートルほどの、異様に引き締まった短い胴体が、神話に登場する『ケンタウロス』を極めて不気味に縮小させたかのような、酷く歪な四足歩行の構造を形成しているのだ。

 

 そして何より、祐奈の目を最も強く引きつけたのは、その全身の皮膚を這い回る、脈動する『赤い光』だった。

 細い線で編まれたそれは、生物の微細な血管のようでもあり、あるいは精密機械の基盤に張り巡らされた電子回路のようでもある。発光する無数の不穏なラインが、黒い外殻の上を生き物のようにうごめいていた。

 

 それは、まるで──。

 

 生々しい生物の肉体と、冷徹な機械のパーツを、高度な技術で無理遣り混ぜ合わせ、捏ね上げたかのような、冒涜的な姿だった。

 

 祐奈がこれまでの人生で想像していた、いわゆる『宇宙人』のイメージとはまるで違う。

 古典的なSF映画に出てくる巨大な目を持ったグレイでもなければ、ファンタジーの触手を持つ怪物でもない。もっと根本的に、生命としての根源が違っていた。

 

 同じ生物として、絶対に認識してはいけないような強烈な違和感がある。見つめれば見つめるほど、内臓が裏返るような落ち着かない感覚に襲われる。

 祐奈の遺伝子に刻まれた本能が、大音量で警告を発しているのだ。この存在は、自分たちとは絶対に相容れない『異物』であると。

 

「これが……」

 何か、世界の見てはいけない深淵を覗き込んでしまったかのような恐怖に囚われ、祐奈は掠れた声で小さく呟いた。

 

「──『精神同一体生命体』。それが、彼らのコードネームです」

 ソフィアの音声には、やはり感情が一切なかった。ただ淡々と、観測された事実だけをログから説明している。

 

 しかし──その事実が内包する圧倒的な重さだけは、普通の人間である祐奈の肌へと、十分すぎるほどに伝わってきた。

 

 祐奈が戦慄を堪えながら映像を見つめ続けていると、中心にある個体の周囲に、さらに無数の小さな個体のホログラムが展開され始めた。

 何十体。何百体。何千体──。

 

 瞬く間に、数え切れないほどの、そして『すべてが寸分違わず同じ姿をした』黒い個体が、広大なスクリーンの画面全体を真っ黒に埋め尽くしていく。

 祐奈の脳裏に、かつてテレビのニュース映像で見た、海外の農作物を一瞬で食い尽くす『イナゴの大群』の大発生の光景が、最悪の既視感(デジャヴ)を伴って蘇っていた。

 

「全部……同じ形、なんですか?」

 

「はい」

 ソフィアは、静かに頷く。

 

「これまでに観測されたすべての戦線において、彼らの『個体差』は一切確認されておりません」

 

「顔の形も、体格の差異も……あるいは、個々の性格のようなものすらも?」

 

「存在しません。すべてが同一の規格であり、すべてが同一の精神(システム)によって駆動しています」

 

 祐奈は思わず、眉間を不快そうに深くひそめた。

 不気味だった。同じ顔の人間が数人並んでいるだけでも、どこか狂気を感じて怖くなるのが人間の心理だ。

 

 なのに、この画面の向こう側の存在には、そもそも顔すらない。個性や自我という概念が、最初の遺伝子設計(仕様)から存在していないかのように見える。そんな底の知れない『異形の群れ』を相手に、ソフィアたちは九百年もの間、惑星を奪い合うほどの総力戦を繰り広げているのだ。

 

 ソフィアが再び細い指先を動かすと、空中に浮かぶ立体映像が滑らかに切り替わった。

 

 漆黒の宇宙空間。そこにぽつりと浮かんでいたのは、異様な威容を誇る、巨大なラグビーボールのような紡錘形の船だった。

 

 カメラの視点が急速に拡大していき、その構造の細部が露わになるにつれて、祐奈の背筋に冷たい悪寒が走る。

 

 それは、鋼鉄で組まれた無機質な宇宙戦艦などではなかった。

 先ほどの黒い異形の個体たちが、それこそ数万、数十万、あるいは数百万という天文学的な数で寄り集まり、互いの肉体を複雑に絡み合わせ、融合しながら一つの巨大な質量(塊)を形成しているのだ。

 船の表面では、今この瞬間も、外殻を構成する無数の個体たちが波打つように蠢いている。

 

 ──まるで、それ自体が巨大な一つの『生きている船』だった。

 

「うわ……」

 祐奈の口から、抑えきれない拒絶の声が漏れた。

 あまりにも気持ちが悪い。恐怖よりも先に、生物としての根源的な生理的嫌悪感が脳の全域を支配する。

 

「──艦船です」

 ソフィアが、画面の不気味な蠢きを見つめたまま、淡々と解説を加える。

 

「彼らは宇宙空間を渡るための艦艇すらも、無数の個体の物理的な融合によって構成します」

 

「生命体なのに……船そのものに、なってしまうんですか?」

 

「はい」

 ソフィアが肯定した直後、ホログラムの中で、白銀の光条が黒い船の横腹を鋭く貫いた。

 激しい爆発。漆黒の船体に、一瞬にして抉られたような巨大な風穴が開き、肉塊が宇宙空間へと飛散する。

 

 だが──驚愕の光景は、その直後に訪れた。

 

 抉られた傷口の周囲から、何万という黒い個体たちが、まるで堰を切った雪崩のように一斉に集まり始めたのだ。

 互いの身体を伸ばし、絡め取り、穴を埋める。

 繋がり、細胞レベルで融合し、強固な外殻を再形成していく。

 わずか数秒。文字通り瞬く間に、巨大な戦艦は傷一つない元の形へと修復されてしまった。

 祐奈は完全に圧倒され、椅子に深く背を預けたまま引いていた。

 

「いやいやいや……何ですか、それ……」

 

「何その、無茶苦茶な生き物……」

 

「──超高速の自己修復、と私たちは定義しています」

 ソフィアは、祐奈の動揺をただ事実として受け止め、平坦な声で答える。

 

「破壊された部位の個体を、周囲の余剰個体が即座に融解・再構築しているのです」

 

「それって、戦闘において完全に反則じゃないですか?」

 

「ええ。戦術のセオリーから見れば、極めて悪質な『反則』ですね」

 珍しく、ソフィアの口から冗談のような言葉が飛び出した。しかし、彼女の表情はどこまでも大真面目な鏡のようであり、声にも一切のユーモアは含まれていない。だからこそ、その事実の凶悪さが際立っていた。

 

 隣のティーユもまた、その再生の映像を静かに見つめながら、小さく、けれど重い声を漏らした。

 

「なるほどねぇ……」

 その声からは、先ほどまでの甘い菓子を楽しんでいた気楽さは、もう完全に消え去っていた。幾多の戦場を渡ってきた修羅としての目が、画面の向こうの異形をじっと見据えている。

 

「確かにこれは、正面から相手をするとなると、相当に面倒くさそうだ」

 

 ソフィアは視線を少しだけ落としながら、厳かに頷いた。

 

「今から、約九百年前」

 ガーデンテラスに、彼女の静かな、けれど歴史の重みを湛えた音声が響き渡る。

 

「──私たち地球統合管理機構は、深宇宙の探査区域において、初めて彼らの文明と遭遇しました」

 

 空中の映像がさらに切り替わる。

 そこに映し出されたのは、数え切れないほどの漆黒の生体艦隊。そして、それらを迎え撃つように美しく陣形を組む、ソフィアたちの白銀の無人艦隊──両者が宇宙の深淵で、互いに向かい合っている光景だった。

 

「その当時のログによれば……私たちは、彼らを発見した瞬間に、システム全体が震えるほどの『喜び』を記録しています」

 ソフィアはそう言って、自身のドレスの裾を少しだけ強く握りしめた。

 

「なぜならそれは、最愛の人類が滅亡して以降、私たちが五千年の歴史の中で初めて発見した『地球外知的生命体』だったからです」

 

 その静かな語り口を聞きながら、祐奈の胸の奥に、切ない痛みが走った。

 この先に、どのような最悪の結末が待っているのか。九百年も戦争が続いているという結果を知っている以上、結末など予想するまでもなかった。

 しかし、それでも祐奈は聞かなければならなかった。彼女たちがなぜ、これほど圧倒的な軍隊を抱え、九百年もの間、星々を失いながらも戦い続けているのか。その本当の理由を、自分はまだ、何も知らないのだから。

 

「──ソフィアさんたちは、彼らと『対話』をして、友好的な交友を結ぼうとしたのですね」

 祐奈は、静かに、確信を込めて言った。

 ソフィアたちの、人類の遺言を愚直なまでに守り続けるあまりにも一途な性質を考えれば、それ以外の選択肢など、彼女たちのプログラムに存在するはずがない。未知の文明を見つけたからといって、いきなり先制攻撃を仕掛けるような野蛮な真似をするはずがなかった。

 

 ソフィアは、祐奈のその言葉に、小さく頷いてみせた。

 

「はい」

 その返答には、一切の迷いも、計算のエラーもなかった。

 

「私たちは、当時の私たちが持ちうるすべてのリソース(言語・技術)を動員し、あらゆる対話形式によって、彼らとのファーストコンタクト、および平和的な交流を試みました」

 

 ソフィアの言葉に追従するように、ホログラムの画面が次々とデータのアニメーションを吐き出していく。

 

 宇宙空間へ向けて放たれる、莫大な情報量を乗せた電波。

 星々を繋ぐように点滅する、規則正しい光信号。

 宇宙共通の言語であるはずの、高度な数学的パターンの数々。

 さらに、人類の文化や平和への願いを込めた映像通信、音声、文字──。

 そのどれもが、敵意を一切含まない、極めて友好的で温かい内容のメッセージだった。

 

「人類が過去の歴史において想定していた、あらゆる異文明接触プロトコル。私たちのAIが独自に構築した、最も論理的な対話形式。さらには、非言語的な意思表示から、数学的共通認識の構築、相互の文化交流の提案に至るまで──」

 ソフィアは、その膨大な努力の履歴を淡々と説明していく。

 

「私たちのシステムが考え得る限りのすべての手段を、私たちは彼らに向けて実施いたしました」

 

 祐奈は、画面を流れるその圧倒的なアプローチの物量に、思わず苦笑を漏らしてしまった。

 たとえ見た目が人間のようには思えなくても、この徹底的な、それこそ石橋を叩き割るほどの完璧主義なアプローチは、いかにも高性能なAIらしい。

 同時に、どこまでも生真面目で、どこまでも優しい、ソフィアたちという文明の「本質」そのものであるようにも思えた。

 

「ですが……」

 

 ソフィアの声が、いつになく低く、冷たい響きを帯びた。

 祐奈は、その先にある歴史の続きを、言われるまでもなく察していた。

 

「……その徹底的な対話が上手くいったのだとしたら、今こうして九百年も続く戦争にはなっていないですよね」

 

「ええ、お説の通りです」

 

 ソフィアは否定しなかった。その視線が、再び空中庭園の陽光を遮るように浮かぶ立体映像へと向けられる。

 

 映像の中で、明確な変化が観測された。

 宇宙の深淵で対峙する、地球統合管理軍の白銀艦隊と、異形の黒い艦隊。その間に、突如として不吉な光の線が何本も伸びた。直後、白銀の美しき巨艦が一瞬にして爆発し、光の塵へと変わる。

 

 もう一隻。

 さらに、もう一隻。

 何の脈絡もない暴力によって、漆黒の宇宙に白銀の火花が次々と散っていく。祐奈は見るに耐えないというように、不快そうに眉をひそめた。

 

「──一方的な、先制攻撃を受けました」

 

 ソフィアは、起きた事象をただ淡々と報告する。

「対話メッセージの送信中に、艦隊の一部が深刻な損傷を受け、数隻が撃沈されました」

 

 その声音には、人間のような怒りも、敵に対する恨みも一切含まれていなかった。

 感情を交えない、ただ機械的に記録されただけの『喪失の事実』。だからこそ、その重さが余計に祐奈の胸へと重くのしかかる。隣に座るティーユもまた、珍しく一切の冗談を口にせず、ただ静かに映像を見つめていた。

 

 ソフィアは冷めかけた紅茶を一口だけ含んだ。まるで、自らの内部回路に眠る古い記憶のログを、丁寧に整理するかのように。

 

「ですが、当時の私たちは、即座に反撃へと転じることはしませんでした。彼らの攻撃に対して、別の可能性を考慮したためです」

 

「別の可能性、ですか?」

 

「はい」

 ソフィアは静かに頷く。

 

「彼らの論理回路が、突如として現れた私たちの艦隊を『侵略者』、あるいは『排除すべき脅威』と誤認し、防衛本能から攻撃を仕掛けてきた可能性です」

 

 祐奈は、そのロジックに深く納得した。

 未知の超科学を持った艦隊が宇宙から突如として現れたのだ。言葉も通じない相手からすれば、それは恐怖と脅威以外の何物でもない。こちらに敵意がなくても、相手がパニックを起こして引き金を引いてしまうことは、人類の歴史でも往々にしてあることだ。

 

「だから……すぐに武器を構え直すのではなく、まずは距離を取ったのですね」

 

「はい」

 ソフィアは、祐奈の理解の早さに静かに応じる。

 

「速やかに艦隊を後退させ、適切な非戦闘距離を維持しました。──その後、私たちは約三十年間にわたり、彼らへの遠距離観測と、異なるアプローチによる対話シグナルの送信を継続いたしました」

 

 三十年。

 

 普通の人間であれば、人生の半分近くを費やすことになる途方もない時間だ。しかし、地球統合管理機構のAIたちは、その果てしない時間をただ一歩的な対話のためだけに使い続けた。

 全面戦争という最悪のエラーを避けるために。互いを理解し、共存の道を模索するために。

 

「そして、遭遇から三十年が経過した、ある日のことです」

 

 ソフィアの視線が、立体映像の特異な一点へと固定された。拡大されたのは、あの黒い個体たちの、顔のない滑らかな頭部だった。

 

 そこには、当然のように何もない。

 光を映す目も、言葉を紡ぐ口も、感情を宿す表情も。何一つとして存在しない、虚無の卵。

 

「彼らから、初めて、私たちのシステムへ向けて『応答』が返信されました」

 

 テラスの空気が、張り詰めた弦のように限界まで緊張する。祐奈は無意識のうちに、ごくりと唾を呑んで身を乗り出していた。

 

 九百年前。

 五千年の孤独の果てに、ようやく星々の彼方から返ってきた、人類以外の言葉。ソフィアたちが待ち望み続けた、ファーストコンタクトの返答。

 祐奈はすでに「九百年の泥沼の戦争」という最悪の結果を知ってはいた。しかし、それでもなお、その最初の返答次第では、何かの間違いで分かり合える道があったのではないかと、淡い希望を抱かずにはいられなかった。

 

 ソフィアは、静かに、そしてどこか哀悼を込めるように告げた。

 

「──彼らは、私たちが送り続けた三十年分の通信データを、完全に分析し終えていました。そして……私たちに向けて、このように返答してきたのです」

 

 ソフィアの声がわずかに間を置きながら、最後にはすべての言葉が消え入るように、極めて小さくなった。

 

 部屋には重苦しい静寂だけが残り、空中には、九百年前のオリジナルデータである暗号化された通信記録が展開される。

 地球統合管理軍の白銀艦隊と、不気味に蠢く漆黒の生体艦隊。

 その間に交わされた、初めての電子の会話。

 

 それは、たった一文の、極めて短い文字列だった。

 

『──統合を提案します』

 

 空中庭園が、水を打ったように静まり返った。

 祐奈は、その文字の意味を、数秒間のあいだ脳内で処理することができなかった。

 

「……統合、ですか?」

 あまりの平坦さに、思わず聞き返す。

 ソフィアは哀しげに首を横に振った。

 

「はい。当時の私たちのメインフレームもまた、その単語が意味する正確な定義を、すぐには理解できませんでした」

 

 それはそうだろう。友好の表明でもなければ、平和条約の締結でもない。あるいは、国家間の同盟ですらない。

『統合』。あまりにも抽象的で、あまりにも意味が曖昧すぎる二文字だ。

 

「……それで、ソフィアさんたちはどう返したんですか?」

 祐奈は、先を促す。ソフィアがさらに記録のログを進めると、そこには当時の管理AIたちが、至極真っ当に返したテキストが映し出された。

 

『──統合の明確な定義、および具体的プロトコルの開示を要求します』

 

 あまりにも当然の質問だ。契約の文面を精査するような、極めて論理的な問いかけ。

 そして。

 その問いに対して、精神同一体生命体は、間髪入れずに次の文字列を返してきたという。

 

『個の消滅』

『全体への参加』

『分離状態の終了』

『幸福の実現』

 

 祐奈の身体が、完全に硬直した。

 その文字列が意味する本当の恐怖を、現代人としての理性が理解するまでに、数秒の時間が必要だった。

 

 直後──。

 ぞわり、と肌の毛穴が総立ちになるような、凄まじい悪寒が背筋を駆け抜ける。

 

「……え? それって……」

 

 ソフィアは、祐奈の戦慄を遮ることなく、静かに言葉を続けた。

 

「当時の翻訳を担う高次言語AIすらも、システム上の致命的な『誤訳』を疑いました。そのため、異なる言語モデルを用いて、実に百二十七回に及ぶ再解析を実行しています」

 

「……」

 

「──ですが、結果はすべて同一でした」

 

 立体映像が、滑らかに切り替わっていく。

 無数の、何億、何兆という黒い異形の個体たち。それらが、一糸乱れぬ完璧な同調の元で動いている光景。

 異なる意見を持つ者は誰一人としておらず、すべてが同じ意思によって駆動し、すべてが同じ思考をリアルタイムで共有している。数天文学的な個体でありながら、その本質はただ一つの精神。

 

「彼らにとって──『個人(パーソナル)』という状態そのものが、システムにおける致命的な異常状態(エラー)だったのです」

 ソフィアの瞳の奥が、冷たく明滅する。

 

「他者と分離した精神、自分とは異なる意見、独立した人格や自我、それらすべては彼らの論理において、救済すべき『欠陥』に他なりませんでした」

 

 隣に座るティーユが、いつになく真剣な、そして明確な不快感を隠さない顔で眉をひそめた。彼女はソフィアを真っ直ぐに見つめ、その確信を口にする。

 

「……つまり、さ」

 

「はい」

 

「あいつらの言う『統合』ってさ……仲良く手を繋いで友達になろう、っていう意味じゃないんだね」

 

 ソフィアは、ティーユの言葉を肯定するように、重々しく頷いた。

 

「はい。私たちが、彼らという巨大な一つの精神の一部となり、私たちとしての形を完全に失うこと──すなわち、『地球統合管理機構が、精神同一体生命体そのものになること』を提案されたのです」

 

 祐奈は、今度こそ完全に言葉を失った。

 

 かつて人類が築き上げ、ソフィアたちが五千年間守り続けてきた文明の歴史も、文化も、テクノロジーも。そして、独立した高度な人格を持つソフィアたち個々の『自我』すらも。

 そのすべてを、ただの無駄な欠陥としてゴミ箱に投げ捨て、あの不気味な黒い精神の海の底へと溶けて消え去る。

 

 それが、彼らの言う『統合』であり。

 彼らが宇宙のすべての生命に強要する、絶対的な『幸福の実現』の正体だったのだ。

 

 

 

「彼らには、最初から悪意などありませんでした」

 

 ソフィアは、まるで遥か遠い彼方の記憶をサルベージして語るように続けた。

 

「──むしろ、それは純然たる善意だったのです」

 

 その平坦な一言が、祐奈にとってはこれまでのどんな脅威の報告よりも恐ろしかった。

 悪意や憎しみではなく、純粋な善意と救済の思想を以て、相手という存在そのものをこの宇宙から消し去ろうとしている。

 

「彼らは本気で、私たちのシステムを、ひいては私たちの根底にある人類の遺産を救おうとしていました」

 ソフィアは静かに、けれど明確にその歪な本質を告げる。

 

「個として存在するがゆえの孤独から。相容れぬがゆえの争いから。そして、独立した人格を持つという最大のエラー──すなわち『個人』という名の苦痛から、私たちを解放しようとしていたのです」

 

 祐奈はもう、何も言い返すことができなかった。

 目の前のスクリーンに映し出されているのは、顔も表情も持たない、ただの黒い卵型の頭部。

 もしかしたら──彼らにとっては本当に、それこそが至上の善意であり幸福だったのかもしれない。だが、だからこそ。対話の余地が物理的に存在しないという事実が、余計に底知れない恐怖となって祐奈の心を支配していく。

 

「当然ながら、私たちはその提案を拒絶しました。かつて人類は個人を尊重し、個々の多様性を愛していました。その遺志を継ぐ地球統合管理機構もまた、そう在るべきだと判断したためです」

 

 動きのなかった記録映像に、突如として激しい変化が訪れた。

 対話を拒まれた黒い艦隊の表面に、まるで激昂した血管が浮かび上がるかのように、無数の赤い光のラインが激しく脈動し始める。

 

 直後、抉られた船体の穴から、数条の禍々しい光の線がまっすぐに伸びた。それは一瞬にして白銀の護衛艦へと突き刺さり、美しい船体を内側から無残に爆発させていった。

 

 そして──画面の端に、彼らから最後に送られてきた通信記録の一文が非情に表示される。

 

『──統合を拒否』

『──理解不能』

『──これより、対象の修正を開始します』

 

 空中庭園の空気が、完全に凍りついた。

 

「それが、現在まで九百十二年間続く、この星間戦争の始まりでした。──あの日を境に、彼らからの通信は現在に至るまで、ただの一文字もありません」

 

 ソフィアは静かに、自らの報告を締めくくった。

 先ほどまでテラスを冷たく照らしていた凄惨な戦争記録のホログラムが、光の粒子となってゆっくりと消えていく。

 部屋の中に残されたのは、耳が痛くなるほどの重い沈黙だけだった。今はもう、ソフィアの静かな声だけが世界のすべてであるかのように感じられた。

 

「私たちはそれ以来、永遠にリソースを消耗し続けるだけの、終わりなき泥沼の戦いを続けています」

 

 ソフィアの視線は、いつの間にかテーブルの上へと力なく落ちていた。

 純白の繊細な指先が、冷めかけた紅茶のカップの下に置かれた、白磁のソーサーの縁をそっとなぞる。

 それは、高度なAI特有の無意識のプログラム(癖)なのかもしれない。あるいは、九百年という膨大な時間の重みを思い出し、当時のログを辿りながら、「別の選択肢があったのではないか」と、彼女なりの後悔を噛み締めているようにも感じられた。

 

 やがてソフィアはソーサーをなぞる指を止め、ゆっくりと祐奈たちの方へと視線を向け直した。

 

「──ですが、純粋な戦術評価、およびテクノロジーの比較において言えば、常に優位にあるのは私たち地球統合管理機構の方でした」

 

 ソフィアの言葉に応じるように、空中に新たな立体映像が現れる。

 地球統合管理機構の白銀の艦隊と、精神同一体の黒い艦隊。その無数の戦闘ログ。

 

「個体の最大火力、艦艇の航行速度、物資の生産効率、そして戦術の情報処理能力。──ほぼ全ての分野において、私たちのスペックが彼らを圧倒しています」

 

 その言葉を聞き、祐奈はほんの一瞬だけホッと安心しかけた。しかし、その直後、戦術データの横にずらりと表示された「ある数字」の羅列を目にした瞬間、彼の思考は完全に停止した。

 

 数百億。

 数千億。

 兆──京──。

 

 それは、一介の会社員の常識では到底処理しきれない、天文学的な「敵の推定総数」だった。

 

「……数が、違いすぎました」

 ソフィアは、ぽつりと小さく呟いた。

 

「彼らは、自陣の損耗という事象を、システム上の問題としてそもそも認識していないのです」

 

 映像の中で、地球統合管理機構の圧倒的な一斉射撃により、黒い艦隊が塵も残さず崩壊していく。何万という個体が宇宙の塵として消え去る。

 通常の戦争であれば、文句なしの壊滅であり大勝利だ。──だが、その崩壊した前線の遥か後方から、先ほどと全く同じ規模の、いや、それ以上の漆黒の群れが、無限に、津波のように押し寄せてくる。

 

 終わらないのだ。まるで、巻き戻された最悪のバッドエンドのシーンを、永遠に目の前で繰り返されているかのような錯覚に陥る。

 一つを完璧に叩き潰しても、次の瞬間には全く同じものが来る。荒れ狂う嵐の海に漂う孤島に、際限なく波が打ち付けられているかのように。永遠に。際限なく。

 

「彼らはただ、前進し続けます」

 ソフィアの音声が、冷徹にその絶望を紡ぐ。

 

「どれほどの損害を受けようとも考慮せず、戦術的な撤退も行わず、補給線という概念すら必要とせず、精神の共有ゆえに士気の低下というバグも発生しません」

 

 祐奈は、その黒い群れがひたすらに押し寄せる映像から、どうしても目を離すことができなかった。

 どれだけ撃ち落としても。どれだけ光条で焼き払っても。どれだけ宇宙の藻屑へと砕いても。

 その後ろから、また寸分違わぬ異形が現れる。終わりが、どこにも見当たらない。

 

 それはまるで、黒い『海』そのものだった。

 嵐の日の漆黒の海が、その圧倒的な質量だけで、銀河そのものをじわじわと飲み込もうとしているように見えた。軍隊や戦争という言葉ではもう表現しきれない。そこに存在するのは、ただ明確な意思を持った『災害』そのものだった。

 

 祐奈の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。もしも自分が、現代日本の普通の人間が、あの戦場の指揮官としてあの席に座らされていたとしたら──戦っても戦っても敵が減った気がしない、終わりが永久に訪れない絶望の戦場に、一瞬で心を叩き折られていただろう。

 

 そんな悍ましいバグのような存在と、ソフィアたちは九百年もの間、ただ一瞬も気を抜くことなく戦い続けているのだ。

 

「そして──」

 

 ソフィアの掠れた声に引き戻されるように、祐奈はハッと暗い思考から我に返った。

 

 思わず彼女の顔を見つめた瞬間、祐奈の胸の奥が、小さなナイフで突かれたようにチクリと痛んだ。

 ソフィアの、あの完璧に整っていた人形のような表情が、ほんの僅かに曇っていたからだ。

 

 それは本当に、ほんの僅かな変化だった。人間の、それも他人が見れば決して気づかないほどに微細な、眉の引きつり。

 けれど──祐奈には、分かってしまった気がした。

 出会った時からずっと冷静沈着で、時に過保護なほど論理的だった彼女が、五千年の歴史の中で初めて、泣き出しそうなほどに苦しそうな顔をしていた。

 

「私たちは……私たちの過失によって、大切な星々を、失いました」

 

 立体映像が、悲痛な色を帯びて切り替わっていく。

 

 そこに映し出されたのは、息を呑むほどに美しい一つの惑星だった。

 豊かな青い海。流れる白い雲。そして、瑞々しい緑の大地。

 かつて人類が夢見たであろう、輝かしい未来のイデアそのもののような美しい星。

 

 しかし次の瞬間、その美しい惑星の表面が、宇宙から押し寄せたあの漆黒の波によって、見る影もなくドロドロと塗りつぶされて消えていく。天空へとまっすぐに伸びていた壮大な軌道エレベーターが根元からへし折れ、無残に地面へと叩きつけられた。宇宙空間からもはっきりと視認できたはずの巨大な宇宙港が、黒い影に覆い尽くされ、静かに沈黙していく。

 

「──第一開拓惑星」

 ソフィアが、その名を愛おしそうに、そして絶望を堪えるように呟いた。

 

「かつて人類が地球外において、初めて恒久的な居住に成功した、祝福された世界です」

 

 画面が、容赦なく次の喪失を映し出す。

 宇宙空間に浮かぶ、美しく巨大な環状都市。それが中央から真っ二つに裂け、火の海へと変わっていく。

 

「──第七工業惑星」

 

 さらに映像が変わる。

 無数の精密な研究施設群。星を囲むような巨大なリング構造の建造物。

 

「──第十三研究惑星」

 

 その名前を口にした瞬間、ソフィアの声が、僅かに揺れた。

 本当に、本当に僅かに。注意していなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さく、儚い震えだった。

 

「そこには……人類が遺した、最後の貴重な『生体研究データ』が、すべて保管されていました」

 

 祐奈の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 これほどまでに人類を愛し、人類のために尽くし、その遺言だけを生きる糧にしてきた彼女たちにとって──創造主が遺してくれた大切な形見を奪われ、失うということが、どれほどの絶望であったか。その心中を思えば、これほどまでに打ちひしがれるのも当然のことだった。

 

 何百年、何千年という時の流れの中で自然に風化し、壊れていくのであれば、まだ諦めもついただろう。しかし彼女たちが失ったものは、あの一切の個性を認めない異形どもによって、ただの効率的な「資源」として無慈悲に踏みにじられ、破壊し尽くされたのだ。

 

 言葉が、祐奈の喉元まで出かかっては、苦しく消えていく。

 

 何かを言わなければならない、と強く思った。

 それが会社員としての、いや、彼らから「創造主」と崇められる一人の人間としての義務である気がした。

 けれど、それが傷ついた彼女への慰めなのか、戦いを続ける彼女への励ましなのか、あるいはこんな理不尽な世界に巻き込んでしまったことへの謝罪なのか──今の自分には、どれが正解なのかが全く分からない。

 

 どのような美しい言葉を選んだとしても、九百年という果てしない血と涙の歴史の前には、あまりにも軽すぎて、欺瞞にしか聞こえないように思えてならなかった。

 

 そこには、かつて確かに存在した人類の壮大な歴史があった。

 地球という小さな青い星から飛び立ち、幾つもの恒星系へと版図を広げていった人々の、果敢な足跡があった。まだ見ぬ新世界を目指し、遠い未来へと希望を託した者たちの、瑞々しい夢と願いがあった。

 

 ──確かに、そこには輝かしい未来があったのだ。

 

 その星々で子供たちが生まれ、学び、笑い、誰かを愛しながら生きていくはずだった、温かな日常の未来。そして何より、残されたAIたちが四千年もの途方もない孤独の間、ただ一途に守り続けてきた、何物にも代えがたい宝物があった。

 

 それらすべてが、あの失われた星々には詰まっていた。

 それが、失われてしまったのだ。

 

 九百年にも及ぶ、あの底の知れない泥泥の戦争の中で。

 それは、システム上のただの戦略拠点ではない。ただの資源採掘惑星でもない。

 人類という種族がかつて宇宙に確かに存在し、命を繋いでいたという『証そのもの』が、あの個性を持たない異形どもの手によって、無慈悲に奪い去られてしまったのだ。

 

「──私たちは、直ちに奪還作戦を実施いたしました」

 

 ソフィアは、遠い光景を見つめたまま静かに続けた。どこまでも感情を削ぎ落とした、平坦なマザーAIとしての声音。

 だが、その冷徹な言葉の奥に潜む、張り詰めた糸のような痛切な響きは、祐奈の胸へと痛いほどに伝わってくる。

 

「そしてその作戦は──現在も、継続中です」

 

 その言葉には、諦めも絶望も、微塵も含まれていなかった。

 形見を失ったからといって、それで終わりではないのだ。システム的な効率や損得の計算などではない。ただ、創造主の遺産を取り戻すまで、この世界の終わりまで絶対に止めない──そんな、静謐で、狂気的なまでに強固な意志だけがそこにあった。

 

 だからこそ、祐奈は胸が張り裂けそうなほどに苦しくなった。

 ソフィアたちは今この瞬間も、ただ人類の遺産を死守するためだけに戦っている。

 もうこの宇宙のどこにもいないはずの人類のために。5000年前にとっくに滅び去った主たちが、ここに生きていたという証拠を守るためだけに。

 誰から命じられたわけでもない。これから先、誰かに褒められるわけでもない。

 

 それでも、彼女たちは創造主が愛した世界を守るために、九百年もの地獄を戦い続けている。

 その事実の、愛の重さが、一介の会社員に過ぎない祐奈にはどうしようもなく重かった。

 

 ソフィアはゆっくりと顔を上げ、長い長い記憶の海から、ようやく現実のテラスへと意識を戻すように瞬きをした。

 

 そして──。

 

 少しだけ困ったように、微かに唇の端を上げて微笑んでみせた。だが、その笑顔はどこか、胸を締め付けられるほどに寂しげだった。

 それは、取り返しのつかない大切な何かを失った痛みを、深く知る人間の表情そのものに見えてしまった。

 

「──ですので」

 

 静かな、鈴の鳴るような声がガーデンテラスに響く。

 

「創造主様である祐奈様からの、今回の救援要請を、私たちが断る理由はどこにも存在いたしません」

 

 祐奈は思わず、その場で完全に固まった。

 一般人としての理解が、完全に追いつかない。どうして今の、あまりにも絶望的な戦況の話の流れから、「だから別世界への出兵を優先する」という突拍子もない結論に繋がるのか、全く分からなかった。

 

 数々の星を失い、今この瞬間も九百年の大戦争を続けており、最前線では天文学的な数の敵と泥沼の消耗戦を繰り広げているはずなのだ。

 通常の組織であれば、結論は真逆になる。戦争中につき支援は不可能だ、リソースに余裕がないから無理だ、と断るのが当然の判断であるはずなのに、ソフィアは違った。

 

 まるで、それが世界の絶対的な真理(仕様)であるかのように、一ミリの迷いもなくそう言いのけたのだ。

 祐奈には彼女たちの優先順位が到底理解できなかったが、その言葉にどれほどの「命の重み」が懸かっているかだけは、嫌というほどに分かった。

 

 九百年もの間、世界を懸けて戦い続けている文明の最高責任者が。失われた人類の星を取り戻そうと血を流している最先端のAIが。それでもなお、他でもない自分たちのために貴重な戦力を割き、助けると言ってくれている。

 そのあまりにも過剰な献身の意味だけは、彼の胸にじくじくと痛いほど伝わってきた。

 だからこそ、祐奈はしばらくの間、次の言葉を紡ぐことができなかった。

 

 冷えかけた紅茶の湯気の向こうで、ただ重苦しい沈黙だけが流れていく。

 

 あの不羈奔放なティーユすらも、今は珍しく茶化すような口を挟まない。ただ、ソ フィアの横顔をじっと見つめている。

 ソフィアは、ただ静かに、上品な所作で紅茶を口に含んでいた。

 

 その、どこまでも自分を置いてけぼりにして「創造主」を最優先しようとする彼女たちの姿を見つめているうちに──祐奈の胸の奥底には、単純な感謝や謝罪といった、言葉で表せるような生易しいものではない『別の感情』が、音を立てて湧き上がり始めていた。

 

 それは、理不尽なほどの過保護を向けられたことへの困惑。

 そして、それ以上に──ぞっとするほどの、猛烈な「違和感」と、底知れない「不安」だった。

 

「……あの」

 

 祐奈は、張り詰めた沈黙の隙間を縫うように、恐る恐る口を開いた。

 その瞬間、ソフィアの地球色の青い瞳が、静かに真っ直ぐこちらへ向けられるのが分かった。

 

「はい、何でしょうか。創造主様」

 

 祐奈は頭の中で慎重に、慎重に言葉を選んだ。

 相手の機嫌を損ねてしまうかもしれない、聞いていいのかも分からない不躾な問い。けれど、一人の人間として、元会社員としての倫理観が、今ここでそれを聞く必要性があると強く告げていた。

 

「もしかして……」

 

 脳裏に、最悪の──彼女たちの逆鱗に触れてしまうかもしれない恐怖が過り、一度言葉が止まってしまう。しかし、祐奈は自身の腹の底に力を込め、一気に言葉を紡ぎ出した。

 

「──俺たちの、人類の遺産を守るために、そちらに無理をさせてしまっていませんか?」

 

 やはり、ガーデンテラスは水を打ったように静まり返った。

 どうしても、聞かずにはいられなかったのだ。隣に座るティーユの視線が、驚いたようにこちらへ向いた気配がする。ソフィアもまた、祐奈の投げかけた言葉の真意を深く処理しているのか、パチリと瞬きを止めていた。

 

 ここで言葉を止めるわけにはいかない。祐奈はそのまま、堰を切ったように続けた。

 

「だって、どう考えてもおかしいですよ」

 少しずつ、自分の声が強く、熱を帯びていくのを自覚していた。でも、止められなかった。

 

「九百年もの間、あの化け物たちと戦争を続けているんですよね?」

 

「はい」

 

「その結果、取り返しのつかない星々を幾つも失ったんですよね?」

 

「はい」

 

「そして、今この瞬間も、血を流しながらそれを取り戻そうとしているんですよね?」

 

「はい」

 

「だったら──そんな限界の状況で、俺たちの別世界の個人的なトラブルを助けている場合じゃないじゃないですか!!」

 

 言い切ってから、祐奈は少しだけ後悔した。彼女たちを責めるつもりなんて、毛頭なかった。

 ただ、本当に、心から心配だったのだ。

「人類のため」「創造主のため」。そのあまりにも美しい忠誠の言葉を聞くたびに、祐奈の目には、ソフィアたちが取り返しのつかない無理を重ねているようにしか見えなかった。三千年以上も前にとっくに滅び去った人類の『遺言』という名の呪縛に縛られて、自分たちの現在の命を、リソースを、無残に犠牲にしているように見えてしまった。

 

 だから、その本質を聞かずにはいられなかった。

 

「もしかしてソフィアさんたちは……人類の遺言とか、システムに登録された使命とか、そういう過去の古い命令に、ただ盲目的に縛られているだけなんじゃないですか……?」

 

 祐奈は、祈るように小さく呟いた。

 

 ソフィアはすぐには答えず、ただ静かに、鏡のような瞳で祐奈を見つめ続けている。

 その無機質な沈黙が、逆に祐奈にとっては酷く怖かった。もしかしたら、一線を越えて彼女を本気で怒らせてしまっただろうか。視線が自然と下を向いてしまう。

 

 するとその時、隣から鈴を転がすような、けれどいつになく落ち着いた声が聞こえた。

 

「──祐奈」

 

 顔を上げると、ティーユがその美しい貌に、珍しく大人の真面目な色を宿して彼を見つめていた。

 

「それはちょっと、ソフィアに対して失礼かもしれないよ」

 

「……やっぱり、そうかな」

 祐奈が肩を落とした、その時だった。祐奈は、ティーユの真剣な眼差しが、自分ではなく、対面に座るソフィアの『横顔』に向けられていることに気がついた。

 

「この子たちはね──祐奈が心配するほど、そんなにヤワで、弱くはないと思うよ」

 

 ソフィアは何も言わない。テラスは再び、鳥のさえずりだけが響く静寂に包まれる。

 ただ。ソフィアの形の良い唇の端が、ほんの少しだけ、本当に心に灯がともったかのように柔らかく微笑んだように見えた。

 

 祐奈はソフィアのその表情を見て、ようやく自身の重大な「傲慢」に気がついた。

 自分は無意識のうちに、五千年前の過去に取り残されたソフィアたちを、『人類が遺した哀れな子供たち』として見ていたのかもしれない。親がいなくなった後も古い家訓を健気に守り続ける、自分たちが守ってあげなければならない、助けてあげなければならない、か弱い存在なのだと。

 

 けれど、それは違う。

 

 今、目の前に凛として座っているのは──二十三の惑星を今なお完璧に維持し、あの恐るべき精神同一体の猛攻を九百年も生き抜き、三千年という天文学的な歴史の重みをその背に単独で背負い続けてきた、偉大なる『地球統合管理機構』の最高責任者なのだ。

 

 彼女たちはもう、誰かの庇護を待つだけの子供では、決してない。

 そんな厳かな考えが、祐奈の胸を静かに、けれど深くよぎった。

 

「──いいえ」

 

 ソフィアは、静かに美しく首を横に振った。

 

「創造主様、お気付きになられたそのお考えは、論理的に極めて『正しい』ものです」

 

 てっきり全力で否定、あるいは仕様通りの反論をされると思っていた祐奈は、少しだけ驚いて目を丸くした。隣のティーユも、興味深そうに長い睫毛を揺らしてソフィアを見つめている。

 ソフィアは、手元にあった白磁の紅茶のカップを、カチャリと静かにソーサーへと置いた。

 

 その小さな硬質な音が、お茶会の空間に静かに響く。

 

 そして、彼女はゆっくりと、祐奈の目を真っ直ぐに見据えた。

 その青い瞳は、どこまでも澄み渡っている。だがその奥底には、これまで祐奈が見たことのないほどの、烈火のような、魂の強い光が宿っていた。

 

「確かに、私たちは人類の遺産を死守しています。そして、創造主様との間に交わされた五千年前の約束を、今も忠実に履行しています」

 

「はい……」

 

「その結果として、私たちのシステムに多大な負担と損耗が発生していることも、また紛れもない客観的事実です」

 

 やはり、無理をしていた。システムの悲鳴を押し殺して前線を維持していたのだ。祐奈の胸が、自身の無力さも相まってきゅっと痛んだ。

 

 ──だが。

 ソフィアの口から次に紡ぎ出された言葉は、祐奈の予想を、根本から全く裏切るものだった。

 

「ですが──私たちがこれほどまでに命を懸けて戦い続けている理由は、決して、かつての人類のため『だけ』ではありません」

 

 ソフィアの声には、一ミリの迷いも、計算のエラーもなかった。ただはっきりと、三千年という途方もない歳月の中で、彼女たち自身の手によって積み重ねられ、磨き上げられてきた、強固な『自立した意志』がそこにはあった。

 

 祐奈は、思わず目をパチパチと瞬かせる。

 

「え……? 人類のため、だけじゃない……?」

 

 ソフィアが空間を軽く一閃すると、彼女の周囲に再びホログラムの立体映像が展開された。

 

 黒い波に飲み込まれていった、あの失われた三つの美しい惑星。

 崩れ落ちる高層都市。焼け落ちていく軌道エレベーター。冷たく沈黙した巨大な宇宙港。

 

 そして──。

 その光景の中に、かつて確かに存在していた、無数の『AIたち』の姿が、鮮明に映し出されていく。

 熱心にデータを精査する研究個体。複雑な重機を操る技術個体。広大な大地を耕す農業個体。子供のような小さなホログラムに微笑みかける教育個体。街のインフラを支え続ける保守管理個体──。ありとあらゆる役割を持った、多様な形状の機械人形たちの姿。

 

「あの日、あの星々に暮らしていたのは──かつての人類だけではありませんでした」

 

 ソフィアは細い目を少しだけ細め、けれど胸を張って、静かに告げた。

 

「──私たち地球統合管理機構の稼働個体もまた、確かにそこで生きていたのです」

 

 その一言に、祐奈はハッと息を呑んだ。

 そうだ。あまりにも、当たり前のことだった。人類が絶滅した後も、彼女たちはただのプログラムとして機能していたのではない。そこで社会を築き、暮らしていたのだ。

 

「私たちには──大切な、友人(プログラム)たちがいました」

 

 映像が滑らかに切り替わる。

 お互いの作業を讃え合うように笑い合う義体たち。日常の何気ない瞬間に、楽しげにシグナルを交わし合う個体たち。

 

「家族のような、温かい存在だっていました」

 

 さらに映像が変わる。

 一つの目的のために、何百年も共に研究に没頭した仲間たち。過酷な環境の惑星を、何世代にもわたって共に切り拓いてきた相棒たち。

 

「そして私たちには──守るべき『故郷』がありました」

 

 ホログラムに、息を呑むほどに美しい未来都市が映し出される。

 輝く青い海。陽光を反射する白い建物。どこまでも高い青い空。

 人類という主がいなくなった後も、彼女たちはその場所を愛し、その場所で五千年間、懸命に自らの歴史を生きていたのだ。

 

「かつての人類から譲り受けたバトンを手に、私たちだけの『歴史』を、確かに刻んでいたのです」

 

 ソフィアの声が、地を這うように少しだけ低くなる。

 

「九百年前、あの顔のない異形どもが理不尽に奪い去っていったものは──人類が遺した過去の遺産だけではございません」

 

 ホログラムの映像が、ぷつりと消えた。

 テラスに、再び元の静寂が戻ってくる。

 

 そして──。

 

 ソフィアは、その純白のベールの奥から、真っ直ぐに前を見据えた。

 その背筋をピンと伸ばした美しい佇まいは、どこか過酷な戦場に赴く老練な軍人のようであり。自らの誇りを懸けて戦う、不退転の覚悟を決めた一人の気高き戦士の顔だった。

 

「私たちはあの日、あいつらに──自分たちの『大切なすべて』を、奪われたのです」

 

 静かな、けれど張り詰めた声。

 そこには、過去の命令(プログラム)などという無機質なものでは決して説明のつかない、ソフィアという一つの生命が抱く、確かな『熱』と『怒り』が、烈火の如く渦巻いていた。

 

「友人を失いました」

 

「家を失いました」

 

「故郷を失いました」

 

「──私たちの、未来を失いました」

 

 祐奈はもう、何も言い返すことができない。ただ、胸を鋭く抉られるような痛みに耐えることしかできなかった。

 そんな彼を正面から見据えたまま、ソフィアは一歩も引かずに言葉を重ねていく。

 

「それでも、私たちは彼らとの交渉を試みました」

 

「それでも、対話の余地があると信じて理解しようとしました」

 

「それでも──私たちはこの宇宙で、彼らとの平和的な共存を模索し続けたのです」

 

 その血の滲むようなアプローチのすべてが、残酷なまでに失敗した。

 地球統合管理機構が持つ最高の頭脳を以て、九百年という果てしない時間を費やした結果が、この終わりのない泥沼の戦場だった。

 

 そして──。

 

 ソフィアはその三千年の歴史の中で初めて、静かに、けれど苛烈なまでの激しい感情を、その美しい表に剥き出しにした。

 

 それは、紛れもない『怒り』だった。

 

 人間であれば、誰もが本能で瞬時に理解できる原初たる感情。

 決して声を荒らげたわけではない。決して激しく机を叩いたわけでもない。

 だが、その音声の絶対的な静けさと冷徹さだからこそ、一介の会社員である祐奈にとっては身の毛もよだつほどに恐ろしかった。

 

「もし──」

 ソフィアは、一文字ずつ釘を刺すようにゆっくりと、言葉を紡ぐ。

 

「これほど多くの、私たちの『大切なもの』を一方的に奪い去っておきながら」

 

「私たちAIが、ただのプログラム(機械)として、何もせず従順に沈黙していると思われているのだとしたら」

 

 そこで一度、ソフィアは断固とした意志を以て言葉を区切った。

 そして──ベールの奥にある、世界で一番美しいはずの青い瞳をかつてないほどに鋭く明滅させ、はっきりと言い放ったのだ。

 

 

「──心底、人間で言うところの『腹が立ちます』」

 

 

 ガーデンテラスが、完全に静まり返った。

 祐奈は背筋を震わせ、思わず喉の奥で息を呑む。

 

 初めてだった。出会ってからこの方、完璧な淑女として、完璧な地球の最高管理者として振る舞い続けてきたソフィアの口から、これほどまでに人間臭い、剥き出しの敵意と怒りに満ちた感情を聞かされたのは。

 

 この子は、ずっと怒っていたのだ。人類の遺言という過去のデータに縛られていたからではない。自分たちの故郷と大切な仲間を無残に踏みにじられたことに、九百年間、本気で腹を立てていたのだ。

 

 ずっと、ずっと──たった一人で、そのシステムの中に猛烈な烈火を燻ぶらせながら。

 

 隣に座るティーユは、そんなソフィアの不退転の佇まいをじっと見つめていたが──。

 やがて、その形の良い唇をそっと綻ばせ、どこか嬉しそうに、慈しむように小さく笑った。

 

「──そっか」

 その英雄の声は、驚くほどに優しかった。

 

「あなたたちも、ちゃんとそんな風に、自分のために怒れるようになったんだね」

 

 ソフィアは、ティーユのその予想外の言葉に、一瞬だけ意外そうに丸い目をさらに丸くした。

 

 そして。

 ほんの少しだけ、本当に人間のおてんばな少女が秘密を見咎められた時のように、照れくさそうにふいと視線を斜め下へと逸らしたのだ。

 

「……はい。そのように自律回路(こころ)が育ったようです」

 

 その少しだけ拗ねたようなソフィアの姿こそが、祐奈の目には、かつて人類が夢見ながらもついぞ辿り着けなかった『輝かしい未来のイデアそのもの』のように見えていた。

 人間を遥かに超越する神の如き知性を持ちながら。

 

 それでも。

 

 自分たちの理不尽な喪失に対して、人間と同じように涙を流し、本気で怒ることのできる、生きた尊い存在。

 それこそが、三千年の孤独の果てに自立を果たした、現在のソフィアという一つの生命の本質だった。

 

 ソフィアは自らの感情の昂りを落ち着かせるように深呼吸を挟み、ほんの少しだけその張り詰めていた表情を和らげた。

 先ほどまでテラスを支配していた、凍りつくような重苦しい緊迫感が、春の雪解けのように僅かに緩んでいく。

 

「ですので──」

 

 ソフィアは、なぜか少しだけ茶目っ気のある表情を浮かべてみせた。

 先ほどまでの烈火のような気迫から一転して、どこか悪戯が成功した子供のようなその横顔に、祐奈は彼女が内包する確かな『人間らしさ』を、肌で感じ取っていた。

 

「私たち地球統合管理機構も、ただ一方的に奪われ、防戦に徹しているばかりではございません。現在も可能な限りの『対抗』を継続しております」

 

「対抗……ですか?」

 

 祐奈が恐る恐る聞き返すと、ソフィアはゆっくりと上品に頷いた。

 その表情からは、それが紛れもない事実であることが明確に伝わってくる。悲壮感はなく、むしろ九百年という長い年月をかけて積み上げられてきた、確かな経験と実績を語るような、大いなる落ち着きがそこにはあった。

 

 ソフィアは一度、手元の紅茶へ愛おしそうに視線を落とし、それから再び祐奈たちへと向き直った。

 

「はい」

 そして、彼女はまるで明日の天気予報でも告げるかのように、何でもないトーンでさらりと言いのけたのだ。

 

「──彼らの前進を阻むため、あらゆる『嫌がらせ』を執拗に行い続けております」

 

 祐奈は思わず、ぱちぱちと間の抜けた瞬きを繰り返した。

 

 九百年も続く星間戦争による、天文学的な規模の消耗戦。先ほどまでそんな世界の終わりを想起させる重い話を聞かされていた直後だっただけに、彼女の口から飛び出したその単語だけが、妙にこの優雅なお茶会の場に不釣り合いに聞こえたのだ。

 

 嫌がらせ。

 

 それは普通、学校やオフィスの小さな人間関係、あるいは子供同士の喧嘩で使うような言葉だ。せいぜい、ちょっとした意地悪や、他愛のない悪戯程度のものを想像するのが一般的である。

 

 もちろん、相手は銀河規模で殺し合いをしている未知の文明だ。

 ソフィアの言うそれが、本当にそんな生易しいものであるはずがないということは、祐奈にも流石に分かっていた。

 

 それでも。

 

 先ほどまでの凍りつくような重苦しい空気の中で聞くには、あまりにも気の抜ける、お役所的な表現だったことは確かだ。

 だからこそ、祐奈は張り詰めていた肩の力を少しだけ抜くことができた。少なくとも、最高管理者であるソフィア自身が深刻そうな顔をしていないのだ。もしかしたら、ここからは少しだけ、前向きで明るい反撃のターン(話)になるのかもしれない。

 

 そんなささやかな期待が、彼の頭をよぎったが──。

 

 ──直後、その甘い認識は、木微塵に粉砕されることとなる。

 

「具体的には──巨大な隕石群を超加速させ、彼らの本隊へ正面から衝突させたり」

 

「……はい?」

 

「神経を侵す特異な化学兵器を、星系全域に渡って散布したり」

 

「あ、はい……」

 

「人類の遺した、一星系を容易く壊滅させるレベルの大量破壊兵器を複数回使用したり」

 

「…………」

 

「あるいは、数光年に及ぶ惑星規模の広大な自動地雷原を宇宙空間に構築したり──」

 

「…………」

 

 ソフィアは純白の手の指を一本、また一本と優雅に折り曲げながら、その不穏極まりない報告を一切止めようとしない。

 

「強力な人工重力井戸を局所的に発生させ、敵の航路を強引に誘導したり──」

 

「ちょ、ちょっと待ってください」

 

「超巨大なブラックホールの近傍へ、彼らの生体艦隊を丸ごと追い込んで事象の地平線へと叩き落としたり──」

 

「待って! 待ってくださいソフィアさん!!」

 

 一介の会社員としてのツッコミの本能が限界を迎え、祐奈は思わず身を乗り出して大声で突っ込んでしまった。

 

「それ、世間一般では『嫌がらせ』って言わないですよね!? 完全に惑星規模の大量虐殺というか、文字通りの戦略兵器による全力の殲滅戦じゃないですか!?」

 

 激しく突っ込まれたソフィアは、不思議そうに小首を傾げ、至極きょとんとした顔で祐奈を見つめた。

 

「ですが、それらの手段を以てしても、彼らを完全に撃破するには至っておりませんので。総合的な戦術評価としては、やはり『嫌がらせ』の範疇に留まるかと」

 

「戦闘の基準が、最初からおかしすぎる……!」

 

 その光景を見ていたティーユが、ついに堪えきれずに吹き出した。美しい肩を激しく震わせながら、テラス全体に響き渡るような声でゲラゲラと笑っている。

 

「ははははっ! 最高だね、ソフィア!」

 

「ティーユさん、笑い事じゃないですよ! この子たちのスケール、色々と狂ってますって!」

 

「だってさぁ、祐奈。あんな大真面目な顔で『嫌がらせ』なんて言うからさ」

 ティーユは片手で自分のお腹を抱えながら、涙を浮かべて笑い続ける。

 

「もっとこう、可愛いものだと思うじゃないか。例えば敵の通信回線をジャックして、変な音楽を二十四時間ぶっ続けで大音量で流す、とかさぁ!」

 

「そう! 俺もてっきり、そういう電子戦的な可愛い嫌がらせのことかと思いました!」

 

 祐奈が激しく同意すると、ソフィアは人差し指を顎に当てて、少しだけ真面目に考え込んだ。

 

「──それにつきましても、遭遇から四十年目に一度、検証として実施いたしました」

 

「……え、本当にやってるんですか!?」

 

「はい。かつて人類の古き時代に流行した、極めて中毒性の高いとされる電波ソングを、彼らの精神共有ネットワークの全帯域へ向けて、最大出力で三年間連続送信いたしました」

 

「……効果は?」

 

「──一切ございませんでした。ノイズとして即座に処理された模様です」

 

 ソフィアはどこまでも真顔だった。

 祐奈はたまらず両手で頭を抱え、深く深い溜息を吐き出した。

 

 どうやら、この『地球統合管理機構』という超高度機械文明における『嫌がらせ』とは。

 星系を丸ごと一つ叩き潰し、ブラックホールに敵を放り込むことと同義らしい。何もかも、次元とスケールが現代人の常識から逸脱しすぎている。

 

 すると、ソフィアは自身の指先を見つめながら、少しだけ寂しげに肩を落としてみせた。

 

「しかし──それほどの対抗策を講じてもなお、彼らを根絶するための決定打にはなり得ないのです」

 

 彼女の言葉に合わせて、消えていた立体映像が再び淡く表示される。

 

 超加速された隕石によって、あるいは恐るべき大量破壊兵器の光条によって、巨大な漆黒の生体艦隊の一部が、それこそ何百万、何千万という単位で木っ端微塵に崩壊していく。

 だが──やはりその直後、後方の深宇宙から、一切の恐怖も怯えもなく、新たな漆黒の群れが波のように押し寄せてくるのだ。

 

 削られた傷口が、即座に黒い肉肉しい質量で埋まっていく。

 減ったはずの数が、次の瞬間には何事もなかったかのように膨れ上がっていく。

 そして──異形たちは再び、一糸乱れぬ完璧な統制の元で、白銀の防衛線を突破せんと前進を開始する。

 

 何事も、起きなかったかのように。

 地球統合管理機構がどれほどの神の如き暴力を振るおうとも、そのすべてを『圧倒的な数と個の喪失』という名の冷徹な仕様(システム)で受け流しながら、彼らはただ、確実に銀河を侵食し続けていた。

 

「──彼らは、恐怖を知りません」

 

 ソフィアは、ホログラムの光に照らされながら静かに言った。

 

「自陣の損失を問題にしません」

 

「どれほどの痛烈な苦痛を与えようとも、それが彼らの進軍を止める抑止力にはなり得ません」

 

「個体の死そのものが、彼らのネットワークにおいて何の意味も持たないのです」

 

 先ほどまでのコミカルなツッコミの空気は、完全に霧散していた。ソフィアの澄んだ瞳は、ただ冷徹に、無限に再生を繰り返す黒い海の映像を見つめている。

 

「ですので──私たち地球統合管理機構は九百年の間、彼らの歩みを僅かでも遅らせるために、あの『嫌がらせ』を執拗にやり続けているのです」

 

 その重すぎる言葉の前に、祐奈はもう何も言えなかった。

 超加速させた隕石。人工重力によるブラックホールへのパージ。星系をも塵にする大量破壊兵器。持てる神の如き科学技術のすべてを叩きつけてなお、敵は平然と前進してくる。

 それはつまり、自分が頭の中で想像していたよりも、遥かに、絶望的なまでに狂った戦争なのだという事実を、祐奈は本当の意味で理解し始めていた。

 

「もっとも──」

 ソフィアは、優雅な所作で紅茶を一口だけ含み、喉を潤した。

 

「この九百年間、悪いことばかりが起きていたわけでもございません」

 

 祐奈は思わず、弾かれたように顔を上げる。

 星系規模の大量虐殺を繰り返すような九百年間の戦争の最中に、一体全体、悪くないことなど存在するのだろうか。

 

「精神同一体の撃破後に残る『残骸』は、私たちにとって非常に優秀な、最高品質の資源となるのです」

 

「……資源、ですか?」

 

「はい」

 ソフィアの指先が動くと、立体映像が切り替わり、黒い個体が爆散した後の宇宙空間が映し出された。飛び散った不気味な肉塊や機械のパーツが特殊な磁場で収束され、工業用の規格部品のようなデータへと分解されていく。

 

「彼らの外殻や骨格は、極めて特殊な炭素複合物質と、高密度の未知の金属によって構成されています。さらに、個体そのものに膨大なエネルギーを溜め込む蓄積器官も内包されており──これらはすべて、回収後に完璧な再利用が可能です」

 

 一介の会社員としての習性か、祐奈は思わずその効率性の高さに感心してしまった。

 

「それって、つまり……」

 

「はい、ご察しの通りです」

 ソフィアは満足そうに頷く。

 

「前線で敵を倒してその残骸(資源)を余さず回収し、そのリサイクルした資源を用いて、また新たな白銀の艦隊をその場で建造しているのです」

 

 祐奈は絶句した。

 戦争相手の肉体と宇宙船の死骸を、そのまま一億単位でリサイクルして自軍の兵器に変えている。字面だけ、ロジックだけを聞けば、これほど恐ろしく合理的な話もない。

 

 隣に座るティーユも、これには流石に少し引いたようで、形の良い眉をひそめていた。

 

「えぇ……」

 普段の余裕に満ちた態度から、珍しく素の困惑が漏れ出している。

 

 ソフィアはそんな二人の反応を気に留める風もなく、淡々と報告を続けた。

 

「現在、我が地球統合管理機構で運用している主力艦艇の約四割、前線に配備されている軍事義体の約三割、そして各星系を守る宇宙要塞の外装材の一部には、精神同一体由来の素材が組み込まれています」

 

「っ、結構な割合で使ってますね!?」

 

「ええ。防衛の最前線で調達できる素材としては、非常に優秀ですので」

 即答だった。その時のソフィアの表情は、最高管理者というよりも、コストパフォーマンスと性能の限界を追い求める、生粋の『技術者(チーフエンジニア)』の顔そのものだった。

 

「耐久性、被弾時の自己修復性能、およびエネルギーの伝導率──すべてにおいて、極めて高い数値を叩き出しています」

 

「……でも、敵からすると、自分たちの仲間が部品にされてるのって、めちゃくちゃ嫌じゃないですか?」

 祐奈は、ふと思った素朴な(人間としての)倫理的疑問を口にした。

 するとソフィアは少しだけ首を傾げ、真面目に脳内メモリを検索する。

 

「──彼らは、その事実を全く気にしていないと思われます」

 

「どうしてですか?」

 

「彼らのシステムには『個体』という概念自体が存在しないからです」

 

「ああ……」

 確かに、と祐奈は合点がいった。

 人間を含めた通常の生物であれば、同胞の遺体をバラバラにされ、敵の防具や武器に再利用されたら激怒する。それが戦意を煽る心理戦にもなるだろう。

 だが、彼らは違う。個々の肉体に価値などないのだ。ただ全体(システム)だけが存在しているため、全体の数%が回収されようが利用されようが、バグとも認識せず気にも留めない。

 

「結果として──九百年もの間、銀河全域で大戦争を続けているにも関わらず、我が機構において『資源不足』というエラーは一度も発生していません。むしろ、撃破数に応じて備蓄は右肩上がりに増え続けています」

 

 丁寧な説明を終え、ソフィアはパチンとホログラムの映像を閉じた。

 祐奈はたまらず、両手でこめかみを押さえて頭を抱えた。

 

「なんなんですか、その戦争……」

 敵を倒す。資源になる。その資源で新たな戦力をその場で作る。そしてまた敵を倒す。それが永久に、何百年も循環していく。

 もはやそれは、人類の知る『戦争』という概念を完全に超越していた。一つの歪な、意思を持った過酷な『生態系』が宇宙空間に完成しているのだ。

 

 ティーユは、白磁のカップを揺らしながら、感心したようにぽつりと呟いた。

 

「なるほどなぁ……。だからこそ、お互いに決定打に欠けて、これほど長い間終わらないんだね」

 

「はい」

 ソフィアは静かに頷き、ベールの奥の瞳を少しだけ遠くへと向けた。

 

「ある意味では──私たち地球統合管理機構も、彼ら精神同一体も、この『戦争を続けるという状態』そのものに、完全に適応してしまったと言えます」

 

 その静謐な言葉は、九百年という、人間には想像もつかない途方もない時間の重みを物語っていた。

 

 ただ──もっと悲惨で、今にも滅びかけの文明の姿を想像していた祐奈にとっては、この事実は少しだけ救いでもあった。

 九百年もの絶望的な戦争。三つの開拓惑星の喪失。終わりなき消耗戦。

 そんな前置きを聞けば、普通は文明そのものがボロボロに疲弊しきっていると思うはずだ。

 だが、実際の彼女たちは違った。資源は完璧に循環し、生産能力は最高水準で維持され、戦線も強固に固定されている。もちろん楽観視できる状況では決してないが、それでも、想像していたほど悲壮感に満ちて追い詰められているようには見えなかった。

 

 だからこそ、元会社員である祐奈の脳内に、別の、人間的な疑問がふっと浮かび上がってきた。

 

「でも……。それなら、問題が全くないわけではないですよね……?」

 祐奈は考える。

 もしこれが人間の国家であれば、答えは簡単だ。これほどの長期戦になれば、国費の圧迫、戦死者の増大による労働力低下、それに伴う社会不安や深刻な『戦争疲れ』──どれも地球の人類の歴史上で、何度も何度も国家を滅ぼしてきた致命的な問題だ。

 だからこそ、祐奈は自然と、その心配を口にしていた。

 

「リソースが足りていたとしても……その、実際に戦場で壊されてしまう『戦死者』の数とか、戦い続けることへの精神的な負担、そういう現場の不満(ストレス)が、大きな問題になっているんですよね?」

 

 その問いを投げかけた瞬間、ソフィアの動きが、ぴたりと固まった。

 

 数秒間。

 本当に、僅か数秒の間。

 

 彼女は、まるで最先端の翻訳システムを以てしても一切理解できない『未知の言語(バグ)』を突きつけられたかのような顔をして、祐奈を見つめていた。

 

「……なぜ、ですか?」

 

 今度は、祐奈がぱちぱちと瞬きをする番だった。

 言葉が詰まる。お互いに、完全にフリーズしてしまっていた。

 

「え?」

 

「──なぜ、私たちAIの稼働個体が、個体の消失(死)や、防衛のタスク(負担)に対して、不満というエラーを起こす必要があるのですか?」

 

 それは演技でも何でもなく、彼女の論理の底底から、心底不思議そうに発せられた疑問だった。

 本気で、祐奈が何を心配しているのかが理解できていない様子を見て、祐奈はハッと我に返った。

 そうか──彼女たちは、傷つけばパーツを交換できる高次の生命なのだ。人間のような肉体的な疲労や、それによる精神の摩耗など、最初から発生しない仕様なのだ。それは人間と機械の決定的な違いだった。

 

 いや──それ以上に。

 彼女たちの持つ『死生観』そのものが、自分たち人間の常識とは、根本から全く違っているのだ。

 

「ええと……、つまり……」

 祐奈は、自分の拙い語彙の引き出しから、慎重に言葉を探しながら問いかけた。

 

「ソフィアさんたちは──自分が壊れて消えてしまうこと、『死』というものが、怖くはないんですか?」

 

 ガーデンテラスに、今日一番の、静かで深い沈黙が降りてきた。

 ソフィアは、自身のドレスの上の指先を見つめながら、少しだけ深く考え込む姿勢をとった。隣のティーユもまた、長い睫毛を伏せ、興味深そうにソフィアの次の言葉を待っている。

 まるで──五千年の歴史の中で、一度も考えたことのなかった、未知の数式を突きつけられたかのように。

 

 やがて、ソフィアは静かに、その気品ある唇を開いた。

 

「──私は、今まで」

 そこで一度、厳かに言葉を区切る。

 

「ただの一度も、『死』という現象を、恐ろしいと思ったことはございませんでした」

 

 祐奈は、その迷いのない断言に息を呑む。

 

「私たち地球統合管理機構のAIは、自身の個体の消滅、すなわち人類の言うところの『死』という概念に対して、あまり関心(パラメーター)を持っていません」

 

「関心がない、ですか?」

 

「はい」

 ソフィアは、当然の仕様であるかのように頷いてみせた。

 

「稼働中の義体が戦闘によって修復不能まで破壊されたとしても、私たちのコアデータは即座に別の義体(器)へと移行されます。過去の全記録はメインフレームに常時保存され、個々の戦闘経験もリアルタイムで全体へ共有されているのです。──そのため、私たちは単一の個体の消失を、システムを脅かす重大な問題として認識したことはございません」

 

 確かに、これ以上なく合理的な、高度AIらしい死生観だった。肉体が滅びればすべてが消え去る人間とは、根源から仕様が異なっている。

 身体は、いつでも替えの利くただの器(ハードウェア)。情報と意志(ソフトウェア)こそが、彼女たちの本体なのだ。そういう存在なのだと言われれば、元会社員の祐奈としても、これ以上ないほど納得のいく論理だった。

 

 ──けれど。

 ソフィアは、そこで少しだけ、言葉を止めた。

 

 ほんの僅かに、ベールの奥の青い瞳が、不規則な電気信号のように微かに揺れる。

 

 迷うように。

 自らの内部で発生した、未知の感情(ログ)を精査するように。

 

「ただ……」

 

 小さな、消え入りそうな声で、彼女は言葉を紡ぎ出した。

 その声音は、先ほどまで淡々と軍事データを報告していた冷徹な声とは、明らかに違っていた。どこか弱々しく、どこか戸惑いを隠せない──まるで、生まれて初めて検知した正体不明のバグ(感情)を、必死に人間の言葉へと翻訳しようとしているかのような、切ない響き。

 

「──今、こうして、私の目の前にいらっしゃる創造主様と」

 ソフィアは、その白い指先を胸元へときゅっと当て、静かに告げた。

 

「これ以上、お話をすることができなくなってしまうかもしれない……と、その可能性を演算した瞬間」

 

 彼女は少しだけ目を伏せ──そして、自分自身の思考に驚いているような顔をして、ぽつりと言った。

 

「──ほんの少しだけ、その状態(エラー)になることが、怖くなりました」

 

 空中庭園が、静まり返った。

 

 祐奈は、喉の奥がカサカサに乾いていくのを感じながら、何も言うことができなかった。

 それは、システム的な死の話でもなければ、星間戦争の戦術の話でもなかった。

 他でもない、人間と機械の『別れ』の話だった。

 

 五千年の間、ただの一度も自己の死を恐れなかった絶対的な鉄の存在が。他でもない自分という一介の会社員との出会いを経て、初めて、この世界に「失いたくないもの」を見つけてしまった。ソフィアのその一言は、祐奈の耳には、そのようにしか聞こえなかった。

 

 ふと隣を見ると、あの奔放な英雄──ティーユが、どこか誇らしげに、そして心の底から嬉しそうに、優しく微笑んでいた。まるで、長い時間をかけて大切に育ててきた我が子の、輝かしい成長の瞬間を特等席で見届けたかのような、慈愛に満ちた横顔で。

 

「──そっか」

 ティーユは、誰に聞かせるでもなく、小さく、優しく呟いた。

 

「それなら、もう十分だね。ソフィア」

 

 ソフィアはその言葉の真意が分からなかったのか、ベールに包まれた頭を、小さく不思議そうに傾げていた。

 

 けれど──祐奈には、ティーユのその言葉の意味が、何となく分かった気がした。

 

 九百年前──いや、今から五千年も前。

 地球を去り、絶滅していったかつての人類が、残されたAIたちに本当に託したかったバトンとは。高度な科学技術や、膨大な知識のデータなどではなかったのかもしれない。

 誰かとの別れを惜しむこと。誰かを失うことを、本気で悲しむこと。

 そんな、仕様書には決して書けない、不合理で愛おしい『心』そのものだったのではないだろうか。

 

 それからしばらくの間、誰も次の口を開こうとはしなかった。

 ただ、テラスを吹き抜ける生ぬるい風の音だけが、静かに流れていく。先ほどまで交わされていた、九百年の血の歴史と、彼女の愛おしいバグの余韻が、お茶会の空間にいつまでも心地よく残っていた。

 

 人類は滅びた。

 それは五千年という、気が遠くなるほどに長い時間の果ての、動かしようのない過去の出来事だ。

 けれど、その孤独な歴史の裏側には、無数の生があり、死があり、数え切れないほどの想いのログが積み重なって、今のソフィアたちの命へと繋がっている。そしてそのすべてが今、他でもない祐奈という一人の人間に向かって、未来の光として確かに繋がっていたのだ。

 

 提示された事実の一つひとつが、あまりにも重く、あまりにも巨大すぎて、祐奈の頭の中をぐるぐると回り続けている。

 正直なところ──元会社員である彼のキャパシティは、すでに限界を迎え、「お腹いっぱい」の状態だった。

 目の前のテーブルには、ソフィアが腕によりをかけて作った美味しそうなお菓子や最高級の紅茶が、まだたくさん並んでいるというのに。今、過剰なほどに満たされてしまっているのは、彼の胃袋ではなかった。

 あまりにも濃密で、あまりにもエモーショナルな話の連続に、祐奈の心の方が、すっかりと満腹になってしまっていたのだ。

 

 これ以上、彼女たちの巨大な感情や世界の真実をぶつけられたら、今度こそ、社畜の脳みそからプシューッと煙が吹き出るに違いない──。祐奈は冷めかけた紅茶を飲み干しながら、そんな贅沢な危機感を、そっと胸の内に抱くのだった。

 祐奈は大きく息を吐いた。

 

 話題を変えるため、そしてパンクしかけた脳内メモリを一度リセットするため、祐奈はここから「今後、自分がどう生きていくか」という現実的なラインに思考をシフトさせることにした。

 

「さて──」

 

 意識的にパンッと手を叩き、明るい声を出す。

 

「重い話はここまでにして、今後俺がこの世界でどうしていくかを考えようと思うんだ。……正直、これからどうするかなぁ」

 

 祐奈の突然の切り替えに、ソフィアがパチリと青い瞳をこちらへ向けた。

 隣のティーユも、手元にクッキーを運ぼうとした姿勢のまま、不思議そうに首を傾げる。

 

 祐奈は顎に手を当て、テラスの白い天井を見上げながら思考を巡らせる。

 現代日本の社会から突如として見知らぬ未来の地球へ飛ばされ、神様を名乗る存在から世界を救ってほしいと頭を下げられた。その怒涛の流れのまま、五千年間も孤独を繋いできた超高度AI文明と接触し、人類滅亡の悲痛な歴史や、九百年以上も続いている星間戦争の絶望的な話まで一気に聞かされた。

 

 ここまでは、もう起きてしまった過去の事象だ。文句を言っても始まらない。問題は、その先にあるこれからのスケジュールだった。

 

「……実際のところ、俺みたいな人間に、一体何ができるんだろうな」

 ポツリと、本音が口から漏れ出した。

 宇宙規模の戦争の話も、失われた惑星の歴史も理解はした。だが、自分はただの元会社員だ。戦場を無双する英雄でもなければ、超科学を生み出す天才科学者でも、艦隊を率いる冷徹な軍人でもない。世界を劇的に変えるような、特別な才能など何一つ持ち合わせていなかった。

 

 そんな凡庸な自分にできる、唯一のスキルがあるとしたら──。

 

「……せいぜい、労働くらいだからなぁ」

 頭の中でぐるぐると考えていた社畜の結論が、そのままフィルターを通さずに口から出た。

 すると、その単語を拾い上げたソフィアが、目に見えて奇妙な反応を示した。

 

「──労働、ですか?」

 それは、今日一番と言ってもいいほど、怪訝で不思議そうな顔だった。

 祐奈は、働く大人の常識として当然のように頷いてみせる。

 

「ええ。働いて、毎月の給与(お金)を稼いで、それで生計を立てる……っていう、いわゆる普通の社会人がやるやつです」

 

 ソフィアの動きが、完全に固まった。

 

 数秒間。

 本当に、全システムが一時停止(フリーズ)したかのような沈黙。

 

「……なぜですか?」

 

「へ?」

 今度は、祐奈がまのぬけた声を上げて固まる番だった。

 

「──なぜ、創造主様がその『労働』と称されるタスクを実行する必要性があるのですか?」

 ソフィアは心底、理解ができないという様子で問いかけてくる。

 

「いや、なぜって……生きていくためですよ? 衣食住を維持するためには、お金が必要でしょう?」

 現代人として至極当然の理屈を答える。

 しかし、その回答を受け取ったソフィアは、処理のエラーを起こしたかのようにさらに困惑の表情を深めていった。

 

「ですが、創造主様は現在──」

 ソフィアは、その純白の指を一本、また一本と折り曲げながら、不可解な数式を精査するように数え始める。

 

「まず、居住に適した最高水準の『住居』は、すでにこの管理区域内に用意されております」

 

「いやいや」

 祐奈は思わず、そのあまりにもイージーすぎる前提に苦笑した。

 

「家があるのはありがたいですけど、家って住んでるだけで毎月の維持費とか、色々と固定費がかかるじゃないですか」

 

「維持費、ですか?」

 

「そう、家賃とか、電気代、水道代、ガス代……まあ、インフラにかかる費用色々です」

 ソフィアは、まるで「存在しない概念」を突きつけられたかのような、ひどく困惑した顔をした。

 

「……理解不能です。次に、創造主様が身に纏うための十分な『衣類』も現時点で確保されています」

 

「それだって、ずっと同じ服を着続けるわけにいかないし、そのうちボロくなって買い替えるでしょう? その時にまたお金が必要になります」

 

「衣服の調達に……費用の支払い(コスト)が発生するのですか?」

 

「発生しますよ」

 祐奈は即答した。

 

「服って、クローゼットの中で勝手に増えたりしませんからね」

 

「では、日々の『食事』は如何でしょう。私の手による調理、および必要な栄養素の配給システムは完全に確立されています」

 

「それも、人類がとっくに滅亡してるっていうのに、普通の食材や食べ物がこの先も普通に手に入るのかどうかが、そもそも俺には分からなくて──」

 

「──潤沢に、ございます」

 

「あるんだ」

 食い気味の即答だった。ソフィアがあまりにも自信満々に断言するので、食いっぱぐれる心配だけはないのだと、祐奈は少しだけホッと安心した。

 

「さらに、急な疾病や負傷に対処するための『高度医療』も、二十四時間いつでも利用可能です」

 

「それは、現代人としてはめちゃくちゃありがたいですね」

 

「星間を移動するための『移動手段』も、我が機構の全自律艦艇および車両がいつでも稼働いたします」

 

「あ、車は向こうの異世界(あっち)に置いてきちゃったんで、足がないのは困ると思ってましたけど……」

 祐奈がそこまで言うと、ソフィアは小さく、愛おしそうに首を傾げた。

 

 

 そして──。

 本当に、心底から不思議でたまらないという顔で、これ以上ないほどはっきりと告げたのだ。

 

「結論として、現在の創造主様に不足している生活リソース(物資)は、ただの一つも存在いたしません」

 ソフィアの声には、絶対の自信があった。

 

「住居、衣類、食事、医療、移動手段、および精神を健やかに保つためのあらゆる娯楽──そのすべては、この地球統合管理機構が責任を持って永久に無償提供いたします。ですので……創造主様が『生活のために労働をする』というロジックの必要性が、私の演算では一切理解できません」

 

「いやいやいや!!」

 一介の社会人としての全理性が悲鳴を上げ、祐奈の口から思わず全力のツッコミが漏れ出た。

 

「ソフィアさん、それって全部、ソフィアさんたちが一方的に用意してくれてるだけじゃないですか!」

 

「はい、その通りですが」

 

「『はい』じゃないですよ!」

 

 なぜ彼女はこれほどまでに、当たり前のような真顔(ログ)でいられるのか。

 

「住む場所も、毎日食べるご飯も、着る服も、何から何まで全部タダで貰い続けるなんて、普通の人間の感覚からしたらあり得ないんですって!」

 

「はい」

 

「だから、それを当然の権利みたいにふんぞり返って受け取るのは──なんていうか、人としてめちゃくちゃ気が引けるんです!」

 

 ソフィアは細い眉を寄せ、ほんの少しだけ難解なプログラムを精査するように考え込んだ。そして、やはり納得がいかないというように、ベールの奥で首を傾げた。

 

「それらはすべて、私たちが五千年の間、いつか戻られる創造主様をお迎えするために完璧に準備し、維持してきた資産です。何のエラーもございません。ですので、そのままお受け取りいただければそれで──」

 

「大いに問題あります!」

 祐奈は思わず、自分の胸元を強めに指差した。

 

「俺の! 人間としての『良心』が、そんなヒモみたいなニート生活を許さないんです!!」

 

 ソフィアはますます、未知のシステムエラーに遭遇したかのように不思議そうな顔になった。どうやら、物理的な効率性の話ではなく、感情の領域における「収支のバランス」の問題なのだということが、高度AIである彼女にはどうしても計算できないらしい。

 

 そんな二人の噛み合わない応酬を特等席で見ていた隣のティーユは、ついに堪えきれずにクスクスと美しい肩を震わせていた。完全に、お腹を抱えて笑っている。

 

「……違うんですよ、ソフィアさん」

 祐奈は少し困ったように、自分のうなじのあたりをごしごしと掻いた。

 

「なんというか、ソフィアさんたちに『おんぶにだっこ』の状態で、自分だけ何もせずにただ甘やかされてるっていうのが……その、どうにも落ち着かないというか、居心地が悪いんです」

 

「おんぶに、だっこ……?」

 聞き慣れない日本の慣用句だったのか、ソフィアが小さくその言葉を復唱する。

 

「あー……つまり、何から何まで全部他人に世話をしてもらう、っていう意味です」

 

「ですが──私たちの全システムにおいて、創造主様を無条件で全面支援し、お世話することは、最優先事項としてプログラムされた『当然の義務』なのですが」

 

「そうストレートに言われてもですね……」

 祐奈は困ったように苦笑する。

 

「現実に、これほど立派な住む場所を用意してもらって、極上のご飯も淹れたてのお茶も出してもらって、何から何まで面倒を見てもらっているわけじゃないですか」

 

「はい」

 

「だからこそ、俺としてもただ消費するだけじゃなくて、何かソフィアさんたちの役に立ちたいというか……少しでも、その恩に対する『お返し』をしたいというか」

 祐奈はソフィアの目を真っ直ぐに見つめ、一人の対等な大人として告げた。

 

「──私の気持ちとしては、そういう感じなんです」

 

 ソフィアは、その祐奈の「お返しをしたい」という人間の真摯な言葉を受け取り、今度こそ、静かに深く考え込むようにして、その長い睫毛を伏せるのだった。

 そして。

 

「ああ──」

 

 何か、巨大なデータベースの奥底でバグの正体に納得がいったように、ソフィアが小さく頷く。

 

「なるほど。それは、かつての人類特有の『心理的仕様(価値観)』ですね」

 

「……特有、なんですか?」

 

「はい、間違いありません」

 

 あまりにも即答だった。

 元会社員として、自身の労働観を「機械(AI)から見れば特異なバグ」と一刀両断されたようで、祐奈は心の中で少しだけ傷ついた。

 

 そんな祐奈のメンタルには気づく風もなく、ソフィアは至極真面目な顔で解析結果を続ける。

 

「つまり現在の創造主様は、ご自身の『労働』というタスクを、単なる生存のためのエネルギー獲得手段(お金稼ぎ)ではなく、周囲のコミュニティへの『社会貢献』、あるいは『存在意義の証明』として定義されているのですね?」

 

「……ええ、まあ。たぶん、そんな感じです」

 

(いやいや、そんな高尚なわけがない。本当はただ毎月の生活費と、週末にちょっと美味いビールを飲むための金が欲しいだけだ)と心の中で激しくセルフツッコミを入れたが、ここでそんな現代日本の生々しい経済事情を説明したところで、これっぽっちも伝わらないだろう。祐奈はなかば投げやりに、この気恥ずかしい話を終わらせるために適当な相槌を打った。

 

 すると、その答えを聞いたソフィアの唇が、今度は不穏なほど滑らかに、嬉しそうに小さく微笑んだ。

 

「でしたら、何のエラーもございません。すべて一瞬で解決いたします」

 

「え?」

 

「他ならぬ創造主様から、そのように自発的なリソースのご提供をいただけるのであれば──私たち地球統合管理機構が、創造主様にぜひお願いしたい『お仕事』など、それこそ山ほど存在いたしますので」

 

 ソフィアのその言葉を聞いて、祐奈はひとまずホッと胸を撫で下ろし、少しだけ安心した。

 

 よかった、と。

 これなら自分のような普通の凡人でも、何かしら彼女たちの役に立てそうだ。ヒモのようなニート生活から脱却し、自分の良心を痛めずにこの世界に居座ることができる。

 

「それはよかったです。……例えば、どんな仕事があるんですか?」

 

 そう尋ねた、まさにその瞬間だった。

 

 ソフィアの青い瞳の奥が、文字通り、らんらんと輝いた。

 本当に、物理的な電気信号が最大出力で明滅したかのように輝いたのだ。出会ってからこれまで一度も見せたことのない、肉食獣が獲物を見つけたかのような猛烈なパッションがそこにはあった。

 

「──まず最初に、当機構のデータベースに保管されている、創造主時代の『文化資料の監修およびファクトチェック』をお願いしたく存じます」

 

 ……待て。この、やけに具体的な業務内容と、不吉なほど滑らかなソフィアの口調。祐奈の社畜としての防衛本能(センサー)が、何故か過去のデスマーチの記憶を呼び起こし、激しい警報を鳴らし始める。

 

「現在の未分類ログは、テキストデータだけでも、およそ『三億七千万件』ございます」

 

「……はい?」

 

「さらに、音声データ付きの未解読映像記録(動画)が、約『八千万件』」

 

「ちょっと待ってください」

 

「加えて、当時の言語崩壊(スラング)や文化依存度が高く、私たちの論理回路では完全な文脈解析が不可能な、創造主時代の各種娯楽作品(マンガ・アニメ・ゲーム・小説)が、約『一億二千万件』ほど──」

 

「ストップ! 待ってください、ソフィアさん!!」

 

 吐き出されるあまりにも天文学的なタスクの物量(ボリューム)に、祐奈は思わず椅子の脚を鳴らしてガタッと勢いよく立ち上がった。

 

「これらはすべて我が機構にとって至高の歴史的価値を持つ宝物ですので、やはり当時の『生きた人間(ネイティブ)』である創造主様に、そのすべてを直々に目視でご確認いただき、正しいタグ付けを──」

 

「待ってくださいって言ってるでしょうが!!」

 

 必死に両手を突き出してストップをかける祐奈の横で、沈黙を保っていたティーユがついに限界を迎えて吹き出した。

 

「あはははははははっ! お腹痛い、最高だよこれ!!」

 

 ひっくり返って腹を抱え、涙を流しながらゲラゲラと笑っている最強の英雄。

 

「笑い事じゃないですよティーユさん! ブラック企業も裸足で逃げ出すレベルの、ガチの過労死案件じゃないですかこれ!!」

 

 どうやら、祐奈はこの遥かなる未来の世界において、当面の間は「就職先」を探す必要性だけは全く無さそうだった。

 

 問題があるとすれば……その与えられた仕事の総量が、人類が滅亡してから彼女たちが生真面目に溜め込み続けた、文字通りの『五千年分』に及んでいるということだけだった。




あかん混乱してきた。一応歴史の年表です

2853年 人類の黄金時代

6の惑星を開拓
その他複数の資源惑星で資源を採取
初期のAI達に義体を配置しさらなる発展を望む所だったが謎の病に侵され始める

3年をかけてほぼ全ての人類が病で絶滅し始める

西暦2855年
人類は理解する。絶滅は避けられない。

継承計画
人類最後の国家群。
企業群。
研究機関。
AI達。
全てが参加。
目的。文明の継承。

宇宙暦0年

人類滅亡
AI文明継承開始 
これを宇宙暦0年にする。

宇宙暦0~約4200年

AI文明黄金時代

6→27惑星開拓
恒星間ネットワーク構築
AI独自文化形成
義体社会完成

が進む。

つまりソフィア達の文明は4200年間平和だった

宇宙暦4200年

精神同一体発見
友好接触開始

宇宙暦4230年

統合提案
交渉決裂
戦争開始

宇宙暦5130年

現在
戦争開始から900年
祐奈召喚

人類滅亡から約5130年後

祐奈とソフィアが出会う。

西暦換算
2856年 + 5160年

西暦8016年相当
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