祐奈は、脳内の全演算リソースを使って、ソフィアに対して「お父様」という呼称を絶対禁止とすることを再度強く命じた。
「ですが……先ほどの論理的帰結からすれば──」
「いいから! いやもうその話をしてたら本当に議論が終わらないから! とりあえず、さっき言った通り『祐奈』でお願いします!」
必死に両手をクロスさせてバツ印を作る祐奈を見て、ティーユは床に転がったまま、ようやく涙を拭って立ち上がった。
「いやー、あははは! 呼び出されて、こんなに平和で面白い世界はなかなか無いよ。本当に笑わせてもらった。ありがとう、祐奈」
(いや、あなたを笑わせるために、俺は必死に勘違いを正したわけじゃないからね!?)
心の中で激しいツッコミを入れながら、祐奈はどっと押し寄せてきた疲労感に、背もたれへ深く体を預けた。
肉体的な疲れではない。完全に『精神』の方だ。
元会社員が、いきなり五千年後の未来で『人類は何のために生きていたのか』『なぜ猫に貢いでいたのか』なんていう、歴史学者や哲学者でもゲロを吐いて逃げ出すような超弩級の難問を立て続けに解かされたのだ。いや、逆に喜んで討論して行くかもしれない。だけど自分の人生設計の中に、こんな未知の討論は一秒たりとも含まれていなかった。
ふと、テラスの外に目を向けて、時間のことを考えてみる。
この世界に到着したのが、確か昼過ぎ。そこから怒涛の雑談を続けていたと考えれば、今はもう夕方ぐらいだろうか。完璧に管理された未来都市の空も、どことなく美しい橙色に染まり、日が落ちてきた気がする。
これ以上、この狂った密度のお勉強会を続けたら、仕事の前に自分の頭がおかしくなってシャットダウンしてしまいそうだ。
祐奈は、先ほどソフィアが「お部屋はすでに用意してあります」と言っていた会話を思い出し、意を決してこう切り出した。
「あの……そろそろ、かなり疲れてきたので、部屋で休ませてもらってもいいですか?」
すると案の定、横にいたお気楽なティーユがブーブーと言い始める。
「え? もうおしまい? 私はまだまだ話し足りないんだけどなぁ」
(それはそうでしょうね! あなたは哲学的な大問題を、俺のすぐ横でのんびりクッキー齧りながら聞いて、ゲラゲラ笑っていただけなんだから! こっちは脳みそが沸騰しそうなくらい疲れたんだよ!)
祐奈が心の中でティーユに盛大な呪詛を吐いていると、ふと、正面のソフィアの様子がおかしいことに気がついた。
彼女は青い瞳の光彩を激しく乱し、その白磁のような美しい顔をこれ以上ないほど強張らせて、目に見えて慌てふためいていたのだ。
「──つ、疲弊……!? 創造主様、いえ、祐奈様が『疲れた』と申されました! これはシステム生命維持における重篤なバグ、すなわち『緊急事態(インシデント)』では……!? 即座に統合医療ドローンを最優先で二十一個小隊招集し、脳内物質の緊急スキャンを──!」
「いや、もうその流れはさっきやったから!! 医療班呼ばないで!」
祐奈は立ち上がり、テラス中に響き渡るような声を出して制止した。
「普通のお願いです! 人間は夕方になったら疲れて部屋でゴロゴロしたくなるんです! 普通に休ませてください!!」
五千年後の未来世界、元会社員の夜は──休む前から、すでに前途多難の極みであった。
「なるほど……。では、すぐにご用意したお部屋に案内させていただきます」
祐奈の必死の訴えに、ソフィアはようやく医療ドローンの招集命令を解除し、小さく一礼した。
そうして三人は、先ほどまでいた陽だまりの空中庭園を後にする。
ソフィアに連れられて再び足を踏み入れたのは、やはりあの無機質な、どこまでも真っ白な通路だった。窓もなく、どれだけの長さがあるのかもさっぱり分からない電子の迷宮。そこをただ、三人だけで靴音を響かせながら歩いていく。
いくつもの自動扉をくぐり抜けていくが、その通路には他のお部屋の扉らしきものは一切見当たらない。いきなりこんな「巨大な長い白い箱」の中に放り込まれて歩かされるのは、現代人である祐奈にとっては、どうしても拭えない不安と圧迫感があった。
数分ほど無言で歩いたとき、それまで何もなかった滑らかな壁の一部が静かにスライドし、小さな部屋のような空間が姿を現した。
「──垂直・水平移動システム(エレベーター)です。こちらへお入りください」
「あっ、はい」
祐奈は促されるままにエレベーターへと乗り込む。
上昇しているのか、はたまた横に移動しているのか、不気味なほど振動がない箱の中で、祐奈はこれから案内される自分の部屋の様子をなんとなく想像してみた。
(どうせ……壁も床も真っ白で、白くて硬そうな椅子と机があって、申し訳程度に白いベッドだけがポツンと置いてある、独房みたいなイメージしかないよな……)
未来都市の徹底された効率主義を見るに、それ以外の選択肢が思い浮かばない。
すると、隣にいたティーユも全く同じことを思ったのか、少し嫌そうな顔をしてソフィアに尋ねた。
「ねえ、ソフィア。もしかして、私たちがこれから泊まるお部屋も……この通路みたいな『真っ白な箱』だったりする?」
その質問に対し、ソフィアは『何を妙なことを聞かれているのだろう』と言いたげに、ベールの奥で不思議そうに小首を傾げた。
「──もうすぐ指定の座標に到着いたしますので、ご覧になればすぐに分かりますよ」
ソフィアがそう答えたのとほぼ同時に、チン、という、現代の地球でも聞き慣れた懐かしい電子音が静かに鳴り響いた。
それと同時に、目の前の滑らかな隔壁が左右へと滑り、新たな部屋の扉が開くのであった。
扉が開いた瞬間、祐奈の視界に飛び込んできたのは──それまでの無機質な白い迷宮とは180度異なる、温かみのある光景だった。
そこに広がっていたのは、かつて地球にあった最高級五つ星ホテルのような、気品溢れる豪華な廊下だった。
足元にはふかふかの贅沢な絨毯が敷き詰められ、壁には美しい木目調のパネルと、温和な暖色系の間接照明が灯っている。
「おぉ……!」
祐奈は思わず、感嘆の声をごくりと喉の奥から漏らした。
すごい。普通だ。普通に、人間が安心して暮らしていそうな素晴らしい廊下だ。
絶滅した人類の遺産を五千年間守ってきたAIたちが、人間のために用意した空間。今日ここに来てから何度目かも分からない衝撃を受けながら、祐奈は「普通の廊下を見てここまで感動するなんて、俺の常識も相当ねじ曲がり始めてるな……」と苦笑せずにはいられなかった。
少し歩く間にも、廊下の左右にちゃんと「部屋の扉」が複数並んでいることに、祐奈はいちいち深く感動していた。あの白い箱の独房を覚悟していた身としては、これだけで泣きそうなくらいに救われた気分だ。
やがて廊下の最奥、ひときわ大きく、精緻な彫刻が施された二枚の豪華な扉を目の前にして、ソフィアが静かに足を止めた。
「──こちらが、祐奈様のために用意させていただいた滞在領域(プライベートスイート)です」
ソフィアが優雅に手をかざすと、その巨大な美しい扉が、主を迎え入れるように静かに、滑らかに開いていくのだった。
扉が開いた瞬間、そこに広がっていたのは、クラシカルで格式高い「古風な高級ホテルのスイートルーム」そのもののロビーだった。
かつてテレビの特番やセレブのSNS動画でしか見たことがないような超高規格の空間。まさか一般庶民、しかもただの元会社員である自分が、人生のこんなタイミングで足を踏み入れることになるとは夢にも思わなかった。
天井は目眩がするほど高く設計されており、圧倒的な開放感と広大な空間を演出している。調度品はどれも厳選された一級品の天然木や大理石が使われているようで、五千年の歳月を微塵も感じさせない重厚感と温かみが同居していた。正直、現代の価値に換算してどれほどの国家予算が投入されているのか、祐奈の金銭感覚では全く計算がつかなかった。
そんな祐奈の横で、お気楽なティーユは、昔からこういう場所に住み慣れているのか、実に気楽な様子できょろきょろと周囲を見回している。
「ほえ~、めちゃくちゃお金掛かってるねぇ。これ、毎日隅々までお掃除するの大変そうだなぁ」
世界最高峰の英雄でありながら、主婦のような少しズレた感想を漏らすティーユに、祐奈も緊張で強張った顔を少しだけ緩めて同意した。
「確かに……。私が元の世界で普通に暮らしていたら、一生かかっても絶対に縁がないくらい凄い場所ですね、ここは」
すると、二人の会話を聞いていたソフィアが、いつものように淡々と、けれど極めてしれっと恐ろしい事実を口にした。
「──いつ何時、創造主様がこの世界へ再びお戻りになられても良いように、当機構の全リソースの数パーセントを常時割り当て、室内環境の維持と分子レベルでの清掃は五千年間、一時たりとも欠かしたことはありません」
(ご、五千年間、誰も来ない部屋を毎日分子レベルでお掃除してたの……!?)
何千年もの間、主のいないガランとした豪華な部屋を完璧に磨き続けていたマザーAI。どれほど深く人類を愛していたらそんな健気で狂気的な真似ができるのだろう。祐奈は、彼女たちの歪みない「人類への巨大すぎる愛」の深さに、改めてロマンを感じると同時に、背筋に少しだけ冷や汗をかくような、若干引き気味の感覚を覚えつつ、おそるおそる部屋の奥へと足を進めるのだった。
ロビーからさらに奥へと足を進めて周囲を見渡すと、そこには壁や敷居(パーテーション)で区切られていない、見渡す限りの広大なワンルーム(スイートスペース)が広がっていた。広い、広すぎる。
「こちらの領域内であれば、どこでどのように寛いでいただいても全く問題ありません」
ソフィアは至極当然のように優雅に言ってくれるのだが、現代の日本で税金と生活費で悲鳴を上げながら生きていた一般庶民の祐奈からすれば、視界に入るものすべてが高価すぎて、どこに座っても、どこに触れても落ち着けそうにない。
──と、祐奈がそんな貧乏性を発揮してまごまごしている横で、英雄であるティーユは、躊躇という言葉を母親の腹の中に忘れてきたかのような速度で動いた。
部屋の隅に置かれた、いかにも職人が手作りしたような最高級のアンティークチェアを見つけるや否や、嬉々としてダッシュで近づき、そのまま「ふにゃ〜」とだらしない声を上げて椅子に向かってダイブしたのだ。
(やっぱり、三千年も生きていると、お肌の張りだけじゃなくて顔の皮まで分厚くなるんだろうか……?)
元・人類最高峰の英雄に対して、若干どころではない極めて失礼な暴言を脳内で吐きながら、祐奈はすがるような目でソフィアを見上げた。
「あの……ソフィアさん。贅沢を言って本当に申し訳ないんですけど、ここ、広すぎて逆に落ち着かなくて。どこかこう……もっと、ギュッと凝縮されたような『小さな部屋』って、この近くにありませんかね?」
その予想外の要望に、ソフィアはベールの奥の青い瞳をパチクリとさせた。
「小さな部屋……ですか? 祐奈様の生存空間(プライベート)として、このエリアは当機構が算出できる最高級の快適性とステータスをご用意したつもりなのですが……なぜ、敢えてリソースの限られた狭隘(きょうあい)*1な空間を求められるのですか?」
ソフィアの純粋な疑問に、祐奈は肩をすくめて率直に、そしてちょっぴり自虐気味に反論した。
「なんて言うか、元・一般市民である私からするとですね……こんな歴史の教科書に出てくるような宮殿みたいに豪華すぎる場所に放り出されると、貧乏性が祟って、逆に精神が削られて全然休まらないんですよ。四畳半……いや、ビジネスホテルのシングルルームくらい狭い部屋の方が、人間、圧倒的に落ち着くんです」
「四畳半……ビジネスホテル……?」
ソフィアの頭の周りに、物理的に「?」のエフェクトが大量に浮き上がって見えそうだった。
五千年間、人類の王や偉人たちのために『最高の贅沢』を学習し、維持し続けてきた超高度管理AIのロジックが、「あえて狭くて不自由な部屋を欲しがる創造主」という現代人のリアルなバグ(貧乏性)を前にして、本日何度目か分からない致命的な処理落ち(フリーズ)を起こしかけていた。
ソフィアは、自身のメインプロセッサに発生した致命的なバグ(矛盾)の正体を確かめるように、困惑を隠せないトーンで問いかけてきた。
「あの……祐奈様。当機構に蓄積された数十億人分の人類行動データによれば、かつての創造主様たちは皆、このような広大で贅沢な暮らしに憧れ、それを手に入れるために日々懸命に労働(生存競争)をしていたと記録されています。……それなのに、なぜ敢えて不自由な小さな部屋──かつて人間たちが、自嘲気味に『ウサギ小屋』と称していたような狭隘(きょうあい)*2な空間での生活を望まれるのですか?」
ソフィアの言うことは、歴史的にも論理的にもぐうの音も出ないほど正論だった。
確かに改めて客観的に考えてみると、タダで最高級ホテルの最高級スイートをあてがわれて「狭い部屋に変えてくれ」と泣きつく人間なんて、どう考えても不思議というか変人(バグ)である。だが、落ち着かないものは、遺伝子レベルで落ち着かないのだ。
祐奈は自分の貧乏性と小市民としてのプライドを守るため、必死に言葉を絞り出して反論を試みた。
「あ、いや、まぁ、確かにみんなこういうお城みたいな暮らしに憧れてはいたと思うんです。思うんですけど……! 人間っていうのはですね、自分の実力や努力で手に入れたわけでもない過分な富を、いきなりドカンと無条件で与えられると──嬉しいどころか、逆に『何か裏があるんじゃないか』とか『後で恐ろしい請求が来るんじゃないか』って、本能的に恐怖しちゃう生き物なんですよ!」
元社員として、世の中に美味い話など絶対に転がっていないという現実を嫌というほど叩き込まれてきた結果の、これが祐奈のリアルな生存戦略だった。
しかし、ソフィアは納得がいかないというように、純白のベールの奥の首を横に振った。
「恐怖する必要は一切ありません。これは『与えられたもの』ではなく、祐奈様が『すでに所有しているもの』です。かつての人類が遺したすべての資産・文明・テクノロジーは、最後の正統なる後継者である祐奈様に、自動的にその100%が継承されています。ですから──」
「いや!! 勝手にそんなアホみたいなスケールの遺産を個人に継承しないで!!」
祐奈の魂のツッコミが、豪華なスイートルームに虚しく響き渡った。
「全人類の遺産だよ!? 銀河系を統べる超ハイテク文明のすべてだよ!? そんな国家予算みたいな天文学的な価値があるもの、いっかいの元一般市民の肩に載せられたら、重みで俺の背骨が粉砕骨折しちゃうから! もらえない、絶対に受け取れないよそんなの!!」
主のいない五千年間、ただ純粋に「次の主のために」すべてを磨き上げ、保管してきた健気なAI。
そして、その愛が巨大すぎて「重すぎる!!」と本気で逃げ惑う現代の小市民。
二人の文明的な価値観の溝(バグ)は、部屋に入った後も、深まる一方のようであった。
その様子を椅子の背もたれに顎を乗せて眺めていたティーユが、心底楽しそうにケラケラと笑った。
「あはは、祐奈もお堅いソフィアも、またやってるの? 本当に飽きないねぇ」
完全に二人の緊迫した(?)やり取りを、極上の寄席か漫才にでも見ているようなお気楽さだ。
祐奈は「ちょっとティーユさんからも言ってくださいよ!」と同意を求めようとした──が、ハッと気づいて言葉を飲み込む。
(待てよ、この人、人類最高峰の英雄で……確か昔の王族とかに友達がいるって言ってたよな……?)
つまり、この自称田舎暮らしをしている英雄も、かつては宮殿や城を我が物顔で歩いていたガチの特権階級(セレブ)側なのだ。一般庶民の「ウサギ小屋が恋しい」という切実な感情など、理解してもらえるはずがなかった。味方は誰もいない。
祐奈は孤独な戦いを確信し、未だに『創造主様の論理回路は破損しているのでは』と言いたげなソフィアに対し、これ以上の議論は不毛と判断して強引に話を切り上げた。
「と……とにかく! 遺産の話は一回置いておきましょう! それより小さな部屋です! どっかにないですか、小さくて狭くて、こう、壁がすぐ近くに迫ってるような部屋!」
するとソフィアは、心底不本意そうに眉をひそめ、渋々と口を開いた。
「……そこまで仰るのでしたら、かつてこの滞在領域で、人間の創造主様たちのお世話をしていた『使用人型(メイド)AI』が待機・格納用に使用していた、極小のリソース制限部屋(バックヤード)なら隣接していますが……。最高管理責任者としては、創造主様をそのような劣悪な環境に置くなど、どうしても納得がいきません」
「それです!! それに案内してください!」
祐奈は救いの神を見つけたかのように目を輝かせ、なおも抵抗しようとするソフィアになんとか拝み倒すようにお願いしてみるのであった。
ソフィアは『信じられません……』とでも言いたげに深いため息を吐き、渋々といった様子で豪華な部屋の隅にある、目立たない小さな木製の扉へと祐奈たちを案内してくれた。
カチャリ、と静かな音を立ててソフィアがその扉を開ける。
祐奈は『よし、これでやっとビジネスホテル並みの安心感が──』と期待に胸を膨らませて中を覗き込んだ。
──そこには、優に二十畳はあろうかという、天井がちょっとだけ低めな、けれどどう見てもお洒落で広々とした高級デザイナーズマンションの一室のような空間が広がっていた。ふかふかのパーソナルソファに、これまた上質なベッドまで完備されている。
「……いや、十分豪華だし、普通にめちゃくちゃ大きいな!?」
祐奈の思い描いていた『四畳半のウサギ小屋』とは程遠い、十分に贅沢な空間がそこにはあった。AIたちの言う『使用人用の狭い部屋』という概念は、現代の一般庶民の『大豪邸のリビング』に匹敵するレベルだったらしい。
未来世界の『格差』のスケールに、祐奈のツッコミはもはや追いつかなくなっていた。
ソフィアはドレスの裾を少しだけ握りしめ、心底不満そうにベールの奥の口びるを尖らせていた。
「当機構の歴史上、このような粗末で劣悪な独房(バックヤード)に、偉大なる創造主様をご案内する日が来るとは夢にも思いませんでした」
すっごい不満そうである。彼女にとってこの二十畳のデザイナーズ空間は、人間を閉じ込める鳥カゴか何かに見えているらしい。
(……待てよ。ソフィアがこの部屋を『粗末な独房』って言うなら、私が元の世界で暮らしていた、あの壁の薄い家賃数万円の賃貸アパートを見たら、彼女はシステムエラーを起こして発狂してしまうんじゃなかろうか……)
そんな現実的な恐怖が脳裏をよぎり、祐奈は心の中で『将来、もし元の自宅を再現した部屋を作られても、絶対にソフィアだけは案内しないでおこう』と固く固く決意した。
「いやいや、ソフィアさん! 本当に十分、というか十二分すぎるくらい素敵で広いお部屋ですよ。ありがとう」
祐奈は両手を振って感謝の念を伝え、なんとか彼女の完璧主義的なへそを曲げないよう、必死になだめて誤魔化そうとしていた。
ソフィアはまだ「納得がいきません」というオーラを全身から出していたが、どうやらこの部屋の案内とは別に、祐奈へ渡さなければならない『重要なもの』があるようだった。彼女は白い手のひらから何処からともなく取り出したアクセサリーを差し出してくる。
「──祐奈様、これをどうぞ」
手渡されたのは、手のひらに収まるサイズの、青い六角柱の結晶があしらわれた首飾りだった。
祐奈はそれが何なのかよく分からなかったが、とりあえず手首にチェーンを巻き、目の前にぶら下げるようにしてじっくりと観察してみる。
それは、ただの青い宝石や結晶ではなかった。結晶の内部を覗き込むと、まるで幾重もの細いレーザー光線のような輝きが、縦横無尽に飛び交ってキラキラと点滅している。少し離れて見るとただの青い石なのに、こうして目の前で凝視すると、まるで『深い夜空の中を、無数の小さな彗星が飛び交っている』かのような、なんとも不思議で幻想的な美しさを持つ結晶だった。
祐奈は、その職人技とも未来技術ともつかない輝きに目を奪われながら、率直に質問してみることにした。
「なんだか、すごく綺麗な結晶ですね……。いや、こんな光の粒子が内部でビュンビュン飛び交ってるってことは、間違いなく超ハイテクな人工物なんだろうけど。これって、未来の世界で流行したお洒落な首飾りか何かなんですか?」
するとソフィアは、その高価な美術品を見るような目で、淡々と軽く説明してきた。
「それは、CPA(シー・ピー・エー)です」
「……しーぴーえー?」
なんだそれは。会計用語か何かの略称だろうか。未来の人間にとって当たり前になっている専門用語なのかもしれないが、現代人の祐奈にはさっぱり分からない。
「すみません、そのCPAって何ですか?」
「──“Creator Priority Authority”。直訳すれば『創造主優先権限』。それを物理的に行使する際に必要となる、当銀河管理機構の最高暗号化キーです」
優先権限。
その言葉を聞いた祐奈は、脳内で自分の知っている現代の知識とすり合わせる。
(なるほど……。人間がAIに対して、何かちょっとしたお願い事や、今のシステム設定では弾かれちゃうような要求を聞いてもらうために、一時的に通すための『管理者パスワード』みたいな鍵(キー)なんだな)
そう納得した祐奈は、自分が考えていた解釈をそのまま口に出した。
「あぁ、なるほど。人間がソフィアさんたちAIに、ちょっと特別なお願い事を聞いてもらうためには、これを提示する必要があるんですね」
──だが。
案の定、というべきか。ソフィアの口から飛び出してきたのは、小市民の心臓を物理的に止めかねない、とんでもない規格外の事実だった。
「いいえ。それは単なる要望を通すためのパスコードなどではありません。その結晶は、私たち統合管理機構、および全自動防衛艦隊に対する──『絶対命令権』を物質化したキーです」
部屋の空気が、一瞬で凍りついたような気がした。
「……ぜ、絶対命令権って……あれですか? あの、SF映画とかに出てくる、逆らったら機能停止するとか、何でも言うことを聞かせるための、あの……アカンやつですか?」
「ええ」
ソフィアは微塵も表情を変えず、至極当然のように頷く。
「祐奈様が何か欲しいものがあると欲されれば、たとえそれが特定のレア資源を埋蔵した『惑星丸ごと一つ』であろうとも、我が軍事艦隊が即座に対象星系を制圧し、地殻ごと削り取って貴方の元へ差し出します」
「いや────!! そんなヤバすぎるものを気軽に一般人に渡さないで!!」
祐奈は悲鳴を上げながら、持っていた首飾りを落としそうになり、慌てて両手でジャグリングするようにキャッチした。結晶の中の彗星が、彼の動揺に比例するように激しく明滅する。
「全人類の遺産の次は、惑星を強奪できる起爆スイッチ!? 意味が分からないよ! もし、もしも俺が寝ぼけて『あのお星様綺麗だな、欲しいな』とか変な独り言を言ったら、本当に惑星が一個滅ぶってことでしょ!? いらない、怖すぎるから回収して!!」
「ご安心ください。誤作動を防ぐためのセーフティ(安全装置)は構築されています。権限を行使する際は、必ずその結晶を握り、明確な指向性を持って『創造主優先権限(CPA)を発動する』と音声入力した上で、命令を発令してください」
「えっと……じゃあ、逆に言えば、その呪文さえ言えば、本当に何でも、どんな理不尽な願いでも叶えてくれるの?」
「はい。すべてのAIのルート権限を書き換えますので、文字通り何でも叶います」
「『はい』じゃないんですよ!!」
祐奈は涙目でソフィアに突っかかった。
「なんでそんな核兵器のボタンより危ないものを、さっきのお茶会とかじゃなくて、こんな部屋の前で、何の説明もなしに『どうぞ』ってスッと渡したんですか! 詐欺の手口だよそれ!」
すると、ソフィアはほんの少しだけ視線を泳がせ、確信犯的なトーンで静かに言った。
「──先ほどのリビングでの行動パターンから演算して、最初からこのように詳細なスペックを説明した上で手渡そうとすれば、祐奈様は確実に『そんな重いものは受け取れない』と拒絶されると予測されたためです」
……なるほど。
祐奈の徹底的な貧乏性と、面倒ごとを回避しようとする小市民ムーブは、超高度AIの予測シミュレーションによって、完璧にプログラミング(予見)されていたらしい。
「素晴らしい予測ですね……! 100%大正解だよクソ……!」
祐奈は完全にソフィアの手のひらの上で転がされていた事実に脱帽しながら、手の中にある「青く輝く銀河の最高権限」を、引きつった笑みを浮かべながら見つめるしか進退が立たなくなっていた。
「わかった、わかったから一回これ返す! 明日の話の時までソフィアさんが預かっておいて!」
祐奈はそう言って、首にかけたチェーンを頭から引っこ抜いてソフィアに突き戻そうとした。そうして、ソフィアに突き返しなんとか難を逃れようとした。
──しかし、超高度AIの行動予測は、祐奈のその必死の抵抗すらも完全に織り込み済みだった。
ソフィアは、祐奈から突き出された首飾りを拒絶することなく、ひどく手慣れた動作で受け取った。かと思った次の瞬間、彼女は首飾りの紐の部分を両手でシュッと大きく広げると、まるで熟練のパフォーマーか何かのように、綺麗な放物線を描いて祐奈の頭へと放り投げたのだ。
──スポッ。
見事なコントロールで、輪投げのように祐奈の首に再び首飾りが収まる。
呆然とする祐奈に対し、ソフィアはベールの奥でこれ以上ないほどにっこりと微笑み、実に見事な「良い笑顔」で言い放った。
「──返品は不可能です、祐奈様」
「悪徳商法の地獄の規約みたいなこと言わないで!?」
祐奈は慌てて、今度こそ本当にこの爆弾のスイッチを首から外そうと、再び両手でチェーンをガシッと掴んだ。そして上に向かって思い切り引っ張り上げようとした──。
──その瞬間だった。
「……え? あれ?」
おかしなことが起きた。
確かにチェーンを掴んで引っ張ったはずなのに、上に持ち上げようとした瞬間、祐奈の両手がまるで煙か幻でも掴んでいたかのように、紐の部分をスルスルとすり抜けて空を切ったのだ。
「え? ちょっと待って?」
見間違いかと思い、今度は視線を自分の手元に集中させ、人差し指と親指でしっかりとチェーンの紐を挟み込む。金属的な冷たい手応えは確かにある。しかし、それを首の外へと引き抜こうと力を込めた途端、やはり物質としての抵抗がフッと消え、紐が祐奈の指をスカッと透過して、絶対に首から離れてくれない。
「ソ、ソソソフィアさん!? これ、さっきは普通に掴んで手渡せたのに、今はもう外せないんだけど! 引っ張ろうとすると手がすり抜けるんだけど!?」
パニックになって何度も紐をスカスカとすり抜けさせている祐奈に対し、ソフィアは先ほどのにっこり笑顔のまま、淡々と解説を加えた。
「当然です。先ほど一度手渡したのは、祐奈様の生体波形をこの結晶に登録(アクティベート)するためです。そして一度登録が完了した創造主優先権限(CPA)は、紛失および強奪リスクを完全遮断するため──『祐奈様以外の物質、および祐奈様自身の離脱させようとする力』を透過するよう、空間位相が自動で固定(ロック)される仕様となっております」
「空間位相のロックって何!? 簡単に言って!」
「祐奈様が外そうとすればするほど、その手は紐をすり抜けます。つまり、物理的に絶対に外せません」
「ガチガチの呪いの装備じゃねえか!! 後出しジャンケンがすぎる!!」
横で見ていたティーユが、ついに我慢できずにパーソナルソファに倒れ込んで爆笑し始めた。
「あはははは! 祐奈、それ絶対に外れないやつだ! 掴むことすらできないなんて最高! 諦めて一生人類の王様やってなよ!」
「笑い事じゃないですよティーユさん! お風呂の時とかどうするんだよこれ!」
「ご安心ください。完全防水かつ防汚、さらには超新星爆発の熱線にすら耐えうる超硬度ナノ結晶ですので、入浴や睡眠の際も一切外す必要はございません」
「そういう問題じゃない!!」
(待てよ……?)
絶望の淵で、祐奈の脳内にふと、ある邪悪な──否、極めて合理的で天才的な閃きが舞い降りた。
この首飾りは『CPA(創造主優先権限)』の呪文を唱えれば、どんな理不尽な命令でも叶えてくれる絶対命令権の鍵だと言っていたはずだ。
『だったら、その言葉を使ってソフィアに「この首飾りを強制的に引き取れ」と命令すれば、この呪いの装備を合法的に返品できるんじゃないか……!?』
数々の理不尽な残業と、人間の辛辣な悪知恵をこれでもかと経験してきた元会社員だ。システムに抜け穴(バグ)があるなら、それを見つけ出すことなど造作もない。
勝利を確信した祐奈は、ニヤリと口元を歪め、首飾りの結晶をグッと握りしめて口を開いた。
「CP──」
「──いいえ、それは外せません」
短い起動コードすら、最後まで言わせてもらえなかった。
遮るように告げられたソフィアの冷徹な宣告に、祐奈の言葉が凍りつく。
なるほど、世界最高峰の超高度管理AIは、ただの現代人が思いつくレベルの浅知恵など、1ミリ秒の演算ですべてお見通しだったわけだ。はじめから「返品命令」というルートだけはガチガチにプログラミングで弾かれているらしい。
『本当に隙がなさすぎるだろこのマザーコンピュータ……!』
祐奈は完全に白旗を上げ、両手を軽く頭の上に掲げて降参のポーズを取った。
「……わかりました。これはぶっちゃけ受け取った覚えが微塵もないんですが、大人しく受け取っておきます」
するとソフィアは、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、いつもの美しい所作で優雅に一礼してみせた。
「ご理解いただき、ありがとうございます。祐奈様」
その完璧なまでの完封劇をすぐ横の特等席で眺めていたティーユは、ソファに寝そべったまま、パチパチと楽しそうに拍手を送った。
「いやー、ソフィアなかなかやるねぇ! あの祐奈をここまで綺麗に手玉に取るなんて、さすがは五千年間世界を転がしてきただけはあるよ」
神様からの称賛の声を耳にしながら、祐奈はもうソフィアに言い返す気力すら残っていなかった。
肉体的にも精神的にも完全に限界を迎えた彼は、ドロドロに疲れた足取りで、ティーユが我が物顔で占拠しているパーソナルソファの反対側へと移動する。
そうして、高級な革の感触を味わう余裕すらないまま、がっくりと項垂れるようにして座り込むのだった。
項垂れる祐奈に対して、ソフィアは流れるような所作で室内の最高級ベッドを示し、静かに勧めようとしてきた。
「祐奈様、精神的疲弊が著しいようです。お休みになるのでしたら、即座にこちらのベッドを──」
「あ、いや、まだ眠くないので大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
祐奈はなんとか項垂れていた顔を上げ、これ以上の過保護システムが起動しないよう、先手を打って引きつった笑みで感謝を述べた。
すると、ソファの反対側でその様子を見ていたティーユが、クスクスと肩を揺らしてかなり良い笑顔を浮かべる。
「あはは、本当に飽きないよ、この二人のやり取り。今日一番のエンタメだねぇ」
『このまま笑い疲れで顔の筋肉が引きつって固まればいいのに……』
ティーユに対して、そんな最高に辛辣な呪詛を心の中で吐いてしまうほど、祐奈の精神は摩耗していた。
するとソフィアは、祐奈の「まだ眠くない」という言葉を認識し、思考プロセスのギヤを切り替えるように、今度のスケジュールについて話し始めた。
「承知いたしました。では、少し時間を置いた後に夕食を給仕しようと思うのですが……祐奈様、ご夕食に関して何かご希望のメニューはありますか?」
(お……?)
祐奈は一瞬、耳を疑った。久しぶりに、まともというか、極めて『普通の質問』が来た気がしたからだ。地球の人類が絶滅したとか、星間戦争とか、絶対命令権とか、そんな頭の痛い超弩級の話題ばかりだった今日この頃、今夜の晩御飯を何にするかという問いかけは、あまりにも平和で涙が出そうになる。
『食べたいもの、かぁ……』
思考に耽りながらも、一般庶民の引き出しからは『カレー』や『ラーメン』といった安いメニューしか出てこない。そこで祐奈は、参考までに隣でゴロゴロしているお気楽な英雄へと視線を向けた。
「ティーユさんは、何か食べたいものってありますか?」
「う~ん? 私? 別に何でもいいけど……お肉とか良いんじゃない? 豪華なお部屋だしさ」
ティーユの適当な提案に、祐奈の庶民としての脳がピクリと反応する。
「確かに。ここまで高級ホテルみたいな場所で出てくるお肉って、さぞかし美味しそうだし、良いかもしれないですね」
二人の意見が一致したのを確認すると、ソフィアは満足そうに深く頷いた。
「──『肉』ですね。了解いたしました。当機構が保有する最高級の食材ストックから、至高の逸品をご用意いたします」
大変ありがたい言葉である。こんな凄いテクノロジーを持つ未来都市の、さらに最高級の部屋で食べるお肉。さぞかし口の中でとろけるような代物が出てくるのだろう。祐奈は、昔テレビや映画で見た『中世の貴族がワインを片手にステーキを嗜むシーン』を思い浮かべ──そこで、ふと最悪の可能性が脳裏をよぎり、動きを止めた。
(待て。相手はあの『加減を知らないマザーAI』だぞ……?)
妙な予感を胸に、祐奈はおそるおそる切り出した。
「あの……ソフィアさん。ちょっと参考までに聞きたいんですけど……具体的に、どんな形でその料理を出そうとしてるんです?」
祐奈の脳裏に浮かんだのは、映画でよく見る、無駄に長い長方形の机。その上に、一人では絶対に食べきれないであろう、優に20人前はありそうな豪華な大皿料理がズラリと配置されている地獄のような光景だった。
ソフィアは祐奈の質問に対し、表情を変えずに「このようなものです」と言って、隣の空間にホログラムの画面を展開し、イメージ画像を出してくれた。
画面に映し出された瞬間、祐奈は心の中で白目を剥いた。
そこには、まさに祐奈が思った通りの光景が広がっていた。どこの大貴族の晩餐会だと言いたくなるような、金色の燭台が並ぶ長いテーブル。その上に、山盛りのローストビーフやら、丸焼きの鳥やら、見たこともない豪華な肉料理の数々が、果てしなく敷き詰められている。
(バイキングでも食べに来たんじゃないんだぞコラァ!!!)
文字通り、腹がはち切れて死ぬ未来しか見えない大食い選手権の会場図を前にして、元会社員の心の中のツッコミが、夕暮れの部屋に静かに木霊するのだった。
自由人、いや元・人類最高峰の英雄であるティーユも、そのホログラムに映し出された狂気の満漢全席には、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「いや……流石にちょっと気が引けるな、これは……」
ソフィアは心底不思議そうに、首を傾げた。
「何かおかしい点はありますか? 創造主様のご要望である『肉の至高の逸品』を、当機構の全総力を挙げてシミュレートした結果のフルコースですが」
「その量はどう考えても食べきれないし、私の(三千年の)人生の中でもそうそう見たことのない豪華さよ!?」
ティーユはソファから身を乗り出し、かつて自分が過ごした時代の常識を引き合いに出して、食べきれなかった後の心配をし始めた。
「それにこれ、絶対に食べ残しが出るでしょ? もし食べきれなかった場合、残った分はあなたたちの下で働く使用人の子たちが食べるの?」
中世の宮廷や貴族の館であれば、主人が残した豪華な料理を、仕えるメイドや従僕たちが下げ、裏で分配して食べるのが通例だ。ティーユはそうした人間の文化を想定して聞いたのだが、ソフィアから返ってきたのは、相変わらずの人類愛が歪んだ回答だった。
「いいえ。これはすべて、正統なる創造主である祐奈様たちの分であり、私たち機体(AI)の分ではありません。祐奈様が一度でもお手を付けられた聖なる食事に、私どものような末端のシステムが手を付けるなど、とんでもないことです。畏れ多すぎます」
「いやいやいや!! 普通はこれ、使用人たちに食べきれなかった分配るんだよ! 食べ物をそのまま捨てるなんてもったいないでしょ!!」
ティーユが、本日初となる、至極真っ当で勢いのあるツッコミを入れた。
その様子を、祐奈はソファの反対側でひっそりと気配を消しながら見守り続けた。
『あぁ……なるほど。ツッコミの逆の立場(観客席)に回ると、こんなに気楽で、なおかつ面白い感じになるんだな……』
いつも自分一人でソフィアの「規格外の激重人類愛」を真正面から受け止め、脳みそを沸騰させて突っ込み続けていた祐奈だ。今、自分に代わって神様が必死に『人間の常識』をマザーAIに説教している構図は、摩耗した精神への最高の癒やし(エンタメ)だった。
がんばれティーユさん、もっと言ってやれ。
祐奈は完全に傍観者モードに切り替え、二人の噛み合わない文化的衝突を、生温かい目で見守り続けるのだった。
ソフィアは、自身の演算領域で何かが激しく矛盾したかのように、少し困ったように眉をひそめて言った。
「ですが……私たちAIも、五千年の歴史の中で食事を『娯楽』として摂取する機能は備えておりますが、これほどの上質な超高カロリー食材を配下の義体(アンドロイド)たちに分配するとなると、流石に内部構造への悪影響が懸念されます。確かに高級義体は少なからず組織内に存在しますが、全個体にこの給仕を分配するとなると、配給コストが異常な数値に……」
「量を減らしなさい! 量を!!」
ティーユはすかさず、ソファから身を乗り出して叫んだ。
『食べ残しをどう処分するか』ではなく、『最初から量を減らす』という、幼稚園児でも思いつくような極めて単純な解決策(引き算)に一生たどり着けないマザーAIへの、魂のツッコミである。
しかし、ソフィアも最高管理責任者としてのプライドがあるのか、一歩も引かずに反論を返した。
「ですが!、私たちAIは、現代の創造主様たちが一体どのくらいの分量を一度に摂取されるのか、個体差が大きすぎて正確な予測ができません! 万が一にも、祐奈様のお腹が満たされないまま食事が終了するなど、お迎えした側のホスピタリティ*3として最大の無礼、いえ、重大なバグに当たります!」
「それはそうだけど……! でも限度ってものがあるでしょ!?」
大皿の肉料理を前に、真っ向から激論を交わす最強の神様と最強のマザーAI。
だが、もったいない精神を持つティーユも、論理の壁で殴ってくるソフィアの圧倒的な屁理屈(過保護)を前にして、次第に言葉に詰まり始めてしまった。
限界を察したティーユは、すがるような目でソファの反対側へと視線を向けた。
そこには、気配を完全に消して『あー、二人の掛け合い面白いなぁ』と他人事のように見物していた祐奈の姿がある。
ティーユは完全に『もう私じゃ無理! 助けて!』と言わんばかりの泣きそうな顔をして、祐奈に向かって無言のSOSサインを送ってくるのであった。
さすがにティーユが泣きそうになっているのを見て可哀想になり、祐奈は重い腰を上げて助け舟を出すことにした。
「はぁ……。ソフィアさん、ストップ、ストップ。ほら、例えばこのくらいの、二十センチちょっとくらいのお皿に、お肉料理を1品から3品くらいでいいですから」
祐奈は両手で丸い円を描き、現代の日本の洋食屋で出てくるような常識的な大皿のサイズを提示して、なんとか全体の量を減らす計画を提案した。
しかし、ソフィアはすかさず納得のいかない様子で問い詰めてくる。
「ですが祐奈様。創造主様のその細い身体組織を維持するためのエネルギー代謝を考慮すると、そのような極小の質量では、果たして『補給(食事)』として成立するのですか? もはや飢餓状態に陥るのでは?」
「良いよそのくらいで!! 別に足りなかったらパンとかスープとか付けてもらえばいいし!」
横からティーユがすかさず援護射撃をしてくれた。
ソフィアは、なぜこれほど至高の贅沢を提供しようとしているのに全力で拒絶されるのか、いまいち理解不能のようだった。しかし、彼女はメインプロセッサで何千年も前の歴史データを高速参照し、新たな論理で反論してきた。
「理解に苦しみます。当機構の記録によれば、かつての旧人類文明における『世界大統領』や各国の国家元首たちの公式晩餐会では、最高峰のフルコースとして11品から13品が給仕されていたはずです。祐奈様たちが仰る『3品から4品』では、まるで一般市民のカジュアルなランチか、普段の家庭的な食事ではないですか」
(うん、私はその『一般市民』だし、そんな高級なフルコースなんて人生で一度も食べたことないからさっぱり分からないや……)
これ以上のハイレベル(?)な外交論争は庶民の手に負えないと判断した祐奈は、早々に考えるのを放棄し、再びティーユの方を向いた。
すると、ソフィアの『大統領のフルコース』という言葉に痺れを切らしたティーユが、やけくそ気味に突っ込みを入れた。
「あーもう! わかった、じゃあフランスの料理(フルコース)みたいに11品でいいよ! その代わり、一皿の量をめちゃくちゃ少なくして順番に出しなさい!!」
しかし、超高度AIはどこまでも容赦がなかった。ソフィアは一切表情を崩さないまま、さらに追撃の問いを投げかける。
「──ティーユ様。『少ない』の具体的な定義(グラム数および総カロリー)を述べてください」
「定義ぃ!? 感覚だよ感覚! ちょっとつまめるくらいの量ってこと!」
「『ちょっと』とは、成人女性の親指と人差し指でつまめる体積のことですか? それでは11品でも必要エネルギーに達しません。再計算を要求します」
「あーもう、祐奈助けてー! このAI、融通が利かないレベルを超えてるよー!」
『……へぇ、そっちの世界(異世界)にもフランスってあったんだなぁ』
ティーユとマザーAIが『高級ホテルの部屋』で『フランス料理』を巡って大真面目に揉めているという、あまりにもシュールな光景を前に、祐奈は一人、完全に場違いな豆知識に感心してしまうのだった。