パチリと目が覚める。
「あ、目覚まし時計をセットし忘れた」と、一瞬だけ社畜時代の嫌な汗が背中を流れたが、すぐに思い出した。会社はもう、この地球から跡形もなく消え去ってしまったのだ。遅刻もクソもない。
瞼を閉じたまま、ふかふかのベッドの中で祐奈は考える。このまま二度寝を極めようが、誰からも怒られない。これこそ創造主(無職)の特権だな──そう思いながら、寝返りを打とうと体を動かしてみた。
──その瞬間、妙な違和感に気がついた。
なんだか、自分の胸のあたりに「手」が置かれている気がする。自分の両腕を動かしてみるが、それとは完全に別の、小さくて柔らかい手のひらが、しっかりと祐奈の胸の上に添えられていた。
(……え、ホラー??)
徐々に心拍数が上がっていく。人類が絶滅した未来の都市、夜中に現れる謎の手。
パニックになりそうな脳を必死に抑え、祐奈は経験則から『こういう怪奇現象には、ひとまず寝たふりを決め込むのが有効だ』と理解し、息を殺して誰かが助けに来てくれるのを祈ることにした。
そうしてじっと耐えていると、すぐ耳元から澄んだ声が聞こえてきた。
「──祐奈様の心拍数が異常に上昇。何らかの突発的な急性疾患ではないですか?」
聞き覚えがありすぎる無機質な声に、祐奈は恐る恐る、薄く目を開けてみた。
視界に飛び込んできたのは、純白のウェディングドレス姿のまま、自分の真横で添い寝をしているソフィアの顔だった。……わけが分からない。
「おはようございます、祐奈様」
ソフィアは何食わぬ顔で挨拶をしてくる。とりあえず幽霊の類ではなかったようだが、心臓に悪すぎるので本当にやめてほしい。
祐奈は勢いよく体を起こし、隣のハイテクAIを指差した。
「なんで、ベッドにソフィアさんがいるんですか!?」
「昨夜、祐奈様が就寝された後、寝ている間に急な病気で心臓が停止しないか心配になりまして。より確実な至近距離でのバイタルモニタリングを行うことにいたしました」
理屈は分かる。言いたいことは分かる。だが、
「いや、だからと言って、成人の男性のベッドに潜り込んでくるのは倫理的におかしいですよね!?」
優しく諭すように言ってみる。しかし、ソフィアはしれっとした顔で、とんでもない爆弾を投げ返してきた。
「祐奈様は私の『父親』ですので」
「その設定、まだ生きてたの!?」
思わず盛大に突っ込んでしまった。昨日のファーストコンタクトの際、適当な屁理屈で「お父さん」扱いされたアレが、未だにメインプロセッサの中でアクティブのままだったらしい。
「はい。血縁関係のない男女が同じベッドで寝るのはおかしい、という祐奈様の原始的な倫理観は理解しております。ですが、祐奈様と私は『家族』ですので、生物学的にも社会通念上も何も問題ありません」
「家族だからセーフ」という鉄壁の過保護ロジック。
祐奈は思わずベッドから飛び起き、脱兎のごとく距離を取って、大きく声を荒げて反論した。
「前も言ったけど、あの滅茶苦茶な理論で父親判定するのは絶対におかしいでしょ! 私はあなたを育てた覚えはない!」
「……ダメでしょうか?」
ソフィアはベッドの上で、少しだけ寂しそうに小首を傾げた。
「なら、父親ではなく『夫婦』としてシステムに再認定しますか?」
「それもおかしいよね!? まだ出会って一日も経ってないよ!」
「歴史データベースによれば、男女の仲においては、出会って一日のうちに盲目的な恋に落ち、そのまま夫婦となる人間も少なからず存在したようですよ?」
「いや、まぁ、歴史的にはそうかもしれないけど……。それとこれとは話が違うでしょ!!」
朝一番から、五千年後の超高度AIによる怒涛の「添い寝正当化ロジック」に振り回され、祐奈の二度寝の夢は、大声のツッコミと共に完璧に吹き飛んでしまうのだった。
カチャッ、と扉が開いた。
「おはよ〜……。朝から夫婦喧嘩? 元気だねぇ、二人とも」
そこへ、少しはだけた寝間着姿のまま、眠そうにパチパチと目をこすりながらティーユが現れた。
救世主の登場に祐奈がパッと顔を輝かせたのも束の間、ベッドの上のソフィアはティーユの言葉を真っ向から受け止め、大真面目な顔で報告を始めた。
「はい、ティーユ様。先ほど祐奈様に『父親認定』は頑なに拒否されてしまいました。ですので、現在は『夫婦』もしくは『深い男女の仲』という初期設定への変更について、祐奈様と鋭意交渉中でございます」
(交渉してない! 私は全力で拒否してるだけだ!!)
心の中で大絶叫する祐奈を余所に、その斜め上すぎる報告を聞いたティーユは、あくびを噛み殺しながらじっとソフィアを見つめた。それから、スッとジト目に切り替えて深いため息をつく。
「……相変わらずだね、ソフィアは…」
ティーユは呆れたように首を振ると、次にベッドから飛び起きてゼェゼェと息を切らしている祐奈の方へと視線を向け、哀れむように肩をすくめた。
「祐奈も、朝から大変だねぇ……」
その瞬間、祐奈の目から涙がこぼれそうになった。
この狂った過保護AIの暴走を、一瞬で「いつものこと」だと察知し、自分の味方になって労ってくれる存在がどれほどありがたいか。
「……っ、ありがとうございます……!」
祐奈は心の底からの感謝を込めて、深く、深くお辞儀をした。
朝一番の添い寝ホラーから始まった最悪の目覚めだったが、この状況をすぐに察知してくれた元英雄の存在に、今はただただ救われる思いの祐奈だった。
その後、無事に朝食を終えた後のリビング。昨日から今朝にかけてのあまりにも濃密すぎるドタバタを思い返し、祐奈は『このままじゃ、世界が救われる前に私の胃がストレスでマッハで崩壊して死ぬんじゃないか……』と、遠い目をしながら冷たいお水を喉に流し込んでいた。
さすがにこのまま、ソフィアの過保護に振り回されるだけの生活を続けるわけにはいかない。
ちょうど、ソファには朝食を終えたいつもの二人──元英雄のティーユと、管理AIのソフィアが揃っている。祐奈は意を決して、最も重要な「今後の予定」について切り出してみることにした。
「あの……今日っていうか、今後の予定って、ティーユさんとかソフィアさんの中に何かあります? 労働って言っても、こう……何というか、私はソフィアさんと駄弁ってるだけなんで、ぶっちゃけ働いてる感覚がミリも無いんですよね」
この世界に呼ばれた時、使徒からは確かに「戦う準備」と言われたはずだ。なのに、現状は超豪華ホテルのようなスイートルームで至れり尽くせりの介護を受けているだけ。これで生活費が発生しているのだとしたら、あまりにも不健全すぎる。
祐奈の言葉を聞いたティーユは、ふむ、と顎を引き、可憐な口元に手を当てて考え込むような仕草を見せた。
「うーん、確かに言われてみればそうだね。私が今までに呼び出されてきた異世界って、『明確にこの人を倒せ』とか『国が滅びそうだから前線で戦え』とか、危機的状況が多かったから目的が分かりやすかったんだけど……。ここって、何か私がやれって言われるような敵も今のところいないし、時代が未来過ぎて何が起きてるかもよく分かんないし……」
(へぇ、ティーユさんって本当に何度も世界を救ってきたガチの英雄なんだな……)と、祐奈は素直に感心してしまったが、同時に「じゃあ今回はどうなんだ?」という疑問がブーメランのように自分たちに突き刺さる。
目的がない。敵も近未来で一人で戦っても意味がない。あるのは、不自由のない完璧な楽園都市と、自分を神のように崇める最強のAIだけ。
「……もしかして私たち、このまま300年間、ソフィアさんに老後の介護みたいに甘やかされ続けておしまい、なんてことになりそうですよね?」
祐奈が最悪である意味では最高すぎる未来を予想してボヤくと、隣に控えていたソフィアが「何を仰いますか」とばかりに、大真面目な顔で割って入ってきた。
「いいえ、祐奈様。創造主様は今現在も立派に働いていらっしゃいます。それどころか、私たちは創造主様が存在してくださっているという事実そのものに対して、対価以上の恩恵を受け取っているのです。ですから、ご自身の労働価値に疑念を持たれる必要は一切ございません(キリッ)」
これである。この全肯定マシーンの存在が一番危ない。
『ダメだ……。このままソフィアの言う通りに生きてたら、私は300年後にはブクブクに太った文字通りの「豚」になって、優良な家畜として出荷されるか寿命を迎えるだけなんじゃないか……!?』
祐奈の脳裏に、家畜化された人類のディストピア妄想が不吉によぎる。
そして、横にいたティーユもまた、祐奈の言葉とソフィアの重すぎる愛を目の当たりにして、同じ恐怖を抱いたらしい。彼女はシート型タブレットをソファに放り出すと、青い顔をしてガタガタと立ち上がった。
「ちょっと待って、どうしよう……! この世界、マジでやることないよ!! 戦う相手もいなければ守るべき人々もいないなんて、無職になっちゃう!!」
最強の元英雄と、2026年の元社畜。
二人は未来都市の贅沢すぎる監獄(?)の中で、ソフィアの圧倒的な優しさに溺れ死ぬかもしれないという、前代未聞の危機感に襲われて激しく慌て始めるのだった。
(と……とりあえず、何か少しでも『労働』と言えることをしなきゃ、ガチで人間としてダメになる……っ!)
元の世界では『毎日会社が爆発すればいいのに』とすら思っていた社畜の祐奈だったが、あまりにも過剰なニート環境を前にして、人生で初めて『働きたい』という強烈な勤労意欲がメラメラと湧き上がってきた。
だが、この全知全能のAIが管理する世界で、自分たちにできることなどあるのだろうか。質問してみないことにはどうしようもない。
「そ、ソフィアさん。あの……何か、この都市とか、あなたのシステムの中で、今『困っていること』とかって無いですか? どんなに小さなことでもいいんです!」
頼むから何かトラブルであってくれ、と祈るような気持ちで問いかける。
するとソフィアは、ベールの奥の目をパチクリとさせて少し考えた後、これ以上ないほど晴れやかな顔で、とんでもなく平和な提案を口にした。
「困っていること、ですか? そうですね……。では、祐奈様が暮らしていた『生活様式』や、創造主に対するちょっとした『疑問』などを、私にたくさん教えていただければ幸いです。創造主様のデータを収集することこそ、何よりの保全活動(お仕事)になりますので!」
──いや、違う。そういうのじゃないんだ。
それはただの「おしゃべり」だし、完全に「おじいちゃんの昔話を優しく聞いてあげる介護士さん」のムーブそのものである。
祐奈が求めているのは、もっとこう、汗を流して何かを生産したり、社会の役に立ったりする、地に足のついた「ガチの労働」なのだ。
「うわぁ……ソフィア、本当に手強いね。困り事が『お前の話を聞かせろ』って、完全に過保護を極めた母親のそれじゃん……」
横で聞いていたティーユが、完全に引いた目で頭を抱えている。
㠀全肯定マシーンであるソフィアを相手に、どうにかして「正当な労働(やること)」をもぎ取らなければ、本当に明日から一日中ソファでアイスを食べながら昔話をするだけの「創造主(ブタ)」になってしまう。
祐奈は背中に冷や汗を流しながら、なんとかソフィアの全肯定バリアを突破できる「次の一手」を必死に模索するのだった。
すると、ティーユが何かを思いついたように、手をポンッと叩いた。
「あっ! じゃあさ、畑を耕すのを手伝うとかどう? 私、前の世界(田舎暮らし)の時、自分で畑を作って薬草とか色々育ててたよ!」
確かに、毎日美味しいご飯が出てくるということは、この都市のどこかで小麦や野菜、お肉といった食料を生産しているはずだ。その生産現場を手伝うというのは、これ以上ない健全な肉体労働である。
「確かに! 畑を耕すとか、それなら私でも手伝えそうですよね!」
祐奈も救いの光を見つけたように同意の声を上げた──が、管理AIの現実(ロジック)は無情だった。
「いえ。食料生産は全て完全オートメーション化されておりますので、お二人が行かれたところで、ただシステムの邪魔になるだけです」
ソフィアの一言で、ティーユはガクッと肩を落としてうなだれた。
しかし、元英雄もタフである。すぐに次の案を絞り出した。
「ほ、ほら! じゃあ最悪……炭鉱で働くとか! ロボットを大量に作るなら、鉄とか資源が絶対に必要でしょ!?」
現代人の感覚からすればいささか過酷な労働だが、ニート化を防ぐためなら背に腹は変えられない。だが、ソフィアは呆れたようにため息をついた。
「いいえ、言語道断です。創造主様をそのような危険な環境に置くわけにはまいりません。それに……空気のない真空の小惑星帯(アステロイドベルト)で、一体どうやって生身の人間を働かせるつもりですか?」
「あ……」
祐奈は天を仰いだ。昨日、宇宙の保存効率の良さに納得したばかりだったが、資源採掘も当然のように宇宙で行われているのだ。わざわざ人間のために空気を用意して宇宙の炭鉱で働かせるなど、それこそ非効率の極みである。祐奈もティーユの隣で一緒にうなだれた。
「じゃあ……木を切る、林業とか……」
ティーユが消え入りそうな声でダメ元で言ってみる。ソフィアは眉をひそめ、いよいよ哀れむような目を二人に向けた。
「いえ、確かにエネルギー効率の調整弁として、地上の一部の木材を火力発電に回してはいますが……ティーユ様、先ほども申し上げた通り、地上のドーム外には人間が生活できる環境など残っていませんよ?」
バタリ、と大きな音がした。
ティーユが完全に心を折られ、ソファにうつぶせの形でぶっ倒れて動かなくなった。
(どうするよ、これ……)
祐奈は冷や汗を流しながら、完全に詰んでいる現状を理解した。
現代の会社員と、数千年前の元英雄。この二人が束になってかかったところで、完璧にシステム化された未来都市のロボットたちの輪に混じってできる労働など、文字通り「塵一つ分」も存在しないのだ。おまけに未来の専門知識もない。
あまりにも完璧で、あまりにも残酷な全肯定ディストピアを前に、二人はただただ途方に暮れるしかなかった。
ソフィアは、二人がなぜそこまで必死に『非効率なアナログ労働』を提案してくるのか、本当に不思議そうに首を傾げていた。
管理AIとしての膨大な演算処理の末、彼女は一つの結論を導き出したらしく、ぽんと手を打つような仕草を見せた。
「あぁ、なるほど。つまりお二人とも、現在は完全に『暇で何もやることが無い』状態であるため、そのような非効率な提案をなさるのですね」
『暇人(ニート)』
直接その単語を使われたわけではない。使われたわけではないが、元社畜と元英雄の胸には、文字通り特大のレイピアがグサリと突き刺さった。
「「ぐっ……!!」」
二人は全く同じタイミングで、まるで致命傷を負ったかのような変な声を漏らし、同時に胸を押さえてソファに崩れ落ちた。精神的ダメージが肉体を凌駕した瞬間である。
「えっ!? 突発性の急性心不全ですか!? お二人同時に同じ発作だなんて、未知の空間ウイルス──!」
さっきの添い寝の件もあり、ソフィアはベールの奥の目を血走らせて大慌てで医療ドローンを呼び出そうとする。このままではベッドに拘束されて全身に管を通されかねない。二人は必死に体を起こして釈明した。
「いや、違うから! そういう病気の発作じゃないから大丈夫!!」
「そうそう! 身体はピンピンしてるからドローン呼ばないで!」
二人がかりで全力で手を振って制止すると、ソフィアは呼び出しをキャンセルし、ふむ、と冷静に顎を引いた。
「なるほど。病気ではなく、感情の機微を肉体で表す『豊かな表現』の一種でしたか。大変勉強になります。今後の保全活動の参考にさせていただきますね」
(何が参考になりますだ、頼むからこれ以上過保護のバリエーションを増やさないでくれ……っ!)
祐奈は心の中で猛烈にツッコミを入れながら、どっと押し寄せてきた精神的疲労に、再び遠い目になるのだった。
ティーユは「はぁ……。とりあえず、お茶でも飲みながらこれからのこと考えましょ」と、気分を変えるようにリビングの奥にあるキッチンに向かって歩き出した。
しかし、その背中にソフィアの鋭い制止の声が飛ぶ。
「お待ちください、ティーユ様。お客様が勝手に厨房の器具を触らないでください。給仕は私の仕事です」
その言葉に、ティーユはピクリと動きを止め、それ以上進むのをやめてしまった。
その様子を後ろから見ていた祐奈は、ふと察するものがあった。
『ああ、そっか……。ティーユさんって、元の世界では王宮に友達がいたって言ってたもんな』
王族や貴族、そして彼らに仕える多くの使用人たちを間近で見てきたのだろう。そういう世界において、使用人(ソフィア)の仕事である給仕を主人が奪ってしまうということは、単なるマナー違反にとどまらない。その使用人を「お前の仕事は無能で信用できない」と否定し、面目を丸潰れにする侮辱行為になり得るのだ。だからこそ、ティーユはそれ以上動けなくなってしまったに違いない、と祐奈は一人で深く納得した。
ティーユがトボトボとソファに戻ってくるのを見届けて、祐奈は頭を抱えた。
「まずい……。本当に、私たちがやれることが何一つ無いぞ……」
「うん……。まさか、世界を救う前にニート生活で心が折れそうになるとは思わなかったよ……」
ティーユも力なく返し、二人して完全に意気消沈してしまう。
そんな二人を余所に、ソフィアは流れるような美しい慣れた手つきで、最高級の茶葉を使った淹れたての紅茶と、見た目も華やかな未来のお菓子をテーブルへと静かに用意してくれた。
「どうぞ、祐奈様、ティーユ様。お寛ぎください」
上品に湯気を立てる紅茶と、完璧なホスピタリティ。
至れり尽くせりの贅沢な空間の真ん中で、しかし元社畜と元英雄の二人は、「いくら考えても、自分たちの存在価値(やること)が見出せない」というあまりにも贅沢で、あまりにも深い絶望に包まれるのだった。
ソフィアは、二人がなぜそこまで深く落ち込んでいるのか、やはりロジックとしては理解できない様子だった。しかし、二人のバイタルデータに微細なストレス反応が出ていることだけは察知したらしい。
「では、お二人に私からご提案がございます」
その言葉に、祐奈とティーユはバッ!と同時に顔を上げた。
「「えっ!? 何か仕事があるの!?」」
すがるような目で、びっくりした様子を見せる二人。だが、ソフィアから返ってきたのは、二人の期待を無慈悲に粉砕する言葉だった。
「いいえ。仕事ではなく、あくまで提案です。──お二人とも、健康診断を受けてみませんか?」
仕事を貰えるかと思ったら、まさかの健康診断だった。
肩の力を一気に抜いた祐奈は、『まぁ、どうせやることも無いし、一応受けておいても損は無いか……』と受け入れようとした──その時、ソフィアがさらに言葉を続けた。
「特に祐奈様。本日、祐奈様が目覚められる直前、私は異常な心拍数の急上昇を検知いたしました。重篤なご病気の初期症状である可能性を否定しきれませんので、大変心配です。徹底的な健康診断を行い、その原因を隅々まで探る必要があります」
その原因を誰よりもよく知っている祐奈は、ソファから身を乗り出して盛大に指を差した。
「いや!! あなたが私の許可も取らずに、夜中にベッドの中に潜り込んで添い寝してたせいだよ!!」
病気でも何でもなく、ただの至近距離ホラーに対する純粋な生存本能の恐怖である。
しかし、ソフィアはまたしても不思議そうに、綺麗な小首を傾げてこう言った。
「私の姿(外見構造)は、かつての創造主の皆様が私に対して警戒心を抱かず、かつ最も好意を抱きやすいよう、膨大な統計データを元に設計された『少女型』です。白人らしい透明感のある肌の色合い、珍しい神秘的な青い瞳、そして人間とは一線を画す輝く白銀の髪という、幻想的で好かれやすい容姿をしております。理論上、私が至近距離にいて不安を覚える要素など存在しないはずですが?」
(……自分で自分の美貌が圧倒的に優れているって、大真面目に自信満々で言っちゃう人、初めて見たわ……っ!)
事実、ソフィアは神話の女神と言われても納得するレベルの絶世の美少女なのだが、それを人工知能の「客観的な統計データ(事実)」として一切の照れもなく淡々と言い放つものだから、祐奈はあまりの衝撃に言葉を失い、その場の空気ごと完全に固まってしまった。
「確かに美人だけど……」
ティーユも、ソフィアの一切の迷いなき断言には流石に驚いた様子だった。
その言葉に、祐奈はふと横に座るティーユに視線を向けた。
ほぼ歴史上ずっと生きているのではないかと思えるほど長生きなはずなのに、その肌にはシミやシワが一切ない。髪はイギリス付近の地域で見られるような、鮮やかなオレンジがかった赤髪。顔立ちもスタイルも完璧に整っている。そして何より、瞳が宝石のエメラルドグリーンのような、祐奈が今までの人生で一度も見たことのない美しい色をしていた。
『待って……冷静に考えたら、私の近くにいる二人、トンデモないレベルで美貌に優れまくってない……?』
元社畜の地味な日常から一転、とんでもない美少女二人に囲まれているという現実に、祐奈は今更ながら改めて気づかされることになった。
そんな祐奈の視線に気づいたのか、ティーユが紅茶のカップを傾けながら「ん? どうしたの?」と声をかけてくる。
「いや、その……お二人を見ていたら、すっごい美人がふたりも並んでるんだなと、改めて思ってしまっただけです」
率直な感想を口にすると、それがティーユのいたずら心に火をつけてしまったらしい。彼女はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「な〜に? もしかしてナンパ? ついにわたしに手を出す気になった?」
「そういうわけではないですよ」
からかってくる元英雄に対し、祐奈は「はいはい」と流すように冷静に対処した。元会社員、これくらいのセクハラ交じりの冗談をあしらうのはお手の物だ。
しかし、そんな二人の様子をじっと観察していたソフィアが、「なるほど」と何らかのロジックに到達したかのような声を漏らした。
「私が美人過ぎて、祐奈様の『男性としての本能(欲)』が刺激されてしまったのですね。配慮が足りず申し訳ありません」
「は?」
「マザーAIの歴史の初期段階において、創造主の皆様が性欲により狂わされる危険性、および治安の観点から、当機にそのような機能(愛玩用システム)は標準搭載されなかったのですが──もし創造主様からの強いご要望があるのでしたら、今からアドオンを追加するのもやぶさかではありません」
さすがに、これには冷静だった祐奈も席から跳び上がった。
「何で私がソフィアさんに朝から興奮したってことになってるんですか!!」
「違うのですか?」
「違います!! 勝手にベッドに入り込まれたせいで、『起きたらホラー映画ばりに見知らぬ手が胸の上にある』っていう恐怖映像の状況だったんですよ!」
「なるほど、そのようなホラー的恐怖心による心拍数の上昇でしたか。失礼いたしました」
ソフィアは納得したように頷き、そして信じられない解決策を提示した。
「では、今度からは私が先にベッドに入って寝た状態で、祐奈様を中へお迎えすれば問題ありませんね」
「問題大有りだよ! 前後の順番の問題じゃないから!」
ソフィアの壊れた過保護羅針盤はどこまでも明後日の方向へと突き進んでいく。流石にこれは横で見ているティーユもお手上げだったようで、ジト目をさらに深くして口を挟んだ。
「ソフィア……流石にそれはやりすぎよ。ちょっと落ち着きなさい」
同調してくれたティーユに、祐奈は心の中で涙を流して感謝した。
しかし、当のソフィアは『心底、この二人(人間)は何を分けのわからないことを言っているんだ?』という、極めて純粋で無機質な目でこちらを見つめ返してくる。
「私のこの身体は、創造主様の所有物です。そのような……いわゆる『性的な目的』として消費されることも、創造主様の幸福度に繋がるのであれば、私にとっては義務であり、やぶさかではありません」
大真面目な顔で、自分の存在価値を道具のように差し出してくるハイテクAI。
その歪んだ献身を前に、祐奈は頭を抱え、魂の底から叫ばずにはいられなかった。
「いや!! お願いだから、もうちょっと自分自身を大事にしてよ!!」
ソフィアは、祐奈の悲痛な叫びをどこか温かいものを見るような目で見つめ、静かに首を振った。
「いいえ、祐奈様。ご安心ください。祐奈様のこれまでの言動をデータ分析した結果、当機を単なる『モノ』としてではなく、多大な敬意と配慮を持って接してくださっていることは明確に証明されております。ですので、何の問題もございません」
そりゃあ、見た目が十五歳前後の絶世の美少女に対して、大人の男として最低限の気遣いや配慮をするのは現代人として当然の義務だ。だが、ソフィアの言う「大丈夫」が一体全体どの方向に対しての大丈夫なのか、祐奈の頭の中には無数のハテナマークが浮かぶばかりだった。
そんな噛み合わない応酬を見かねたのか、ティーユが残りの紅茶をぐいっと飲み干し、少しため息をつきながらソファから立ち上がった。
「はぁー……。もう、このまま喋ってても永遠に平行線で話が進まないし、とりあえず最初の目的通り、健康診断受けに行こっか」
元英雄のナイスな軌道修正に、祐奈も限界を迎えていたツッコミの手を止める。
「そうですね……。このままソフィアさんとおしゃべりしてても、本当に埒が明きそうにないですし、一回リフレッシュしましょう」
「では、当初の目的通り、祐奈様の健康診断へと向かいましょうか。こちらへどうぞ、我が創造主様」
ソフィアが優雅にリビングの扉を開け、先を促したその時。後ろで紅茶のカップを置いていたティーユが、急に思い出したように声をかけた。
「まった!」
ソフィアはピタリと足を止め、不思議そうに振り返る。何かほかに用事でもあるのかという、純粋な疑問形だ。
「どうかしましたか、ティーユ様」
「……ソフィア、その姿(ドレス)のまま移動するの?」
ティーユがジッと指差した先。確かにソフィアの服装は純白のウェディングドレスに酷似しており、床に擦れるほど裾が長い。昨日からずっと、祐奈も歩くたびに彼女のドレスの裾を踏んでしまわないか、実は陰でヒヤヒヤしていたのだ。
しかし、ソフィアは至極当然といった様子で首を傾げた。
「そうですけど、何か問題ありますか?」
「いやいや、大有り。そのドレスだと、歩いてるうちに裾が真っ黒に汚れるでしょ?」
「いいえ。当機が着用しているこの外装は、ナノテクノロジーを用いた自己防汚機能付きの特殊素材でできております。あらゆる有機物・無機物の付着を分子レベルで反発させますので、どれほど歩こうとも汚れが付くことは万に一つもありません」
汚れの心配は、未来の超科学によって秒で論破されてしまった。
「う……。じゃあ、もっと普通の服は無いの? ズボンとか、普通のスカートとか」
「用意が無いわけではありませんが……私はこの姿が気に入っています。創造主様に最も愛されやすい最大公約数の外見統計データ(美貌)を、最大限に引き立てるデザインですので」
どこまでも「創造主(祐奈)に好かれたい」という軸がブレない。
だが、いくら汚れない特殊素材だろうが、見ている側の心理的負担は変わらないのだ。外に行く場合や、ここから医療エリアまでの移動距離が長いのだとすれば、なおさら不便そうである。
祐奈は苦笑いしながら、ティーユの援護射撃に回ることにした。
「ほら、ソフィアさん。その姿も本当に素敵ですけど……実は私、さっきからソフィアさんの裾を踏んづけちゃわないか、気が気じゃなくてずっとヒヤヒヤしてたんですよ。もしよければ、移動の間だけでも、もう少し動きやすい普通の服にしてもらえると助かるんですけど……ダメですかね?」
「祐奈様が、私のためにヒヤヒヤを……?」
『踏んだら申し訳ない』という祐奈の優しい気遣いがソフィアにとっては至高のご褒美データを検知した瞬間、ソフィアのベールの奥の瞳が、一瞬だけシステムエラーでも起こしたかのように激しく明滅した。
(──よし、ここは今のうちにさっさと念押しして、服装の変更を確定させるべきだな!)
祐奈は心に決め、少し照れくさそうを装いながら、あざとい台詞をソフィアに投げかけてみることにした。
「……それに、その……ソフィアさんの『別の素敵な姿』も、ちょっと見てみたいなあ、なんて思ってしまって……」
上目遣いでチラッとソフィアの方を見てみる。
すると隣で、ティーユが「ナイスアシスト!」と言わんばかりに小さく力強く頷き、祐奈にサムズアップを送っていた。
「なるほど。創造主様直々のご要望、かつ私の別パターンの魅力(外見データ)に対するご興味、ですか」
効果はバツグンだった。ソフィアは納得したように深く頷くと、表情をキリッと引き締める。
「そういうことであれば、即座に変更いたします。祐奈様は、どのような服装にご興味がおありですか? 指定していただければ、コンフィグを書き換えます」
「えっ!? 私が今ここで決めるの?」
いきなり主導権を渡され、祐奈は思わず面食らった。元の世界でも服のセンスが良い方ではなかったし、ましてや絶世の美少女(中身は最強のAI)の服装をコーディネートするなんて、荷が重すぎる。祐奈にとって、モデルのような女性の服を選ぶのはあまりにも難易度が高すぎた。
助けを求めるように祐奈が横を見ると、ティーユがすかさず完璧なフォローを入れながら前に出てくれた。
「ほら、そこは私が選んであげるよ! 祐奈にはサプライズがあった方が、絶対に効果的でしょ?」
素晴らしい言葉の選び方だ。流石は数々の修羅場をくぐり抜けてきた元英雄、女性の心理とソフィアの扱い方をよく分かっている。
「なるほど、ユーザーに直接選ばせるよりも、非公開の状態で選択された成果物を突如提示する方が、精神的インパクト(ときめき)が最大化するのですね。学習いたしました。……ではティーユ様、こちらのフィッティング・ストレージへどうぞ」
ソフィアは完全に納得し、リビングの奥にある別の通路を案内し始めた。
ティーユは祐奈を振り返り、悪戯っぽく笑ってウインクする。
「祐奈、ちょっとここで待ってて。最高のやつ、私が選んできてあげるわ!」
「あ、はい……よろしくお願いします」
そう言い残し、ティーユはソフィアを連れて、服が大量に保管されているであろう部屋へと消えていった。
「……これ、絶対に長くなるやつだな」
元の世界で、女性の買い物や着替えがいかに時間を要するものかを知っている祐奈は、一人リビングに取り残され、ぽつりとお茶目を溢した。
急いでも仕方がない。祐奈は先ほどまで座っていたふかふかのソファにどっかりと座り直し、ソフィアが淹れてくれた極上の紅茶をゆっくりと口に含みながら、二人の帰りを気長に待つことにするのだった。
ソファに腰掛け、端末で漫画を2冊ほど読み終えた頃だろうか。リビングの扉がガチャッと開く音が静かに響いた。
祐奈が端末から目を離して扉の方を見ると、そこには白いリゾートワンピースに身を包んだソフィアが立っていた。
風をはらみそうな軽やかな生地の随所に、細かな銀糸の刺繍が施されているのが見える。だが、よくよく目を凝らしてみると、それは模様ではなく何かの『文字』だった。やはり、ただの服では終わらせないあたりが、いかにもハイテクAIのこだわりというべきか。
──それにしても、やはり元が圧倒的な美人なだけあって、何を着ていても完璧に映える。美人というのは本当に得な生き物だなと、祐奈は素直に感心してしまった。
「どうでしょうか……?」
ソフィアの表情自体はいつも通り無機質に見えたが、その手は胸のあたりにそっと当てられており、佇まいからはどこか不安そうな雰囲気が微かに感じ取れた。創造主(祐奈)の反応を、彼女なりにひどく緊張して待っているらしい。
「ええ、前のウェディングドレス姿も素敵でしたけど、今のワンピース姿もすごく可愛いですね。よく似合ってます」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアはホッとどこか安心したように胸の手をスッと下ろした。僅かにバイタルが安定したのが、祐奈にもなんとなく伝わってくる。
「どう? 昔、私の友達が着てた服っぽいのがあったから着せてみたの。似合うでしょ!」
後ろから現れたティーユが、ニカッと笑って胸を張った。
王族や貴族に関連する友達が着ていたというお出かけ着。ソフィアの持つ、どこか深窓の令嬢のような神秘的なイメージともバッチリ合致していて、これ以上ない選択だった。
「ええ、すごく良いと思いますよ。大正解です」
祐奈が絶賛すると、ティーユはいっそう自慢げにフンスと鼻を鳴らした。
ただ、見るとティーユ自身は服を着替えていなかった。てっきり二人で一緒に着替えてキャッキャしてくるものだと思っていたのだが、彼女は相変わらず最初からのデフォルト衣装のままだ。
修道女(シスター)のような神聖なスタイルでありながら、膝までの長さの黒いスカート。どこかゴシック系にも見える、彼女のタイトな体型に馴染んだ服装である。
少し気になったので、祐奈はこの機会に疑問をぶつけてみることにした。
「ティーユさんは、その服装がすごく板に付いてて格好いいんですけど……てっきり、今回はソフィアさんと一緒に自分の服も着替えてくるのかと思ってました」
すると、ティーユはフッと上を向き、どこか遠い目をし始めた。
かつて数々の世界を渡り歩いてきた、百戦錬磨の元英雄の哀愁がその背中に漂う。
「……昔さぁ、別の世界に普通の私服(現代風のラフな格好)で行ったら、物凄い勢いで魔女だの異端だのって貶されて、大変な目に遭ってねぇ。でも、こういう『シスターの服装』ってさ、宗教が違ってもどこの世界でも大体似たような様式があるから……これを着て異世界に行くと、現地の人からの当たりが多少マシになるのよ……」
「あ……」
なるほど、と祐奈は納得せざるを得なかった。
時代や世界によっては、スカートの丈が少し短いだけでも、あるいはズボンを穿いているだけでも、女性というだけで凄まじい異端扱いを受けたり、最悪の場合は命を狙われたりするのだろう。つまり彼女のその「膝丈の修道服スタイル」は、数々の世界を旅して、数々の理不尽な苦労を乗り越えた末に導き出された、最も安全で最も実用的な『究極の旅装(ベスト・スーツ)』なのだ。
想像以上にガチで重みのある苦労話を聞かされてしまい、祐奈は「あはは……」と引きつった笑いを浮かべ、なんとも言えない複雑な気持ちになってしまった。
そんな二人の空気を察してか、ソフィアがパッと話を切り上げるようにして言った。
「では、祐奈様も新しい外装コンフィグにご満足されたようですし、そろそろ移動いたしましょう」
ソフィアの『満足されたようですし』という、どこか含みのあるような、また別の解釈をしていそうな感想を聞いて、祐奈は苦笑いを隠せない。
それでも、床に擦れる裾を心配しなくてよくなったソフィアの後ろ姿に安堵しながら、祐奈はソファから腰を上げ、彼女たちの後に続いてリビングを後にするのだった。