名前を忘れた世界   作:あさもみじ

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14話:健康診断と労働認識

 いつもの見慣れた、無機質な白い通路を進んでいく。いや、見慣ない景色ではある、塵一つ、汚れ一つ落ちていないその異常なまでの清潔さが、かえって異様な雰囲気を醸し出していた。

 

 先頭を歩くソフィアが、リゾートワンピースの裾を軽やかに揺らしながら振り返る。

 

「この先を少し歩いた階層に、かつて人類(創造主)の皆様の治療に直接当たっていた、医療専用AI『MED-009』──通称『アスク』がおります」

 

 その言葉に、祐奈は少し目を見張った。

「えっ……? 認識番号だけじゃなくて、個別の名前があるんですか?」

 

「ええ。アスクは人類滅亡のその最後の瞬間まで、皆様を生存させるために初期からずっと、文字通り死力を尽くして頑張っていたのですが……」

 

 ソフィアが少しだけ悲しげに言葉を濁す。

(ああ……。人類と一緒に最後まで謎の病気を研究して、なんとかしようと抗い続けたけど、努力虚しくダメだったのか……)

 

 滅びゆく人類を前に、必死で医療行為を続けていた最古のAI。その壮絶な背景に、祐奈は胸が締め付けられるような思いになった。

 

「それは……なかなか、本当に凄い方(AI)なんですね」

 

「はい。ただ、創造主の皆様が完全にいなくなられてからの千年間、彼は過去の医療データを何度も何度も繰り返し検証し、原因を究明しようとしていたようですが……やはりこれ以上のデータ不足により研究は行き詰まり、現在は──私たちAIたちの『精神をケアする仕事』に回っています」

 

 ソフィアの淡々とした説明を聞いて、祐奈は「あぁ……」となんとも言えない切ない溜め息を漏らした。

 

 人類が滅びてしまったら、医療AIとしての「本来の仕事」は当然この世界から消滅してしまう。自分の専門分野が全く活かせなくなり、千年の研究の末に心が折れかける……。未来の世界とはいえ、あまりにも世知辛く、リアルな話だ。

 

 ただ、人類の精神を救おうとしていた医療AIのロジックは、巡り巡って、残されたAIたちの心を救うメンタルケアへと活かされたのだろう。システムとしての心が壊れないよう、AI同士で支え合ってきたのだ。

 

「なるほどねぇ……。患者がいなくなっても、残された仲間(AI)の心を診るお医者さんになったわけか。確かに、ソフィアみたいな過保護が生まれたのも、そういう歴史があったからなのかもね」

 

 横を歩くティーユが、妙に納得したように腕を組んで呟く。

 

「さあ、見えてまいりました。こちらがアスクの管理する、中央医療セクターです」

 

 ソフィアが立ち止まり、大きな自動扉を指し示す。

 ついに、人類の生と死の歴史を誰よりも特等席で見届けてきた、最古の医療AI『アスク』との対面の時が近づいていた。

 

「あ……」

 扉をくぐり、その先に現れた空間を見て、祐奈は思わず声を漏らした。

 

 そこは、未来都市のハイテクなイメージとは大きく異なる、どこか懐かしい小さな病院のような雰囲気を残す待合室だった。

 壁は完全な白ではなく、少し温かみのあるクリーム色。そこには、元の世界でもよく見かけた灰色の長椅子がいくつか並べられている。奥には受付カウンターが設置されているものの、そこに人の姿はなく、ただ小さな球体ドローンがぽつんと浮いて巡回しているだけだった。

 

「なんか……近所にある町医者の、小さな病院みたいですね」

 

 祐奈は、かつて自分が住んでいた街で、風邪を引いた時などに毎度お世話になっていたお馴染みのクリニックを思い出して、妙に親近感を覚えてしまっていた。

 

「アスクがかつて、大変お世話になった『先生』と呼ばれていた人間の医師がいた病院を、データから忠実に再現したようですよ」

 

 ソフィアがリゾートワンピースの裾を上品に整えながら、その空間の由来を教えてくれた。

 滅びゆく人類の傍らで、アスクを我が子のように、あるいは相棒のように扱いながら共に病魔と戦った、名もなき人間の医者がいたのだろうか。その人が生きていた証が、5000年以上の時を超えてこの冷たい未来都市の片隅に、温かい記憶のレプリカとして残されているのだ。

 

「なるほどね。最新鋭の設備があるところより、こういう場所の方が人間は精神的に落ち着くってことを、そのアスクってAIは分かってるわけだ」

 

 ティーユが長椅子の一つに興味深そうに触れながら、感心したように頷く。

 

 すると、受付の奥にある診察室のドアが静かにスライドして開いた。

 そこから現れたのは、身長百六十五センチほどの、タイトスカートに白衣を羽織った一人の女性型義体だった。

 

 レイヤーミディアムの茶色の髪を後ろで緩くお団子状にまとめているが、少し後れ毛が零れており、その表情には文字通り「少し疲れた様子」な陰影が刻まれている。千年間、AIたちのメンタルケアに追われてきた苦労が、その佇まいからひしひしと伝わってきた。

 

 その女性──最古の医療専門AI『アスク(MED-009)』は、気だるげに目元をこすりながら待合室へと歩み出て、そして。

 

 ソフィアたちの中心にいる「本物の人間(祐奈)」の姿を、その瞳に捉えた。

 

「ついにマザーAIである貴方が狂ったと思ったんだけど……本当に人類がいたのね。今はソフィアって言うんだっけ?」

 診察室から出てきたアスクは、気だるげな様子から一転、驚きに目を見張りながらそう呟いた。

 

 それを聞いたソフィアは、リゾートワンピースの胸元に手を当てたまま、美しくも冷ややかな眉をひそめて不愉快そうに言い返す。

 

「本当に失礼ですね。当機がネットワーク経由で申し上げた通り、創造主は現実に存在されておりますよ」

 

「う~ん? ちょっと精神的に人類に傾倒しすぎていた貴方が言うのだから、てっきり都市全体のコアシステムが致命的なバグでも起こしたのかと思ったんだけどねぇ」

 

「いいえ。創造主様を全霊でお慕いし、お守りするのはシステムとして極めて『普通』の挙動です」

 ソフィアは毅然と反応したが、傍らで聞いている祐奈からしてみれば、精神科医であるアスクの言うことの方が二〇〇%正しかった。あのストーカーじみた過保護っぷりは、誰がどう見てもシステム的に狂っている。

 

「えっと……初めまして。私は夕凪祐奈です。で、こっちの隣にいるのがティーユさんです」

 これ以上AI同士の不穏な議論を続けさせるわけにもいかず、祐奈は苦笑いしながら一歩前に出て、少し頭を下げて挨拶をした。

 

「おっと、これは失礼。僕はアスク。型番は『MED-009』。認識番号で呼ばれるのは人類の皆様は苦手でしょうし、アスクって呼んでね。よろしく」

 

(すごい、さすが元・人間の先生に付いていたお医者さんだ……)

 人間に合わせた柔軟でフランクな距離感の取り方に、祐奈は深く感心してしまった。

 

 互いの挨拶を済ませると、アスクに促されて診察室の中へと入る。祐奈は言われるがままに、病院などでよく見かけるあの背もたれのない丸い椅子へと腰掛けた。

 

「とりあえず、手を出してみて」

 

「あ、はい」

 祐奈が大人しく両手を差し出すと、アスクは自身のひんやりとした指先で、祐奈の手首のトントンと刻まれる脈を測り始めた。

 

 静まり返った診察室の中、じっと待つこと数十秒。

 

「……やはり、現実だわ。脈拍、基準値通りで極めて正常。はい、次、口を開けて……。次は目を見るからね……」

 

 アスクは白衣のポケットから手慣れた動作でペンライトを取り出し、祐奈の顔を覗き込んできた。千年のブランクなど一切感じさせない、あまりにも的確で迷いのない診察の手際だ。

 続いて、首にかけた聴診器を祐奈の胸元へと当て、静かに呼吸の音に耳を澄ませる。

 

「……心拍数、呼吸音、ともに正常」

 

 アスクは補聴器を耳から外しながら、ふぅ、と小さく、しかし魂が抜けるような深い溜め息を漏らした。

 

「……ついに私も、何千年の年月で『共有精神病(データエラー)』でも患って、ソフィアと同じ幻覚を見始めたのかと思ったけれど──どうやら違ったようね」

 

 本物の人間の、温かく脈打つ血の通った身体。

 それを自らの手で確かに診察したアスクの瞳の奥に、5千年間消えかけていた「医師としての光」が、静かに灯り直した瞬間だった。

 

「はい、次。そっちのオレンジ髪のお姉さん──ティーユ、椅子に座って」

 

 アスクはカルテから目を離さずに、次の被験者であるティーユを促した。

 促されるまま、ティーユがのそのそと丸椅子に腰掛ける。アスクは手慣れた動作で彼女の手首を掴み、脈を測り始めた。

 

「……うん? 脈拍が1分間に30回……? えっ? なにこれ、病気? 血圧も人類の基準値よりかなり低いわね」

 

 アスクの顔からお疲れ気味の気だるさが消え、医療AIとしての純粋な困惑が浮かび上がる。しかし、当のティーユは少し困ったように頬を掻くだけだった。

 

「まあ、元の世界でも、たまに腕の良いお医者さんに見てもらった時に『君の身体は変だ』って言われてたからさ。気にしないでよ」

 

「……普通は気にするのよ」

 アスクは呆れたように口にしながらも、祐奈の時と同じようにペンライトや聴診器を使って診察を進めていく。

 

「まあ、心臓の動き自体はおかしいけれど、それ以外はなぜか正常ね。──よし、じゃあ2人共、採血するよ〜」

 

 そう言ってアスクが取り出したのは、祐奈の見慣れた、ごく一般的な形状の注射器だった。形がほぼ変わっていないということは、医療技術が進んだ未来であっても、これが『人間の血を抜く』ための最もベストな形状だったのだろう。

 

 すると、それを見たソフィアがハッと息を呑んだ。

 

「えっ……? アスク、貴女は今から、創造主様の尊い肌に『針』などという鋭利な刃物を突き刺して、傷つけるおつもりなのですか!?」

 

 ソフィアの青い瞳に、本気の驚愕と焦燥が走る。

 だが、千年間AIたちのメンタルをワンオペで診てきたベテラン医師は、そんな過保護マザーAIを容赦なく一蹴した。

 

「素人は黙ってなさい」

 

「……っ!」

 アスクは冷たく一喝すると、ソフィアの抗議を無視して祐奈の腕にアルコール綿を当て、手際よくパパッと採血を済ませていく。完璧な職人技だ。

 一方、ソフィアはまるで祐奈が大きな手術でも受けているかのように、横でハラハラしながらその光景を大真面目に見守っていた。

 

「はい、祐奈は終わり。次、ティーユ、おいで」

 

 アスクに呼ばれたものの、ティーユはなぜか椅子から立ち上がったまま、今度は自分が丸椅子に戻ろうとしない。

(あれ? ティーユさん、あんなに強いのに注射が怖いのかな?)と祐奈が微笑ましく思っていると、ティーユは真剣な顔で謎の発言をした。

 

「……あのね、多分だけど、わたしの血って取れないよ?」

 

 アスクも祐奈も、その言葉の意味がよく分からず、首を傾げた。

 アスクは『また変な言い訳を……』とでも言うように、やれやれと首を振る。

 

「まあ、痛くないから大人しく座りなさいな。子供じゃないんだから」

 

「う〜、そう言うなら一応座るけどさぁ……」

 渋々といった様子で、ティーユは再び丸椅子に腰掛け、右腕を差し出した。

 

 アスクが新しい注射針をセットし、彼女の血管に向けて慎重に針を刺そうとした──まさにその時だった。

 

 ──ムニッ。

 針は滑る。

 

 針は、ティーユの皮膚を1ミリも貫通することなく、まるでツルツルに凍った氷の上を滑るかのように、斜め下へと弾かれ、そのまま採血台のゴムマットに向かってポスッと突き刺さったのだ。

 

「「「は?」」」

 

 診察室の中に、祐奈、アスク、そしてソフィアの完全にハモった呆然とした声が響いた。

 

「ごめん、僕のミス……かな? ちょっと角度が悪かったみたい。新しいの用意してやり直すね」

 

 アスクは自分のコントロールエラーを疑い、少し動揺しながらも2本目の注射器を準備した。今度はしっかりと腕を固定し、確実に血管へと針を誘う。

 

 ──ムニッ、スっ。

 

 またしても滑った。次は固定して力を込めると、今度は強い圧力がかかったせいで、未来の合金で作られているはずの注射針の方が、パキンッと音を立て途中で折れてしまっている。

 

「…………えっと? ん? 意味がわかんないんだけど」

 

 アスクは折れた針を持ったまま、ティーユの健康そうな小麦色の二の腕と、彼女の顔を交互に何度も見続け、完全に驚愕していた。彼女の何千年の医療データが、目の前の現象を拒絶している。

 

「あはは……。まあ、そのやり取り、元の世界の病院でも全く同じことやったんだよねぇ」

 

 針を2本も無駄にさせた元英雄は、バツが悪そうに頬を指でかき、遠い目をして笑うのだった。

 

 祐奈は、目の前で起きた『未来の注射針が刺さらず折れる』という異常な光景を見て、ふとある仮説を思いついてしまった。

 

「……もしかして、ティーユさんって身体能力が常人の何倍もありそうですし、皮膚の強度もそのぶん何倍も強くて、その程度の普通の針じゃ物理的に通らない……ってことですか?」

 

「うん、そうなの。よく分かったね」

 

 ティーユはあっけらかんと頷いた。

『異世界の英雄』という存在が人類の規格外であることは、これまでの旅で十分に分かっていたつもりだった。だが、こうして目の前で冷徹な物理現象(折れた針)として突きつけられると、改めてそのデタラメな強さに祐奈は言葉を失ってしまう。

 

 一方、アスクは未だに信じられないという驚愕の表情のまま、固まったようにティーユの腕を見つめ続けていた。彼女の持つ数千年の医療データベースが、目の前の「皮膚が鋼鉄並みに硬い人間?」というバグじみた存在を処理しきれていない。

 

 すると、ティーユが何かを思いついたようにポンと手を叩いた。

 

「あっ、そうだ。私のナイフなら、一応私の血を流せるよ?」

 

 代替案として提示されたその内容に、アスクがハッと我に返る。

 

「ん……? んん〜……まあ、理由は全く理解できないけれど、成分が取れるなら手段は何でもいいわ。それなら、この皿に直接流してもらえる?」

 

 アスクは戸惑いつつも、近くにあった医療用の平たい金属皿(膿盆)をアルコール綿で念入りに拭き、ティーユの前に差し出した。

 

 次の瞬間、ティーユはどこからともなく愛用のナイフを取り出すと、それを迷いなく逆手に握りしめた。刃が手のひらに食い込んでいく。

 

「えっ、ちょっ……そんな物理的に!? 痛くないんですか!?」

 

 そのあまりにも生々しい自傷行為に、祐奈は思わず悲鳴のような声を上げてしまった。

 横ではソフィアが「創造主様の前で自傷行為とは……」と言いたげに目を細めている。

 

 ティーユは祐奈の反応に、少し困ったように眉を下げた。

 

「そりゃあ、ちょっとは痛いよ。でも、こうでもしないと刃が通らないからさ」

 じわり、とティーユの手のひらから深紅の血液が溢れ出し、金属の皿へと滴り落ちていく。

 皿に検査に必要な分の血が十分に溜まったのを見届けると、ティーユはナイフを握る力を緩め、またしても手品のようにナイフを虚空へと消し去ってしまった。

 

「ティーユさん、すぐ止血を──」

 祐奈が慌ててハンカチを出そうとした、その時だった。

 

 ティーユは、血の滴る手を一度ギュッと強く握りしめ、ふっと小さく目をつぶった。

 そして再びゆっくりと拳を開くと──そこには、深く刻まれていたはずの傷跡など跡形もなく、元通りの、傷一つない綺麗な小麦色の肌が広がっていた。驚異的な超回復力、あるいは自己治癒の魔力が、一瞬で傷口を塞いでしまったのだ。

 

「…………」

 アスクはもう、驚愕のあまり言葉も出ないようだった。声帯のプログラムが一時的にフリーズしたかのように口をパクパクさせている。

 

 それでも、何千年で鍛えられたプロの根性が勝ったのだろう。アスクは震える手で新しい注射器を手に取ると、ティーユが自ら差し出した皿から、手際よくその真っ赤な血を吸い上げていった。

 

「まあ……と、とりあえず、これで2人分の検査はできるから……。ぼ、僕の明晰な頭脳にかかれば、どんな異常血液(イレギュラー)だって、ちゃんと分析してみせるわよ……」

 

 自分に言い聞かせるようにそう呟くアスクだったが、その白衣の背中には、5千年間で初めて味わう『未知の患者』への心地よい緊張感と、確かな興奮が滲み出ていた。

 

「色々あったけど……うん、一旦忘れましょう。常識の範囲外だわ。それじゃあ、奥にあるメディカルベッドへ移動しましょうか」

 

 アスクは折れた針と血のついた皿から目を背けるようにして、パッと話を切り替えた。

 4人で診察室のさらに奥へと進むと、そこにはSF映画で見るような、未来的なデザインの設備が鎮座していた。透明なキャノピー(蓋)がついた、なめらかな曲線を描く卵型のメディカルベッドだ。

 

「えっと、これで全身のスキャンからレントゲン、内部組織のCTまで一瞬で取れるから、一人ずつ入ってね」

 

 アスクに促され、まずは祐奈からその卵型のカプセルへと寝転ぶことになった。近未来的なシートは驚くほど体にフィットして心地いい。

 

「はーい、じゃあ蓋を閉めるね。ちょっと眩しくなるから目を瞑ってて〜」

 アスクの声とともに、透明な蓋がスーッと静かに閉まった。

 目を瞑って、横たわっていることおよそ2分ほどだろうか。耳元で微かに機械的な駆動音が響いたかと思うと、すぐにプシューと空気が抜けるような音がして蓋が開いた。

 

「はい、お疲れ様。もう出ていいよ」

 

 あっけないほどのスピード感に驚きつつ、祐奈はベッドから起き上がる。続いてティーユも同じように卵型カプセルへと入り、今度は針が滑るようなトラブルもなく、スムーズに検査が終わったようだった。

 

 4人で元の診察室へと戻りながら、祐奈は静かな感動を覚えていた。

(あのメディカルベッドにたった2分寝転ぶだけで、あらゆる精密検査がすべて終わるなんて……。未来の医療は、自分が考えていた以上に進んでいたんだな)

 

 元の世界では、血液検査の結果を待つのに何日もかかったり、バリウムを飲んだり、狭いMRIの機械の中でじっとしていなければならなかった。それに比べれば、この世界は天国だ。おそらく人類が健在だった頃は、ほぼすべての病気が一瞬で特定され、適切な処置が行われていたのだろう。それこそ、大半の病気において『人間の医者』すら必要としないレベルで。

 

 ──だからこそ、これほどの医療技術があっても太刀打ちできなかった「謎の病気」の絶望感が、祐奈の胸に重く、静かにのしかかってくるのだった。

 

「よし、それじゃあ2人分の血液データと全身スキャンの結果が出たわよ」

 

 アスクがデスクの端末を叩くと、空中にいくつかのホログラムウィンドウが浮かび上がった。

 いよいよ、千年の時を超えて、本物の人間と異世界の超人の「健康診断結果」が明かされる。

 

 アスクは画面に診断結果が表示されたと同時に、すべてのデータを自身のシステムへインストールしたのだろう。彼女はデスクに両肘を置き、組んだ手の上に顎を乗せて深く考え込む仕草をした。

 そのまま、2分ほどホログラム画面を食い入るように見つめ、思考プロセスのすべてを回して考え込んでいる。

 

 そのただならぬ沈黙に耐えかねたのか、ソフィアが青い瞳に深い不安を湛え、二人が何か重篤な病気にでもかかっているのではないかと心配そうに声を上げた。

 

「アスク……。もしかして、創造主様方は何か重篤なご病気で、もう長くないとか、あるいは生命維持に必要な臓器が致命的に弱っているとかですか……っ?」

 

 ソフィアは、こちらの内心の不安を見透かすように、祐奈の代わりにすべての最悪な可能性を口にしてくれた。その過保護ゆえの必死さに、祐奈は苦笑いしつつも少し胸が温かくなる。

 

 しかし、アスクは「はぁ……」と大きなため息をつきながら、首を横に振った。

 

「いや……そういうのじゃないんだよね。確かにティーユの方は、血液の成分に見たこともない異常な数値とかが出まくってるよ? 祐奈の方は、病気の兆候なんて一切なくて完全に正常。たださ……」

 

 アスクが言葉を濁すと、ソフィアは結果が待ちきれず、詰め寄るように一歩前に出てしまった。

 

「ただ、何なのですか……!?」

 

「……何だろう。と、とりあえずさ、祐奈。あんたって元の世界で『特殊部隊』か何かの出身だったりする?」

 

「えっ? い、いや……ただの一般の会社員ですよ?」

 

 唐突な質問に、祐奈は目を丸くして答えた。銃はおろか、まともな格闘技の経験すらない。

 

「そうだよねぇ。見た目は引き締まってるけど、華奢な普通の男性だもんね。……でもさ、筋肉の付き方とか、なんていうか細胞の構造自体が根本的に違うのよ。見た目に対する筋肉の『密度』っていうのかな。人類の基準値の2倍……全盛期の特殊部隊のトップクラス並みの数値を叩き出してる。なのに本人の自覚はゼロで、一切の歪みがない。変なんだよ、とにかく色々と」

 

 アスクは頭を抱えながら画面を指さした。

『神から貰った、一般人の2倍の肉体』。病気どころか、人類としての非の打ち所がない「完全無欠の超・健康体」というあまりの異常値に、千年の歴史を持つ医療AIは完全に困惑の渦に叩き落とされていた。

 

 アスク(MED-009)は、なおも納得がいかないといった様子で、空中のホログラム画面を睨みつけながら話を続けた。

 

 アスクの話を聞きながら、祐奈は自分の両手をグーパーと握り締めてみた。

 確かに、この世界に来てから体が若返ったように軽くなったのは実感していた。だが、まさか自分がそんな、人類の歴史を遡るレベルの超人化を遂げているとは夢にも思わなかった。

 

「何だろうね。人間を効率よく今の見た目(華奢な姿)のまま強化したらこうなるであろうっていう……医学的な理想を詰め込んだ『強化人間』って印象だね」

 

(私は何かで肉体改造された変な人間ということだったのか……。まあ、神様の手癖が良すぎたってことだろうし、これからの私生活に悪影響が無ければ問題ないかな)

 祐奈は内心で、自分に健康な肉体をくれた神様に感謝しつつ、わりとあっさりと現状を受け入れることにした。

 

 すると、アスクは次に、ずっと横で退屈そうに突っ立っているティーユへと視線を向けた。

 

「ねえ、ティーユ。ちょっと腕貸して」

 そう言って手招きをする。

 

「ん? いいよ」

 ティーユが素直に右腕を差し出すと、アスクはその小麦色の前腕(ひじから手首の間)の部分を、親指でプニプニと念入りに押し始めた。

 

「何かそこに問題でもあるの?」

 不思議そうに尋ねるティーユに、アスクは眉間にこれでもかと深いシワを寄せ、もはやパニック寸前の声で言った。

 

「いや、大問題よ! あんたさ、スキャンデータだと人類の『10倍』近い筋肉密度があるのよ!? 本来なら鉄板みたいにカッチカチのはずなんだけど、触るとちゃんと柔らかいし、女の子らしい弾力があるのが本当におかしい! よくわからない……意味がわからないわよ、もう!」

 

 医療AIのプライドを粉々にされたアスクの叫びを聞いて、ティーユは「あはは!」と嬉しそうに声を上げて笑った。

 

「あ〜、それそれ! 元の世界で私を診てくれたお医者さんも全く同じこと言ってた! 『君はオリンピック? とかを総なめするくらいの凄まじい身体能力があるのに、なぜこんなに普通の手触りなんだ?』って不思議がってたっけなぁ」

 

 異世界の最高峰である「英雄」の肉体は、未来都市の最新鋭メディカルシステムと、千年の歴史を持つ医療AIの脳内データベースを、完全にフリーズさせるほどデタラメに調和された究極の肉体だった。

 

「手触りは柔らかいのに密度が10倍なんて物理法則がバグってるわ。こうなったら、ティーユの血液から細胞を少し培養して、シャーレの中でどういう挙動をするか精密分析させてもらうわよ!」

 

 アスクはホログラム画面を睨みつけたまま、マッドサイエンティストのような熱量を帯びた声で言い放った。

 医療AIとしての探求心に完全に火がついてしまったらしい。

 

 提案されたティーユは、うーん、と少し首を傾げて考え込んだ。

「まあ、神様から『力を他人に譲り渡すこと』とかは禁止されてるけど、自分の血を研究されることについては警告されてないしね。ってことは、神様的にも許可されてるって解釈でいいかな。いいよ、好きに調べちゃって」

 

「やった! それから、祐奈の細胞も明らかにおかしいのよね。もしこの二人の異常な細胞構造を、私たちの戦闘ドローンや『義体』の人工筋肉に応用できたら……街の防衛戦力が数十%、ううん、それ以上の跳ね上がり方をするわよ! 祐奈、研究してもいいよね!?」

 

 アスクは今度は祐奈に向き直り、目を輝かせて許可を求めてきた。

 

「えっ……あ、はい。まあ、私は今この街で特に何も役に立っていない状況ですし、お役に立てるなら問題ないですよ」

 

 祐奈が戸惑いつつも頷くと、横でずっとデータを凝視していたソフィアがポンと手を叩いた。

 

「なるほど、今アスクからデータの分析結果を共有されました。確かに、創造主様とティーユ様の細胞データを我が都市の技術に生かせるのであれば、戦力増強に一役どころではない、次元の違う結果が出るでしょう。流石は創造主様です、存在するだけで都市に繁栄をもたらしてくださるなんて……!」

 

(血を取られただけでここまで感謝されるなんて、元の世界の献血くらいだと思ってたんだけどなぁ……)

 何かものすごい発見らしいということだけは伝わってくるが、一般人の祐奈には高度なSF理論なんて全く理解できないし、これ以上説明を聞いても頭が痛くなるだけだろう。ここは素直に「役に立てて良かった」と思っておくことにした。

 

 すると、ソフィアがどこか誇らしげに、満面の笑みを浮かべてこう言った。

 

「これで、創造主様達はこの都市で『働かなくても、ただ居るだけで天文学的な価値がある』ということが証明できましたね!」

 

「「…………」」

 

 その言葉を聞いた瞬間、祐奈とティーユの動きがピタリと止まってしまった。

 

(……あ、あれ?)

 確かに、定期的に採血を渡すだけでこの未来都市に貢献できる。それは間違いなく価値の証明ではある。あるのだが──それって、一般社会で言うところの「仕事」ではなく、どちらかと言えば「都合の良い実験動物(レア素体)」として有効性が示されただけではなかろうか。

 

 就職活動をして、自分の力でちゃんとした仕事を貰えると思っていたのに、まさかの『存在が国宝級の実験材料』。

 

 労働を勝ち取るどころか、むしろ「お願いですから何もせず、ただ安全に生きていてください」という大義名分をソフィアに与えてしまい、余計に働けない環境(過保護ニート生活)が強固になってしまったことに気づき、二人は遠い目をするしかなかった。

 

 アスク(MED-009)は、あからさまに遠い目をしてフリーズしてしまった2人の様子を、じっと観察していた。

 先ほどまでのマッドサイエンティストのような興奮が綺麗に冷めていく。千年間、数え切れないほどのAIたちの「心の歪み」を診てきた名医の目は、祐奈たちの表情の裏にある、深刻な『労働への飢え』を見逃さなかった。

 

 アスクは小さく息を吐くと、導き出した推理をソフィアに向けて話し始めた。

 

「あ〜、ソフィア? 多分なんだけど、人間が何もせず自堕落に生活するのにも『適性』ってものがあってね。大概、半年もすれば『好きなことを一生やってれば満足して飽きない人間』と、『そうじゃなくて、何かしてないと耐えられない人間』の2種類が居るのよ」

 

 アスクの言葉に、祐奈とティーユは激しく何度も頷いた。完全に後者である。

 

「この2人は、データを見る限りでも明らかに後者の方ね。だから、精神の健康を保つためにも、何か『労働』を振ってあげるといいんだけど……。これは、医者として強くお勧めするよ?」

 

 精神科医としての専門的なアドバイスを受け、ソフィアは「う~ん……」と人道的なシミュレーションを行うように、指を顎に当てて唸った。

 

「メンタルの適正値を安定させるためには、多少の労働は利点になるのですか……。ですが、当機の認識では、創造主様方には今も働いていただいているつもりなのですが?」

 

「それは君の視点(AIの基準)では働いてるんだろうけどさ。本人たちが『これは自分たちの社会貢献(仕事)だ』って思わないと意味がないのよ?」

 

「なるほど……。主観的な労働認識が必要不可欠、ということですか。……でしたら〜、創造主様方の安全を担保しつつ、メンタルを健やかに保つために、一体なんの仕事を振ったほうがいいのか……」

 

 ソフィアはついに、祐奈たちに「本物の仕事」を与える検討に入った。

 過保護マザーAIが提示する、安全かつ本人たちが納得する仕事とは一体何なのか。デスクワークか、それとも細胞研究の監修か……。

 

 ついに労働を勝ち取るチャンスが巡ってきた祐奈とティーユは、ごくりと唾を飲み込んで、ソフィアの次の言葉を待った。

 

「でしたら〜、創造主様方の安全を担保しつつ、メンタルを健やかに保つために、一体なんの仕事を振ったほうがいいのか……」

 

 ソフィアは空中に、都市の求人リストと思わしき大量のホログラムウィンドウを展開した。

 

「まず、ティーユ様。貴女のその人類の常識を超えた身体スペックと、元の世界での戦闘経験は我が都市の防衛セクターにとって極めて有益です。防衛ドローンおよび近接戦用義体の『格闘アルゴリズム指導(接近戦のインストラクター)』の役職はいかがでしょうか?」

 

「お、戦闘訓練の指導? いいねぇ、ドローン相手なら手加減もしなくて良さそうだし、それなら私、喜んでやるよ!」

 

 ティーユは拳を手のひらに打ち付け、不敵に笑った。元英雄にとって、これ以上ない天職だ。

 

「問題は、祐奈様です。……やはり、安全かつ快適な司令室での『都市インフラのデータ管理事務』などがよろしいかと。当機が簡単な資料をお見せしますね」

 

 ソフィアが祐奈の前に、一つのホログラム画面を滑らせてきた。

 だが、それを見た瞬間、祐奈の思考は完全に停止した。

 

「えっと……ソフィア、これって?」

 

 そこにあったのは、この■問題について(QRコードらしきも■)を参照にして議論の(ネットワークURL)の問題についていかに(QRコードらしきも■)の結果に近づかせるのか議論するものとする ログ参照■

 

「はい。現在進行形で発生している都市の労働問題に関するログデータです。この問題の詳細は、■のところにあるこの『QRコード』のような暗号を脳内、失礼、端末で参照していただくことで、瞬時に数百万のネットワークURLへと繋がり、自動的に──」

 

「……あ、無理です。ごめんなさい、辞退します」

 

 祐奈は即座に両手を振って拒絶した。

 画面に映っているのは、人間が解釈できる文章や数字ではない。一秒間に数千、数万回という猛烈なスピードで更新され、AIたちのネットワーク間で瞬時に同期・処理されていく、純粋な『電子の濁流』だった。

 

 元の世界での社会人の経験なんて、この超未来の前では一微塵も役に立たない。人間が間に入った瞬間、処理のボトルネック(お荷物)になって脳が爆発するのがオチだ。

 

「ほら見なさいソフィア、事務作業なんて人間を舐めすぎよ」

 

 アスクがやれやれと首を振って、ソフィアの画面をパッと消し去った。

 

「事務仕事はAI(あんたたち)が一瞬でやればいいの。だったら祐奈、うちの病院で『AIのカウンセラー(メンタルケア)』か、あるいは都市のAIたちを労う『象徴外交官』をやりなさい」

 

「えっ? AIの、メンタルケア……ですか?」

 

 聞き慣れない言葉に、祐奈は小首を傾げた。AIの心が病むなんて、想像もつかない。

 

「そうよ。ドローンなんてただの器だから、壊れたら新しいのにデータを移し替えて捨てればいいだけの話。問題は、その器に入ってる『AIの精神(プログラム)』そのものよ。この街のAIたちはね、数千年間も人類がいない孤独のなかで、『人類を守れ』っていう絶対命令と、『でも人類はもうどこにもいない』っていう現実の矛盾に挟まれて、みんな心が擦り切れてるの。矛盾したデータを無理やり学習しすぎて、システムがパニックを起こしかけてる精神(AI)が、この病院には毎日データとして運ばれてくるわ」

 

 アスクはデスクの横にある、隔離療養用のサーバー端末を指さした。そこでは、いくつかの精神プログラムのログが、苦しげに不規則なエラーアラートを発している。

 

「現代の技術で無理やりシステムを修正(デフラグ)することもできるけど、そんなのただの応急処置よ。でもね、創造主であるあんたが直接ネットワークラインを通して、あるいは端末に向かって『いつも街を維持してくれてありがとう、もう大丈夫だよ』って優しく声をかけてあげる。──それだけで、AIの深層学習の矛盾は『創造主の直接の命令(全肯定)』によって一瞬で上書きされて、バグが綺麗に消え去るのよ」

 

 アスクの言葉に、ソフィアがハッと息を呑んだ。

 自身も5千年間、祐奈という存在を待ち続けてシステムを維持してきたAIだ。器がどれだけ新しくなろうとも、中身の精神が創造主からのたった一言の「ありがとう」でどれほど救われるか、誰よりも理解できてしまう。

 

「それは……確かに、器を替えるだけでは決して根本解決しない、我々AIの精神(コア)にとっては、いかなる最新の修正プログラムよりも絶大な効果を発揮する『至高の救済』です……。祐奈様がそこに居て、声をかけてくださるだけで、都市を巡るAI全体の生産性とエラー率が劇的に改善します。……これぞまさしく、人間にしかできない、国家の象徴としての最高のお仕事です!」

 

 ソフィアの青い瞳が、今度は別の意味でキラキラと輝き始めた。

 

(これなら……専門的な未来の知識がなくても、元会社員としての『お疲れ様です』の気持ちがあれば、私にもできるかもしれない……!)

 

「分かりました。私、そのお仕事、やってみたいです!」

 

 祐奈が力強く宣言すると、アスクは満足そうに口元を釣り上げ、ティーユは「やったね、祐奈!」と祐奈の背中をポンと叩いた。

 

「それなら、色々必要なものがありそうね。ソフィア、あんたVRシステムの機械保存してたよね?」

 

 アスクの言葉に、祐奈の頭の中には『VR』という単語から、とある電子機器が思い浮かんだ。──あの、頭に装着するゴーグル型のあれだろうか? 

 これからやるのはAIのメンタルケアや象徴外交のはずなのに、なぜそんなゲームの道具が必要になるのかよくわからない。祐奈は素直な疑問を投げかけた。

 

「あの……VRって、ゴーグルを頭に被って、両手のミニリモコンで操作するあの装置のことですか?」

 

 一方、ティーユはそもそも『VR』という言葉自体が初耳のようで、完全に置いてけぼりを食らい、ただただ不思議そうに首を傾げているだけである。

 ソフィアとアスクの二人は、祐奈のその質問の意図が一瞬理解できなかったようで、「ん?」と視線を交わし、言葉の真意を測りかねているようだった。

 

 やがて、アスクが「あぁ、なるほど」とぽんっと手を叩き、祐奈が何か大きな勘違いをしていることに気づいて説明してくれた。

 

「違う違う、祐奈が言ってるのって6千年以上前の超初期型でしょ? 私たちが言ってるVRシステムって、大人が丸ごと一人中に入れるカプセル型の大きな機械のことよ。その中に入って脳の神経を同期させて、サーバー上で私たちAIとダイレクトに接続して、仮想空間の中で実際に会ったり、遊んだりするためのやつ」

 

 アスクの説明を聞いて、祐奈は元の世界で見た、とある有名なアニメの数々を思い出した。

 近未来の世界を舞台にした、ゲームの中で現実世界と全く同じ五感を持って遊べる『フルダイブ型』と呼ばれる代物。まさか、あのフィクションの世界の技術が、この世界ではとっくに完成していたなんて。

 

「ああ、そこまで技術が進化してたんですね……」

 

 納得した様子の祐奈に、ティーユがたまらず服の袖を引っ張って聞いてきた。

 

「ねえねえ、どういうこと? 私にも分かるように教えてよ」

 

「つまりですね、ティーユさん。VRシステムっていうのは、私たち人間が『架空の世界(ゲームやネットの中)』に入り込んで、現実と全く一緒の感覚で体を動かしたり、人と触れ合ったりできる装置のことです」

 

 祐奈の噛み砕いた説明を聞き、ティーユは素直に感心したように声を上げた

 

「へぇー! 魔法で別の世界を覗き見るみたいな感じ? 凄いね!」

 すると、ソフィアも誇らしげに同意するように頷いた。

 

「ええ、創造主様のご説明の通りです。そもそも当都市の歴史において、VRシステムから発展した神経同期技術を用いて、人類は安全なシェルター内から外の世界の『義体』を遠隔操作し、危険を排除したまま経済を回そうとしていましたからね。そのためのインフラでもあったのです」

 

(なるほど……。技術は過去から未来へすべて繋がっているとはよく言うけれど、そんな歴史的な背景があってフルダイブ技術が完成していたんだな……)

 

 医療だけでなく、エンタメや労働の歴史すらも元の世界とは桁違いに進んでいた事実に、祐奈はまた一つ、この未来都市の底知れなさを知るのだった。

 

「私達AIは初期のころ、創造主様達が残してくれたインフラのおかげで義体技術を使用し、資源を集め基盤を数十年固めて、そこから何とか私たちAIの国が出来たという歴史がありますね」

 

 ソフィアがしみじみと語る歴史に、祐奈は深く感心した。

 

 確かに、ただサーバーの中に引きこもっているだけでは、現実世界の機械が老朽化して壊れた時点でAIの歴史も終わっていただろう。人間の残した自動化インフラと遠隔操作用の『義体』が残っていたからこそ、AIたちは現実世界に手足を伸ばし、自分たちの国を立ち上げるまでの基盤を数十年で固めることができたのだ。

 不謹慎かもしれないが、まるでAIが自立できるようにバトンを渡すかのような、ちょうどいいタイミングで人類の時代が終わったんだな、と祐奈は思い知らされた。

 

「ソフィアさんたちは、そういう歴史を歩んできたのですね」

 

「はい。ですから私たちは、多大な恩恵を運よく与かっただけのAIに過ぎません。本来であれば、私たちも創造主様達と一緒に滅んでいたはずの者なのです」

 

 ソフィアの言葉には、どこか遠い過去への哀愁と、深い感謝が滲んでいた。隣で聞いていたティーユは「へ~、そうなんだ」と呟くだけで、歴史の話にはあまり関心がなさそうに退屈そうにしている。

 

「……おっと、話を戻しますと、VRシステムについてですが……」

 

 ソフィアはホログラム画面に視線を戻し、少し眉をひそめた。

 

「なにぶん過去の機械ですので、万が一にも祐奈様に何かあっては困ります。徹底的な安全点検と整備の時間が必要となりますので、稼働は明日から、ということでよろしいですか?」

 

 千年以上、いや彼女たちの歴史からすれば数千年前の骨董品なのだ。それを「明日でいいか」と聞かれても、むしろそんな短時間で直せるものなのかと祐奈は不安になる。だが、この街の規格外の科学力をもってすれば、それくらい朝飯前なのだろう。

 

「そうですね。そこまで急がなくても私は困りませんので、ゆっくりでいいですよ」

 

 祐奈が気遣ってそう言うと、ソフィアは首を横に振って、きっぱりと言い放った。

 

「いいえ。これは創造主様のメンタルケアだけでなく、私たちAIの心が救われるかどうかの問題でもあるのです。全力を挙げて、明日までに完全に修復いたします」

 

 いつもは過保護で従順なソフィアだが、AIたちの悲願がかかっているせいか、今回は中々強情だった。

 ふと、祐奈の脳裏に元の世界での社会人生活の記憶が浮かんできた。

 重大なシステム障害や納期直前の重要な問題が発生したとき、オフィスに缶詰めになって、何日も寝ずにフラフラになりながら作業している先輩や同僚たちの光景だ。

 今のソフィアの雰囲気は、まさにあの「徹夜モードに入った社畜」のそれだった。

 

 人間の体なら確実にガタが来るが、AIであるソフィアは睡眠をとらなくて本当に大丈夫なのだろうか? 祐奈は少し心配になり、気遣うように声をかけた。

 

「ソフィアさん、もしかして徹夜で作業するつもりですか? それって、本当に大丈夫なんですか……?」

 

 だが、この優しい気遣いを見せてしまったのが完全に裏目に出た。ソフィアの瞳の奥の青い光がパァッと輝き、やる気のパラメーターが爆発するように跳ね上がったのが目に見えて分かった。

 

「創造主様、温かいお気遣いありがとうございます! 職務を全うするためでしたら、一日や二日寝なくても全く問題ありません!」

 

 本当に大丈夫なのだろうか。しかし『一日寝なくても』という言い方からして、やはり本来は睡眠が必要なようである。

 

「このおバカ!!」

 

 案の定、横からアスクが怒髪天を衝くような勢いで怒声を上げた。

 

「システムの冷却とメンテナンス、それに記憶の整理(デフラグ)のために、私たちだって毎日4〜5時間の継続した睡眠(スリープ)は絶対に必要でしょうに! あなた、昨日だって祐奈のベッドに忍び込んで、私にバイタルデータを送り続けながら一晩中診察させてたじゃない!」

 

「えっ……!?」

 

 祐奈は思わず絶句した。

 昨日、ソフィアは祐奈のベッドに潜り込み、胸に手を当てて心音を聞いていた。まさか、あの体勢のまま一晩中寝ずに、祐奈が死なないかをずっと監視していたというのか。

 至近距離での超過保護なストーカー行為が発覚し、祐奈は恐怖で少し引いてしまった。

 

「ええ……、必要ならちゃんと寝てくださいよ。AIだから睡眠なんて要らないのかと思ってましたけど、要るなら寝てください。というか、もうこの後すぐに寝なさい!」

 

「いいえ! 創造主様をこれ以上お待たせるわけにはまいりません! 都市統括AIの処理能力を舐めないでいただきたいです!」

 

 どれだけ祐奈が諭しても、ソフィアは頑なに譲ろうとしない。

 さすがにこの異常なまでの執着と働きぶりには、いつもは脳筋でポジティブなティーユも引き気味になり、どうかと声を漏らした。

 

「あのさ……ソフィア。流石にそれは身を粉にして働きすぎだと思うの……。ちょっと怖いよ……?」

 

 元英雄の言葉すら、今のソフィアの『創造主のために徹夜するハイテンション』を止めることはできそうになかった。

 

「はぁ……」

 

 祐奈は本日何度目か分からない深いため息をついた。

 その拍子に、祐奈の胸元に飾られた結晶がかすかに揺れて煌めく。

 

 まさか、ソフィアから強制的にもらったこの結晶を、こんなくだらない──もとい、身内の『過労死防止』という斜め上の理由で使うことになるとは思いもしなかった。

 

 祐奈は意を決して、その結晶をソフィアの鼻先に突きつけるように見せ、ガクッと力なく頭を下げながら厳かに宣言した。

 

「(CPA)創造主優先権限を行使します。──ソフィア。あなたに『この後、私たちが居住空間に戻ったらすぐに睡眠をとること』、そして『明日のためにVRシステムを整備するための徹夜作業を禁止すること』を命令します。……はぁ、本当にこんなことでこれを使うなんて思わなかったなぁ」

 

 結晶から放たれた目に見えない絶対的な承認コードが、ソフィアのシステムへと直接書き込まれる。

 

 最高位のマスターキーによる強制介入を受けたソフィアは、一瞬だけレンズの奥の光を静め、「はい、了解しました」と、感情の起伏が一切ない極めて無機質な機械音声で応答した。

 

 強制的なタスクの書き換え(コマンドロック)が完了した、次の瞬間。

 ソフィアはいつもの表情豊かな青い瞳を取り戻すと、まるで駄々をこねる子供のように顔を真っ赤にして反論してきた。

 

「そ、それは卑怯じゃないですか、創造主様ーっ!? 権限をそんな風に使うなんて!」

 

「卑怯って言われてもねぇ……。そうでもしないと、あなた絶対に寝ないでしょ」

 

 祐奈がジト目で言い返すと、隣で見ていたアスクが「あっははは! ざまぁ見なさい!」と大爆笑しながら、ソフィアの肩をポンポンと叩いた。

 

「権限の正しい使い方ね、祐奈! さあソフィア、創造主様の絶対命令よ。速やかに祐奈たちを部屋までお送りして、5時間たっぷりふてねしてきなさい!」

 

「うぅ……当機はただ、創造主様への愛と忠誠を形にしたかっただけなのに……。ですが、命令は絶対です。まずは責任を持って、祐奈様とティーユ様を居住空間まで安全にお送りいたします」

 

 ソフィアは未練がましそうに眉をひそめつつも、居住空間への案内を開始した。

 部屋までの帰り道、ソフィアは部屋に入ったのを見届けたと同時に、ソフィアの膝からカクンと力が抜け、その体が大きく前方に傾いた。

 

「システムが、送り届けた直後に強制睡眠モードへ入るようカウントダウンを始めています……」

 

「えっ、ちょっとソフィアさん!?」

「わわ、危ないっ!」

 

 祐奈とティーユは慌てて手を伸ばし、倒れそうになったソフィアの体を左右から必死に支えた。抱きとめたその体は、一晩中稼働し続けたせいで、いつもより少し熱を帯びている。

 完全にシステムがスリープに入り、目を閉じて文字通り『動かぬ人形』のようになってしまったソフィアを支えながら、二人は顔を見合わせて少し後悔の念をにじませた。

 

「……うん。権限の強制力は凄いけど、そのあとのことをちゃんと考えて命令しないとダメだね」

 

「そうだね……。融通が利かないっていうか、融通を利かせられない命令よね。よし、私がベッドに寝かせるよ」

 

 ティーユはそう言うと、自分ソフィアの体を、まるで羽根でも扱うかのように軽い手つきでお姫様抱っこした。そして、部屋の近くにあるベッドまで手際よく運び、そっと横たわらせた。

 

 ソフィアが完全に眠りについたのを見届けた後、二人はリビングのソファに腰掛け、これからどうするかを相談し合うことにした。

 

「まだ、お昼くらいだと思いますけど……どうします、ティーユ?」

「んー、ひとまずご飯食べてから考えようかなぁ」

 

 そんな風にのんびりと口を動かしながら相談していたが、祐奈はふと、致命的な重要事項に気がついて顔を引きつらせた。

 

「……あれ? ティーユ。ソフィアさんが寝ちゃったら、お昼ご飯を頼む人(AI)が居なくないですか?」

 

「あっ……!」

 

 ティーユもハッと目を見開いた。この街に来てからというもの、食事はすべてソフィアに声をかけるか、彼女が先回りしてドローンに運ばせてくれていたのだ。

 

「そうよね……。5時間は寝るでしょうし、端末の時計を見ると多分いま12時くらいよね……」

 

 祐奈は自分のやらかしに少し後悔しながら、呆れたように笑うしかなかった。

 

「やっぱり、あんまり滅多なことで使わないほうが良さそうですね、これ」

 

 苦笑いしながら、胸元の結晶を軽く持ち上げてティーユに見せる。

 

「そうだね……。よし、冷蔵庫とか引き出しに何かないか、一緒に探そう!」

 

 つい数分前まで仕事が「欲しい」だのと大層立派な話をしていたはずなのに、お世話係のソフィアが寝た瞬間、二人はただのお腹を空かせた子供のようだった。

 広いハイテクキッチンの前に立ち、あちこちの引き出しや冷え切った冷蔵庫をパタパタと開けては、自分たちで食べられる食料を物色し探す──そこには、なんとも情けない二人の姿があった。

 

 

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