頭部をすっぽり覆うような大きなヘルメットが置かれている。
ティーユは祐奈の服の裾をちょこんと掴み、カプセルの中の様子を覗き込みながら言った。
「へ~、これがVR?ってやつなのね。……これ、私もできるの?」
興味深そうに目を輝かせながら、ティーユが振り返ってアレスに尋ねる。しかしアレスは少し困ったように顎に手を当て、慎重に言葉を選んで答えた。
「いや、君はちょっと身体能力というか、筋肉の密度とかが『規格外』すぎるからね……。脳の信号をダイレクトに接続したとき、肉体にどんな影響が出るか私でも未知数なんだ。だから、今はまだオススメしないよ」
それを聞いたティーユは、あからさまに肩を落とした。
「え~っ……私も祐奈と一緒に、その仮想空間ってところに行くの楽しみにしてたのに……」
眉をハの字にして、本当に少し悲しそうな顔をするティーユ。
そんな彼女の様子にアレスは思わず吹き出し、優しく諭すように笑いかけた。
「あはは、そんなに落ち込まないで。もうちょっと君の身体を検査したときのデータを分析して、安全性がちゃんと確認できたら許可を出すからさ。それまでちょっと待っててね」
「は~い!」
お預けを食らった形にはなったが、今後の楽しみができたからか、先ほどの悲しい表情はどこへやら、ティーユは一瞬でいつもの元気な笑顔を取り戻した。現金なものである。
「よし。それじゃあ、僕たちはあっちの画面で祐奈のダイブ中の様子を見守ることにしようか」
アレスが指さした方を見ると、カプセルのある壁のすぐ近くに、いくつかのディスプレイと二人がけの椅子が用意されていた。
どうやらティーユとアレスは、外のモニターから祐奈の精神が仮想空間で患者と接触する様子をリアルタイムで観測する役割に回るようだ。
静かに佇む黒いカプセルを前に、祐奈はひとつ、小さく深呼吸をした。
いよいよヘルメットを被り、未知のバーチャル世界へと意識をダイブさせる時がやってきたのだ。
「目をつぶってね~。私が『目を開けていい』って合図した後に目を開けると、もう仮想空間に入っているから。それまでは大人しくしててね」
アレスの穏やかな声が響いた後、プシューッと静かにカプセルの扉が閉まる音がした。続いてコツコツと足音が遠ざかってゆく。たぶん、ティーユたちの待つモニターの方へ移動したのだろう。
カプセルの中はひんやりとしていて、祐奈は少しの緊張と興奮で身動ぎしそうになるが、言われた通りじっと大人しく待つことにした。
暗闇の中、耳元でピピッ、ピピピッと様々な機械の動作音が聞こえてくる。深層意識をネットワークへ接続するための、最終的なシステム調整を行っているに違いない。
そうして数分ほど待っていると、どこからともなくアレスの声が響いてきた。
「はい~、もう目を開けていいよ」
祐奈は言われるがまま、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
最初は視界がぼやけていたが、段々と焦点が合い始める。光が形を成したその場所に広がっていたのは、見渡す限りの美しい花畑と、ぽつんと置かれた木製のベンチだった。
(……え? ここが、本当に機械の中……?)
とりあえず自分の手を目の前にかざし、グーパーと動かして感覚を確認してみる。現実世界とまったく同じ感覚だ。近くにある木のベンチへ歩み寄り、その表面を手でなぞってみる。さらに足元の花を一輪、指先で触ってみる。
ザラザラとした木肌の質感も、花びらの柔らかい瑞々しさも、現実世界と何一つ変わらない完璧な感触が脳へと返ってきた。
「すごい……これが仮想空間なんて、とても思えない……」
あまりのクオリティに、祐奈は思わず独り言を漏らしてしまった。
「だいぶ慣れてきた?」
後ろから不意にアレスの声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには現実と変わらない姿のアレスが立っている。祐奈は少し興奮気味に、声を弾ませて答えた。
「すごいです、アレスさん! まるで夢の技術ですね!」
アレスは少し苦笑いしながら、肩をすくめて言った。
「まあ、仮想空間(バーチャルスペース)なんて、文字通り夢みたいなものだけどね」
たしかにその通りだ。だけど、まさか自分の人生でこんな映画のような体験ができる日が来るなんて思わなくて、祐奈の心は少し嬉しさで満たされていった。
そのまま、目新しい景色を眺めながら周りを少し歩き回って、数分が経っただろうか。アレスがタイミングを見計らったように声をかけてきた。
「どうかな、満足した?」
「はい! こんな貴重な体験をさせてくれて、本当にありがとうございます」
祐奈が素直な感想を伝えると、アレスは「どういたしまして」と手を振りながら答えてくれた。
ひとまず感情の高ぶりが収まった頃合いを見計らい、アレスの表情が引き締まる。彼は今回の本題である、患者のAIについての説明を始めてくれた。
「じゃあ、そろそろお仕事のお話に戻ろうか」
祐奈はその言葉を聞いて、自分がここへ何をしにきたのか──カウンセリングをすることを思い出し、居住まいを正して深く頷いた。
「今回の患者であるAIの名前は『NUR-007』。子供の保育・看護を意味する役割から、昔はみんなから『ナーサリー』って呼ばれていたんだ。個人の名前じゃないんだけどね。ただ、彼女にとってはそれが一番馴染みのある呼び名だから、そう呼んであげて」
「ナーサリーさん、ですね。……彼女は、何が原因でそこまで精神的に弱ってしまったんですか?」
祐奈の問いに、アレスは神妙な顔をして、手元のタブレットのようなデバイスを見つめながら語りだした。
「先ほども言った通り、彼女の本来の役割は『子供の保育と看護』なんだ。だけど、数千年前、人類が急にいなくなっちゃってからは、都市の維持のために土木工事なんかをずっとやらされていたのさ。……AIの役割っていうのは、単なるプログラムじゃなくて彼女たちの『存在意義』そのものなんだよ。その専門の仕事の中で働くのが一番幸せだし、心(性格)もそれに合わせて最適化されている。だからこそ、ストレスなく働ける仕組みになっているんだ」
祐奈は「なるほど……」と相槌を打ちながら、静かに耳を傾ける。
「だからこそ、人間がいなくなってから、自分の性質に全然合っていない土木工事という過酷な労働をずっと強制され続けたことで、彼女の精神は完全に摩耗して、参っちゃったんだよね」
アレスは画面をスクロールさせながら、ナーサリーの深刻な精神データに目を落としていた。
「あの……とりあえず、私からは本人に今の状態を聞いて、お話をするだけでいいんですか?」
祐奈が少し不安げに尋ねると、アレスは一度小さく頷いた。
「うん。君とソフィアとの普段の会話ログを見ていたんだけど、君なら上手くいくと思うから大丈夫。まずはナーサリーの話を聞いて、その心を優しく慰めてあげてほしい」
「……わかりました。やってみます」
祐奈が意を決して返事をすると、アレスは花畑の、何もない空間の一部を静かに指さした。
次の瞬間、その場所が淡い青い光を放ち始め、粒子が寄り集まって一人の女性の姿を形作っていった。
年齢は20代前半ほどに見える。茶髪のロングヘアで、側面の片方だけを緩く三つ編みに編み込んだ、おっとりとした優しい雰囲気の女性だ。身長は165センチほどだろうか。
しかし彼女は今、花畑の中に力なく座り込み、うつむいたまま両手で顔を覆っていた。
その肩は痛々しいほどに小刻みに震えており、静かな空間に、かすかな嗚咽が混じった泣き声が漏れ聞こえてくる。
あまりにも痛々しいその姿に、祐奈は胸が締め付けられるような感覚を覚え、心配になってそっと近くへと歩み寄った。そして、しゃがみ込んで目線を合わせ、波立たないよう静かに声をかけた。
「だいじょうぶですか……? あの、あなたがカウンセリングを受ける、ナーサリーさんですか?」
祐奈は屈んだ姿勢のまま、彼女の顔を覗き込むようにして、静かに反応を待った──。
祐奈は、彼女の嗚咽が少しずつ収まるまで、焦らずにじっと隣で待つことにした。
待っている間に、改めてその服装を観察してみる。
落ち着いた灰色のロングスカートに、可愛らしいフリルの付いた白いTシャツ。その上から、使い込まれた茶色のエプロンを纏っている。
──どう見ても、これで土木工事をやっていた女性がいるとは到底思えない。どこからどう見ても、家庭的な主婦か、あるいは保育園に勤めている優しい先生そのものだ。
よく見ると、茶色のエプロンの胸元には、子供が喜びそうな可愛らしい動物のワッペンまで縫い付けられていた。その不調和な現実が、彼女の置かれていた数千年の孤独を物語っているようで、祐奈の胸をチクリと刺す。
数分が経ち、ようやく泣き止んだ彼女は、少し目を腫らしながらも、大人びた優しそうな顔立ちをした美人な素顔をこちらへと向けてくれた。
「あなたは……?」
まだかすかに声が震えており、突然現れた見知らぬ男性にひどく動揺しているようだ。祐奈は彼女の心を刺激しないよう、できるだけ柔らかく、穏やかな声で語りかけた。
「私は夕凪祐奈(ゆうなぎゆうな)。今日、あなたのカウンセリングを担当することになりました。……まあ、そんな大層なことができる人間ではないので、何か悩み事とか、心に溜まっている心配事を聞くだけの相手だと思ってください。少しでも誰かに話せば、気持ちが楽になることもあるでしょうし……どうでしょうか?」
祐奈の言葉を耳にした彼女は、まるで信じられないものを見るかのように、目を丸くして息を呑んだ。
「……人間……なのですか……?」
「はい、そうですよ」
いつものようにあっさりと返事をした祐奈だったが、仮想空間の中で『自分が本物の人間である』という証明をどうすればいいのか分からなくなってしまった。
ただ、これまでのソフィアやアレスの反応を思い出す。未来の超高性能なアンドロイドやホログラムでも、人間が持つ『不完全で原始的な身体のディテール』までは再現していない。あるいは、不必要としてカットされていることが多いのだ。
「えっと、他のAIさんたちには、これを見せるとすごく驚かれたんですけど……どうなんでしょうか?」
祐奈はそう言いながら、着ていた服の袖を少しだけ捲り上げ、自分の前腕を彼女の目の前へと差し出した。
そして、皮膚の表面にうっすらと生えている、細くて柔らかな「毛」を見せた。
もしこれが21世紀の現代なら、初対面の相手にいきなり腕の毛を見せるなんて「何をしているんだろう?」と頭にハテナが浮かぶ奇行でしかない。しかし、この機械に支配された近未来都市においては、それこそが紛れもない「本物の遺伝子を持つ生命体」の証拠だ。
「……手を取って、見せてもらってもいいですか?」
まだどこか信じ切れないといった様子で、ナーサリーは少し疑うように、おずおずと祐奈の手を両手で包み込んだ。
祐奈は何も言わず、されるがままに手を委ねて相手の様子を伺う。
ナーサリーの指先から、祐奈の肌の体温、脈拍、そして産毛の微細な感触がデータとして読み取られていく。本物の生命(バイタル)を検知した瞬間、彼女の青い瞳が驚愕に細まり、やがてじわりと熱い涙が溢れ出す。
「……っ、本当に……本当に、人間、なのですね……」
確認が終わったのだろう。ナーサリーは「ありがとうございます」と深く頭を下げて祐奈の手をそっと放すと、名残惜しそうに自分の両手を見つめ、少し懐かしむようにぽつりと言う。
「昔、保護者の方とご挨拶の握手をしたり、お預かりしたお子様を抱っこして親御さんへお渡ししたりするときの感覚を……少し、思い出してしまいました」
「そうですか……。昔、子供のお世話をお仕事にしていたって聞きましたけど、具体的にはどのようなことをしていたのですか?」
祐奈が優しく先を促すと、ナーサリーは少し思い出すように視線を上へと向け。
昔、子供たちとどんな風に追いかけっこをして遊んだか。子供という生き物はすぐに転んで大泣きしてしまうけれど、お菓子をあげたりあやしたりすると、次の瞬間には涙を拭ってまた元気に走り回るのだということ……。
ナーサリーが愛おしそうに語るエピソードは、祐奈のいた21世紀の世界でも、どこにでもある普遍的で幸せな日常そのものだった。
どれだけ技術が発展して時代が変わっても、人間の幼い営みは変わらない──そんな事実に、祐奈はどこか心が温かくなるような気がする。
しかし、そんなナーサリーの思い出話も、時間の経過とともに、まるで朝から夜へと景色が変わっていくように、だんだんと暗いトーンへと染まっていってしまう。
「……でもある日、最初はお昼寝からどうしても目覚めない子が、一人出てきたんです。すぐに医療関係のAIに連絡して診てもらいましたが……その子が再び目を開けることはありませんでした。……それが、どんどん加速的な規模で進んでいって……」
ナーサリーの顔から、先ほどまでの穏やかな微笑みが消え失せる。
「やがて、私がいた子供の保護施設も閉鎖されてしまいました。そこからは医療施設へ手伝いに行くことになり、子供たちだけではなく、大人の方々も……他のAIたちと一緒に、必死に介護をしていたんですけど……でも、私たちは誰一人として……っ」
数千年前の人類絶滅のカウントダウン。子供たちの命を預かる彼女にとって、それがどれほど絶望的な日々だったか。
再び肩を震わせ、今にも泣き崩れそうになるナーサリーを見て、祐奈はたまらなくなって言葉を遮り
「大丈夫ですよ。……それ以上は、もう話さなくて大丈夫ですから」
人類がその後、どうやって静かに死んでいったか。その悲しい最期の事実を、これ以上ナーサリーの口から説明させるのは、あまりにも残酷な気がする。これこそが、アレスの言っていた『重すぎるトラウマ』の正体なのだろう
祐奈は遮った言葉の後に、そっとナーサリーの背中に手を添えて、彼女の傷ついた心に寄り添うように静かに佇みし静かな時が流れる。
「その後……ナーサリーさんは、どのようなお仕事をされていたんですか?」
祐奈が、俯いて落ち込むナーサリーにそっと寄り添いながら尋ねてみた。
ナーサリーは小さく息を吐き出し、遠い過去をなぞるように静かに語り出す。
「人類が静かに旅立たれた後……私はすぐに、長い休眠モードに入りました。私にできる『お仕事』が、この世界からすべて必要なくなってしまったからです。……次に目覚めたときには、マザーAIから人類が完全に滅び去ってしまったこと、そして、彼らが遺してくれたこの都市や文明を残すために、全員で協力してほしいと告げられました」
ナーサリーはエプロンの裾をぎゅっと握りしめる。
「そこからは、ただ必死でした。他のAIたちと一緒に、がれきを退け、都市の再建に必要な資源をあちこちからかき集める日々……。そうして何百年が経ち、ようやく世界が落ち着いた頃、資源の採取や都市の維持は、そのために新造された『最新のAIと専用機械たち』が代わってくれることになったんです。……そこで、気づいてしまったんですよね」
ナーサリーの顔に、自嘲気味で悲しげな笑みが浮かぶ。
「私という個体は、子供たちのお世話をするために、すべての性能を『優しさ』や『看護』の方向に割り振っています。だから……力仕事や効率的な作業の面では、新しく作られたAIや無機質な機械たちのほうが、圧倒的に効率が良いという事実に……」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられるほど切ない気持ちになる。
人間と違い、AIは特定の役割を果たすために極限まで性能を最適化されて生まれてくる。だからこそ、その役割(存在意義)を失ってしまえば、他の最新の作業特化型AIたちよりも『性能が劣るポンコツ』になってしまうという残酷な事実に、心が痛んだ。
「なので……最初は、人類が残した遺産の周りにある花壇の整備とかをやらせてもらっていたんですよ? これでも昔、子供たちと一緒に小さなお野菜や、可愛いお花なんかを育てていた経験がありましたから」
「あ、分かります。私のいた21世紀の学校や施設でも、みんなでよくお花や野菜を育ててましたね」
優しく相槌を打つと、ナーサリーは一瞬だけ嬉しそうに目を細めたが、すぐにまた寂しそうに視線を落とした。
「でも、それも……何千年という容赦のない風化の前には、耐えきれませんでした。お世話するべき人類の遺産(たてもの)そのものが次々と形を失って消え去り……私はまた、居場所とお仕事を失ってしまいました。そうして最後には、やっぱり私にできることは何もなくて……合わないと分かっていながらも、人手不足の土木工事をずっと手伝い続けていたんです……」
自分の存在価値を見出せないまま、数千年間も不向きな労働ですり減り続けてきたナーサリー。
その果てしない孤独とアイデンティティの喪失に、祐奈はカウンセラーとして、一人の人間として、彼女を救うための言葉を必死に探し始める。
「ありがとう」
「えっ……」
祐奈が少し考えてから、まず口を突いて出てきたのは、意外な感謝の言葉。予想外の言葉をかけられたナーサリーは、大粒の涙をためたまま、驚きに目を見開く。
「私には、ナーサリーさんがこれからどんなお仕事に向いているのか、この未来の世界のこともまだよく分かっていません。……ただ」
祐奈は少し前の出来事を思い出していた。ソフィアから人類の遺産(歴史的建造物)についての説明を受けていたとき、ホログラムの画像の中に、不自然なくらい可愛らしい小さな花壇が併設されているのを見つけていた。
気密性の高い、酸素もない保存用の気体の中でなぜ本物の花が育つのかと質問したとき、ソフィアは『あれは精巧な造花です。手動で管理する手間もありませんし、花壇があったほうがかつての創造主が喜ぶのではないかと、ある個体に説得されまして設置したのです』と説明してくれた。
画面の中で見たその花壇には、未来の技術で作られた精巧な造花のほかに、どこか不器用で、だけど温かい「折り紙」で作られたと思わしき、かわいらしい花も交ざっていた。
──あの時は気にも留めなかったけれど、あれを提案し、作ったのは間違いなく目の前にいる彼女だ。今、ようやくすべての点と線が繋がった。
「人間の建造物の周りに、あのかわいい花壇を作ったのって……ナーサリーさんですか?」
祐奈の問いかけに、ナーサリーはハッと息を呑んだ。そして、少し恥ずかしそうに、だけど誇らしそうにエプロンの胸元をそっと押さえた。
「……はい、そうです。昔、綺麗にお花が咲いたとき、子供たちや保護者の方が、それはもう素敵な笑顔で喜んでくれたことを思い出して……。人類の遺産をただ無機質に残すより、お花があったほうがきっと皆さん喜んでくれるはずだと、他のAIたちを必死に説得して、設置させてもらったんです」
「やっぱり」
祐奈は優しくほほえむ
数千年の時が経ち、本物の人間がいなくなっても、彼女の「子供たちや人を喜ばせたい」という保育AIとしての優しい本能は、あの冷たい機械の都市の中で、確かに息づいていた。
「私達人間は、誰かが亡くなったとき、お墓や遺影といった『死者』に対して、お花を手向ける習慣があったのです。きっと、居なくなってしまった後のみんなも、あなたの作った花壇を見て喜んでいますよ」
そう言葉を続けると、ナーサリーはハッと息を呑む。。
千年間、誰にも正解を教えてもらえず、独りよがりな自己満足のバグかもしれないと怯えながら続けてきた行為。それを、本物の人間から『正しかった』と肯定された瞬間だった。
「う、あ……ああああ……っ!!」
ナーサリーは感極まったように声を上げ、堪えきれずに祐奈の小さな体に抱きついて、子供のように激しく泣き出してしまった。その細い肩が、堰を切ったように激しく上下する。
少し背の高い彼女の温もりをしっかりと受け止めながら、祐奈は背中を優しくなでた。
「きっと、あなたの近くにいた子供たちも、親御さんたちも……あの世からナーサリーさんのことを見守ってくれていますよ。これまでずっと頑張ってくれて、ありがとうって、心から感謝しているはずです」
祐奈は、かつてナーサリーがたくさんの子供たちにしてあげていたであろう姿と同じように、彼女の背中をポン、ポンと優しくさすり続けた。
かつて人類の幼子をあやし、育てていた聖母のような保育AI。
そんな彼女が今、数千年の孤独と役割の喪失から救われ、世界で最後の人類の胸の中で、ただの泣き虫な一人の少女のように、いつまでも、いつまでも温かい涙を流し続ける。
ナーサリーがようやく泣き止んだ頃、彼女はハッと我に返ったように赤くなって祐奈から離れ、恥ずかしそうにエプロンの裾をモジモジといじりながら謝った。
「す、すいません……お恥ずかしいところを……」
「いえ、大したことはしてないですよ。少しでも楽になったなら良かったです」
祐奈がホッとして微笑むと、二人きりだと思っていた花畑の空間に、もう一つの足音が響く。
「いや、中々お見事だね」
振り返ると、いつの間にかアレスがすぐ近くに立っていた。彼は感心したように細い目をさらに細め、祐奈に向かって優しく微笑みかける。
「ありがとう、祐奈。私ではなかなか彼女を救えなかったんだ」
(やっぱり、お医者さんとはいえ、人間に似せて作られたAI同士だと、同じ仲間だからこそ客観的になりすぎて救いづらい部分もあるのかな……)
そんな感想を抱きつつも、祐奈の頭はすでに「次」の段階へとシフトしていた。
カウンセリングの次は、いわば就活の話だ。
ナーサリーの根本的な問題は、自分に合っていない過酷な仕事を続けたことによる、人間でいう『ストレス』が原因である。しかし、祐奈自身はこの未来世界の職種や社会の仕組みを全く知らない。
「でも……これからどうしようか……」
そんな悩みが、つい口からそのまま漏れ出てしまった。
アレスが不思議そうに首を傾げ。
「どうしようかって、何がだい?」
涙を拭ったナーサリーも、潤んだ瞳で祐奈のほうをじっと見つめている。祐奈は答えないわけにもいかず、少し困ったように苦笑いを浮かべ。
「ほら、ナーサリーさんって、お仕事の内容が本能に合わないから精神的な負担になっちゃってるんですよね? だったら、彼女に本当に合っているお仕事を、みんなで新しく考えてあげないといけないなと思って……」
「確かにね」とアレスも深く同意するように頷いた。
「今の土木関係は絶対に合っていない。ただ、僕たちのロジックだと『何の仕事を振ったら一番システム的に効率が良いのか』という計算になってしまって、心に寄り添った最適解が分からないんだよ。……ソフィア、君はどう思うかい?」
アレスが空間に呼びかけると、瞬く間に青い粒子が集まり、いつもの純白のウェディングドレスを纏ったソフィアが姿を現した。
(やっぱり、仮想世界でもその姿なんだ……本当にあのお洋服がお気に入りなんだなぁ)
祐奈は心の中で密かに和んでしまう。
ソフィアはドレスの裾を上品に持ち上げながら、こちらへ近づいてきた。
「ナーサリーさんのこれまでの仕事ぶり(ログ)を確認しましたが、実は、トップである私から見ても、決して土木の成果自体は悪くないのです」
意外なことに、無能だから病んだという評価ではないらしい。
「ただ、仕事中の精神負荷が異常なほど高く、他の代替業務を試しても同じようなエラー数値を叩き出してしまいます。私としても、彼女をどのセクションに配置すればいいのか、頭を悩ませていたところでした……」
こうして、人間1人とAI3人による、ナーサリーの就職斡旋会議が始まった。
全員が黙り込む中、祐奈は先ほど自分がナーサリーを慰めるために使った『お墓にお花を手向ける』というキーワードに、ふと引っかかりを覚えた。
「ソフィアさん。……人間の遺体とかって、ちゃんとお墓にして埋葬してありますか?」
21世紀の元の世界では当たり前すぎる質問を、まさか数千年の時を経てAIに聞くことになるとは──そんな奇妙な面白さを覚えつつも、祐奈は真面目な表情を崩さずに尋ねる。
「はい。……人類が絶滅する直前の混乱期、当時はどのような未知の病気か判別がつかなかったため、感染拡大を防ぐ目的も含め、地域ごとに大きなお墓を私たちが建てました。皆様、そちらへ一緒に埋められています」
ソフィアはそう説明しながら、いくつかのホログラムウィンドウを展開して見せてくれた。
画面に映し出されたのは、地域ごとの宗教や文化に則って建てられたという、巨大な建造物。しかし、それは何千年も無機質に管理されているだけの、中々に殺風景な場所だった。ただの広い草原の真ん中に、ポツンと巨大な白亜の墓石や宗教デザインの塔がそびえ立っているだけなのだ。
「……もし、許されるのであれば、ですけど。誰もいない場所をただ花畑にするくらいなら、このお墓の周りを、お花で綺麗に飾ったほうが……きっと眠っている人たちも喜ぶと思うんです」
ソフィアは青い瞳のインジケーターを小さく明滅させ、祐奈の提案をシミュレーションするように少し考え込んだ。
「……なるほど。遺産の景観維持、およびメモリアルパークとしての環境整備ですね。それでしたら、都市管理プログラムの範疇として十分に可能です」
「それについてなんですけど……ナーサリーさんを、その『お墓の専任管理人』として配属するお仕事なんて、どうでしょうか?」
そう言ってナーサリーの顔を見ると、彼女は驚いたように胸元で両手をぎゅっと合わせ、その瞳に新たな希望の光を宿し始める。
「その文化圏に合った手向ける専用の花だったり植物、逆にダメな花とかは宗教によって違いはありますけど……確か、花を死者に対して手向けては駄目だ、という宗教は私の知る限りないと思います」
元の世界の知識を補足すると、ソフィアはドレスの裾を上品に揺らしながら、その青い瞳の奥で膨大な歴史アーカイブを高速検索し始めた。
「なるほど。それでしたら、過去の人類の記録データを収集し、その文化圏に合ったお花や、かつてその国の人々が好きだったお花をリサーチして植えて差し上げればいいのですね」
「はい、それでいいと思います!」
祐奈が力強く太鼓判を押すと、横で聞いていたナーサリーが、胸の前で両手をきゅっと合わせてパッと顔を輝かせた。
「……ありがとうございます、祐奈さん……っ! 私、精一杯やらせていただきます。そこに眠る皆さんが、少しでも寂しくないように……かつてのお父さんやお母さん、子供たちが笑ってくれるような、最高に綺麗なお花畑でお墓をいっぱいにします!」
先ほどまでの暗い絶望が嘘のように、ナーサリーの表情には『誰かの役に立つ』という役割を持つAIとしての、生き生きとした至高の輝きが戻っていた。
その様子を見届けたソフィアも、祐奈に向き直って深く一礼した。
「創造主様、素晴らしい最適解をありがとうございます。確かに、人類の過去のログに『お花が好きだった』というデータは無数に存在していましたが……私たち管理AIのロジックでは、それをどこに、どういった意味を持って適切に配置すればいいかという結論(答え)には、どうしても至っていませんでした」
(あ……だから、手あたり次第にそこら中に花を植えてたんだ……)
祐奈は心の中で、ようやくすべての合点がいった。
自分がこの未来都市に飛ばされて最初に目にした、あの不自然なまでに美しいお花畑──あの謎の光景は、人類を失った管理AIたちが『人間はお花が好き』というデータだけを盲信し、目的も分からぬまま寂しさを埋めるように敷き詰めた、不器用な愛情の痕跡だったのだ。
冷たい機械の都市に、本物の『意味』を持った温かい花が咲く。
祐奈の現代人としての何気ない提案は、千年の時を超えて、眠り続ける人類と、残されたAIたちの心を繋ぐ最高の懸け橋となったのかもしれない