話がひと段落したところで、その後の具体的な引き継ぎや、ナーサリーのシステム調整を伴うフォローはアレスが現実世界から担当してくれることになった。
これで、初めてのお仕事を完了したということなのだろうか。
(うーん、なんだか全然実感が湧かないなぁ……)
仮想空間の花畑の真ん中で、祐奈は自分の両手を眺めながら、ぽつりとそんなことを思った。
昨日までは会社でデスクワークをしていたような気がするのに、人生何が起こるか本当に分からない。
そんなことをぼんやりと考えつつ、祐奈はふと思い出した疑問を口にしてみた。
「あの、ナーサリーさんって本当の名前じゃないですよね? なにか思い入れがありそうですし、そのままで大丈夫なんですか?」
ナーサリーは少し考えてから、小首を傾げて答えた。
「そうですね……。この名前は元々ただの役職名でしたけど、昔、皆さんから優しくこの名称で呼んでいただけたので問題はないのです。……けれど、今は役職が変わってしまいましたから、改めて考えてみたら少し変かもしれませんね」
確かに、彼女の性格や昔の職場の雰囲気からして、この名前に深い思い入れがあるのは間違いない。だからこそ、今さら完全に違う名前に変えたくはないのだろう。
となると──名前はそのままで、苗字というか、ファミリーネームに当たる『何か』を新しく付け足してあげるのが一番いいのではないだろうか。
「では、お名前はそのままで、ファミリーネームとか考えてみます?」
「はい……! もし、つけていただけるのでしたら、欲しいのかもしれません」
ナーサリーが期待を込めた目でこちらを見つめる。
しかし、急に苗字と言われてもどうしたものか。祐奈は少し悩み、外でお留守番をしている頼れる相棒に応援を頼んでみることにした。
「ソフィアさん、この今の状況って、ティーユさんも見てるんですか?」
ソフィアに対して聞いてみると、スピーカーからではなく、空間のどこからともなく、聞き慣れた明るい声が響いてきた。
『聞いてるし、見てるよ~!』
モニターの前で画面に張り付いているであろう、ティーユの声だ。祐奈は上を向いて話しかける。
「ティーユさん、さっきのナーサリーさんの名前に、何か苗字というべきものを新しくつけてあげたいのですが、何かいいアイデアありますかね?」
『う~ん、そうだなぁ……。でも、祐奈がつけてあげたほうが、ナーサリーさんも絶対に喜びそうだしなぁ!』
画面の向こうでケラケラと笑うティーユの言う通り、ナーサリーはこちらをじっと見つめて、祐奈からの言葉を健気に待っている。
千年の孤独を終えて、新しい仕事(お墓の管理人)として、新しい一歩を踏み出す彼女。
そんなナーサリーにふさわしい、温かいファミリーネームを、祐奈は自分の記憶の中から一生懸命に手繰り寄せようとする──。
祐奈からの言葉を、ナーサリーは期待と緊張の入り混じった表情で健気に待っている。
(新たな門出、新しい道、そして新しいお仕事……)
この世界に来てから翻訳恩恵で英語が自然と理解できるようになっているため、祐奈は英語の響きの中から、何か深い意味を持つ言葉を贈ってあげたいと考えを巡らせた。
すると、スピーカーの向こうからティーユがからかうような声を出してきた。
『ん~、じゃあさ、“ユウナギ”でもいいんじゃない?』
「ははっ、さすがにそれは全く合ってないですよ。日本の苗字ですからね、彼女に似合いません」
祐奈が笑いながら却下すると、すかさずソフィアがどこか真面目なトーンでカットインしてきた。
「当機はぜひとも頂戴したいところですが。……いえ、『夕凪ソフィア』、非常に素晴らしい響きです」
「しれっと不穏なこと言わないでください」
さらりと家族になろうとするソフィアがちょっと怖い。
そんな賑やかな外野の声をBGMにしながら、祐奈は頭の中で言葉を組み合わせ、熟考を重ねる。そして、彼女のこれからの未来に一番ふさわしい言葉を導き出した。
「……『新たな道(New trail)』。──『ナーサリー・ニュートレイル』とか、どうですかね?」
これまでの辛い土木工事の道を終え、これからはお墓を花で彩るという、彼女自身のための新しい道を歩んでいってほしい。そんな願いを込めた名前だった。
「ニュートレイル……」
ナーサリーはその名前を口の中で何度か転がすように呟くと、胸元に手を当てて、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「はい……! とっても素敵な名前です。私、今日から『ナーサリー・ニュートレイル』として、新しい道を精一杯歩んでいきます!」
『おー! いい名前じゃん! 格好いいよ、ナーサリー!』
ティーユの元気な祝福の声が響き渡る。
最高の名前をもらい、完全に心の闇が晴れたナーサリー。その精神データが完全に安定したのを確認し、アレスが満足そうに頷いた。
「よし、それじゃあ今度こそセッション終了だ。祐奈ちゃん、お疲れ様。戻っておいで」
視界がゆっくりと白い光に包まれ、心地よい浮遊感とともに、祐奈の意識はゆっくりと現実世界へと引き上げられていくのだった。
気づくと、祐奈は真っ暗なヘルメットの中にいた。
視界の隅に『ログアウト完了』の文字が静かに表示されている。カプセルの重い扉がプシューッと音を立てて開くのを待ち、祐奈は頭から大きなヘルメットを外して、凝り固まった身体を伸ばすように大きく背伸びをした。
部屋から出ると、ディスプレイの前の椅子に座っていたティーユが、待ってましたとばかりに勢いよく振り返る。
「ただいま、ティーユさん」
「おかえり~!」
ティーユは何やらにこにこと嬉しそうに笑っている。そして、祐奈がダイブしていた間の外の状況を興奮気味に教えてくれた。
「あのね、あのね! アレスもソフィアも、あの画面の中にいたのに、現実世界のこっちでも私と普通にお喋りしてたんだよ! すごくない!?」
(あ、そっか……)
祐奈は納得して小さくうなづく。彼女たちは超高性能なAIだ。処理能力が桁違いに高いため、仮想空間と現実世界という2つの場所で同時に会話をこなすことくらい、何の苦にもならないのだろう。
人間でいうなら、ゲームをプレイしながらボイスチャットで別の人と世間話をするような、そんな感覚に近いのかもしれない。
「確かに、私のいた世界じゃちょっと考えられないような凄いことをやってますよね」
「でしょ? 画面の中からと、隣からとで同時に声が聞こえてさー、なんか不思議な感覚だったなぁ!」
そんな、リアルタイムで外から見守っていた側ならではの新鮮な感想を、ティーユは身振り手振りを交えながら楽しそうに話してくれた。ひとしきり喋って満足したのか、ティーユは今度は興味津々といった様子で祐奈の顔を覗き込んできた。
「ところで、あの機械の中ってどんな感じだったの?」
「はい。中には、本当に現実世界とまったく変わらない世界が広がってました。ベンチの木のザラザラした感触とか、花の柔らかさとか……これは実際に経験してみないと、言葉じゃ説明できないくらいです」
「ほうほう! ますます気になるなぁ。私もアレスのデータ解析が終わるのを、楽しみに待ってよーっと!」
お互いに現実と仮想空間、それぞれの視点からの感想を口々に言い合いながら、二人の間にはいつもの賑やかで温かい空気が戻っていた。
ティーユとひとしきり感想を言い終えた、その時だった。
すう、と張り詰めていた緊張の糸が解けた途端、祐奈は自分の指先が小刻みに震えていることに気がついた。
(……あ。私、思った以上に緊張してたんだ)
数日前までは、オフィスでキーボードを叩いていただけのただの会社員。それが数千年の時を超え、心を病んだ超高性能AIの精神を救い、その人生を決定づけるような大役をこなしたのだ。生身の心臓が、遅れてバックバクと警報を鳴らし始めていた。
そんな祐奈の様子を、バイタルデータ越しに察知したのだろう。
白衣のポケットに手を突っ込んだアレスが、穏やかな、だけどプロの医療従事者としての確かな信頼感を込めた声で語りかけてきた。
「お疲れ様、祐奈。最高の仕事だったよ。予想を遥かに上回る、素晴らしい結果だ」
「ありがとうございます……。自分では上手くいったのかどうか客観的に見られなくて。プロのアレスさんから見て合格点なら、良かったです」
ホッと胸をなでおろす祐奈に、アレスは肩をすくめて茶目っ気たっぷりに笑う。
「大丈夫。仮に君が多少突飛なことを言ったとしても、彼らにとっては『人間の言葉』だ。強力な創造主補正が働いて、脳内で勝手に聖書レベルの金言に超翻訳されるからね。他の管理AIたちとのやり取りを見ていても、君のアプローチは全く問題ないよ」
(創造主補正、チートすぎるでしょ……)
人類最後の生き残りという肩書きの重さを改めて実感していると、アレスの端正な顔立ちが、今度は少しだけ心配そうに曇った。
「ただね、ナーサリーの精神負荷は激減したんだけど……代わりに、祐奈のストレス値がちょっと上昇傾向にあるんだ。だから、このカウンセラーのお仕事、少し期間を空けてから再開しようか」
「え……?」
「人の愚痴や深い悩みを聞くっていうのはね、生身の人間にとっては、相手の負の感情を自分の中に引き受けるのと同じなんだ。悪影響が出る前に、しっかりメンタルを休ませないと」
アレスの言葉に、祐奈は深く納得した。
確かに21世紀の元の世界でも、カウンセラー自身が心を病んでしまうケースは少なくなかった。正直、あのヘビーな滅亡の記憶を毎日聞かされたら、こちらが先に限界を迎えてしまう。
「そうですね……。毎日だとちょっとお話が重すぎて胃がキリキリしそうだったので、2~3日くらい空けてもらえると助かります。その後に、また新しい方のカウンセリング、という形で……」
「うん、それがいいね。3日ほどインターバルを設けるローテーションを組もう。君の健康が最優先だから」
アレスと現実的な業務連絡を交わしながらも、祐奈は(次は一体、どんな病み方をしたAIが来るんだろう……)と想像してしまい、早くも胃のあたりをさすりたくなる。
すると──背後から、鼓膜を優しく撫でるような、甘く、ひどく過保護な声が滑り込んできた。
「──でしたら、そのような苦痛を伴う労働など、今すぐお辞めになって、毎日何もしないで健やかに眠り、当機の保護を受け入れ、平和に過ごされてはいかがですか? 創造主様」
いつの間にか音もなく至近距離まで迫っていたソフィアが、白のサマードレスを揺らしながら、底の知れない美貌で微笑んでいた。
瞳の奥の青い光が、いつになく怪しく爛々と輝いている。
心が弱った隙を突いて、いつでも創造主をぐうたらなニートに甘やかす準備は万端です、と言わんばかりの完璧な脅迫。
(う、嬉しいけど……この世界のAI、やっぱりちょっと全般的に愛が重くて怖い……っ!)
祐奈はゾクッと背筋を走った戦慄をごまかすように、隣で「お腹空いたー!」と騒ぎ始めたティーユの肩を掴んで、必死に話をそらす。
「で、で……では! 一旦お昼ご飯にしましょうか! ねっ!?」
これ以上ソフィアの『ニート製造甘やかしトーク』を聴き続けたら、リアルに心が屈してしまいそうだった。祐奈はあえて大声を出し、強引に話題をシャッフルする。
「お~! 賛成! 何にするかな~、お腹ペコペコだよ!」
ティーユが待ってましたとばかりに拳を突き上げる。
二人の脳内で、お昼休みの楽しいメニュー会議が始まった──予定だった。しかし、祐奈の脳裏に、ある致命的な懸念が電撃のように駆け巡る。
「……あ。ねえ、ティーユさん。もしかして私、あんまり『料理ができる』って言えないかもしれません」
「えっ? 朝は普通に作れるって言ってたよね?」
ティーユが驚いて目を丸くした瞬間、背後で虎視眈々とチャンスを狙っていたウエディングドレスの黒幕が、シュバッ! と音を立てんばかりの速度で割り込んできた。
「でしたら、これ以上の議論は無用ですね! 栄養管理から調理、後片付けに至るまで、全てこのトップ管理AIであるプロフェッショナル・ソフィアにお任せください! 創造主様はただ、雛鳥のように口を開けてお待ちいただければ──」
「いや、ソフィアさんはちょっとそこに並んで待っててね!」
瞳の輝きを増してヒートアップするソフィアの額にそっと手を当て、元の位置へ押し戻す。祐奈はコホンと一つ咳払いをすると、自分がなぜ『料理が出来ない』と弱気になったのか、その理由を説明し始めた。
「私のいた21世紀の日本って、とにかく自炊を助けてくれる便利な調味料に溢れてたんですよ。だから、味付けが良くも悪くも単調になりがちというか……」
「調味料?」
「はい。例えば国民食って言われてる『カレー』とかも、本来はスパイスを何種類も組み合わせて一から作る大変な料理なんです。でも、私たちが作るときは、企業が美味しい香辛料をあらかじめ黄金比率で固めてくれた『カレールー』をポンと鍋に放り込むだけだったんです」
「へえ~、おもしろいねそれ!」
「そう考えると、私、素材と塩と油だけを渡されて、一から調味料を調合して料理を作った経験がほとんどないんです。出汁(だし)だって、粉末の『だしの素材』をお湯に溶かすだけでしたし……。だから、この世界にそういう便利グッズがないんだとしたら、ちょっと厳しいかなって」
化学調味料の恩恵にどっぷり浸かっていた元社会人の、ちょっぴり恥ずかしい告白。
すると、ティーユはバカにするどころか、深く深く同意するように腕を組んで頷いた。
「あ~、なるほどね。確かに、私のいた時代の末期も、コンソメキューブとか、ブイヨンとか、料理を極限まで簡単にするアイテムに満ち溢れてたからなぁ。それがないと、何から手をつけていいか分からなくなる気持ち、すっごくよく分かるよ」
「ですよね! だから、この世界のキッチンに何があるかによって、私たちが作れるものが決まると思うんです」
現代日本の便利さに慣れきった2人の前に立ちはだかる、未来世界のキッチンという名のダンジョン。
果たして、マザーAIが管理するハイテク調理場に、元現代人の心を潤す「あの調味料」は存在するのだろうか──?
心配しながらも、いつもの居住スペースへ戻る前に、祐奈たちはソフィアにお願いして、調味料を保管しているという備蓄倉庫へ案内してもらうことにした。
朝ご飯のときは、ソフィアが材料を用意したものを、ただ炒めただけだったから簡単だったのだ。だけど、これからは一から自分たちで味付けをしなければならない。
相手は、人類の遺産を完璧に管理するスーパーAIだ。おそらく世界各国の調味料を律儀にコレクションしているに違いない。
(……うん。そこから目当ての醤油やみりんを探し出すだけでも、大冒険になりそうな予感がするなぁ)
そんな一抹の不安を抱えながら、自動扉の先にある、ひんやりと冷やされた倉庫らしき部屋へと足を踏み入れた。
──そこは、倉庫というよりは、もはや大規模な博物館だった。
見上げるほど高い天井まで続く巨大な棚が、幾重にも、奥の闇に向かってズラリと並んでいる。その棚の一段一段に、見たこともない形状のボトルや、色とりどりの香辛料が詰まったガラス瓶が、狂気を感じるほど整然と格納されていた。
簡単な料理ならここにあるもので作れそうだが、逆に選択肢が多すぎて、素人には何が何だか分からない。
「えっと……ソフィアさん? ここにある調味料とかスパイスって、全部でどのくらいの種類があるんですか……?」
嫌な予感に冷や汗を流しながら、祐奈はおそるおそる質問してみた。
ソフィアはドレスの裾をエレガントに翻し、当然の義務を遂行したまでです、と言わんばかりの涼しい顔で答える。
「はい。地球上に存在したあらゆる食文化を網羅するため、現在、約9千種類ほどご用意しておりますが……。創造主様、本日はどのようなスパイスが必要でしょうか?」
「「きゅ、9千っ!?」」
祐奈とティーユの声が、完璧にシンクロして極寒の倉庫に木霊した。
9千種類。日本のスーパーの調味料コーナーどころの騒ぎではない。一般人がここから『ちょっと醤油と塩コショウ取って』と探そうものなら、お昼ご飯が夜ご飯になってしまう。
二人は一瞬だけアイコンタクトを交わし、一秒でプライドを捨てて悟った。
──うん、自分たちで探すのは絶対に無理だ、と。
「ソ、ソフィアさん! 検索! 検索機能を使わせてください!」
「私のいた国……アイルランドの料理で、一番に使う調味料を持ってきてもらえるかな!?」
祐奈が必死に頼み込むと、ソフィアは「承知いたしました」とどこか嬉しそうに微笑み、青い瞳のインジケーターをピカピカと明滅させ始めるのだった。
「まず、ティーユ様のアイルランドにおける各種ハーブ、レリッシュ、スパイスバッグ、ギネスビールにギネスソース。そして塩、胡椒、砂糖、酢、ワイン、タイムやナツメグなどをピックアップしました」
「おおっ! ギネスソースにスパイスバッグまであるの!? それなら私、なんとかなりそう!」
ソフィアが並べ立てた故郷の懐かしい味に、ティーユがパッと顔を輝かせてガッツポーズを作る。どうやら彼女の料理へのモチベーションに火がついたようだ。
(よし、それじゃあ私のほうも……)
検索するより、この有能すぎるAIコンシェルジュに直接おねだりしたほうが早い。そう思った祐奈がチラリと視線を送ると、ソフィアはすべてを察したように優雅に頷いた。
「そして祐奈様。21世紀の日本における基本調味料、醤油、味噌、酒、みりん、顆粒だしなどでございます。……それにしても、当時の日本の皆様の『食』に対する熱意は、私たち管理AIから見ても驚異的なものでした。原材料の製法から熟成期間、果ては保管場所の湿度管理に至るまで、執念すら感じるほど詳細なデータが遺されております」
どうやら我が母国は、宇宙開拓時代になっても食に対するやかましさを微塵も失っていなかったらしい。祐奈は誇らしいような呆れるような気持ちで苦笑いを浮かべた。
「私の国は、当時から世界一食い意地が張っているって言われてましたからね。世界が変わってもそこだけは同じだったみたいで、なんだか安心しました」
やっぱり、日本人のDNAに刻まれた食への情熱は伊達じゃないな、と胸を張る祐奈。しかし、ソフィアはふっと少しだけ視線を下げ、遠い目をして困惑の混じった声を漏らした。
「ただ……日本が遺した『納豆』という発酵食品の再現には、当時の管理AIたちも非常に手を焼いたようでして。数々の不測の事態──いわゆるバイオハザードを引き起こした末、最終的に他のセクションのAIたちによって『完全製造禁止指定』にされております」
(な、納豆がバイオハザード扱い……!?)
一瞬、未来都市を滅ぼしかけた最凶のウイルスの話でもされたのかと耳を疑ったが、祐奈はすぐに「あ、まあ、あの菌なら仕方ないか」と納得してしまった。
「ああ……。納豆菌って、もの凄く強いですからね。私のいた世界でも、日本酒や醤油を作る職人さんは、仕込みの時期には納豆を食べるのを厳しく禁止されてたくらいなんです。他の有用な酵母や菌を全部、納豆菌が食べて繁殖しちゃうから」
「……なるほど。他の発酵プラントをすべて納豆菌の楽園に変えようとしたログの理由は、それでしたか」
ソフィアが心底ゾッとしたように、珍しく身震いするような仕草を見せる。
どうやら数千年前の未来都市で、日本の伝統食が最強の侵略生命体として暴れ回った歴史があったようだ。
「とにかく、納豆は置いといて安全な調味料は揃いました! ティーユさん、材料をキッチンに運んで、今度こそお昼ご飯を作りましょう!」
「うんっ! 私たちの自炊、絶対に成功させようね!」
恐怖の納豆バイオハザードに怯えるソフィアと一緒に、祐奈とティーユは両手に調味料を抱えて、いよいよ本格的な調理室へと足を進めるのだった。
必要な調味料を抱えて居住スペースへと戻った二人は、リビングの一角にあるハイテクキッチンに、それぞれマイ調味料を並べていった。
場所の確保が終わったところで、いよいよ本日の最重要議題へと移る。
「さて……何を作りましょうか?」
祐奈が尋ねると、ティーユは腕を組んでうーんと天井を見上げた。
「私は無難に、故郷の味である『アイリッシュシチュー』でも作ろうかな」
ラム肉とジャガイモ、玉ねぎを煮込む素朴なスープだ。それを聞いた祐奈は、一品だけだと少しお腹が物足りないかもしれないと思い始める。
「じゃあ、私は無難に『親子丼』でも作ろうかな。あ、ティーユさんのシチューは、一回で食べきれるように少なめの量でお願いしますね」
「え? なんで?」
ティーユは不思議そうに片眉を上げた。
「多めに作って、余った分は夜ご飯に使い回せば楽じゃん。スープ系は作り置きが基本だよ?」
「──断固拒否いたします!!」
突如、鼓膜が震えるほどの音量でソフィアの冷徹な声が響き渡った。
「細菌の繁殖リスクがあるにもかかわらず、手動調理の食品を安易に大量生産し、放置するなど不衛生の極み! そのような危険物を作るために自炊を許可した覚えはありません! 勘違いしないでいただきたいですね。死ぬか腐らないかの低次元な話ではないのです!」
「はぁ!? 人間そんな簡単に死なないってば! 冷蔵庫に入れておけば腐らないでしょ! 細かいなぁ!」
バッチバチに火花を散らし、今にも包丁とレーザー砲で戦争が始まりそうな二人。
(ああ、ティーユさんの『作り置きして楽したい精神』と、ソフィアの『完璧な管理主義』が正面衝突しちゃった……)
祐奈は慌てて両手を広げ、二人の間に割って入った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて! そんな料理のたびに喧嘩してたら、せっかくのご飯が美味しくなくなっちゃいますよ!」
祐奈の必死の宥め(なだめ)に、ティーユはフンとそっぽを向き、ソフィアも「……創造主様がそう仰るなら」と不承不承ながら沈黙する。
危うい空気をガラリと変えるため、祐奈はあえて明るいトーンで、自分の作ろうとしているメニューの解説を始めた。
「あ、ちなみに親子丼っていうのはね、甘辛く煮た鶏肉と玉ねぎを、トロトロの卵でとじてご飯の上にかける日本の料理なんです。ほら、卵と鶏肉って、言ってみれば『親子』でしょ? だから親子丼!」
ドヤ顔で日本の食文化をアピールする祐奈。
しかし──。
「ええぇ……っ。何そのネーミングセンス……。サイコホラーじゃん……引くわ……」
ティーユは本気でゾッとしたように、一歩ズルズルと後ろに退がった。
「えっ!? た、確かに言われてみれば残酷な名前かもしれないですけど、そこまで引かなくても!」
まさか元英雄にそこまで怯えられるとは思わず、祐奈は思わず声を裏返らせる。すると、今まで黙っていたソフィアが、ふむ、と深く納得したような電子音を鳴らした。
「なるほど。それで『親子丼』という名称なのですね。なぜ卵と鳥の混合食にファミリーの概念が使われているのか、言語データベースの仮説としては存在していましたが、今、創造主様の口からハッキリと証明されました」
(そ、ソフィアさん、そこ何千年も真面目に考察してたの……!?)
日本の食い意地が遺したシュールな謎がまた一つ解明されつつも、キッチンにはどこか「日本人のネーミング、ちょっと怖い」という微妙な空気が漂い始めるのだった。
「ま、待ってください! 誤解は解かせてください!」
このままだと日本人がただの猟奇的な民族だと思われてしまう。祐奈は必死になって弁解を試みた。
「ほら、昔の時代って、今よりも生死の扱いがずっと軽くて身近だったじゃないですか……! おそらくその頃の名残というか、ちょっとしたブラックジョークみたいなものだと思うのですけど……!」
必死すぎる祐奈の顔を見て、ティーユは少しだけ遠い目をして考え込んだ。
「まあ……人の生死に関しては、私のいた時代も人のことは言えないか」
どこか含みのある、元英雄としての苛烈な過去を覗かせるような呟き。けれど、ティーユはすぐにいつもの悪戯っぽい笑みに戻って頷いてくれた。
「よし! とりあえず、ご飯作っちゃおうね!」
「そうですね、ね!」
微妙になってしまった空気は、美味しい匂いが上書きしてくれるはずだ。祐奈はすぐに視線をソフィアへと向けた。
「あっ、ソフィアさん。お米を二人分少な目で炊いてもらえますか? あと、私たちが使う食材の用意もお願いします」
「はい、ただいま」
自分が役に立てることが嬉しいのか、ソフィアはドレスの裾を揺らしながら、いそいそと完璧な下準備を始め。その間に、ティーユは慣れた手つきでジャガイモや人参の皮を包丁で剥き始めた。
「私の方は火を入れてから5分ほどで完成するので、一度離れますね」
お米が炊き上がるタイミングに合わせるため、祐奈は調理をティーユに任せ、一度リビングのソファへ避難した。キッチンから聞こえてくるティーユのトントンという小気味よい包丁の音と、ソフィアとティーユの「火力が! 栄養素が!」「姑か!」という小言の言い合いをBGMに、ゆったりとした時間が流れていく。
20分ほどして、炊飯器からピピッとお米の炊けた小気味よい電子音が響いた。
祐奈は立ち上がり、ティーユの鍋を覗き込む。
「やっぱり、ちょっとカレーのベースと似てますね」
「ん? まあ、お肉と野菜を煮込むっていう意味じゃ、ほぼ似たような料理だからね。ほら、どう?」
ティーユがスープスプーンを差し出し、味見をさせてくれる。ふーふーと息を吹きかけ、口に含むと、素材の甘みが溶け出した素朴で、驚くほど優しい味が五臓六腑に染み渡った。
「いいですねぇ、美味しいです……!」
「でしょ!」
その国で長く愛されてきた料理は、時代も世界も超えて美味しい。
さあ、次は自分の番だ。
祐奈は玉ねぎを薄切りにし、鶏肉を一口大に切る。小さなフライパンに水を張り、そこに醤油、みりん、酒、だしを──完全に「目分量」でドボドボと回し入れた。
「あ、あの、祐奈様……? そんな適当な、ミリグラム単位の計量もなしに──」
「大丈夫です、慣れてるんで……」
おろおろするソフィアを片手で制し、一煮立ちさせてアルコールを飛ばしてから、スプーンで掬ってティーユに差し出した。
「こんな感じの味付けなんですけど、どうですか?」
「ん? ……あ、ちょっと甘くてコクがあるんだね。美味しい! いいんじゃない?」
ティーユからの合格をもらい、いよいよ本調理だ。ソフィアにお米を器に盛ってもらうよう頼み、煮立ったツユに玉ねぎと鶏肉を投入する。
数分もしないうちに肉の色が変わり、甘辛い極上の香りがキッチンを満たした。そこで、溶き卵をまず「半分だけ」円を描くように回し入れる。
(まずは土台を固めて……残り半分は、火を止める直前!)
最後の半分を流し込み、余熱でトローリとした半熟の状態に仕上げる。それを一気にご飯の上へと滑らせた。
「完成です!」
黄金色に輝く親子丼。しかし、それを見たソフィアは、ドレスの胸元を押さえて微妙な顔をした。
「あの……これは、ご飯とおかずを別の平皿に分けたほうが、視覚的クオリティとしてよろしいのでは?」
「ソフィアさん、これは『家庭料理』なんです。お皿を別にすると、そのぶん洗い物のタスクが増えますよね? これは、極限まで無駄を省いた『効率重視』の盛り付けなんです」
「……! 効率を考えると、確かに多大な利点ですね。タスクの削減、素晴らしいです」
「効率」というキーワードを出した途端、ソフィアはあっさりと納得してシステムログを更新した。
(よしよし。これからは、私のズボラ飯は全部『効率主義』って言い換えればAIたちに伝わるな……。気をつけよう)
祐奈はそんな世渡り上手なライフハックを胸に刻みながら、完成した親子丼とアイリッシュシチューをテーブルに並べていく。
「完成だね!」
ティーユがスプーンを両手に持って、嬉しそうに席についた。
その後は、自分たちの手で作った温かい料理の感想を言い合いながら、未来都市の片隅で、どこまでも和やかで愛おしいお昼休みの時間が過ぎていくのだった。