「どうぞ、おかけになってください」
この異常な状況への混乱と、夢とは思えないリアルな感覚の間で戸惑う私に、女性は椅子を勧めてきた。
「あ、ありがとうございます……」
私は少し手を震わせながら、勧められた椅子に腰掛けた。
すると女性は、まるで慣れた手つきでお茶とお菓子を用意して、もてなそうとしてくれる。
「「あの……」」
不意に、二人の声が重なった。
何とも言えない気まずい雰囲気が、私たちを包み込む
私は苦笑いを浮かべながら、思い切って話しかけてみた。
「ここはどこですか?とまず聞くべきなんでしょうが……私は死にましたか?」
女性は少し目を見開いて驚いたが、すぐに目を細めて答えてくれた。
「いいえ、あなたは死んでおりません。ただ……少し相談に乗ってもらいたいことがあり、ここへ呼びました」
死んでいない。その言葉に、私は少し救われるような気がした。
「そうでしたか。では一体、何の御用なんでしょうか」
そう答えると、女性は少し嬉しそうにしながら話しかけてくる。
「では……『神託(しんたく)』から言いましょう」
その瞬間、私の脳内にある知識がフラッシュバックして襲いかかってきた。
確かギリシャ神話の話では、神託から始まる運命はすでに決まっていて、人間には従う選択肢しかないはずだ。つまり、絶対ろくなことにならない……!
私は迷わず、素早く床に土下座をして言葉を放った。
「勘弁してください!」
男のあまりの奇行に、女性は思わず小さな悲鳴を上げて動揺する。
「えっ!? ……どうしたんですか!?」
「お、恐れながら……っ!」
私は床に額をこすりつけたまま、必死に声を絞り出した。
「ギリシャにつながる神様とは知らず、同じ席に座ろうなど滅相もないことでした! 申し訳ありません!」
「ええ!? いや……確かに私は神に仕える身ではありますけれど、ギリシャの神々とは何の親交もありませんよ!?」
完全に想定外の方向へ暴走し始めた私に、女性は上品なベールを振り乱さんばかりの勢いで手を振り、全力で否定してきた。
私は顔を上げて、恐る恐る不思議そうに言った。
「そ、そうなのですか? 神託から始まるのは、てっきりギリシャの神々だと思ったのですが……」
女性はポカンとして、少し首を傾げながら言う。
「あれ? 神託から始まる運命というのは、人間にとっては嬉しくて光栄なものなのではないのですか?」
「いえ……それはかなり昔、ギリシャ神話の時代に流行ったことなので。今の時代、神託と言われたら、絶対に断れない大仕事が始まるイメージしかありません……」
私が申し訳なさそうに苦笑いを返すと、女性はあからさまにガクッと頭を下げて落ち込んでしまうのだった。
「あれ? そうなのですか……。人間の時代が進むのは、本当に早いのですね……」
私は自分のせいで神に仕える女性を落ち込ませてしまったのが可哀想になり、そっと声をかけることにした。
「いきなり取り乱して申し訳なかったです。えっと……かなり動揺していまして。もしよろしければ、お話の続きをお願いできますか?」
女性は少し落ち込んでいた頭を上げ、少し恥ずかしそうに答えた。
「そ……そうでした。相談なんですけれど……」
女性が怒っていないことに、私はホッと胸をなでおろしながら話を聞き始める。
「私が仕える神様の世界の話なのですが……。まだ幼い神様が、生き物を作るのに失敗してしまいまして……」
私は苦笑いを浮かべながら、相槌を打つ。
「これまた、スケールの大きなお話ですね」
女性は少しはにかみながら言った。
「ええ……。まだ小さい神様なので、練習のために複数の神様たちと一緒にとある世界で遊んでいたのです。人間と魔族を駒に見立てて、それぞれに加護を与えながら戦わせる……人間でいうところのボードゲームでしょうか? サイコロを振りながら遊ぶ玩具のようなものです」
「なんとも……人間の私には思いも寄らないほど、壮大すぎるお遊びですね」
苦笑いしながら答えると、女性も困ったように苦笑いを返した。
「ええ……。私はその神様たちに仕える『使徒(しと)』のようなものなのですが……
それで……
ある日、神様たちがみんなで『もっと面白い敵を作ろう』と盛り上がってしまいまして……」
女性は困ったように眉を下げて話を続ける。
「そのへんにいる普通のスライムをベースにして、どんどん強化していったのです。そうしたら、その生き物が野生の熊や、他のモンスターに寄生して、体を乗っ取るようになってしまいまして……。それだけではなく、より効率的に獲物を狩るために、自分の姿形まで自由自在に変形させるようになってしまったのです」
「……スライムが、ですか?」
私の言葉に、女性はコクコクと深くうなずいた。
「はい。今のままだと、その世界にいる全ての人間や魔族が乗っ取られるか、あるいは食い尽くされてしまう状況になってしまいまして……」
「無理です」
私は一秒の迷いもなく、即答した。
「えっ!?」
女性がベールの奥で目を丸くするのが分かった。
まさかここまで綺麗に、食い気味に断られるとは思っていなかったのだろう。
「いや、本当に無理ですよ」
椅子に深く座り直し、大真面目な顔で首を横に振った。
「その、神様たちが作ったというスライム、完全に映画に出てくる凶悪な宇宙生物(エ◯リアン)じゃないですか。そんな恐ろしい生き物の処理なんて、ただの中小企業の管理職である私にできるわけがありません。完全に専門外です」
さらに私は、自分が知っているSFの物語を例に挙げて、切々と説得を試みることにした。
「私が知っている物語の知識ですが……。そういう凶悪な生物と戦って、人類が宇宙の至る所で滅ぼされそうになったり、あるいは本当に全滅させられたりするお話がいくつもあるんです。しかもそれって、今の人類が宇宙に進出して、数千年も文明を発展させた未来の、もの凄く強い人類が相手でも手を焼くレベルなんですよ?」
女性は私の言葉の勢いに押され、徐々にうつむきながら話を聞いている。
「つまり、今の地球の全人類が国境を越えて協力したって、勝てるかどうか怪しい凶悪生物なんです。それを、ただのしがない一市民である私一人の手でどうにかしろなんて……常識的に考えて、とても不可能な案件だと思われます」
「それに、現代の偉い科学者たちが毒を使ったり、遺伝子を組み換えたりして、なんとか害獣や外来種を絶滅させようと研究しているのですが……現状、それすら上手くいっていません」
私の言葉に合わせて、女性の顔がどんどん暗くなっていく。
ベールの奥の雰囲気がどんよりと沈んでいくのが、手に取るように分かった。ちょっとかわいそうだが、ここで引き下がるわけにはいかない。私はさらに、別の解決策を提案することにした。他人に案件を押し付けるのは、中間管理職の基本スキルだ。
「あ……あれですよ! 私なんかじゃなく、世界に名だたる天才教授や、大国の最高権力者である大統領などをここに招集してみれば、きっと解決すると思いますよ!」
(あの凶悪スライム相手じゃ、大統領が核兵器を使ったって無理だろうな……)
そんな本音をぐっと心の中に飲み込みながら、私は女性の反応を待つことにした。
女性は深く、重いため息をつきながら答え始めた。
「……そのような素晴らしい方々にお願いできるものなら、私だってそうしたいところなんですけれど……」
「え? 何かマズいことでもあるんですか?」
私の問いに、女性は困り果てた様子で首を横に振る。
「今あなたが暮らしている世界の、歴史の根幹を成しているような重要人物を別の世界へ送り込んでしまうと、その影響で元の世界が衰退するか、あるいは最悪の場合、未来で絶滅するきっかけになってしまうルール(縛り)があるのです……」
(……ん? ということは、何だ?)
天才教授も大統領も、世界に必要だから連れて行けない。
なのに、私はこうして連れてこられている。
つまり私は、神様から直々に「お前は今の世界にいなくなっても、未来に何の影響も出ない、ちょうどいい凡人だ」と太鼓判を押されたということだろうか。
現実的で理不尽な事実に、私の心にじわりと切ないダメージが広がっていく。