降下艇の内部へ足を踏み入れた瞬間、祐奈は思わず足を止めた。
そこはまるで巨大な金属製の箱の中だった。
壁も床も天井も無機質な金属板で覆われており、椅子らしい椅子すら存在しない。照明設備も見当たらず、開いたハッチから差し込むわずかな外光だけが内部をぼんやりと照らしていた。
「……さすがに暗くないですか?」
祐奈が恐る恐る尋ねると、ミルクは申し訳なさそうに肩を落とした。
「申し訳ありません。本機は兵員および軍用AIを輸送するための降下艇ですので……」
いつもの冷静な口調ではあるが、どこか元気がない。
「本来であれば外交用の賓客艇をご用意すべきだったのですが、我々の艦は純粋な戦闘艦です。皆様をあの場所へ少数戦力で残しておくのも危険だと判断しまして……」
最後の方は、完全に言い訳をしているようにも聞こえた。先ほどまで地平線を覆う戦艦を率いていた冷徹な軍人が、今は予算の言い訳をする部下のように見える。祐奈は思わず苦笑した。
祐奈は思わず苦笑した。
「いや、大丈夫ですよ。軍の飛行機に豪華な客室がないのは当然ですし、乗せていただけるだけで十分です」
「……ありがとうございます」
ミルクは少しだけ安心したように頷いた。
その直後、降下艇のハッチがゆっくりと閉じ始める。
外から差し込んでいた光が徐々に細くなり、やがて完全な闇が訪れた。
何も見えない。
祐奈は内心で(いや、さすがに暗すぎるだろ……)と呟いたが、せっかく安心したミルクに追い打ちをかける気にもなれず、そのまま黙っていた。
そんな一触即発ならぬ暗黒の沈黙を破ったのは、やはりティーユだった。
「真っ暗だね。これじゃ漫画も読めないや」
のんびりとした声が闇の中に響く。
祐奈は思わず、隣でミルクが再び落ち込む姿を想像してしまった。
ティーユが小さく声を漏らした。
「んー……」
次の瞬間、彼女の指先が淡く輝き始めた。
「えっ?」
祐奈は目を見開く。
指先から生まれた四つの光球が、ふわりと宙へ浮かび上がったのだ。それらはまるで生き物のように降下艇の内部を漂い、やがて四隅の天井へと吸い付くように張り付いた。
柔らかな光が船内へ広がる。それは、まるで計算された間接照明のような、目に優しい温かみのある明るさだった。
「……本当に魔法なんだ」
祐奈は呆然と呟いた。
神話や物語の中でしか聞いたことのない超常の力。それが今、自分の目の前で当たり前のように使われている。ティーユが三千年の時を生きる本物の魔術師であることを、改めて実感する瞬間だった。
だが、その現代人の感動は長くは続かなかった。
祐奈がふとミルクの方を見ると、彼女は、これ以上ないほど険しい表情でティーユを凝視していた。
胃のあたりをチクリと刺す。
そして、その予感は見事に的中する。
「意味不明なエネルギー反応を機内に展開した理由を説明してください」
ミルクの声は完全に氷点下まで冷え切っていた。
「場合によっては敵対行動と判断します」
その赤い瞳には明確な戦闘モードの警戒心が宿っている。
ティーユはきょとんとした後、少し呆れたように肩をすくめた。
「こんな簡単な照明魔法で?」
そして悪戯っぽく笑う。
「本当に戦闘用AIなの?」
明らかに煽っていた。
(まずい)
祐奈の背筋に冷たいものが走る。この二人を放置すると、離陸する前にこの降下艇ごと粉々に吹き飛びかねない。
祐奈は慌てて、火花が散る二人の間へ必死の形相で割って入った。
「ストップ!」
二人の視線が一斉に向く。
「ティーユさん。機内を明るくしてくれたのは本当に助かりました。でも、私にとってもミルクさんにとっても、魔法なんていう未知のエネルギーは見たことも聞いたこともないんです。次からは、何かする前に一言説明してもらえると助かります」
まずはティーユをなだめる。そして今度はミルクへ向き直った。
「ミルクさんも落ち着いてください。これは攻撃じゃありません。ただの親切心からの照明です。安全なものですよ」
私が両手を広げて必死に説明すると、ミルクの瞳の奥の発光体が、元の静かな輝きへと戻っていった。
「……創造主様がそう仰るのであれば。警戒レベルを通常に戻します」
「うん、私もちょっと意地悪言っちゃった。ごめんね、ミルク」
なんとか二人の火花は収まったものの、祐奈は深いため息をつきたい気分になった。目的地へ向かう道中ですらこの調子だ。
ここれから先、自分の胃が無事でいられるのか──。胸のあたりに、じわりとした重苦しい違和感が走る。
胃痛……ではないはずだ。元・中間管理職としてのストレス耐性はそれなりにあるつもりだが、今回はさすがに宇宙規模で先が思いやられる。
まだ目的地にも到着していないのに、すでに何度目か分からないトラブルに巻き込まれている。
(先が思いやられるなぁ……)
そんなことを考えて現実逃避しかけた、その時だった。降下艇全体が、心臓に悪いほど重々しい振動を響かせた。
ゴォォォン――――。
次の瞬間、凄まじいG(重力加速度)と共に機体がゆっくりと浮き上がる。
どうやら本格的な離陸が始まったらしい。
だが、これは乗客への配慮など一切ない、兵員を迅速に前線へ送り込むための軍用強襲艇だ。
当然、快適な椅子もなければ、一般人が掴まるような手すりすら存在しない。ただの剥き出しの金属製の箱なのだ。
「うわっ、ととと……!」
私は慌てて周囲を見回した。
何か掴まれるものはないか。視線を激しく巡らせた先に、兵士用ロボットの巨体を固定するためと思われる、壁面に備え付けられた太いベルト状の器具を見つける。
「これしかないか……」
私はなり振り構わず、その頑丈なベルトにしがみついた。
降下艇は想像以上に激しく揺れている。旅客機の揺れどころの騒ぎではない。大型トラックがサスペンションの壊れた状態で、悪路を全力疾走しているような凶悪な振動が、容赦なく全身を突き上げてくる。
生身の人間なら、これだけで三半規管が悲鳴を上げて吐き気を催しそうな環境だ。。
そんな衝撃に耐えながら、ふと、隣にいるティーユの方へ目を向けた
「……え?」
私の口から、場違いな抜け殻のような声が漏れた。
ティーユは普通に立っていた。
それだけではない。片手で漫画を持ち、ページをめくりながら読書を続けている。まるで自宅のリビングでくつろいでいるかのような自然さだった。
激しい揺れと凄まじい重力加速度(G)にも関わらず、その小さな体は一切ふらつかない。重心がぶれる様子すら微塵もなかった。
一見すると何気ない光景だ。
しかし、この悪路を走るトラック以上の劣悪な環境で、何にも掴まらず平然と直立していられる時点で十分に異常だった。
私が呆然とそれを見つめていると、固定用フレームの中に収まっているミルクも同じ異常に気付いたらしい。フレームの隙間から、バグを検知したセンサーのようにティーユを凝視している。
そして、ついに計算が合わずに我慢できなくなったのか、困惑の混じった声を掛けた。
「ティーユ……」
そのいつもの冷静沈着な軍人らしからぬ、明らかに動揺した上ずった声だった。
「あなた、物理法則に反していませんか?」
ティーユは漫画からひょいと顔を上げる。
「ん?」
「反重力装置ですか? 慣性制御装置? それとも高性能ジャイロシステム……?」
ミルクは首を傾げた。普段の冷静沈着な軍人らしからぬ姿だった。
どうやら頭の中で必死に計算しているらしい。
未知の技術として解析を試みているのだろう。
だが答えは出ない。
なぜならティーユが使っているのは技術ではなく――魔法だからだ。
ティーユはしばらく「うーん……」と小首を傾げて考え込んでいたが、やがて当たり前すぎるという風に答えた。
「足で立ってるだけだけど?」
私は遠い目をした。
(いや、そこは魔法じゃないんかい!)
思わず心の中で全力のツッコミを入れる。
反重力だの慣性制御だの難しい話をしていたが、結局ティーユの答えは『足で立っているだけ』だった。どういう理屈なのか全く理解できない。
しかし、一つだけ分かったことがある。
英雄と一般人は根本的に違う。それも、自分が思っていた以上に。祐奈は固定ベルトにしがみつきながら、改めてティーユを見る。
激しく揺れる降下艇の中で、彼女だけが別の世界にいるかのように平然としていた。
汗一つかかず、呼吸一つ乱さない。
まるで揺れていること自体を認識していないようだった。
(もしかして神話の英雄って……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。昔の神話や伝説では、英雄たちがとんでもない怪物を倒したり、不可能な冒険を成し遂げたりしている。
子供の頃は誇張表現だと思っていたが、今なら少しだけ分かる気がした。
彼らは最初から人間とは性能が違ったのではないだろうか。
もし目の前にいるティーユが基準なら、神話の英雄たちが無茶苦茶な活躍をした理由にも納得できる。祐奈はそんな結論に至り、少しだけ遠い目になった。
それから2分ほど経っただろうか。
機体を激しく揺らしていた凶悪な振動が、徐々に弱まっていく。
どうやら大気圏を突破したのか、あるいは巡航高度に達したのか、不快な揺れは完全に収まったらしい。私は強張っていた体を緩め、しがみついていた固定ベルトからようやく手を離した。
「いったたた……」
思わず顔をしかめてしまった。少し足が痛いし、全身がじんわりと痺れている。まるで、もの凄く強力な振動ダイエット器具の上に何分も無理やり立たされていたかのような気分だった。
その横では、ティーユが相変わらず平然としている。
それどころか、むしろこの劣悪な強襲艇の環境が快適そうですらあった。
(やっぱり英雄っておかしいな……)
そう思いながら何気なく彼女へ視線を向けた瞬間、私はある強烈な違和感に気付いた。
「あれ?」
ティーユがさっきまで読んでいた漫画は、私の本棚から持ってきたはずの『第四巻』だったはずだ。だが、今彼女が手にしている表紙の数字は、どう見ても『第五巻』になっている。
「えっ、本が変わってない?」
私が思わず声を上げると、ティーユは漫画からひょいと顔を上げた。
「うん? どうしたの?」
「いや、その本、さっきと違うよね」
「ああ、これ? 四巻は読み終わったから、次の巻だよ」
当然のような返答だった。しかし、私の脳内は急速に混乱する。
ティーユはカバンなんて持っていない。この狭い金属の箱の中に本を置くような場所もない。そもそも降下艇の床を見ても、どこにも読み終えたはずの四巻は落ちていないのだ。
では、四巻は一体どこへ消えたというのか。
祐奈が考え込んでいると、ティーユは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
その様子を見て、祐奈は嫌な予感を覚える。
この質問をしたら、また常識が一つ壊れる気がした。しかし気になってしまった以上、聞かないわけにもいかない。
「ティーユさん……その本、どこにしまったんですか?」
その瞬間、ミルクも反応した。
先ほどまで思考停止していたはずなのに、今度は獲物を見つけた研究者のような目でティーユを見つめている。
どうやら彼女も気付いていたらしい。
そして祐奈は確信した。
この質問の答え次第で、また一騒動起きる。
ティーユは祐奈の質問を聞くと、にこりと笑った。
そして、左手を軽く持ち上げる。そこには、先ほどまで読んでいたはずの第五巻の漫画が握られていた。
「こうやってね」
次の瞬間だった。
何の前触れもなく、漫画が消えた。
「え?」
祐奈が目を瞬かせる。
そして一拍遅れて気付いた。今度はティーユの『右手』に、全く同じ第五巻の漫画が握られていたのだ。
左手から右手へ。
まるで瞬間移動したかのように。
ティーユは得意げにふんっと可愛い胸を張った。
「マジック」
手品(マジック)なのか、それとも本物の魔法(マジック)なのか。
その私のツッコミがツボに入ったのか、ティーユは「えへへ、祐奈はおもしろいね」と満足そうに笑っている。
一方で、ミルクの顔は完全に凍りついた真剣なままだった。
「……理解不能です」
彼女は漫画とティーユの手を、壊れたセンサーのように交互に見比べる。
「空間の歪みも、量子転送のエネルギー余剰も一切検知できませんでした。物理法則を完全に超越した現象なのですか?」
「うーん」
ティーユは少し考えるように視線を上に向ける。
「収納魔法だね」
あっさりと答えた。
「私の世界でも結構難しい部類だよ。使える人はそんなに多くないかな」
そして懐かしそうに続ける。
「戦争の時なんか便利だったよ。補給路が切れちゃった部隊に食料とか武器とか運ぶ仕事をよく頼まれてたんだ」
「武器まで入るんですか……」
「入るよー」
ティーユは笑顔で答える。
「みんな凄く喜んでくれたなぁ」
ティーユは懐かしそうに、無邪気な笑顔で付け加えた。
私はその言葉を聞いて、何となく色々なことに納得してしまった。
彼女に王族の友人がいた理由。三千年の時を生きながら、魔女として迫害されずに周囲に受け入れられていた理由。
そして、行く先々で問題ばかり起こしているのに、完全に見捨てられず大切にされてきた理由。
──ティーユという存在は、確かに歩く戦略兵器として危険でもあるが、それ以上に、一国を左右するほど絶望的に「便利」なのだ。
災害が起きれば食料を。戦争が起きれば武器を補給路無視で運んでくれる。多少の問題行動を起こしたとしても、周囲の権力者たちは「まあ、ティーユだしなぁ……」で必死に胃薬を飲みながら、すべてを水に流してきたのだろう。
私はそんな世界の真理に辿り着き、元・管理職として深く同情した。
その頃、対面にある固定用フレームの中では、ミルクが難しい顔で考え込んでいた。端正な眉間には、これ以上ないほど深い皺が刻まれている。おそらく、自身の持つ科学理論でこの現象を説明しようと、全力で演算を回しているのだろう。
しかし、数秒後。
ミルクはゆっくりと目を閉じた。
そして──完全に諦めた。
「……これ以上論理的解釈を試みると、私のメインメモリに深刻なバグを生成しそうです」
眉間の深い皺がすっと消える。どうやら最先端ミリタリーAIとしての思考を放棄したらしい。
だが次の瞬間。ミルクはハッと目を開けると、今度はこれ以上ないほどの圧倒的な尊敬と崇拝の眼差しを私に向けてきた。
「なるほど……」
(あっ、まずい。明確に嫌な予感がする)
「創造主様たちは、このような超越した能力を持つ存在だったのですね。道理で、私たちのような機械知性を創造できたわけです。合点がいきました」
「はい?」
私は固まった。
なにやら、とてつもない──それこそ銀河規模の誤解をされている気がした。私は慌てて、千切れるほどの勢いで両手を左右に振る。
「いやいやいや! 違いますから! ティーユさんが人間として限界突破した外れ値なだけで、普通の人間はそんなこと一切できませんからね!? 私はただの元会社員です!」
すると、私の必死の否定を聞いたティーユが、不思議そうに小首を傾げた。
「えっ?」
その気の抜けた反応に、今度は私の方が背筋に冷たいものを覚えた。
「……ティーユさん、何か変なこと言いました、私?」
「だって、収納魔法くらいなら使える人は結構いたよ?」
「結構?」
私は思わずオウム返しに聞き返した。ティーユは自分の小さな指を折りながら、のんびりと数え始める。
「王家の宮廷魔術師さんとか、神殿の司祭さんとか、あとは騎士団にいた魔法使いの人とか」
「はい、ストップ」
私は即座に、右手の手のひらを突き出して彼女の言葉を制止した。
「その人たち、全員国家最高峰の『とんでもない超エリート』では?」
「そうなの?」
ティーユは本気で心底驚いたような顔をした。どうやら彼女、三千年も生きておきながら、自分の周囲にいた人間が世界のトップクラスばかりだったという自覚が一切なかったらしい。
私は自分の額を右手で押さえながら、現代社会の基準で説明を試みる。
「私の世界で例えるなら、その人たちは国の最高権力機関のトップ研究者とか、大統領直属の特殊部隊のエースとか、そういう雲の上のレベルの人たちですよ」
「えっ……」
今度はティーユが固まる番だった。
今度はティーユが、ハバネロでも食べさせられたかのように完全に固まる番だった。
しばらくの間、自分のこれまでの三千年の人生(あるいはバグった常識)を必死に振り返るように考え込んだあと、彼女はぽつりと呟いた。
「そういえば……私、あんまり普通の人と関わったことなかったかも」
私は思わず天を仰ぎ、遠い目になった。
三千年の時を生き抜いた神話級の英雄。
一国の王族や最高権力者たちが日常的なお友達。
世界を滅ぼすスライムを倒すために、神様から直接スカウトされる使徒。
その時点で薄々気付いてはいたが、どうやら彼女の交友関係は、最初から最後までその世界の最高峰の「上澄み」ばかりだったらしい。そりゃあ一般大衆の常識なんて身に付くはずがない。
「ティーユさん、もしかして、いわゆる『一般庶民の知り合い』って、少なくないですか?」
「うーん……言われてみればそうかも?」
ティーユは困ったように笑った。どうやら本当に今気付いたらしい。
そのおかしなやり取りを真剣に聞いていたミルクが、何やら深く考え込むように、形の良い顎へ手袋の嵌まった手を添えた。
「なるほど。つまりティーユという個体は、過去の人類社会において極めて特殊な階層、および立場に属していたエージェントだったわけですね」
「そういうことです、ミルクさん」
私は大きく、それこそ首がもげるほど頷いた。
ティーユが人類の規格から外れた異常スペックの持ち主であることを、何としてもこのミリタリーAIに叩き込んで理解してもらわなければ、私のこれからの命に関わる。
「あのですね。これが人類の一般的な能力だと認識されると、私がすごく困るんですよ。実際問題、ティーユさんのような超常現象ができない=人間ではない、なんて認識されたら、私は真っ先に人類失格扱いです」
するとミルクは即座に首を横に振った。
「いえ。祐奈様が創造主であるという完全なデータ確定はまだですが、その生体反応がある以上、我が軍が排除・スクラップなどするありえません。絶対に保護します」
「そういう話じゃないんですよ……」
私は思わず両手で頭を抱えた。
どうしてこの超高性能AIは毎回、元・中間管理職としての私の意図を、微妙にズレた物騒な方向へ持っていくのだろうか。
ティーユも私の様子を見て、少し申し訳なさそうに小さな肩をすくめる。
「ごめんね、祐奈。私、また変なこと言って困らせちゃったかな?」
「少しだけです」
私は即答した。
話が一歩前進するたびに、三歩は確実に横道へ逸れていく。
やはり、生まれた時代も、育った文化も、持っている常識も全く違う三者が集まると、意思疎通だけでここまでエネルギーを使うものなのだろうか。ついでに言えば、身体能力や魔法の有無まで違うのだ。ここまで条件が違えば、分かり合えなくても仕方がないのかもしれない。
「やっぱり、文化も時代も生まれも違うと大変ですね……。ましてや言語まで違うとなると――」
そこまで口にした瞬間、私の脳裏に落雷のような強烈な違和感が走った。
私は自分の言葉の矛盾に、完全にフリーズした。
「……あれ? そういえば、なんで私たち、普通に言葉が通じて会話できてるんだ?」
私は首を傾げる。今さらだった。あまりにも今さら過ぎた。
だが、冷静になって考えてみれば、これは確率論的にも狂っている。
私は2026年の日本生まれで、当然「日本語」を話している。ティーユはアイルランド出身だと言っていた。どれだけ古くても、元々はゲール語か英語圏の人間のはずだ。そしてミルクに至っては、5000年後の未来のAIである。
それなのに、出会った瞬間から、私たちは何の一言語の壁もなく、ごく自然に日本語のニュアンスまで完璧に理解し合って会話が成立している。
私がその根本的な疑問を口にすると、ティーユはきょとんとした顔になった。
「え? 言ってなかったっけ?」
「一言も聞いてません」
「あの白い部屋にいた使徒の子がね、『お仕事中、会話とか現地の文字を完璧に理解できるように、世界基準の翻訳補正をかけてあげるね』って言って、能力を付与してくれたんだよ」
ティーユは当然のようにあっさりと答えた。そして、少し得意げな笑みを浮かべる。
「おかげで漫画も読めるしね!」
そう言って手に持っていた単行本をひらひらと振る。
「いや~、かなりいい特典だと思わない?」
「……それは、間違いなく人生の最高峰に位置する大当たりの特典ですね」
羨望と嫉妬を隠しきれない目で即座に同意した。
もし私が英語を完璧に話せて読める能力を手に入れていたら、中小企業の中間管理職などやっていない。もっと給料の良い会社に転職していた自信がある。
むしろ、それだけで人生の難易度がかなり下がる。私がしみじみと現実的な感想を抱いていると、ミルクが不思議そうに口を開いた。
「言語理解能力──いわゆる、言語の自動ローカライズ機能は、大昔の創造主様方にとっても、それほどまでに貴重な能力だったのですか?」
「そりゃあ、そうですよ! 義務教育でどれだけの人間が英語に絶望してきたと思ってるんですか!」
私は過去の全学生の無念を背負うように、力強く頷いた。
「人類は昔から、外国語の勉強で何世代にもわたって涙を流し続けてきたんです」
「なるほど……」
ミルクはひどく真面目な顔で深く頷いた。
「つまり、その『使徒』という上位存在は、認知言語学における人類史上最大級の教育革命を瞬時に成し遂げたと。それほどの超常の奇跡、まさに神の御業に相応しい」
「たぶん使徒の意図した方向性は違いますけど、結果だけ見ればそうかもしれませんね……」
そんな私たちの不毛なやり取りを聞きながら、ティーユが漫画から顔を上げて楽しそうに笑った。
「祐奈って、世界を救うリーダーに選ばれた割には、意外と普通だよね」
「しがない元会社員ですからね。普通で上等ですよ」
私はまた一歩、遠い目をしながら答えるのだった。
このまま話していても、、会話がどんどん高度なすれ違い漫才のような方向へ転がっていく。私は軽く首を振って思考を切り替え、本来の目的を思い出した。
食事と、一番偉いAIとの面会だ。
「えっと……食事については用意していただけると聞いているんですけど。ミルクさんの上司……というか、私に会わせたい人はどこにいるんですか?」
私の問いに、ミルクはカチッと音を立てるように姿勢を正して答えた。
「はい。食事につきましては、創造主様方のために最優先で準備を進めています。また、私の上位管理個体であるマザーAIは現在、南極統合管理施設におります。現在の航路ですと、およそ数分後に到着予定です」
「南極……」
思わず、オウム返しに聞き返してしまった。
つまり私は数分後、この文明で最も偉い存在と面会することになるらしい。
ただの中小企業の会社員だった私が、5000年後の超文明を管理する最高責任者と会談する。状況のスケールが大きすぎて現実感がまるで湧かない。
((いや、それ以前に……重大な問題があるぞ……)
私は、自分の今の格好をそっと見下ろした。
お気に入りのTシャツに、履き古したジーンズ。どこにでもいる一般人の「ちょっとそこまでの休日」みたいな、この上なくラフな服装である。
そして、これからミルクたちが私を連れて行こうとしている目的地の名前は『南極』。
(私、凍死しない?)
急に不安になった。
慌てて隣のティーユを見る。長袖にマントのようなお洒落な防寒風の服装をしていて、少なくとも私よりは遥かに暖かそうだ。
もっとも、この人の場合、寒さごときで困る姿そのものが全く想像できない。
空間を支配する収納魔法を使い、狂ったように揺れる降下艇の中で平然と直立し、何事もないように漫画を読み続けるような存在だ。南極の吹雪程度で音を上げるとは到底思えない。
つまり──ここで物理的に凍死の危機に瀕している問題児は、私だけだった。
「あの、ミルクさん」
「はい、何でしょうか祐奈様」
「南極って……その、生身の人間からすると、すごく、ものすごく寒いですよね?」
私が恐る恐る尋ねると、ミルクは一瞬、何を聞かれたのか分からないという風にきょとんとした顔になった。
そして次の瞬間、何らかの致命的なシステムエラーでも検知したかのように、その美しい目をご開帳の如く見開いた。
「……っ、あ」
その、あからさまに「忘れてた」という反応を見て、私の胃が嫌な予感でキュッと締め付けられる。
どうやら彼女、あるいは全軍のネットワークは、今の今まで「創造主が寒さに凍えるタンパク質の塊である」という大前提を完全に失念していたらしい。私の指摘を聞いた瞬間、ミルクの表情はカチコチに固まった。
数秒ほど、機内に沈黙(処理落ちのフリーズ)が流れた後、その芸術品のような白い顔がみるみる青ざめていく。
「ど……どうしましょう……」
普段は冷静な彼女が、珍しく狼狽えていた。
「私たちAIの義体は、熱暴走を防ぐため、むしろ低温環境のほう性能を最大限に維持しやすいのです。ですので、我が軍のデータバンクには、余程の機体凍結レベルの極限環境でもなければ『防寒着』という概念、および設計図自体が存在しません……!」
事の重大さに今更気づいたらしい。ミリタリーAI、生身の人間の介護に絶望的に向いていない。
私は思わず遠い目になった。
まさか三千年後の超科学文明に来て、原始的な「衣食住」の問題に悩まされるとは思わなかった。
住む場所については、おそらくあの地平線を埋める巨大戦艦を間借りすれば何とかなるだろう。食事も最優先で最高級メニューを用意してくれるらしいので問題ない。だが、服だけはどうにもならない。超文明だろうが神の領域だろうが、マイナス何十度の世界にTシャツ一枚で放り出されれば、人間は等しく凍えるのだ。
(どうする……?)
私が腕を組んで考え込んでいると、不意に袖が引っ張られた。
振り返ると、オレンジ髪の魔術師──ティーユが何やらニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「ん?」
彼女は、持っていた漫画をパッと消すと、両手を胸の前まで軽く持ち上げた。
次の瞬間だった。
──ぽんっ。
まるで安っぽい手品のような軽い音と共に、何もない空中から、モコモコとした分厚い冬用の高級そうなコートが現実に出現した。
それだけではない。
ぽん、ぽん、と小気味いい音を立てて、カシミアらしき暖かそうなマフラーや、裏起毛の手袋までが完璧なセットになって次々とドロップされたのだ。
ティーユは満面の得意げなドヤ顔を浮かべながら、それらの防寒具一式を私に向かって差し出してきた。
「じゃーん! これで解決だね!」
「……」
「……」
私とミルクは、同時に完全に沈黙した。
そして数秒後。
「便利すぎませんか?」
私が思わず、乾いた声でそう呟くと、ティーユは満足そうにふんっと胸を張った。
「便利だよー」
その顔に悪気は一切ない。
私は、彼女からマフラーを受け取りながら改めて深く理解した。
この人はやはり、世界を滅ぼす危険人物などではない。
危険なほどに『便利』な人物なのだ。
未知の物理法則を無視した収納魔法。
機内を照らす間接照明のような発光魔法。
物理法則を置き去りにする最強の体幹。
そして、ミルクがパニックを起こした寒冷地対策(コート一式)までその場で完備。
これだけ何でも一人でスマートに解決できる万能のカードなのだとしたら、故郷の世界でどれだけ炎上問題を起こしたとしても、周囲の王族や権力者たちから最後まで決して見捨てられなかった理由もよく分かる。
きっとみんな、最後には胃薬を飲み干しながら、『まあ……ティーユだしな』で全てを納得し、彼女を頼りにしてきたのだろう。
一方のミルクはというと、目の前で起きた「概念なき防寒具の空間生成」という超常現象を自身の量子脳で理解しようとして、今度こそ盛大に処理がパンクしているようだった。
「空間圧縮……? 物質転送……? いや、事前反応が存在しない……?」
ミルクはぶつぶつと壊れたラジオのように呟きながら、必死に思考の迷宮を彷徨っていた。
しかし数秒後。
「……考えるだけ無駄ですね」
綺麗に諦めた。
ミルクはすっぱりと綺麗に諦めた。
私はティーユから受け取ったふかふかの防寒着一式を急いで着込む。サイズは驚くほどぴったりだった。と同時に、ミルクからまもなく目的地へ到着する旨を告げられる。
私は着陸の衝撃に備え、壁面の固定用ベルトを再び強く握りしめた。
やがて、降下艇がガガガッと大きく揺れたかと思うと、今度はエレベーターが急停止したときのように身体がわずかに宙へ浮く感覚に襲われた。
「うわっ……」
ドスン、という重い接地音。どうやら無事に南極へ着陸したらしい。
私が反射的に隣のティーユの方を見ると、彼女は相変わらずブレない体幹で平然と直立していた。ティーユはキリのいいところで漫画をパッと閉じると、それをまた一瞬で虚空のどこかへ消し去る。
「到着したみたいだね、祐奈」
その直後、プシューッという排気音とともに降下艇の重厚なハッチがゆっくりと開いた。外から南極特有の刺すような冷気がブワッと流れ込み、私はコートの上から思わず肩をすくめる。
ハッチの向こうには、先ほどミルクが引き連れていた、あの赤く光るセンサーを持った無骨な人型兵士ロボットが一体、案内役のように佇んで待機していた。
すると、その鋼鉄のロボットの頭部から、聞き慣れたミルクの凛とした声が響いた。
「大気圏突入時の揺れは大丈夫でしたか? 創造主様、こちらへどうぞ」
「……え?」
私は一瞬、その状況を理解できずに言葉を失った。思わず、室内の固定フレームの方へと振り返る。
そこには、先ほどまで私と言語の壁について熱く会話していた、あの白い髪に軍服姿の美しい少女──ミルクが座っている。
しかし、様子が明らかにおかしかった。
微動だにしない。
瞬きもしない。呼吸のような胸の上下もない。先ほどまであった、あの新米上司のような愛嬌ある生命感が、その肉体から完全に消え失せていた。まるで、ショールームに置かれた精巧なマネキンドールだ。
私は再び、外で手招きしている無骨なロボットを見る。そして、機内の軍服の少女を見る。もう一度、赤い目のロボットを見る。
「えっと……」
頭の中で情報が全く整理できない。
「あの、どうかされましたか、祐奈様??」
鋼鉄のロボットが、ガシャリと不気味な金属音を立てて、不思議そうに首を傾げた。その声のトーンも、イントネーションも、紛れもなく「ミルク」そのものだ。
私はとりあえず、一番確実そうな事実確認をすることにした。
「えっと……ミルクさんは、あそこに座っている『彼女』、ですよね?」
動かなくなった軍服の美少女を恐る恐る指差す。
すると、目の前の厳つい兵士ロボットは、その赤いセンサーをパチパチと明滅させながら即座に答えた。
「いいえ。現在あなたと対話している、こちらの筐体がミルクです。あちらの儀体は現在、スタンドバイ(スリープモード)状態にあります」
(……待って。五千年後の未来には、同じ名前の人間が複数存在するの? それとも、あの美少女はただの『リモコン』だったの!?)
元会社員の貧弱な常識は、南極の寒さを迎える前に、未来のAIの仕様によって完全に凍りつくのだった。
5000年後には同じ名前の人間が複数存在するのだろうか。
それとも双子なのだろうか?いや、そもそも人間なのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなる。
そんな私の大混乱をよそに、ティーユは興味津々といった様子で、すっかり動かなくなったフレームの中の軍服姿の少女へ近づいていた。
そして、その白い頬を小さな人差し指で遠慮なくつつき始める。
ぷにぷに。
──反応なし。
もう一度つつく。
ぷにぷに。
──やはり、反応なし。
「……んー、本当にピクリとも動かないね。抜け殻になっちゃった」
「予備義体ですので」
ハッチの外にいる、あの無骨な兵士ロボットが当然のように鋼鉄の顎を鳴らして答えた。
「予備義体?」
その機械的な響きに、私はまたしても強烈な胃痛の予感がした。赤いセンサーを発光させるロボットのミルクは、何でもないことのように説明を重ねる。
「先ほど機内で会話していたのは、あちらの第一義体です。そして現在会話しているのは、こちらの第二義体となります」
「はい?」
「はい」
「いや、『はい』じゃなくて」
祐奈は頭を抱えた。
どうやら自分は今、生身の人間が電話の端末を持ち替える程度の、それこそ極めてカジュアルな感覚で『自分の身体』を交換する未知の種族と会話しているらしい。
私は自分の正気を保つため、現実を確認するようにロボット姿のミルクへ問いかけた。
祐奈は確認するようにロボットのミルクへ問いかけた。
「えっと……『ぎたい』って何なんですか? もしかして……身体を簡単に移動できるんですか?」
自分の予想が正しいのか確信が持てず、私は恐る恐る尋ねた。
人間では到底考えられない、怪談かホラー映画のような光景だった。つい数分前まで可愛い猫のブローチをつけた軍服姿の美少女と懇ろに握手を交わしていたはずなのに、今は厳つい殺人ロボットが全く同じ可愛い声で喋っているのだ。
ロボットのミルクは機内のフレームで眠る軍服姿の少女を無機質な金属の指で指差した。
「はい。こちらの義体は寒冷地での長時間活動に適しておりませんので、南極用の義体へ切り替えました」
まるで、外の天気が悪いから厚手の服に着替えました、とでも言うかのような平然とした口調だった。
「義体とは、私たちAIが、主機サーバーの外部で物理的な作業を行うための『器(アバター)』です。創造主様の生きておられた時代で言うなら、ネット上の仮想アバターに近い概念でしょうか」
「アバター……」
その言葉を口の中で反芻する。
なるほど、理解はできる。デジタルデータである彼女たちの本体はネットワーク側にあり、目の前で眠る美少女も、今話している厳ついロボットも、どちらもミルク本人が操る端末(アバター)に過ぎないということだ。
理解はできる──だが、心が全く納得を拒否している。
「じゃあ……その気になれば何体も同時に身体を持てたりするんですか?」
ミルクは、頭部のセンサーをチカチカと点滅させ、少し考えるような間を置いてから答えた。
「システム的には可能です。ただし私たち自律型AIは通常、一つの独立した意識を一基の義体で運用します。複数の義体を同時に完全同期運用すると、並列処理の負荷により全体の処理効率が著しく低下しますので、通常は推奨されません」
まるで、パソコンのCPUの性能やメモリの消費効率の話をするような説明だった。
私は右手で額を押さえる。生まれた瞬間から死ぬ時まで、身体がたった一つしかないことを前提に生きてきた人間からすると、生命に対する価値観そのものが違いすぎる。
「つまり……ミルクさんは今、身体を着替えたような感覚なんですか?」
「はい。その認識で概ね正しいです」
「着替える感覚で身体を交換するのやめてもらえませんか!?」
私の胃痛混じりのツッコミの声が、南極の白い寒空へと大きく響き渡るのだった。
ロボット姿のミルクは、ガシャリと無骨な金属の首を少しだけ傾げた。
「ですが祐奈様、人間である創造主様方も、状況に応じて毎日衣服は着替えますよね?」
「身体と服は根本的に違うんですよ!」
「そうなのですか?」
「そうなんです!」
私が全力で言い返すと、横でそのやり取りを特等席で聞いていたティーユが我慢できずに吹き出した。
「ぷっ……あははは!」
「笑い事じゃないです!」
「いや、ごめんごめん。でも確かに、私たち人間からすると、中身が急に別のデカい鉄の塊に引っ越すのは普通に怖いかもね」
ティーユはそう言って笑いながら、未だフレームの中で座ったまま動かない、美少女姿のミルクの頬を再び人差し指で突き始めた。
ぷにぷに。
「これ空っぽなんだよね?」
「はい」
「すっごく精密で高そう」
「はい。我が軍の最新鋭の生体技術が詰まっております」
「欲しい」
「駄目です」
「だよねー」
ティーユたちの息の合った漫才のような会話を聞きながら、私は防寒コートの襟を正しつつ、本日何度目か分からない深いため息をついた。
どうやら5000年後の未来のAIたちは、生身の人間がどれほど『視覚情報』に頼って他者を認識し、コミュニケーションをとっているのかを根本的に理解していないらしい。
「あのですね、ミルクさん。人間っていうのは、相手の顔や姿、その固有のカタチを見て『この人は誰々だ』って覚える生き物なんです」
私が諭すように言うと、赤いセンサーのロボットは素直にコクコクと首を縦に振った。
「はい、データとしては認知しております」
「だから、そんな簡単に身体を変えられると、誰が誰だか分からなくなるんですよ」
ミルクはなおも不思議そうに、鋼鉄の首を傾げる。
「ですが、私のコアデータに紐づいている個体識別番号(ID)は一切変わっておりません。ネットワーク上では常に私が『ミルク』であると証明されています」
「番号じゃなくて見た目の話をしてるんです!」
思わず声が大きくなった。
ミルクはぴたりと動きを止める。
私の気迫に押されたのか、ロボットのミルクはぴたりと動きを止める。
額を右手で押さえ、元・上司としての部下指導の経験を総動員しながら、頭を抱えたくなる気持ちを必死に堪えて言葉を続けた。
「極端な話ですよ? 今のミルクさんが毎日違う姿になっていたら、私は誰を見て話しているのか分からなくなります」
「なるほど……」
ミルクは頭部の赤いセンサーを小さく明滅させ、ロボットの太い腕を組んで、少し考え込むような仕草を見せた。
私の真剣な訴えを聞いて、ロボットのミルクは演算を回すように頭部のセンサーをチカチカと明滅させている。その反応を見て、私はさらに言葉を重ねた。
「姿がコロコロ変わってしまったら、名前を付ける意味だって薄くなります。人間は『顔』と『名前』を結び付けて相手を覚えるんですから」
その言葉に、横で聞いていたティーユも「うんうん」と頷いた。
「まあ、こんな簡単に姿を変えられるのは神様くらいしか知らないなぁ」
祐奈は反射的に同意しかけて――途中で止まった。
いや、その例えはどうなんだろう。
会ったこともない存在を基準にされても困る。
むしろ話が余計にややこしくなっている気がする。
しかし、私の懸念通り、ミルクは何かを独自に解釈したらしく、ロボットの太い首を小さく縦に振った。
「なるほど……。視覚情報による個体認識の固定化。創造主とは、それほどまでに繊細な生命のカタチを重んじるものなのですね」
そして、その鋼鉄の頭部から少しだけ困ったような電子音が漏れる。
「ですが、どうしましょう。マザーAIの統合管理施設までは徒歩で二分ほどです」
「二分ですか?」
「はい。ただし、生体組織を模したこちらの第一義体(軍服姿)ですと、防寒対策なしでの南極環境下では、表面皮膚および末梢回路の急速な低温劣化が発生します。マスターの『見た目』を維持する観点から言えば、私としてはこの姿での屋外移動はあまり推奨できません」
祐奈は言葉に詰まった。人間なら寒ければ風邪をひくし、AIなら寒ければ劣化する。
似ているようでいて、根本的には全く違う。
そんな風に未来のテクノロジーの壁に頭を悩ませていると、横からティーユが自信満々に一歩前へ出た。その可愛らしい唇に、どこか得意げな笑みを浮かべている。
「じゃーん!」
──ぽんっ。
軽いお約束の音と共に、またしても何もなかった虚空から、今度はやや小ぶりな分厚い防寒用コートが現れた。
もう誰も声を上げて驚かない。いや、本当は驚いているのだ。ただ、この規格外の英雄を相手にいちいち驚いていては、私の胃がいくらあっても足りない。要するに、驚くことに疲れてしまっただけである。
ティーユは新しく出したコートを両手で広げながら、ロボットのミルクへと見せた。
「これなら、その可愛い方の身体でも外を歩けない?」
今まで喋っていた人型兵士ロボットが、ガシャリと完全に動きを止める。
そして次の瞬間──。
さっきまでシートに座ったまま、ピクリとも動かず完全な『人形』と化していた軍服姿のミルクが、ゆっくりと、その細い瞼を持ち上げた。
赤い瞳の奥に、すっと静かな光が灯る。まるで、空っぽの器に一瞬で『魂』が宿ったかのような劇的な変化だった。
軍服姿のミルクは立ち上がると、ハッチを抜けてティーユの元へと歩み寄り、差し出されたコートの布地を白手袋の指先でそっとなぞった。
軍服姿のミルクはティーユからコートを受け取ると、布地を指先でなぞる。
縫製パターンのスキャン。
使用されている繊維素材の解析。
生地の厚み。
内側の断熱構造──。
一つ一つを、軍人らしい厳格さで確かめるように丁寧に調べていく。
数秒の静寂の後。ミルクは顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめた。
「……衣服の断熱効率、および私の熱量保持システムの連動を確認。これだけの防寒性能があれば、第一義体のままでもシステムにダメージを受けずに現地へ移動可能です」
その凛とした声には、どこかホッとしたような、安堵の響きが含まれている気がした。
ミルクはティーユから手際よくコートを受け取って羽織ると、小さく一礼する。
「創造主様のご希望である『見た目の固定』に添えるようになりました。ありがとうございます、ティーユ」
ティーユも、自分の魔法が役に立って満足そうに笑う。
「よかったよかった。じゃあ、早くその偉いAIのところに行こ!」
防寒コートを着込んで並んで歩き出す二人の後ろ姿を見ながら、私は胸の奥で、なんとも言えない複雑な気持ちになっていた。
価値観が、あまりにも違う。
常識が、次元ごと違う。
生まれた世界も、育ってきた背景も違う。
──そもそも、私たち三人は『種族』そのものが根本から違うのだ。
一人は、人類が滅び去った五千年の未来を健気に生きる、超科学の申し子であるAI。
一人は、遥か神話の時代から不老不死のまま存在し続ける、魔法の世界の英雄。
そして自分は、2026年の日本から急に拉致されてきた、どこにでもいるただの無力な人間。
本当に、この先うまくやっていけるのだろうか。
これから出会うトップAIも含めて、私たちは本当の意味で意思疎通ができるのだろうか。
そんな根深い不安が、じわりと胸の奥深くに広がっていく。
私は、ハッチの外から吹き込んできた南極の容赦ない冷気とは、また別の意味での不穏な「寒気」が、自分の背筋を静かに駆け抜けていくのをはっきりと感じるのだった