降下艇の内部へ足を踏み入れた瞬間、祐奈は思わず足を止めた。
そこはまるで巨大な金属製の箱の中だった。
壁も床も天井も無機質な金属板で覆われており、椅子らしい椅子すら存在しない。照明設備も見当たらず、開いたハッチから差し込むわずかな外光だけが内部をぼんやりと照らしていた。
「……さすがに暗くないですか?」
祐奈が恐る恐る尋ねると、ミルクは申し訳なさそうに肩を落とした。
「申し訳ありません。本機は兵員および軍用AIを輸送するための降下艇ですので……」
いつもの冷静な口調ではあるが、どこか元気がない。
「本来であれば外交用降下艇をご用意すべきだったのですが、我々の艦は純粋な戦闘艦です。皆様をあの場所へ少数戦力で残しておくのも危険だと判断しまして……」
最後の方は言い訳をしているようにも聞こえた。
先ほどまで冷徹な軍人に見えていたミルクが、今は上司に叱られる部下のように見える。
祐奈は思わず苦笑した。
「いや、大丈夫ですよ。軍の飛行機に豪華な客室がないのは当然ですし」
「……ありがとうございます」
ミルクは少しだけ安心したように頷いた。
その直後、降下艇のハッチがゆっくりと閉じ始める。
外から差し込んでいた光が徐々に細くなり、やがて完全な闇が訪れた。
何も見えない。
祐奈は内心で(いや、さすがに暗すぎるだろ……)と呟いたが、せっかく安心したミルクに追い打ちをかける気にもなれず、そのまま黙っていた。
そんな沈黙を破ったのはティーユだった。
「真っ暗だね。これじゃ漫画も読めないや」
のんびりとした声が闇の中に響く。
祐奈は思わず、隣でミルクが再び落ち込む姿を想像してしまった。
するとティーユが小さく声を漏らした。
「んー……」
次の瞬間。
彼女の指先が淡く輝き始めた。
「えっ?」
祐奈は目を見開く。
指先から生まれた四つの光球が、ふわりと宙へ浮かび上がったのだ。
それらは生き物のように降下艇内部を漂い、やがて四隅の天井へと張り付いた。
柔らかな光が船内へ広がる。
まるで間接照明のような、目に優しい明るさだった。
「……本当に魔法なんだ」
祐奈は呆然と呟いた。
神話や物語の中でしか聞いたことのない存在。
それが今、自分の目の前で当たり前のように使われている。
ティーユが二千年を生きる魔術師であることを、改めて実感する瞬間だった。
だが、その感動は長く続かなかった。
祐奈はふとミルクの方を見る。
すると彼女は、険しい表情でティーユを見つめていた。
嫌な予感がした。
そして、その予感は見事に的中する。
「意味不明なエネルギー反応を機内に展開した理由を説明してください」
ミルクの声は冷たかった。
「場合によっては敵対行動と判断します」
その瞳には明確な警戒心が宿っている。
ティーユはきょとんとした後、少し呆れたように肩をすくめた。
「こんな簡単な照明魔法で?」
そして悪戯っぽく笑う。
「本当に戦闘用AIなの?」
明らかに煽っていた。
(まずい)
祐奈の背筋に冷たいものが走る。
この二人を放置すると、そのうち降下艇ごと吹き飛びかねない。
祐奈は慌てて二人の間へ割って入った。
「ストップ!」
二人の視線が一斉に向く。
「ティーユさん。明るくしてくれたのは本当に助かります。でも、私もミルクさんも魔法なんて見たことがないんです。次からは一言説明してもらえると助かります」
まずはティーユをなだめる。そして今度はミルクへ向き直った。
「ミルクさんも落ち着いてください。これは攻撃じゃありません。ただの照明です」
祐奈は深いため息をつきたい気分になった。目的地へ向かう道中ですらこの調子だ。
これから先、自分の胃が無事でいられるのか…。そんな不安だけが、どんどん大きくなっていくのだった。胸のあたりに、じわりとした違和感が走った。
祐奈は思わず胸に手を当てる。
胃痛……ではないはずだが、胃が痛い気がする。
まだ目的地にも到着していないのに、すでに何度目か分からないトラブルに巻き込まれている。
(先が思いやられるなぁ……)
そんなことを考えていると、降下艇全体が重々しい振動を響かせた。
ゴォォォン――――。
次の瞬間、機体がゆっくりと浮き上がる。
どうやら離陸が始まったらしい。
しかし乗客への配慮など一切ない軍用機である。
椅子もなければ手すりもない。
ただの金属製の箱だ。
祐奈は慌てて周囲を見回した。
何か掴まれるものはないか。視線を巡らせた先に、兵士用ロボットを固定するためと思われるベルト状の器具を見つける。
「これしかないか……」
祐奈は慌ててそれにしがみついた。
降下艇は想像以上に激しく揺れている。
電車どころの騒ぎではない。
大型トラックが悪路を全力疾走しているような振動が全身を突き上げてくる。
そんな中、ふとティーユの方へ目を向けた。
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れる。
ティーユは普通に立っていた。
それだけではない。片手で漫画を持ち、ページをめくりながら読書を続けている。
まるで自宅のリビングでくつろいでいるかのような自然さだった。
激しい揺れにも関わらず、体は一切ふらつかない。
重心がぶれる様子すらない。
一見すると何気ない光景だ。
しかし、この環境で平然と立っていられる時点で十分に異常だった。
祐奈が呆然としていると、今度はミルクも同じことに気付いたらしい。
固定用フレームの中からティーユを凝視している。
そして、ついに我慢できなくなったのか声を掛けた。
「ティーユ……」
その声には、明らかな困惑が混じっていた。
「あなた、物理法則に反していませんか?」
ティーユは漫画から顔を上げる。
「ん?」
「反重力装置ですか? 慣性制御装置? それとも高性能ジャイロシステム……?」
ミルクは首を傾げた。普段の冷静沈着な軍人らしからぬ姿だった。
どうやら頭の中で必死に計算しているらしい。
未知の技術として解析を試みているのだろう。
だが答えは出ない。
なぜならティーユが使っているのは技術ではなく――魔法だからだ。
ティーユはしばらく考え込み、
「うーん……」
と首を傾げた。そして当然のように答える。
「足で立ってるだけだけど?」
祐奈は遠い目をした。
(いや、そこは魔法じゃないんかい!)
思わず心の中で全力のツッコミを入れる。
反重力だの慣性制御だの難しい話をしていたが、結局ティーユの答えは『足で立っているだけ』だった。どういう理屈なのか全く理解できない。
しかし、一つだけ分かったことがある。
英雄と一般人は根本的に違う。それも、自分が思っていた以上に。祐奈は固定ベルトにしがみつきながら、改めてティーユを見る。
激しく揺れる降下艇の中で、彼女だけが別の世界にいるかのように平然としていた。
汗一つかかず、呼吸一つ乱さない。
まるで揺れていること自体を認識していないようだった。
(もしかして神話の英雄って……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。昔の神話や伝説では、英雄たちがとんでもない怪物を倒したり、不可能な冒険を成し遂げたりしている。
子供の頃は誇張表現だと思っていたが、今なら少しだけ分かる気がした。
彼らは最初から人間とは性能が違ったのではないだろうか。
もし目の前にいるティーユが基準なら、神話の英雄たちが無茶苦茶な活躍をした理由にも納得できる。祐奈はそんな結論に至り、少しだけ遠い目になった。
それから2分ほど経っただろうか。
機体を揺らしていた振動が徐々に弱まっていく。
どうやら揺れは収まったらしい。祐奈は固定ベルトから手を離した。
「いったたた……」
思わず顔をしかめる。少し足が痛い。全身がじんわりと痺れている。
振動するダイエット器具の上に立たされていた気分だった。
その横ではティーユが平然としている。
むしろ快適そうですらあった。
(やっぱり英雄っておかしいな……)
そう思いながら何気なくティーユへ視線を向けた瞬間。祐奈は違和感に気付いた。
「あれ?」
ティーユが読んでいる本は、第四巻だったはずだ。だが今は第五巻になっている。
「えっ、本が変わってない?」
祐奈が思わず声を上げると、ティーユは顔を上げた。
「うん?」
「いや、その本」
「読み終わったから次の巻だよ」
当然のような返答だった。しかし祐奈は混乱する。
ティーユはカバンを持っていない。本を置く場所もなかった。
そもそも降下艇の床を見ても、どこにも漫画は落ちていない。
では、四巻はどこへ消えたのか。
祐奈が考え込んでいると、ティーユは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
その様子を見て、祐奈は嫌な予感を覚える。
この質問をしたら、また常識が一つ壊れる気がした。しかし気になってしまった以上、聞かないわけにもいかない。
「ティーユさん……その本、どこにしまったんですか?」
その瞬間、ミルクも反応した。
先ほどまで思考停止していたはずなのに、今度は獲物を見つけた研究者のような目でティーユを見つめている。
どうやら彼女も気付いていたらしい。
そして祐奈は確信した。
この質問の答え次第で、また一騒動起きる。
ティーユは祐奈の質問を聞くと、にこりと笑った。
そして左手を軽く持ち上げる。
そこには先ほどまで読んでいた第五巻の漫画が握られていた。
「こうやってね」
次の瞬間だった。
何の前触れもなく、漫画が消えた。
「え?」
祐奈が目を瞬かせる。
そして一拍遅れて気付いた。
今度はティーユの右手に漫画が握られていたのだ。
左手から右手へ。
まるで瞬間移動したかのように。
ティーユは得意げに胸を張る。
「マジック」
祐奈は思わず叫んだ。
「いや、どっちの意味で!?」
手品なのか。
魔法なのか。
そのツッコミが面白かったのか、ティーユは満足そうに笑っている。
一方でミルクは真剣な顔のままだった。
「理解不能です」
彼女は漫画とティーユの手を交互に見比べる。
「物理法則を超越した現象なのですか?」
「うーん」
ティーユは少し考える。
「収納魔法だね」
あっさりと答えた。
「私の世界でも結構難しい部類だよ。使える人はそんなに多くないかな」
そして懐かしそうに続ける。
「戦争の時なんか便利だったよ。補給路が切れちゃった部隊に食料とか武器とか運ぶ仕事をよく頼まれてたんだ」
「武器まで入るんですか……」
「入るよー」
ティーユは笑顔で答える。
「みんな凄く喜んでくれたなぁ」
祐奈は何となく納得してしまった。
王族の友人がいた理由。
二千年も生きながら周囲に受け入れられていた理由。
そして問題ばかり起こしているのに完全に見捨てられなかった理由。
ティーユという存在は危険でもあるが、それ以上に便利なのだ。
災害が起きれば助けられる。
戦争が起きれば補給できる。
多少の問題行動を起こしたとしても「まあ、ティーユだし」で済まされてきたのだろう。
祐奈はそんな結論に至った。
その頃、ミルクは難しい顔で考え込んでいた。
眉間には深い皺が刻まれている。
おそらく全力で理論化を試みているのだろう。
しかし数秒後。
ミルクはゆっくりと目を閉じた。
そして諦めた。
「これ以上考えるとバグを生成しそうです」
深い皺が消える。どうやら思考を放棄したらしい。
だが次の瞬間。ミルクは尊敬の眼差しで祐奈を見た。
「なるほど……」
嫌な予感がした。
「創造主様たちは、このような超越した能力を持つ存在だったのですね。私たちを創造できたのも納得です」
「はい?」
祐奈は固まった。
なにやら、とてつもない誤解をされている気がした。私は慌てて両手を振る。
「いやいやいや! 違いますから! ティーユさんが人間として外れ値なだけで、普通の人間はそんなことできませんからね!」
するとティーユが不思議そうに首を傾げた。
「えっ?」
その反応に、今度は私の方が嫌な予感を覚えた。
「……何か変なこと言いました?」
「だって、収納魔法くらいなら使える人は結構いたよ?」
「結構?」
私は思わず聞き返した。ティーユは指を折りながら数え始める。
「王家の宮廷魔術師さんとか、神殿の司祭さんとか、あとは騎士団にいた魔法使いの人とか」
「はい、ストップ」
私は即座に制止した。
「その人たち、全員とんでもないエリートでは?」
「そうなの?」
ティーユは本気で驚いたような顔をした。どうやら自覚がないらしい。
私は額を押さえながら説明する。
「私の世界で例えるなら、その人たちは国のトップ研究者とか特殊部隊とか、そのレベルの人たちですよ」
「えっ……」
今度はティーユが固まる番だった。
しばらく考え込んだあと、彼女はぽつりと呟いた。
「そういえば……私、あんまり普通の人と関わったことなかったかも」
私は遠い目になった。
二千年生きた神話級の英雄。
王族と友達。
神様の依頼を受けて世界を飛び回る使徒。
その時点で薄々気付いてはいたが、どうやら彼女の交友関係は最初から最後まで上澄みばかりだったらしい。
「ティーユさん、もしかして一般人の知り合い少なくないですか?」
「うーん……言われてみればそうかも?」
ティーユは困ったように笑った。どうやら本当に今気付いたらしい。
そのやり取りを聞いていたミルクが、何やら考え込むように顎へ手を添える。
「なるほど。つまりティーユという個体は、人類社会において極めて特殊な立場だったのですね」
「そういうことです」
私は大きく頷いた。
ティーユが異常なスペックをしていることを何としても理解してもらわなければならない。
「あのですね。これが人類の一般的な能力だと認識されると、私がすごく困るんですよ。実際問題、ティーユさんのような超常現象ができない=人間ではない、なんて認識されたら、私は真っ先に人類失格扱いです」
するとミルクは即座に首を横に振った。
「いえ。優奈様が創造主であると完全に確定したわけではありませんが、排除するなどありえません」
「そういう話じゃないんですよ……」
私は思わず頭を抱えた。
どうしてこの人は毎回、話を微妙に違う方向へ持っていくのだろう。
ティーユも少し申し訳なさそうに肩をすくめる。
「ごめんね。私、また変なこと言っちゃったかな?」
「少しだけです」
私は即答した。
話が一歩前進するたびに三歩横道へ逸れていく。
やはり、三つの異なる世界の出身者が集まるとこうなるのだろうか。
生まれた時代も違う。育った文化も違う。持っている常識も違う。
ついでに言えば、身体能力や魔法の有無まで違う。
ここまで条件が違えば、分かり合えなくても仕方がないのかもしれない。
「やっぱり、文化も時代も生まれも違うと大変ですね……。ましてや言語まで違うとなると――」
そこまで口にした瞬間、私はふと違和感を覚えた。
「あれ? そういえば、なんで普通に会話できてるんだ?」
私は首を傾げる。今さらだった。
あまりにも今さら過ぎた。
だが、考えてみればおかしい。
私は日本語を話している。ティーユはアイルランド出身だと言っていた。少なくとも元々は英語圏のはずだ。
そしてミルクに至っては、三千年後の未来人――いや、未来のAIである。どんな言語を使っていても不思議ではない。
それなのに、こうして普通に会話が成立している。
私が疑問を口にすると、ティーユがきょとんとした顔になった。
「え? 言ってなかったっけ?」
「聞いてません」
「使徒がね、会話とか文字を理解できるようにしてくれたんだよ」
ティーユは当然のように答えた。そして少し得意げな笑みを浮かべる。
「おかげで漫画も読めるしね!」
そう言って手に持っていた単行本をひらひらと振る。
「いや~、かなりいい特典だと思わない?」
「それは間違いなく大当たりの特典ですね」
私は即座に同意した。
もし私が英語を完璧に話せて読める能力を手に入れていたら、中小企業の中間管理職などやっていない。もっと給料の良い会社に転職していた自信がある。
むしろ、それだけで人生の難易度がかなり下がる。私がしみじみと現実的な感想を抱いていると、ミルクが不思議そうに口を開いた。
「言語理解能力は、創造主様方にとっても貴重な能力だったのですか?」
「そりゃそうですよ」
私は力強く頷いた。
「人類は昔から、外国語の勉強で泣かされ続けてきたんです」
「なるほど……」
ミルクは真面目な顔で頷く。
「つまり、その使徒という存在は、人類史上最大級の教育革命を成し遂げたと」
「たぶん方向性は違いますけど、結果だけ見ればそうかもしれません」
そんなことを話していると、ティーユが楽しそうに笑った。
「優奈って、意外と普通だよね」
「会社員ですからね」
私は遠い目をしながら答えるのだった。
このまま話していても、会話がどんどん漫才のような方向へ転がっていく。
私は軽く頭を振り、本来の目的を思い出した。
食事と、一番偉いAIとの面会だ。
「えっと……食事については用意していただけると聞いているんですけど。ミルクさんの上司……というか、私に会わせたい人はどこにいるんですか?」
私の問いに、ミルクは姿勢を正して答えた。
「はい。食事につきましては、創造主様方のために最優先で準備を進めています。また、私の上位管理個体であるマザーAIは現在、南極統合管理施設におります。現在の航路ですと、およそ数分後に到着予定です」
「南極……」
思わず聞き返してしまった。
つまり私は数分後、この文明で最も偉い存在と面会することになるらしい。
ただの中小企業の会社員だった私が、三千年後の超文明を管理する最高責任者と会談する。
状況のスケールが大きすぎて現実感がまるで湧かない。
(いや、それ以前に……)
私は自分の格好を見下ろした。
Tシャツにジーンズ。
どこにでもいる一般人の休日みたいな服装である。
そして向かう先は南極。
(私、凍死しない?)
急に不安になった。
慌てて隣のティーユを見る。
長袖にマントのような服装で、少なくとも私よりは暖かそうだ。
もっとも、この人の場合、寒さで困る姿そのものが想像できない。
収納魔法を使い、揺れる降下艇の中で平然と立ち続け、本を読み続けるような存在だ。
南極の吹雪程度で音を上げるとは到底思えない。
つまり問題なのは私だけだった。
「あの、ミルクさん」
「はい」
「南極って……その、すごく寒いですよね?」
私が恐る恐る尋ねると、ミルクは一瞬きょとんとした顔になった。
そして次の瞬間、信じられないというように目を見開いた。
「……あっ」
その反応を見て、私の胃が嫌な予感で締め付けられる。
どうやら彼女は今の今まで、その問題を完全に忘れていたらしい。
私の質問を聞いた瞬間、ミルクの表情が固まった。
数秒ほど沈黙した後、その美しい顔がみるみる青ざめていく。
「ど……どうしましょう……」
普段は冷静な彼女が、珍しく狼狽えていた。
「私たちAIの義体は、むしろ低温環境のほうが性能を維持しやすいのです。ですので、余程の極限環境でもなければ防寒着という概念自体が存在しません……」
事の重大さに気付いたらしい。
私は思わず遠い目になった。
まさか三千年後の超科学文明に来て、原始的な「衣食住」の問題に悩まされるとは思わなかった。
住む場所については、おそらくこの巨大戦艦を間借りすれば何とかなるだろう。
食事も用意してくれるらしいので問題ない。
だが服だけはどうにもならない。
超文明だろうが何だろうが、寒ければ人間は凍えるのだ。
(どうする……?)
私が腕を組んで考え込んでいると、不意に袖が引っ張られた。
振り返ると、ティーユが何やらニヤニヤしている。
「ん?」
彼女は両手を胸の前まで持ち上げた。
次の瞬間――
ぽんっ。
まるで手品のような軽い音と共に、何もなかった空間から分厚い冬用のコートが現れた。
しかも一着ではない。
マフラーや手袋までセットになっている。
ティーユは得意げな笑顔を浮かべながら、それらを私に差し出した。
「じゃーん! これで解決だね!」
「……」
「……」
私とミルクは同時に沈黙した。
そして数秒後。
「便利すぎませんか?」
私が思わずそう呟くと、ティーユは満足そうに胸を張った。
「便利だよー」
その顔に悪気は一切ない。
私は改めて理解した。
この人はやはり危険人物ではない。
危険なほど便利な人物なのだ。
収納魔法。
空間転移。
謎の発光魔法。
そして寒冷地対策まで完備。
これだけ何でもできるのなら、故郷で多少問題を起こしても周囲から見捨てられなかった理由も分かる気がする。
きっとみんな最後には、『まあ、ティーユだし』で納得していたのだろう。
一方のミルクはというと、目の前で起きた現象を理解しようとして盛大に失敗しているようだった。
「空間圧縮……? 物質転送……? いや、事前反応が存在しない……?」
ぶつぶつと呟きながら考え込んでいる。
そして数秒後。
「……考えるだけ無駄ですね」
綺麗に諦めた。
ティーユから防寒着一式を着込むと同時に、ミルクからまもなく到着することを伝えられた。
祐奈は振動に備え、固定用のベルトを強く握りしめる。
やがて降下艇が大きく揺れたかと思うと、今度は身体がわずかに宙へ浮くような感覚に襲われた。
「うわっ……」
どうやら着陸したらしい。
反射的にティーユの方を見る。
相変わらず平然と立っていた。
ティーユは漫画を閉じると、それをどこかへ消し去る。
「到着したみたいだね」
その直後、降下艇のハッチがゆっくりと開いた。外から冷気が流れ込み、思わず肩をすくめる。
そこには、ミルクが引き連れていたロボットが一体待機していた。そのロボットから聞き慣れた声が響く。
「揺れは大丈夫でしたか? こちらへどうぞ」
祐奈は一瞬理解できなかった。思わず振り返る。
そこには先ほどまで会話していた軍服姿の少女――ミルクが座っている。
しかし様子がおかしい。微動だにしない。まるで精巧な人形だ。
瞬きもしない。呼吸もしない。生命感が完全に消えていた。
祐奈は再びロボットを見る。そして軍服の少女を見る。もう一度ロボットを見る。
「えっと……」
頭の中で情報が全く整理できない。
「あの、どうかされましたか?」
ロボットが不思議そうに首を傾げた。
祐奈はとりあえず一番確実そうな確認をすることにした。
「えっと……ミルクさんはこちらですよね?」
軍服の少女を指差す。
するとロボットは即座に答えた。
「いいえ。私がミルクです」
祐奈は固まった。理解不能である。
三千年後には同じ名前の人間が複数存在するのだろうか。
それとも双子なのだろうか?いや、そもそも人間なのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなる。
そんな祐奈をよそに、ティーユは興味津々といった様子で軍服の少女へ近づいていた。
そしてその頬を指でつつく。
ぷにぷに。
反応なし。
もう一度つつく。
ぷにぷに。
反応なし。
「……動かないね」
「予備義体ですので」
ロボットが当然のように答える。
「予備義体?」
祐奈はその言葉を聞いて嫌な予感がした。
ロボットは何でもないことのように説明する。
「先ほど会話していたのはこの義体です。現在会話しているのはこちらの義体です」
「はい?」
「はい」
「いや、はいじゃなくて」
祐奈は頭を抱えた。
どうやら自分は今、人間が電話を持ち替える程度の感覚で身体を交換する種族と会話しているらしい。
祐奈は確認するようにロボットのミルクへ問いかけた。
「えっと……義体って何なんですか? もしかして……身体を簡単に移動できるんですか?」
人間では到底考えられない光景だった。
つい数分前まで軍服姿の少女と会話していたはずなのに、今はロボットが同じ声で話している。
自分の予想が正しいのか確信が持てず、祐奈は恐る恐る尋ねた。
ロボットのミルクは軍服姿の少女を指差した。
「はい。こちらの義体は寒冷地での長時間活動に適しておりませんので、南極用の義体へ切り替えました」
まるで服を着替えましたと言うかのような口調だった。
「義体とは、私たちAIがサーバーの外で活動するための身体です。創造主様の時代で言うなら、アバターに近い概念でしょうか」
「アバター……」
祐奈はその言葉を反芻する。
つまり目の前の軍服の少女も、今話しているロボットも、どちらもミルク本人ということになる。
理解はできるが…だが納得はできない。
「じゃあ……その気になれば何体も同時に身体を持てたりするんですか?」
ミルクは少し考えるような間を置いて答えた。
「可能です。ただし私たちは通常、一つの意識を一つの義体で運用します。複数の義体を同時運用すると処理効率が低下しますので」
まるでパソコンの性能の話をするような説明だった。
祐奈は頭を押さえる。
身体が一つしかないことを前提に生きてきた人間からすると、価値観そのものが違いすぎる。
「つまり……ミルクさんは今、身体を着替えたような感覚なんですか?」
「はい。その認識で概ね正しいです」
「着替える感覚で身体を交換するのやめてもらえませんか!?」
思わず声が大きくなる。
ミルクは少しだけ首を傾げた。
「ですが創造主様も服は着替えますよね?」
「身体と服は違うんですよ!」
「そうなのですか?」
「そうなんです!」
横で聞いていたティーユが吹き出した。
「ぷっ……」
「笑い事じゃないです!」
「いや、ごめんごめん。でも確かに人間からすると怖いかもね」
ティーユはそう言いながら、動かなくなった軍服姿のミルクの頬を再びつついた。
ぷにぷに。
「これ空っぽなんだよね?」
「はい」
「高そう」
「はい」
「欲しい」
「駄目です」
「だよね」
ティーユたちの会話を聞きながら祐奈は深いため息をついた。
どうやらAIたちは、人間がどれほど視覚情報に頼って他者を認識しているのか理解していないらしい。
「ミルクさん。人間って、顔や姿で相手を覚えるんです」
そう言うと、ロボット姿のミルクは素直に頷いた。
「はい」
「だから、そんな簡単に身体を変えられると、誰が誰だか分からなくなるんですよ」
ミルクは不思議そうに首を傾げる。
「ですが、識別番号は変わっておりません」
「番号じゃなくて見た目です!」
思わず声が大きくなった。
ミルクはぴたりと動きを止める。
祐奈は頭を抱えたくなる気持ちを堪えながら続けた。
「極端な話ですよ? 今のミルクさんが毎日違う姿になっていたら、私は誰を見て話しているのか分からなくなります」
「なるほど……」
ミルクは少し考え込むような仕草を見せた。
その反応を見て、祐奈はさらに言葉を重ねる。
「名前を付ける意味だって薄くなります。人間は顔と名前を結び付けて相手を覚えるんですから」
その言葉に、横で聞いていたティーユも「うんうん」と頷いた。
「まあ、こんな簡単に姿を変えられるのは神様くらいしか知らないなぁ」
祐奈は反射的に同意しかけて――途中で止まった。
いや、その例えはどうなんだろう。
会ったこともない存在を基準にされても困る。
むしろ話が余計にややこしくなっている気がする。
しかしミルクは何かを理解したらしく、小さく頷いた。
「なるほど。創造主とはそういうものなのですね」
そして少しだけ困ったような声になる。
「ですが、どうしましょう。マザーAIの施設までは徒歩で二分ほどです」
「二分ですか?」
「はい。ただし軍服型義体ですと寒冷環境による劣化が発生しますので、私としてはあまり推奨できません」
祐奈は言葉に詰まった。人間なら寒ければ風邪をひくし、AIなら寒ければ劣化する。
似ているようでいて、根本的には全く違う。
そんなことを考えていると、横からティーユが一歩前へ出た。
どこか得意げな笑みを浮かべている。
「じゃーん!」
ぽんっ。
軽い音と共に、何もなかった空間から分厚い防寒用コートが現れた。
もう誰も驚かない。いや、本当は驚いている。
ただ、ティーユ相手では驚くことに疲れてしまっただけだ。
ティーユはコートを広げながらミルクへ見せる。
「これで歩けない?」
その瞬間だった。
ロボット姿のミルクがぴたりと動きを止める。
そして次の瞬間。
今まで椅子に座ったまま微動だにしなかった軍服姿のミルクが、ゆっくりと立ち上がった。
まるで魂が宿ったかのような変化だった。
軍服姿のミルクはティーユからコートを受け取ると、布地を指先でなぞる。
縫製。
素材。
厚み。
内側の構造。
一つ一つを確認するように丁寧に調べていた。
数秒後。ミルクは顔を上げる。
「これならダメージを受けずに移動できます」
その声には、どこか安堵したような響きがあった。
「創造主のご希望に添えるようになりました。ありがとうございます」
ティーユも満足そうに笑う。
「よかったよかった」
二人のやり取りを見ながら、祐奈は複雑な気持ちになった。
価値観が違う。
常識が違う。
生まれた世界も違う。
そもそも種族そのものが違う。
一人は三千年後の未来を生きるAI。
一人は神話の時代から存在する英雄。
そして自分は、どこにでもいる普通の人間だ。
本当に、この先うまくやっていけるのだろうか。
意思疎通はできるのだろうか。
そんな不安が胸の奥にじわりと広がる。
祐奈は南極の冷気とは別の意味で、背筋に寒気が走るのを感じるのだった。