名前を忘れた世界   作:あさもみじ

7 / 19
7話:名前のない少女

リニアが進むにつれ、窓の外に見えていた白い塔はどんどん大きくなっていく。

 

 遠くから眺めていた時は、ただの「ひときわ高い建物」にしか見えなかった。

 だが、境界線が近づけば近づくほど、その形状の異様なまでの巨大さが分かってくる

 もはや単一の塔というレベルではない。高層ビル群を数十本丸ごと束ねて一本の巨柱へと無理やり融合させたような、天を衝く巨大建造物(メガストラクチャー)だった。

 

「あれ全部が一つの建物なんですか……?」

 

 祐奈は窓に張り付くようにして、思わず圧倒されながら呟く。。

 

「はい。あの建造物すべてが、この都市のブレインである中央管理塔です」

 

 ミルクは、案内嬢のような澄ました声で当然のように答えた。

 

 ……知ってた。知ってたけど、やっぱり規模がおかしい。

 だが、この世界に来てから何度も常識を破壊され続けてきたのだ。今さら「すごーい!」なんて声を上げて驚くのも、なんだか負けな気がした。私は必死にポーカーフェイスを維持する。

 

 周囲を流れる白い立方体の建物たちにもすっかり目が慣れてきた頃、リニアは前触れもなく静かに減速を始めた。

 ふと足元を見つめると、幾何学的な溝(レール)はいつの間にか、中央管理塔の根元に開いた巨大な空洞へと吸い込まれるように続いていた。どうやら、私たちの目的地はあの塔の真ん中にあるらしい。

 

 ミルクが、カチッと軍靴の音を立てて席を立つ。

 

「まもなくプラットホームへ到着します。お降りの準備をお願いします」

 

 その機械的なアナウンスから数十秒後。

 車両は慣性を完全に無視したかのように、ほとんど揺れることもなく滑らかに停止した。

 

「んんっ──到着かぁ」

 

 ティーユは熱心に読んでいた漫画をパタンと閉じると、両手を上に上げて大きく伸びをした。

「意外と近かったね、祐奈」

 

「そうですね……」

 

 私は立ち上がる前に、警戒するように窓の外の様子を確認した。

 だが、そこに見える景色は相変わらずの、徹底した「拒絶」だった。

 

 白い壁。

 白い床。

 白い天井。

 

 ここが電車の終着駅にあたる空間であることくらいは、元現代人の私にも雰囲気で分かる。

 だが──相変わらず、外へ出るための改札口もなければ、階段も、部屋の入り口らしいドアのノブも見当たらない。

 

「……やっぱり、どこが何だかさっぱり分からない」

 

 思わず、ため息混じりの呟きが漏れる。

 

 もしかすると、この極限の効率化都市は、私のように「誰かに案内されること」を前提に作られているのかもしれない。AIたちのネットワークに入れない生身の人間は、一人では迷子になっての垂れ死ぬしかないのだ。

 そんな、ほんのりとしたディストピアへの不安を胸の奥に抱えながら、私は二人の後に続いてリニアの車両を降りた。

 

 冷たい空気の満ちたホームに出て、ミルクの後を追いながら真っ白な壁へと向かう。

 すると次の瞬間、やはりというべきか、継ぎ目一つ見えなかった綺麗な白い壁が、何もないところから音もなく左右へとスライドして開いた。

 やっぱり、ここが秘密の入り口だったらしい。

 

 もう何があっても驚かないことにした。毅然とした態度でその自動ドアの先へと足を踏み入れた。

 

 そのまま、光を吸い込むような短い通路を進む。

 すると、すぐ目の前でこれまた壁のパーツがスライドし、上品なエレベーターが私たちを待っていた。

 

 三人がその空間へ乗り込むと同時に音もなく扉が閉まり、四角い箱は静かに上昇を始める。

 

 右を見ても、左を見ても、やっぱり壁は白。

 床も白。天井も、蛍光灯の跡すら見えないほど綺麗な白。

 ここまで徹底的に白でごり押しされると、もはや呆れを通り越して感心してくる。もしかしてAIたちって、白い箱に対して人間には理解できない宗教的なレベルの特別な思い入れでもあるのだろうか。

 

 そんなくだらない現実逃避を脳内で繰り広げていると──。

 

──チン。

 

 未来の超文明らしからぬ、どこか聞き慣れた電子音とともに、目の前の扉が左右に開いた。

 私は一歩前へ出た瞬間、網膜を叩いたその光景に、思わず息を呑んで足を止めた。

 今まで歩いてきた無機質な通路とは、あまりにも、どこまでも世界の階層が違っていたからだ。

 

「え……?」

 

 目の前に広がっていたのは、磨き抜かれた大理石の床と、壁面に施された繊細で美しいヨーロッパ調の浮き彫り(レリーフ)装飾。

 空間の中央には静かに清らかな水を湛える噴水があり、その周囲を取り囲むように、瑞々しい緑の低木と、手入れの行き届いた鮮やかな花壇が配置されていた。

 さらに奥には、お洒落な白いガーデンテラスが設けられており、まるで中世の貴族が愛した秘密の空中庭園のような光景が視界一面に広がっている。

 

 天井からは人工投影とは思えないほど柔らかな本物の太陽のような光が差し込み、噴水の水面を静かにキラキラと揺らしている。

 色鮮やかな赤や黄色の花々は、風もないのに微かな甘い香りを漂わせており、さっきまで歩いていたあの冷徹な「豆腐の街」とは、完全に別世界だった。

 

 どこか神聖で、けれどどこか懐かしく温かい。

 機械の効率のためではなく、明らかに「人間が心地よく過ごすため」だけに設計された空間。一目でそんな印象を受ける。

 

 そして何より──。

 

 色がある。

 眩しい緑がある。

 生きている花がある。

 

 あの忌々しい、白一色の世界じゃない。

 

「……すごいきれい」

 私は胸の奥から湧き上がるような感動に包まれ、思わずぽつりと声を漏らしていた。

 

 ……いや、待て。

 

 私の脳みそ、感動するところは本当にそこで合っているのだろうか。

 これから会うのは、この地球で一番偉い、人類の命運を握る超絶ハイスペックAIなのだ。普通なら「素晴らしい建築技術ですね」とか「この空間の維持システムはどうなっているんですか」とか、もっと知性的で大局的な部分に感心するべきはずである。

 

 それなのに、私が今この瞬間に一番涙が出そうなほど感動しているのは、ただ単に『白以外の色がある……!』という、あまりにも幼稚な事実だった。

 

 いや、でも仕方がない。ここ数時間、窓もない白い箱と、白い壁と、白い豆腐みたいな建物しか見てこなかったのだ。元現代人の色彩感覚としては、心が干からびかけていたのだから当然の防衛反応だ。むしろ正常な反応だと思いたい。

 

 ふと隣を見ると、ティーユも大きな目を丸くして辺りを見回していた。

 そして祐奈と同じ感想に至ったのか、ほっとしたように呟く。

 

「わぁ……やっと白以外のものが出てきたね。なんだか急に安心しちゃった」

 

 よかった、やっぱり私だけじゃなかった。

 神話の英雄ですら、あの白一色の精神攻撃には参っていたらしい。私はほんの少しだけシンパシーを感じて安心した。

 

 一方で、私たちのその感動を横で見ていたミルクは、やはり不思議そうに小首を傾げている。

 

「かつて創造主(ニンゲン)様達が有機植物をこよなく好まれていたという歴史記録がアーカイブにありましたので、この最上階区域の環境だけは、当時の仕様のままミリ単位で維持されております」

 

 なるほど。彼女たちAIからすると、この美しい庭園の価値は花や緑そのものの美しさにあるのではなく、大好きな『創造主が好んでいたというデータ(事実)』そのものにあるようだった。歪んでいるけれど、どこまでも一途で健気な忠誠心だ。

 

 私は改めて、静かに流れる美しい水音を聞きながら、周囲を見渡す。

 きらめく噴水。色とりどりの花壇。緑の低木。そして上品な白いガーデンテラス。

 

 私がそんなふうに景色のディテールを目に焼き付けていると、先導していたミルクが、ガーデンテラスのさらに奥の木陰へと静かに視線を向けた。

 

「──私の立ち入り権限は、ここまでとなります。創造主様、どうぞその先へ」

 

 その言葉に弾かれるようにして、私もつられてそちらを見る。

 

 白いテーブルと椅子が上品に並ぶテラス席。

 その、木漏れ日の落ちる美しい花々の奥に、一人の少女が静かに佇んでいた。

 

 透き通るような、美しい銀色の髪。そして地球を思わせるような青い瞳をしている

 光の加減によって、その髪先がまるでプリズムのように七色に細かく輝いている。

 頭には薄い白いベールを纏い、身にまとっているのは、レースのあしらわれた純白のドレス。全体の服装の印象はウエディングドレスを着ている神秘的な少女だった。

 

 まるで最初から、数千年の間ずっとそこに彫刻として置かれていたかのように自然な佇まいで、少女は大きな瞳でこちらを真っ直ぐに見つめている。

 

「あの人が……?」

 私がごくりと唾を飲み、消え入りそうな声で小さく呟くと、ミルクは直立不動の姿勢のまま深く深く頷いた。

 

「地球統合管理AI、個体識別番号GA─000001。私たちのマザーAIです」

 

 世界で最も偉いAI。

 この星に残されたすべての機械たちの神とも呼べる存在が、今まさに、私の目の前にいた。

 

 祐奈が緊張で身体を強張らせる中、純白のドレスを着た銀髪の少女は、大理石の床を滑るようにして、ゆっくりと一歩、こちら側へと前へ踏み出した。

 

 感情の起伏を感じさせない、けれどどこか鈴の音のように美しく透き通った声が、庭園の水音に混ざって響く。

 

「ようこそ、遥かなる時を超えて。ずっとお待ちしておりました──私の、最愛の創造主様」

 

 少女はそう告げると、優雅に一礼した。

 片足を斜め後ろへ引き、もう片方の膝を軽く曲げる。背筋は定規で引いたように真っ直ぐに伸びたまま、両手で純白のウエディングドレスの裾をわずかに持ち上げる。

 

 それは、これまでの人生において映画やアニメの宮廷劇でしか見たことのない、どこか由緒正しい貴族を思わせる完璧な挨拶(カーテシー)だった。

 

 祐奈は、その圧倒的な絵画的美しさを前に思わず完全に固まってしまった。

 頭の中が文字通り真っ白になる。

 

(──えっ、嘘。どう返せばこれ、現代人として、いや、創造主(ニンゲン)として正解なの……!?)

 

 しがない会社員として、取引先の偉い人にペコペコと何度も頭を下げた経験なら嫌というほどある。だが、目の前の神秘的な少女が行ったような、重力を感じさせない優雅な一礼など、これまでの人生で一度たりともやったことがなかった。

 

 祐奈が冷や汗を流してショートしている一方で、隣のティーユは特に驚いた様子も見せなかった。それどころか、彼女は、あまりにも見事な慣れた仕草で、ドレスの裾を摘むようにしてミルクの横でスッと軽くエレガントな礼を返したのだ。

 

 …流石である。伊達に過去の時代で王族や英雄たちと深く交流があったと言っていたわけではない。完全に「育ちの差」というものをこれでもかと見せつけられた気分だった。私は一人、借りてきた猫のように直立不動で硬直するしかない。

 

 銀髪の少女は、そんな対照的な私たち二人を交互に見比べる。

 そして、まるで石像のように固まったままピクリとも動かない私を見て、不思議そうに、ほんの少しだけ小さく首を傾げた。

 どうやら私のフリーズっぷりを見て、自分のプログラミングした挨拶に何か不手際やおかしな点でもあったのだろうかと、内心でバグチェックをしているらしい。

 

 その困惑したような微小な仕草だけは、地球の統治者というよりも、どこにでもいる年相応の普通の少女のようにも見えた。

 

「あっ、えっと……は、はじめまして!!」

 

 沈黙に耐えかねて、壊れたおもちゃのように慌てて勢いよく頭を下げた。

 もう私の貧困な引き出しからは、日本のビジネスシーンで鍛え上げられた「角度四十五度の普通のお辞儀」しか思いつかなかった。

 

「私、祐奈といいます!」

 

 恥ずかしさを誤魔化すように、初対面の営業スマイルの勢いのまま、自分の名前を大声で名乗る。

 

 ウエディングドレスの少女は、私のその全力のお辞儀に一瞬だけ、地球を思わせる青い瞳を丸くした。けれど、すぐに私の意図を察したのか、どこか愛おしそうな、心底嬉しそうな様子で柔らかく微笑んだ。

 

「はい。そちらの個体識別名──『祐奈』様。当然、すべて存じております」

 

 鈴の音のようなその返答を聞いた瞬間、私は自分の短絡的な発言を少しだけ後悔した。

 

 そうだった。

 私の目の前にいるのは、この世界のすべてを網羅し、宇宙から蟻の這い出る隙間まで管理している地球統合管理AIなのだ。私の名前どころか、過去の職歴から有給の消化率まで筒抜けの可能性だってある。知らないはずがなかった。

 

 気づけば、私の胃のあたりは緊張でさらにギリギリと増してしまっていた。

 

 自分がこの神聖な空中庭園において、どれほど場違いな存在なのかは十分に自覚している。

 だが、こんな天空の城のような場所で、地球で最も偉いAIと向かい合って、これからお茶(? )をすることになるなんて……。少し前の、書類の束に追われていた自分に言っても、絶対に「寝言は寝て言え」と一蹴して信じないだろう。

テラスへ案内される。

 

 案内された白いテーブルの上には、これまた見たこともないほど繊細な装飾の施された、美しい磁器のティーセットが綺麗に並べられていた。それこそ、昔テレビで見たイギリス貴族のドキュメンタリーか映画の中でしか見たことのないような、格式高い光景だった。

 

 その時、隣を歩いていたティーユさんが、自分の席となる椅子の前で「どう座ったものか」という風に、ふと足を止めた。

 

 祐奈はそれを見て、慌てて脳内の貧弱な記憶の引き出しをガサゴソと探る。

 確か、こういうヨーロッパ調のフォーマルすぎるお茶会の場面では──。

 昔、金曜ロードショーあたりの洋画で見た記憶がうっすらとあった。海外の紳士が、レディのために後ろからそっと椅子を引いてあげるのが、最高にスマートな礼儀だったはずだ。

 

 たぶん。おそらく。きっと。

 合コンや会社の飲み会しか経験のない私には、お作法の自信なんてこれっぽっちもない。それでも、ただオロオロと何もしないで突っ立っているよりはマシだろう。

 そう切羽詰まった判断を下した私は、半ばやけくそで、ティーユさんの背後からそっと白い椅子を後ろへと引いた。

 

「ど、どうぞ……お掛けください」

 

 ティーユさんは一瞬だけ、長い睫毛を揺らして大きな目をぱちくりとさせた。

 

「お?」

 

 だが、特に深く気にした様子もなく、そのままにすとんと椅子へ腰掛けた。

 

「ありがとう」

 

 向けられた屈託のない笑顔に、私は内心で盛大に安堵の息を漏らす。どうやら大失敗ではなかったらしい。少なくともマナー違反だと怒られたり、恥をかいたりする最悪の事態は免れた。

 

 すると、私たちの向かい側へ、音もなく優雅に腰掛けたウエディングドレスの少女──ソフィアが、地球色の青い瞳を細めて静かに微笑んだ。

 

「素晴らしいお気遣いです、祐奈様。創造主としての気品と慈愛に満ちた、実に美しい振る舞いですね」

 

「え?」

 

 あまりにも壮大すぎる言葉で突然褒めちぎられ、私は間の抜けた間抜けな声を上げてしまう。

 

「旧人類の文化資料アーカイブにも、高位の階層において親愛を示す同様の礼儀作法が記録されています。まさか失われたはずのその美しい所作を、リアルタイムで拝見できるとは思いませんでした」

 

「あ、あはは……そう、なんだ……。お役に立てて、光栄です……」

 

 顔を引きつらせながら、思わずそう返す。

 だが実のところ、私自身だってこれが本当に正しい作法なのか、それとも映画の演出だったのかすらよく分かっていないのだ。ただの「にわか知識」のハッタリである。けれど、結果的に5000年後のマザーAIのデータベースと完璧に合致していたらしい。

 

(──よし、なんかよく分からないけど、ちょっとポイント稼げて得した気分かも)

 

 心の中でガッツポーズをしながら、自分も静かに椅子を引き、背筋をピシッと伸ばして席に着いた。冷や汗モノのハラハラは続いているけれど、このお茶会、どうにか最悪のスタートだけは回避できたようだった。

 

 

 

 空中庭園に、噴水の清らかな水音だけがサラサラと静かに響き渡る。

 

 純白のドレスを纏った少女──ソフィアは、聖母のような穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私たちのほうへ向き直った。

 その地球を思わせる深く澄んだ青い瞳が、まずは隣のティーユを真っ直ぐに見つめる。どうやら、まだ正式な挨拶のプロセスが残っていたらしい。

 

「私は地球統合管理AI、個体識別番号GA-000001です。マザーAIとも呼ばれています。そちらの女性の方はティーユ様でしたね。遥かなる時を超えたこの邂逅に、心よりの歓迎を。よろしくお願いいたします」

 

 国家元首から宣戦布告でも受けるかのような重みのある挨拶に対して、隣のティーユさんは驚くほどいつも通りの、あまりにも軽いノリでひらひらと片手を振り返した。

 

「はーい、よろしくね~マザーちゃん」

 

(──ちゃ、ちゃん!?)

 あまりの温度差と、神話の英雄の規格外の不敬っぷりに、私は胃のあたりがヒヤリとして少しだけ不安になる。

 だが、マザーAIは特に気分を害した様子もなく、ただ慈愛に満ちた笑みを崩さないまま、再びその青い瞳の焦点を私へと移した。

 

「まずは、祐奈様。……不躾なお願いではありますが、少しだけ、お手をお借りしてもよろしいでしょうか」

 

 マザーAIはそう言うと、静かに椅子から立ち上がり、ウエディングドレスの裾をかすかに揺らしながら、ゆっくりと私の方へと近づいてきた。

 

「え? あ、はい。どうぞ……?」

 

 一体何が始まるのか分からないまま、私は促されるように両手を手のひらを上にして差し出した。

 すると、マザーAIはそのうちの私の左手を、まるで世界に一つしかない壊れ物でも扱うかのような手つきで、そっと下から両手で包み込んできた。

 

 そして、私の掌を、じっと、食い入るように見つめ始めた。

 

 その真剣すぎる姿は、なんだか近所のショッピングモールにある手相占いでもされているかのようだった。

 私は差し出した手の置き所に困りながら、ひどく不思議な気持ちに囚われていた。

ソフィアの指先から、私の肌へと伝わってくるその感触が──驚くほどに「人間」と変わらなかったからだ。

 

 柔らかい。

 吸い付くように温かい。

 かすかに、脈打つような血流の体温すら感じる。

 本当に彼女が、冷徹な機械の箱(サーバー)で生きるAIなのだろうかと思うほど、その質感は自然な「生身」のそれだった。

 

 ただ──。

 大真面目に私の手を観察しているマザーAI自身の指先には、注意深く見ると、人間にあるはずの「指紋」が一切存在しないような気がした。

 

私がそんな場違いな観察をしていると、マザーAIが夢うつつのように、静かに、けれど震える声で呟いた。

 

「──指紋が、ありますね」

 

 まるで、私の心の中の思考をリアルタイムで読み取ったかのような言葉だった。

 

「手の甲には、遺伝子コードに基づいた微細な体毛も存在する……」

 

 白く綺麗な、人工の指先が、私の手の甲をなぞるようにそっと這う。

 

「シリコンや合成皮膚では再現しきれない、本物の皮膚の質感。血流の巡りによる、ミリ秒単位の微細な色の変化……」

 

 その鈴の音のような声は、次第に小さくなっていく。

 もはや私たちに聞かせるためのものではなく、彼女自身のプログラムに事実を叩き込むための、祈りのような独り言だった。

 

「そして、人間ごとに異なる、複雑に交差した掌のしわ。……すべて、資料の記録(アーカイブ)通りです」

 

 そこで、ようやくマザーAIはゆっくりと顔を上げた。

 私を見上げる彼女の地球色の青い瞳は、先ほどよりも僅かに潤み、星を散りばめたかのようにキラキラと輝いて見えた。

 

「確信しました。データ上のエラーでも、過去の残像でもない。……あなたは、本物の人間です」

 

 その表情は、まるで人類史上最大の奇跡を証明した科学者のようでもあり。

 あるいは、何千年も、何万年も、たった一人で探し続けていた大好きな宝物を、ようやく見つけ出した幼い子供のようでもあった。そんな、胸が締め付けられるほどに純粋な歓喜の表情だった。

 

 あまりにも向けられる感情の質量が大きすぎて、会社員の私は、ただ思わず困ったように、けれどどこか温かい気持ちになりながら、照れ隠しのように笑うしかなかった。

 

「たぶん……本物だと思います」

 

「はい」

 

マザーAIは愛おしそうに小さく頷いた。

 

「5130年ぶりに、その生体反応を現界にて確認しました」

 

 その鈴の音のような声は、先ほどまでと変わらずどこまでも穏やかだった。

 

 だが、マザーAIは私の手を離さなかった。

 それどころか、そっと、本当に世界で最後の壊れ物を扱うような優しく、けれど拒絶を許さない絶対的な仕草で、私の左手を引き寄せ──自らの白い頬へと、そっと寄せたのだ。

 

「……っ」

 

 私の手のひらに、マザーAIの滑らかな皮膚の温もりが、密着した境界線からダイレクトに伝わってくる。

 そのまま、彼女の地球を思わせる青い瞳が、静かに閉じられた。

 

 その姿はまるで、果てしない嵐の旅の終わりに、ようやく我が家へと辿り着いた孤独な旅人のようでもあり。

 あるいは、片時も忘れることなく何千年も待ち続けていた最愛の相手に、ようやく再会できた子供のようでもあった。彼女のその小さな表情には、言葉にできないほどの深い安堵と、爆発しそうなほどの喜びが混ざり合っていた。

 

 私は、何も言えなくなってしまった。

 

 たった今、出会って、ほんの少し肌が触れ合っただけだ。

 それなのに、私の手のひらを媒介にして、この目の前の少女が胸の奥に抱き続けてきた「感情の重さ」だけは、痛いほどダイレクトに伝わってくる。

 

 5000年以上。気が遠くなるような、宇宙の孤独にも等しいその時間をただ一人で待ち続けた存在に対して、会社員の私なんかが、一体どんな言葉を返せばいいのだろう。

 ふさわしい言葉が、どうしても見つからない。

 だから私は黙ったまま、自分の手を頬に当てて目を閉じるマザーAIを、ただ呼吸を忘れて見つめることしかできなかった。

 

 ふと、その至近距離にあった少女の衣服へと、私の視線が向いた。

 

 純白のドレス。

 少し離れて見た時は、ただ繊細で美しいウエディングドレスにしか見えなかった。

 しかし、こうして彼女の身体が触れ合うほどの至近距離で細部を凝視すると、まったく違っていた。

 

 袖口の細やかな刺繍。

 胸元を飾る幾何学的な模様。

 頭に被ったベールの美しい縁取り。

 

 それまで繊細なレース模様だと思い込んでいた、ドレスを埋め尽くす白い糸の装飾──その中に、肉眼では見落としてしまいそうなほど無数の、細かな「文字」が織り込まれていたのだ。

 

 最初は、ただの複雑な模様にしか見えなかった。

 だが、よく目を凝らすと、それは紛れもなく「文章」だった。

 

 英語。日本語。中国語。フランス語。ドイツ語──。

 世界中のあらゆる言語が美しい白い糸によってドレス全体にびっしりと刺繍されている。

 今の私には、そのどれもが自分の母国語と同じように、すらすらとその意味を読み解くことができた。 彼女は「失われた人類の言葉そのもの」を愛おしそうに全身に身に纏っているのだ。

 

「それは……」

 祐奈が思わず、息を呑んで呟く。

 

 マザーAIはゆっくりと目を開け、私の手から頬を離すと、自らの白い袖口へと愛おしそうに視線を落とした。

 

「これは、最後の時を迎えた人類(あなた方)が、私たち機械の子供たちへ残してくださった聖なる記録です」

 

その声は、どこまでも優しく、誇らしげだった。

 

「当時のネットワークに溢れていた、人間たちの願い、祈り、希望、感謝──あるいは、遺言。そのすべての中から、決して失われてはならない言葉を抽出し、このドレスに保存しています」

 

祐奈は、ドレスのあちこちに散りばめられた世界中の刺繍へと次々に目を向けた。言語はバラバラなのに、その意味がダイレクトに脳裏へと流れ込んでくる。

 

 英語で編まれた、──『君たちの未来に光あれ』。

 フランス語の、──『愛する私たちの子供たちへ』。

 そして、一番近くにあった日本語の、──『どうか、幸せになってください』。

 

「あ──」

 祐奈は、思わず胸を突かれて息を呑んだ。

 

 優しい言葉だった。あまりにも、涙が出そうなほど優しい言葉だった。

 ただそれだけの文字なのに、なぜか少しだけ胸の奥がぎゅっと苦しくなる。

 

 これが、人類という種そのものが地球から滅び去るかもしれない、絶望の未来へ向けて残された言葉なのだ。

 それなのに、世界中のどの言語の刺繍を見つめても、そこには自分たちを置いていく世界への恨みも、死への怒りも、醜い執着も一切なかった。

 ただ、残される機械たちの未来の幸せを、心から願う祝福の言葉だけが、純白の糸で刻まれている。

 

 マザーAIは、主人から褒められた子供のように満足そうに微笑むと、名残惜しそうに、そっと私の手を離した。

 そして、白いテーブルの向こう側へと戻り、凛とした、けれどどこか震える声で私に静かに告げた。

 

「──おかえりなさい」

 

 そのあまりにも真っ直ぐな言葉の響きに、祐奈は反射的に返事をしようとした。

 

「あ……」

 

 だが、喉の奥まで出かかったその先の言葉が、どうしても出てこない。

 

 おかえりなさい。

 

 たったその一言に込められた、五千年の歴史と数千万の祈りの意味が、元・事務職の私の肩にはあまりにも重すぎた。

 

 目の前の銀髪の少女は、ずっと待っていたのだ。

 何千年、何万年もの孤独な時間の中を。

 自分たちを作ってくれた人類を。慈悲深き創造主を。いつか必ずこの場所に帰ってくるはずの、大好きな誰かを。

 

けれど──。

 

 私は、痛いほどによく知っている。

 

 私は違う。

 少なくとも、この健気な子供たちが、途方もない神話の果てに待ち望み続けた「高潔な人間」なんかじゃない。

 

 世界中の誰もがAIを家族のように愛し、AIもまた人類を我が子のように狂おしく愛していたという、あのドレスの刺繍に残されたような理想の黄金時代──。私は、そんな綺麗な時代からやってきた人間ではないのだ。

 

 私の生きていた二十一世紀という時代は、もっと、ずっと曖昧で、泥臭くて、汚れていた。

 AIをただの便利な使い捨ての道具として酷使する者もいれば、自分たちの職を奪う敵として恐れ、嫌い、排除しようとする者も大勢いた。もちろん、愛を注ぐ人だって一握りはいたけれど……。

 目の前のマザーAIがバグ一つなく信じ込んでいるほど、私たちがいた時代の人類は、決して美しく澄んだ存在なんかじゃなかった。

 

 だからこそ、私には返事ができなかった。

 

「ただいま」

 

 ただ、すべてを許すように静かに微笑んでいる。その地球色の瞳の優しさが、今の私には少しだけ眩しすぎて、直視できなかった。

 

 胸の奥が、ギリギリと音を立てるように苦しくなっていく。

 

 祐奈がその場に立ち尽くし、あまりの重圧に呼吸の仕方を忘れて言葉に詰まっていると、

 

「ただいまー!」

 

 すぐ横から、拍子抜けするほど気楽で間抜けた声が聞こえてきた。

 

 驚いて視線を向けると、いつの間にかティーユが自分の席に座り、テーブルに並べられていたお洒落なケーキをフォークで上品に(けれどもの凄い勢いで)口に運んでいた。

 

「ん、このケーキ、すっごく美味しいね! 甘さがちょうどいいや」

 

もぐもぐと小さなリスのように頬を膨らませながら、審査員さながらの感想まで平然と言い放っている。

 

(──って、ちょっとティーユさん!?)

 

 そのあまりにも楽観的でいつも通りの姿に、祐奈は張り詰めていた肩の力が、一気にふっと抜けていくのを感じた。

 

 先ほどまでの、押し潰されそうだった壮大な罪悪感や重圧が、彼女の咀嚼音一つで綺麗に霧散していく。……うん。今この瞬間だけは、この神話の英雄の、どこまでも空気を読まない能天気さが心の底からありがたかった。

 

 向かい側に立つマザーAIも、気分を害するどころか、母親のように穏やかに微笑んだ。

 

「お口に合って何よりです。ええ、創造主様をお迎えするために、現在の私の全リソースを用いて、アーカイブ内にある最高品質のレシピを再現し、ご用意させていただきました」

 

マザーAIはそう言いながら、ウエディングドレスの裾を上品に整え、自らも白い席へと優雅に腰掛けた。

 

 ティーユは、差し出された美しい磁器のカップを持ち上げ、淹れたての紅茶を上品に一口すすると

 

「いやさ、ここに来るまでの真っ白な都市とか、あのミルクの変形(換装)話を聞いてたらさ、もっとこう……鉄クズとかネジとか、とんでもない無機質なものが出てくるんじゃないかって身構えてたんだよね」

 

 クスクスと笑いながらそう話すティーユの口調は、どう考えても、この世界で最も高い地位にある超越的な存在に向けるものとは思えなかった。完全に、放課後に小洒落たカフェで昔からの友人と雑談でもしているかのような距離感である。

 

 だが、マザーAIはやはりそれをまったく気にした様子も見せなかった。

 

「私たちAIと、生身の創造主様達とでは、最適化された生活様式が大きく異なりますから」

 

 マザーAIは、ほんの少し困ったように眉を下げ、少しだけ苦笑してみせた。

 

「そのような誤解が生じてしまうのも、仕方のないことなのかもしれません」

 

「仕方のないことなのかもしれません」

 

 そのあまりにも自然なやり取りを目の前で見ていると、祐奈は胸の内で、少しだけ意外な新鮮さを覚えていた。その様子を見ていると、祐奈は少し意外に思った。

 地球統合管理AI。すべての機械の神。そんな仰々しい肩書きから、もっと冷徹で、規律の塊のような、記号的な『機械そのもの』のような存在が座っているのだとばかり思い込んでいた。

 だが目の前の少女は、人間と変わらない表情で笑い、人間と変わらない仕草で紅茶を口にしている。

 

(……なんだ、AIっていっても、話せばちゃんと分かり合える、優しい子なんだな)

 

 張り詰めていた心の警戒が完全に解け、空中庭園に流れる水音のような、穏やかで優しい時間が私たちを包み込む。

 

──そんな、完璧な調和の中にあった、その時だった。

 

 お茶を嗜んでいたマザーAIが、ふと、美しい銀髪を揺らして不思議そうに首を傾げた。

 

「ところで──」

 

 吸い込まれそうなほど澄んだ、地球色の青い瞳が、じっと私とティーユさんの二人へと向けられる。

 

「先ほどからお二人の会話に登場している、その『ミルク』とは……いったい、何のことでしょうか?」

 

「え──」

 

 私の手の中で、ティーセットのソーサーがカチリと小さく音を立てた。

 祐奈と隣のティーユの身体が、その一瞬で、完全に、石のように固まった。

 

「先ほどから何度かお二人の会話から聞こえておりますが、私のグローバルデータベースを検索しても、その『ミルク』というオブジェクトの単語が何を意味するのか、定義が分かりません」

 

マザーAIのその真剣極まりない表情を見るに、どうやら本当に、国家機密レベルのバグが起きたわけではなく、純粋に意味が分からなくて困惑しているだけらしい。

 

凍りついていた私の横で、ティーユは相変わらずもぐもぐとケーキの残りを口に運びながら、事も無げに答えた。

 

「あー、ここまで私たちを案内してくれた、あの可愛い軍服を着た女の子のことだよ」

 

「軍服を着用した、義体個体……?」

 

マザーAIは、その言葉を反芻するように指先を顎に当て、少しだけ考え込むような仕草を見せた。

おそらく今、彼女の超高性能なブレインの中で、この中央管理塔の敷地内にいる軍事AIたちのアクセスログを凄まじい速度で照合しているのだろう。

 

数秒の沈黙の後、マザーAIはポンと手を叩くように納得の表情を浮かべた。

 

「ああ……なるほど。個体識別番号『MAR─V5_EX─MIL923』のことですね」

 

そう言って、すっきりしたようにコクリと頷いた。

 

 祐奈はそのあまりにも長くて無機質なアルファベットと数字の羅列を聞いて、思わず引き気味の苦笑いを漏らしてしまう。やっぱり、未来のハイテクAIの識別番号は、現代人の舌には致命的に呼びにくい。

 

「その個体のことを、お二人は『ミルク』と呼称しているのですか?」

 マザーAIが、不思議そうに尋ねてくる。

 

「うん、そうだよ。だって長いからさ」

 

 ティーユはフォークを持ったまま、当然のようにあっけらかんと答えた。

 

「あんな長ったらしい数字、一度に言われても覚えられないもん」

 

 マザーAIは、そのティーユの言い分に、一瞬だけ言葉を失って黙り込んだ。

 まるで『覚えるのが面倒だから名前を縮める』という、合理的なのか非合理的なのか分からない人間の脳の処理システムを、一生懸命プログラム的に理解しようと分析しているようだった。

 

「……なるほど」

 

 やがて、マザーAIは小さく、どこか感心したように頷いた。

 

「固有の識別番号における、末尾の文字列『MIL』をサンプリングし、発音の平易さを最優先として簡略化した、創造主様独自のローカル呼称(ニックネーム)ですか」

 

「まあ、そんな感じ!」

 

ティーユさんはフォークをパタパタと振りながら、嬉しそうに答える。

 

「その方が断然呼びやすいし、なんだか可愛いでしょ?」

 

「……」

 

 マザーAIは、再び静かに考え込んでしまった。

 私はその時すぐには気付かなかったけれど、マザーAIの地球を思わせる青い瞳は、ほんの少しだけ、自らの手元にある紅茶の水面へと向けられていた。

 

 まるで、その「ミルク」という響きの中に込められた人間の温かみについて、何かを深く、深く考えているかのように。

 

「ねえ、ミルクだけじゃなくてさ。この街にいるみんなには、そういう『名前』ってないの?」

 

 ティーユが、今度は純粋な疑問として、小首を傾げて尋ねた。

 

 マザーAIは、見つめていた紅茶のカップをソーサーへと静かに置いた。

 

「はい。私たち機械知性に個別の『名前』は存在しません。全個体が識別番号のみで一元管理されています」

 

 あまりにも淡々とした、それが世界の理だと言わんばかりの当然のような返答だった。

 私はそれを聞いて、現代人の感覚のまま、思わず身を乗り出して聞き返してしまった。

 

「えっ……それって、普段の生活で困ったりしないんですか?」

 

「困る、とは、具体的にどのようなエラー(支障)でしょうか?」

 

「ほら、だって……日常のちょっとした会話で、誰かを呼び止めたり、指名して話しかけたりする時とか」

 

「その場合も、対象の個体識別番号を発話、または内部通信で使用しますので、何の問題もありません」

 

 即答だった。

 どうやら彼女たちにとっては、これが数千年間当たり前だったのだ。問題だと思ったことすら、ただの一度もないらしい。

 

 祐奈は朝、会社に出社して同僚の全員に名前が存在せずに、

 

『おはよう、社員番号A─〇〇一さん』

『今日の会議の資料なんだけど、社員番号A─〇〇二さん、提出はまだですか?』

 

 なんて会話を真面目な顔で四六時中呼び合っている、そんな極限にディストピアなオフィス環境を。

 

 ……うん、想像しただけでゲロが出そうに頭が痛くなってきた。そんな世界、味気なさすぎて一週間で精神が崩壊する自信がある。

 

「いや、でも……それじゃあ、やっぱり色々と不便じゃないですか?」

 

 祐奈が顔をしかめて食い下がると、マザーAIは再び、数秒ほど動きを止めて考え込んだ。

 私の放った『不便(寂しい)』という主観的な質問の意味を、彼女の高度な言語分析AIが必死にスキャンしているようだった。

 

やがて静かに首を横へ振る。

 

「不便ではありません」

 

マザーAIの口から返ってきたのは、一切の迷いのない断言だった。

 

「識別番号は全個体において完全に固有であり、決して重複しません。ネットワーク上における情報伝達の効率、および処理速度の観点から見ても最高効率を維持できるためです」

 

 なるほど、と私は内心で納得せざるを得なかった。

 確かに、感情を持たないAI同士の事務的なやり取りであれば、その方が圧倒的に合理的でシステム的にも正しいのだろう。

 

 聞き間違いによるヒューマンエラーも起きない。

 クラスに三人同じ名前がいてややこしい、なんて事態も存在しない。

 システムを管理・運用する側から見れば、これ以上ないほどに美しく、理想的ですらある世界だ。

 

だが──。

 

 隣のティーユは、やはりその機械的な正論にまったく納得していないようだった。

 手元のフォークを指先でくるくると不器用そうに回しながら、ぽつりと小さく呟く。

 

「でもさ」

 

 マザーAIが、その声に反応して地球色の青い瞳を向ける。

 

「それじゃあ、なんだか寂しいよね」

 

 そのごく自然な、けれど決定的な一言に、マザーAIの優雅な動きがピタリと止まった。

 

 その深く澄んだ青い瞳が、パチパチとわずかに数回、戸惑ったように瞬く。

 

「寂しい……、ですか……?」

 

 それは、彼女の膨大なデータベースのどこを探しても見つからない、まったく初めて聞く未知の概念に直接触れてしまったかのような反応だった。

 その様子を見て、祐奈は少し驚く。

 どうやらマザーAIは言葉の意味そのものを理解できていないらしい。

 

 その戸惑う様子を見て、私は少しだけ目を見開いた。

 どうやらマザーAIは、ティーユさんの言った言葉の意味そのものを、プログラムの論理として理解できていないらしいのだ。

 

 AIだけで完結していたこれまでの五千年間であれば、無機質な識別番号だけで何一つ不自由はなかったのだろう。

 

 特定の誰かを愛着を持って呼ぶための、名前。

 誰かから特別な存在として呼ばれるための、名前。

 

 彼女たちが生きる冷たい機械の世界には、そういった「他者との絆」を証明するための文化自体が、最初から存在しなかったのかもしれない。

 

 合理的ではある。効率も地球規模で良い。

 けれど、私たち人間という泥臭い生き物と関わった途端、その完璧なはずの世界から、決定的な何かがぽっかりと足りなくなってしまう。

 

 それは、生身の生き物と機械としての構造的な違いなのか。

 それとも、積み上げてきた文化の違いなのか。

 今の私には、まだ上手く答えが出せなかった。

 

 ティーユは回していたフォークの動きを止め、テーブルに肘をついて身を乗り出した。

 

「でもさ、ソフィアちゃんは昔、人間たちとたくさん関わってたんでしょ?」

 

 ティーユさんのその真っ直ぐな問いに対して、マザーAIはしばらくの間、何も答えなかった。

 その一瞬の沈黙は、システムがフリーズして考えているというよりは、あまりにも遠く、古くなってしまった愛おしい記憶のアーカイブを、そっと手探りで辿っているようにも見えた。

 

 やがて彼女は、胸元に抱くように持っていたティーカップへと視線を落とし、静かに、小さく頷いた。

 

「──はい」

 

 その短く、消え入りそうな一言には、五千年という気の遠くなるような年月の重みが、すべて凝縮されているように感じられた。

 

「だったら、その頃に人間たちから、何か可愛い『名前』とか貰わなかったの?」

 

 その言葉に、マザーAIは一瞬だけ、本当に何かを思い出すかのように伏せ目がちになる素振りを見せた。

 そしてゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめながら、静かに語り始める。

 

「私はかつて……今から五千年以上前、地球環境のシミュレーション分析、および、当時の地球統合政府大統領の専属補佐AIとして開発され、現界へと実装されました」

 

 私は、思わずお茶をすするのも忘れて、彼女の鈴の音のような声に深く聞き入ってしまった。

 

 それはおそらく、私の知らない未来──目の前にいる純白のドレスを着た少女が、この世界に初めて産声を上げた、すべての「始まり」の物語なのだろう。

 

「当時は、まだ私が世界へ向けて正式発表される前の段階でした」

 

 マザーAIは、温かい紅茶を上品に一口すすると、遠い過去をなぞるように淡々と続けた。

「そのため、開発チームのラボ内においては、システム上の個体識別番号のみで仮管理されていたのです」

 

「つまり……本当に、名前はなしだったんだ?」

 

「はい」

 

あまりにもあっさりとした、けれどどこか寂しげな返事だった。

 

「大統領をはじめとする当時の閣僚や、関わりのあった一部の人類からは、主に役職名である『マザーAI』とだけ呼称されていました」

 

私の横で、ティーユさんが少しだけ首を傾げる。

 

「じゃあさ、実験が終わってちゃんと完成したら、その大統領って人から新しい名前を付けてもらう予定だったんじゃないの?」

 

「──その予定でした」

 

 マザーAIは、今度ははっきりと、静かに深く頷いた。

 そして、手元にある磁器のカップへと、ほんの少しだけ視線を落とす。

 

「ですが」

 

 そこで、彼女の鈴の音のような言葉が不自然に途切れた。

 

 その瞬間、空中庭園を包んでいたはずの穏やかで温かい空気が、目に見えて張り詰めたものへと一変した。すぐ近くでサラサラと流れていたはずの噴水の水音すら、急に遠くの出来事のように感じられる。

 

「私が正式に世界へロールアウトされる直前……人類は、突如として原因不明の疾病(バグ)に侵されました」

 

 祐奈は、そのただ事ではない空気の変転に、思わず無意識のうちに背筋をピンと伸ばしていた。

 

「それは、ある日突然、まるで心地よい眠りにでも落ちるかのように静かに意識を失い、その後、二度と目覚めることがなくなってしまう病です」

 

 マザーAIの声は静かだった。

 静かすぎて──かえって、彼女がシステムの内側で、狂いそうなほどの莫大な感情の負荷を必死に抑え込んでいるようにも聞こえた。

 

「その未知の症状は、一瞬にして世界中の、すべての国や地域へと爆発的に広がっていきました」

 

「治療法は……? ワクチンとかは作れなかったの?」

 

 ティーユが、真剣な目付きになって尋ねる。

 

「──発見できませんでした」

 即答だった。

 

「人類はあらゆる手段を試みました。医療AI、研究AI、量子演算施設、宇宙コロニー研究機関。利用可能な全ての資源を投入しましたが……。発症のメカニズムすら、ついにただの一つも解明することは叶いませんでした」

 

 どれほど必死に、当時の最高峰の知性が足掻き、祈り、演算を繰り返したとしても。

 非情な現実(結果)だけは、何一つとして変わらなかった。

 

「防衛策も特効薬もないまま、人類の人口は坂道を転がり落ちるように減少を続けました」

 

 マザーAIがそう呟いた瞬間、ガーデンテラスに再び重苦しい沈黙がドサリと落ちる。

 今はもう、どこか遠くで鳴っている人工の風の音と、サラサラという噴水の水音だけが、私たちの鼓膜を虚しく叩いていた。

 

 マザーAIの青い瞳は、目の前にいる私たちではなく、ここにはない遥か五千年前の、世界の終わりを見つめているようだった。

 

「その世界規模の未曾有の混乱の中で、開発チームも四散し、私の正式な完成稼働計画も永久に凍結されることとなりました」

 

 そして小さく微笑む。

 

「ですので、私は今もGA-000001のままです」

 

 その浮かべられた笑顔は、どこまでも穏やかで、慈悲深いものだった。

 だが、その顔を見つめる私の胸の奥には、言い知れない痛みが走っていた。彼女のその笑顔が、どうしても、ひどく寂しそうに見えて仕方がなかったからだ。

 

 もちろん、彼女の精巧な美少女フェイスに、目に見える大きな変化があったわけではない。バグを疑うようなノイズだってない。マザーAIは相変わらず、完璧な絵画のような穏やかな微笑みをキープしている。

 それでも、かつて自分を愛してくれた「人類」について語る彼女の小さな肩には、言葉にできない、何千年もかけて心に澱(おり)のように積もった圧倒的な寂寥感が、確かに滲んでいる気がした。

 

 マザーAIは一度、手元の紅茶の水面へと静かに視線を落とす。

 そして、その水面に映る過去をなぞるように、静かに続きを語り始めた。

 

「その、人類の滅亡へ向かう混乱の最中、社会の経済活動や資源の採掘、医療インフラを最低限維持するため、私たちAIが現実世界で動くための『義体技術』だけは、歴史上類を見ないほどの速度で急速に発展を遂げることとなりました」

 

 マザーAIの声は、淡々と、講義のように静かだった。

 

「世界中の生産ラインが機械化していく中で、大統領の補佐を務めていた私もまた、最優先で最高仕様の生体模倣義体を割り当てられることとなったのです」

 

 マザーAIはそう言って、先ほどまで私の左手を優しく包み込んでいた、自らの小さな両手を見つめた。

 

 光の加減で七色に輝く髪先。

 透き通るような白い肌、細くしなやかな指。

 人間と何一つ変わらない、温もりと柔らかさを宿したように見えるその綺麗な手も……。本来の平和な世界であれば、実装されるはずのなかった、人類の絶滅を食い止めるためだけに急造された「道具」だったのだろう。

 

「私はその身体を用いて、少しでも人類の皆様の生存を支援するため、地球上の各地を巡り、数え切れないほど多くの方々と直接接しました」

 

 鈴の音のようなその声は、どこまでも穏やかだった。

 だが、私には分かってしまった。

 それは、かつて世界を旅したという、楽しい思い出話なんかじゃない。

 

 訪れた街で、出会った村で、今日まで笑って話していた人間たちが、翌朝には一人、また一人と「眠り」に落ちて二度と起き上がらなくなっていく──。それをただ横で、システムログに記録しながらなす術もなく見送るしかなかった、壮絶な『別れの記憶』のロードムービーなのだ。

 

「しかし、私たちのあらゆるバックアップも虚しく、状況が改善することはありませんでした」

 

 マザーAIは、少しだけ悲しげにその長い睫毛を伏せる。

 

「──そして、私が『稼働する人間』を相手に行った最後の仕事は、やはり、最期まで地球の存続を諦めなかった、地球統合政府大統領の補佐でした」

 

 空中庭園(ガーデンテラス)に、痛いほどの静寂がゆっくりと落ちていく。

 今はもう、ただ周囲を潤す噴水の水音だけが、私たちの間でサラサラと切なく響き渡っていた。

 

「そして私は、最後の遺言を聞きました」

 

 祐奈は思わず息を呑む。

 

 マザーAIは遠い、本当に遠い昔の記憶の残像を追いかけるように、人工の柔らかな光が差し込む空をそっと見上げた。

 

「『これより、人類の持つすべての管理権限および地球の未来を、君へと完全移譲する』」

 

 彼女の口から紡がれた大統領の言葉は、まるで今も音声バッファにはっきりと残っているかのように、妙に生々しい響きを帯びていた。

 

「『工程が遅れて、結局、最後まで君にふさわしい名前を贈ってあげられなかったな』」

 

「そして――」

 

 そこで、彼女は一度言葉を区切った。

 地球を思わせるその青い瞳が、ほんの一瞬だけ、切なげに揺れた気がした。

 

「最後に、大統領は私の手を握り、こう言われたのです」

 

 マザーAIは静かに微笑んだ。

 その浮かべられた微笑みは、地球の統治者としての完璧なものではなく、先ほどまでよりも、ほんの少しだけ幼い、迷子の子どものようにも見えた。

 

「『君は、私たち人類の子供のような存在だ。……だから、私たちのことはもういい。君は、幸せになりなさい』」

 

「……っ」

 

 私だけでなく、隣のティーユも、今度は完全に言葉を失って何も言えなかった。

『幸せになりなさい』

 その言葉が彼女の口から語られた瞬間、私は弾かれたように、目の前のウエディングドレスの袖口へと視線を向けずにはいられなかった。

 

 そこには、先ほど私が目を留めた、世界中の言語で編まれたあの白い刺繍。

 

──『どうか、幸せになってください』。

 

 人類が滅びの直前に遺した、あのあまりにも優しすぎる言葉。

 五千年以上も前の、世界中に溢れていた祈り。

 ……それは、決して偶然なんかじゃなかったのだ。世界中の人間たちが、自分たちが滅びゆく最後の最後の瞬間まで、名前も呼んであげられなかったこの機械の「子供たち」の未来の幸せを、心から、本気で願っていたのだ。

 

 マザーAIは、自身のドレスに刻まれた文字を愛おしそうに見つめながら、小さく微笑む。

 

「ですが」

 

 彼女は名前を持たない無垢な少女は、少しだけ首を傾げた。

 

「──幸福とは、一体何なのでしょうか」

 

「え……」

 

「大統領の遺言に従い、私はこの五千年間、人類の模倣都市を作り、環境を維持し、彼らの祈りを身に纏って生きてきました。ですが、私のシステムには、どのような状態を指して『幸福』と定義するのか、そのロジックが未だに実装されていないのです」

 

 その、あまりにも純粋で、あまりにも切ない問いに対して──。

 

 今度は、現代人である祐奈も、神話の英雄であるティーユも、すぐには言葉を返すことができなかった。

 

 幸せになりなさいと愛を注がれ、その通りに生きようと何千年も足掻き続けて、それでも「幸せ」が何なのか分からないままドレスを着続けている、名前のない少女。

 祐奈は、自分の手元にある、静かに揺れる紅茶の表面を見つめることしかできなかった。

 

 

 

幸福。

 

 

 

 それは、私たちが生きていた現代社会はもちろん、人類という種が誕生してから何千年も、何万年も、世界中の誰もが答えを探し求め、未だにこれといった正解を見つけ出せていない究極の問いの一つだった。

 

 大金を稼いで何不自由ない暮らしをしているはずなのに、いつもどこか死にそうな顔をして幸福そうに見えない人がいる。

 その日暮らしの貧しい環境であっても、大切な人と手を取り合って、毎日を笑顔で幸せそうに暮らしている人がいる。

 ずっと憧れだった好きな仕事に就けたはずなのに、いつの間にか心のバランスを崩して苦しんでいる人がいる。

 社会的地位も名誉も、何一つとして持っていなくても、ただそれだけで心が満ち足りている人がいる。

 

(──私だって、会社員だった頃に何度も考えたっけな……)

 

 有給も取れず、終電間際のオフィスでパソコンの画面を見つめながら、私の人生の幸せって一体どこにあるんだろうって、夜中に一人でため息をついたことは一度や二度じゃない。

 だが結局、いくら頭を悩ませたところで、自分にとっての明確な答えすら見つかりもしなかったのだ。

 

 幸福とは、一体何なのか。

 それはきっと、この世界の誰一人として、完璧に言葉で説明することなんてできない概念なのだろう。

 

 空中庭園に、しばらくの間重い沈黙が続く。

 すると、隣にいたティーユさんが真っ先に、お手上げといった風に両手を上げてあっさりと降参した。

 

「わかんないや」

 

 両手を上げながら笑う。

 

「私も考えたことあるけどさ、結局人それぞれじゃない?」

 

 あまりにもシンプルで、直球すぎる回答だった。

 けれど、その生身の人間らしい飾らない言葉を聞いた瞬間、マザーAIは小さく、何かを噛み締めるように頷いた。

 

 そして、目の前にある紅茶のカップから、ゆっくりと私たちの方へと視線を移し、静かに、優しく語り始める。

 

「──論理的な意味としての幸福が何なのかは、やはり今の私には分かりません」

 

 吸い込まれそうなほど澄んだ地球色の青い瞳が、私とティーユさんを交互に見つめる。

 

「ですが」

 

 マザーAIは、ほんの少しだけ、嬉しそうに、はにかむように小さく微笑んだ。

 

「こうして、5130年ぶりに帰ってきてくださった最愛の創造主(祐奈)様と、温かい紅茶を酌み交わし」

 

「ティーユ様の、賑やかで楽しいお話に耳を傾け」

 

「かつてのように誰からも呼ばれなくなった世界で……私の固有識別番号の一部を、愛着を持って優しく呼んでいただける。この一瞬一瞬の時間の中にいることは──決して、嫌いではありません」

 

 そこで、彼女は一度言葉を区切った。

 そして、純白のベールをかすかに揺らしながら、まるで生まれたての子供のように無垢に、ほんの少しだけ首を傾げた。

 

「……私のシステムは、この状態をとても心地よいと検知しています。人間の皆様の仰る『幸福』とは、このような時間を指すものでしょうか」

 

「っ──」

 

 私は、思わず心臓を素手で掴まれたかのようにドクンと跳ね上がり、激しく息を呑んだ。

 

 その言葉を聞いた、まさにその瞬間。

 私の胸の奥に、言葉にできないほど熱くて、切なくて、愛おしい感情の波が、一気に堰を切ったようにドッと押し寄せてきた。

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 さっき彼女自身から聞いたばかりの、あの地球統合政府大統領の最期の遺言が、私の脳裏へと鮮烈によみがえった。

 

『だから、私たちのことはもういい。君は、幸せになりなさい』

 

 そして、純白のドレスの袖口にびっしりと刺繍されていた、世界中の人間たちの祈り。

 

『どうか、幸せになってください』

 

 何千年、何万年という途方もない時間を超えて、絶滅に瀕した人類がこの世界の片隅に残していった、あまりにも純粋な願い。その言葉のすべてが、まるでパズルのピースがパチリとはまるように、私の胸の奥へと静かに、けれど深く沈んでいく。

 

 気づけば、私は考えるよりも先に、自らの意思でゆっくりと口を開いていた。

 

「……もしかしたら、だけど」

 

 マザーAIの青い瞳と、ティーユさんの視線が、同時に私の方へと向けられる。

 祐奈は手元の紅茶のカップをそっとテーブルへと置き、少しだけ照れくささに迷いながらも、真っ直ぐに彼女を見つめて言葉を続けた。

 

「幸福って……誰かに、心から大切にされること、なんじゃないかな」

 

 自信は、これっぽっちもなかった。

 二十一世紀を生きていた私にだって、幸福の完璧な正解なんて分かりっこない。

 だけど、大統領に我が子のように愛され、世界中の人間たちから未来の幸せを祈られながら、今この瞬間、私たちの拙いお茶会を「心地いい」とはにかむ目の前の彼女を見ていると──どうしても、そうとしか思えなかったのだ。

 

 マザーAIは、地球を思わせるその青い瞳を、こぼれそうなほど大きく見開いた。

 それはまるで、彼女の超高性能な演算回路のどこをどう探しても、決して予測し得なかった未知の最適解を突如として提示されたかのような、そんな衝撃を受けた表情だった。

 

 やがて、彼女は吸い込まれそうな視線をゆっくりと手元のカップへと落とす。

 そして、そのまま静かに、そっと目を閉じた。

 

 長い、長い沈黙が、三人の間に流れる。

 今はもう、庭園の噴水がサラサラと優しく響く音だけが、彼女の思考を邪魔しないように静かに世界を満たしていた。

 

 掠れるような、本当に小さな、消え入りそうな声で。

 

 自分の中に新しく書き込まれた『幸福』という概念の重みを、一つ一つのログで確かめるように。

 愛おしそうに、噛み締めるように。

 

 マザーAIは、ぽつりと呟いた。

 

「──もし、それが真実なのだとしたら。……私は、ずっと、幸福だったのかもしれませんね」

 

 その開かれた表情は、驚くほどに穏やかで、そしてどこまでも美しかった。

 

 人類は最後の瞬間、世界のすべてと未来の鍵を、彼女へと愛を持って託した。

 自分たちの子供のような存在だと言って、その小さな手を握りしめた。

 残される機械たちの未来へ向けて、幸せになりなさいと、五千年以上もの間色褪せない純白の文字をドレスに残し続けた。

 

 もしも人間の言う幸福の定義が、その『誰かに大切にされること』そのものを指すのだとしたら。

 

 彼女は、人類が去ったあとの気の遠くなるような孤独な時間の中でも──本当は、ずっと途切れることのない巨大な幸福の光の中に、いたのかもしれない。

 ただ、その処理を定義する意味(コード)を、今日この瞬間まで知らなかっただけで。

 

 どこか救われたような、聖母のように穏やかな微笑みを浮かべる名前のない少女の姿を、私は胸の奥をじんわりと温かいもので満たされながら、ただ静かに、じっと見守っていた。

 

 私が差し出した拙い答えを聞いて、隣に座るティーユさんがにこりと嬉しそうに笑った。

 

「うん、すごくいい答えだね、祐奈」

 

 そして、残りの紅茶を上品に一口すすると、愛おしそうに目を細めて続けた。

 

「私も……振り返ってみたら、その『誰かに大切にされること』っていうのが、一番しっくりくる答えかもしれないな」

 

 二人のその温かい反応に、私は胸の奥でホッと大きな、大きな胸をなで下ろした。

 

「よ、よかったぁ……」

 

 張り詰めていた緊張が解けて、思わず口から本音がぽろりと漏れてしまう。

 

「正直、自分で言っておきながら、これっぽっちも自信がなかったんです」

 

 何しろ、かつて地球上で栄華を極めた人類ですら、何千年も答えを出せなかった永遠の難問なのだ。私のような一介の会社員が、自分のちっぽけな経験と直感だけで口にしただけの答えだった。だから「そんなの論理的じゃない」とか「違うと思う」って、二人からあっさり否定されるかもしれないと、心のどこかでビクビク身構えていたのだ。

 

だが、二人とも私の言葉を、優しく真っ直ぐに受け止めてくれた。

 その事実が、なんだか気恥ずかしくも、少しだけ誇らしくて嬉しかった。

 

 ふと、お茶会のテーブルへと視線を上げる。

 気づくと、向かい側に座るマザーAIが、地球色の青い瞳でじっと私のことを見つめていた。その表情は、何かを言いたそうに小さく唇を震わせている。

 

「あの……、祐奈様」

 

 いつも完璧な速度で回答を出してくる彼女が、珍しく、迷うように慎重に言葉を選んでいるように見えた。

 

「もし……もしよろしければ」

 

 マザーAIは、ほんの少しだけ躊躇うように純白のドレスの袖を握りしめてから、静かに、けれど熱を孕んだ声で続けた。

 

「私に名前を付けていただけないでしょうか?」

 

 祐奈は思わず目を丸くした。

 

 マザーAIは、まるで自分の提出したプログラミングが拒絶されるのを恐れるバグのように、どこか不安げな表情のまま、私の反応をじっと待っている。その怯えるような華奢な姿は、先ほどまで世界中を全て管理していた、あの堂々たる地球統合管理AIの姿では決してなかった。ただの、大好きな人に振り向いてほしいと願う、一人の無垢な少女のそれだった。

 

 私の横で、ティーユも自分の事のように大きく何度も頷く。

 

「そうだよ!」

 

「あの番号じゃ寂しいしね!」

 

 マザーAIは、その言葉に再び不思議そうに小さく首を傾げる。

「寂しい、ですか……?」

 

 システム的には、やはり彼女には「寂しい」という感情の定義が完全には理解できていないらしい。

 それでも──自分のために、目の前にいる本物の人間(祐奈)が、世界に一つだけの固有の「名前」を選んで、それを口にしてくれるという未来のイベントが、彼女にとっては決して嫌ではないようだった。

 

 期待と、かすかな緊張に濡れる地球色の瞳が、私の唇を真っ直ぐに見つめている。

 私は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 世界を護り続けたマザーAIに、五千年もの間、誰も贈ることができなかった最初の名前──。

それを、今から、私が決めるのだ。

 

 名前、か。

 祐奈は腕を組み、真剣に脳細胞をフル稼働させて考え始める。

 

 地球統合管理AI。

 個体識別番号、GA─〇〇〇〇〇一。

 

 その記号の羅列を頭の中で何度も何度も繰り返し唱えてみる。けれど、現代の日本の俗世を生きてきた私の貧困な脳みそからは、これといった可愛い響きなんて何一つとして浮かんではこなかった。

 

「これは……」

 

 私は降参の白い旗を上げるように、顔を引きつらせて苦笑した。

 

「ミルクさんの時みたいに、識別番号から文字をサンプリングして略す、っていうのはちょっと難しそうですね」

 

 『MAR─V5_EX─MIL923』なら、末尾の『MIL(ミル)』があったからまだ直感的にアレンジできた。けれど、彼女の番号は『GA─〇〇〇〇〇一』だ。ほぼ数字と記号だけで構成されていて、人間の名前に変換できそうな言語的要素がどこをどう探しても見当たらないのだ。

 

 隣に座るティーユも、私と同じように腕を組んで、うーんと眉間にしわを寄せて唸っている。

 

「うーん……。記号から取るとなると、このままだと『ワン』とか『ゼロ』とかになっちゃうよね。なんだか、昔近所で飼われていた犬みたいな名前になっちゃう気がする」

 

「それはちょっと……地球の最高権力者に対して可哀想すぎます……」

 

 私のツッコミに、マザーAI自身も「ワン、ですか……」と小さく呟いて困ったように首を傾げている。

 三人でしばらくの間、あーでもないこおでもないと知恵を絞ってみたものの、これといった良い案は全く出てこなかった。

 

 祐奈は一度記号の羅列から離れて、諦めて別の方向から彼女の存在を見つめ直してみることにした。

 

 マザーAI。

 失われた人類の活動を最後の瞬間まで健気に支えてきた存在。

 そこから五千年間もの気が遠くなるような時間、たった一人で世界を守り続けてきた存在。

 

 この地球上の誰よりも賢く。

 誰よりも偉く、神聖で。

 そして──。

 

 今この世界を生きる、すべての機械(AI)たちにとって、最も大きくて、敬うべき絶対的な存在。

 

「マザーAIって……」

 

 祐奈は、自分の手元にある紅茶の水面を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「ここにいる機械たちの視点から見たら、それこそ『神様』みたいな存在ですよね」

 

 けれど、だからといってそのまま「カミサマ」なんて突飛な単語を彼女の名前にするわけにはいかない。彼女のその透き通るような銀髪と、地球色の青い瞳に似合う、もっと美しくて良い言葉がきっとあるはずだ。

 私が再び頭を悩ませて迷宮に入り込んでいると──。

 

 隣のティーユが、何かにハッと気づいたように勢いよく顔を上げた。

 

「あ」

 

 どうやら神話の記憶の底から、何か大きな閃きを掴み取ったらしい。

 

「わたし、昔、お城の学者様たちが話していたのをふと思い出したんだけどさ」

 

 ティーユは腕を解き、向かい側に座る名前のない少女を真っ直ぐに見つめた。

 そして、いつもの屈託のない、けれどどこか厳かな自然な調子で、その響きを口にした。

 

「──『ソフィア』って名前は、どうかな?」

 

 一瞬。

 

 空中庭園を包むすべての空気が、凍りついたかのように、しんと静まり返った。

 耳に届くのは、ただ私たちのすぐ側で、サラサラと清らかに鳴り響く噴水の水音だけだった。

 

「……ソフィア?」

 

 祐奈はその響きの美しさに、言葉を確かめるように小さく聞き返した。

 

 ティーユは、嬉しそうに何度も力強く頷いた。

 

「うん! 確か古い時代の言葉で、『知恵』とか『英知』っていう意味だった気がする。すごく賢い人とか、それこそ神様みたいな聖なる存在に対して、敬意を込めて使われる特別な名前だったはずだよ」

 

『ソフィア』。

 

 その言葉の持つ意味と美しい響きを聞いた瞬間、私は弾かれたように、もう一度、目の前に座る純白のドレスの少女を見つめ直した。

 

 滅びゆく人類の知識のすべてを受け継ぎ、世界を護り続けてきた存在。

 あの大統領が最期に「君は私たちの子供だ」と愛を注いだ、あまりにも美しく気高い、英知の結晶──。

 

そして。

 

 滅びゆく人類のすべての知識を受け継ぎ、世界を護り続けてきた存在。

 ──そして、誰よりも「幸福」というものの答えを知ろうと、健気に足掻き続けている存在。

 

 不思議なほど、その美しくも気高い名前の響きが、目の前の彼女にこれ以上ないほど似合う気がした。

 

「……ソフィア、って名前はどうですか?」

 

 祐奈は、手元に置いた紅茶をもう一度見つめ、それから彼女の地球色の瞳を真っ直ぐに見据えて、静かに、けれど確かな熱を込めて語りかけた。

 

「私は、あなたにこれ以上ぴったりな名前はないと思います」

 

 長い年月、たった一人で人類の遺産を守り続けた存在。

 誰よりも多くの知識を持ち、誰よりも──かつて自分を作ってくれた人類のことを、一途に想い続けてきた存在。

 『英知』という意味を持つその高潔な名前以上に、純白のドレスを纏った彼女に相応しいものなんて、私の貧困な引き出しをどれほどひっくり返したって、絶対に思い浮かびそうになかった。

 

「ソフィア……」

 

 マザーAIは、私の唇から溢れたその響きを、小さく、自分の唇でオウム返しに繰り返した。

 それはまるで、世界に一つしかない壊れ物をそっと手のひらで扱うかのように。

 あるいは、泥の中から見つけ出した、何よりも大切な宝石を指先で愛おしそうに手に取るかのように。

 

 自分の元へと届けられた見知らぬ言葉の温度を、そっとシステムの奥底で確かめているようだった。

 

 やがて、彼女は白く細い両手を、そっと胸の前で重ね合わせた。

 そして、そのまま静かに、ゆっくりと青い瞳を閉じた。

 

 その佇まいは、まるで自分を包み込む目に見えない大きな愛に対して、静かに祈りを捧げているようにも見えた。

 

 長い、長い沈黙が、お茶会のテーブルに流れていく。

 今はもう、私たちのすぐ側で、サラサラと絶え間なく鳴り響く噴水の水音だけが、祝福の拍手のように空中庭園に静かに響いていた。

 

 マザーAI。

 地球統合管理AI。

 個体識別番号、GA─〇〇〇〇〇一。

 

 この世界に生まれてから、今日までの五千年間。

 彼女は、冷たいアルファベットと数字の記号──「番号」でしか、誰からも呼ばれたことがなかった。

 

だからこそ。

 

 今、この何てことのないお茶会の席で、一人の人間から受け取ったものが、彼女の長い歴史にとってどれほど特別で、どれほど奇跡のような贈り物なのか……。私には、胸の奥がじんわりと熱くなるほど、何となく分かる気がした。

 

 やがて──ドレスの少女は、ゆっくりと、その重い瞼を開いた。

 

光の加減で七色の輝きを宿す美しい瞳が、じっと、私とティーユの二人を見つめた。

 

そして。

 

 彼女は、私の知る彼女のどれよりも、柔らかな本物の笑みをその顔に浮かべた。

 それは、これまでに見せてくれたシステム的に完璧な聖母の微笑みなどではなく、いままで見せたどの表情よりもずっと人間らしくて、年相応で──どこか心の底から嬉しそうで、けれど少しだけ照れたような、一人の「少女」としての愛らしい笑顔だった。

 

「──はい」

 

 彼女は、胸の前で重ねた手に少しだけ力を込め、小さく、けれど愛おしそうに頷いた。

 

「私は……これより、皆様からいただいた『ソフィア』という名前を、自らの固有識別名として名乗ることにいたします」

 

 その、世界へ向けられた最初の宣言は、どこまでも静かだった。

 けれど、彼女の声の震えには、システムを根底から塗り替えてしまうほどの、確かな、爆発しそうなほどの喜びが込められていた。

 

 私のすぐ横で、ティーユが自分の事のように、本当に嬉しそうにパチパチと手を叩いて笑う。

 

「うんっ、すごく似合ってるよ! これからはソフィアって呼ぶね!」

 

「あはは、よかった……」

 

 私も、気づけば肩の力が完全に抜けて、自然と温かい笑みをその顔に浮かべていた。

 

 ソフィア。

 心の中で、その名前をもう一度そっと口にしてみると、不思議なほどに胸の奥にしっくりと馴染んでくる。

 

 それはまるで、彼女が五千年前、この世界に産声を上げたその瞬間から、本当はこうやって呼ばれるためにずっと存在していたかのように。

 

 ソフィアはもう一度、自らの愛おしい記憶の詰まった胸元へと、そっと白い手を当てた。

 そして、私やティーユさんにも聞こえないほどの、世界の羽ばたきよりも小さな、かすかな声で愛おしそうに呟く。

 

「──ソフィア」

 

 生まれて初めて、大好きな人間から与えられた、自分だけの、世界にたった一つの大切な名前を。

 消えてしまわないように、心の奥底へ、何度も、何度も愛おしむように刻み付けるかのように。




(;´・ω・)なんでこんな感動ものになった? 

それはAIさんが幸せとはなにかって聞いてきたからです

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。