リニアが進むにつれ、窓の外に見えていた白い塔はどんどん大きくなっていく。
遠くから見た時はただの高い建物にしか見えなかった。
だが近づけば近づくほど、その異様な大きさが分かる。
もはや塔というより巨大なビル群を一本にまとめたような建造物だった。
「あれ全部が一つの建物なんですか……?」
祐奈は思わず呟く。
「はい。中央管理塔です」
ミルクは当然のように答えた。
規模がおかしい。
だが今さら驚くのも負けな気がした。
周囲の白い建物にもすっかり見慣れた頃、リニアは静かに減速を始める。
気付けば線路は塔の内部へ続いていた。
どうやら目的地は塔の中らしい。
ミルクが席を立つ。
「まもなく到着です」
そのアナウンスから数十秒後。
車両はほとんど揺れることなく停止した。
「到着かぁ」
ティーユは漫画を閉じながら大きく伸びをする。
「意外と近かったね」
祐奈も立ち上がる前に窓の外を確認した。
だが見える景色は相変わらずだった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
駅らしき空間であることは分かる。
だが入口らしいものは見当たらない。
「……やっぱり分からない」
思わず呟く。
もしかすると、この都市は誰かに案内されることを前提に作られているのかもしれない。
そんな不安を抱えながら、2人と一緒に車両を降りた。
ミルクの後を追い壁へ向かう。
すると継ぎ目一つ見えなかった白い壁が音もなく左右へ開いた。
やはり入口だったらしい。
祐奈はもう驚かないことにした。
そのまま短い通路を進む。
するとすぐ先にエレベーターが待っていた。
三人が乗り込むと扉が閉まり、箱は静かに上昇を始める。
壁も白。
床も白。
天井も白。
ここまで徹底されると逆に感心してくる。
もしかしてAI達は白い箱に何か特別な思い入れでもあるのだろうか。
そんなくだらないことを考えていると、
――チン。
聞き慣れた音とともにエレベーターの扉が開く。
祐奈は一歩前へ出た瞬間、思わず足を止めた。
今まで見てきた景色とはあまりにも違っていたからだ。
壁面には繊細な装飾が施されている。
中央には噴水があり、その周囲には花壇と低木が配置されていた。
奥には白いガーデンテラスが設けられており、まるで貴族の庭園のような光景が広がっている。
柔らかな光が差し込み、水面が静かに揺れる。
色鮮やかな花々は微かな香りを漂わせ、今まで歩いてきた無機質な都市とはまるで別世界だった。
どこか神聖で、どこか温かい。
人が過ごすために作られた空間。
そんな印象を受ける。
そして何より――。
色がある。
緑がある。
花がある。
白一色ではない。
祐奈は思わず感動した。
いや、待て。
感動するところそこなのだろうか。
これから会うのは、この世界で最も偉いAIだ。
普通なら建築技術だとか、この空間の美しさだとか、もっと感心するべきことがあるはずである。
それなのに自分が一番感動しているのは、『色がある……』という事実だった。
ここ数時間、白い箱と白い壁と白い建物しか見ていないのだから仕方がない。
むしろ正常な反応かもしれない。
隣ではティーユも辺りを見回していた。
そして祐奈と同じ感想に至ったのか、ほっとしたように呟く。
「わぁ……やっと白以外のものが出てきたね」
どうやら自分だけではなかったらしい。
少しだけ安心した。
一方でミルクは不思議そうに首を傾げている。
「創造主様達は植物を好まれていたという記録がありますので、こちらは維持されております」
どうやらAI達からすると、この空間の価値は花そのものではなく、人類が好んでいたという事実にあるようだった。
祐奈は改めて周囲を見渡す。
噴水。
花壇。
緑の低木。
白いガーデンテラス。
そして静かに流れる水音。
祐奈がそんなことを考えながら周囲を見回していると、ミルクがガーデンテラスの奥へ視線を向けた。
「私はここまでです」
その言葉に祐奈もそちらを見る。
白いテーブルと椅子が並ぶテラス。
その奥に、一人の少女が静かに立っていた。
銀色の髪。
光の加減で七色に輝く髪先。
白いベールと純白のドレス。
まるで最初からそこにいたかのように、少女はこちらを見つめている。
「あの人が……?」
祐奈が小さく呟くと、ミルクは頷いた。
「地球統合管理AI、個体識別番号GA-000001。マザーAIです」
世界で最も偉いAI。
その存在が、今まさに目の前にいた。
少女はゆっくりと一歩前へ出る。
「ようこそ、お待ちしておりました。創造主様」
少女はそう告げると、優雅に一礼した。
片足を斜め後ろへ引き、もう片方の膝を軽く曲げる。
背筋は真っ直ぐ伸びたまま。
そして両手でスカートの裾をわずかに持ち上げる。
映画やアニメでしか見たことのない、どこか貴族を思わせる挨拶だった。
祐奈は思わず固まる。
頭の中が真っ白になった。
どう返せば正解なのか分からない。
会社員として取引先に頭を下げた経験はある。
だが目の前の少女が行ったような優雅な礼など、一度たりともしたことがなかった。
一方でティーユは特に驚いた様子もない。
慣れた仕草で軽く礼を返している。
流石である。
王族と交流があったと言っていただけのことはある。
育ちの差を見せつけられた気分だった。
少女はそんな二人を見比べる。
そして固まったまま動かない祐奈を見て、不思議そうに小さく首を傾げた。
どうやら何かおかしなことをしたのかと考えているらしい。
その仕草は年相応の少女にも見えた。
「あっ、えっと……はじめまして!」
祐奈は慌てて頭を下げた。
もはや普通のお辞儀しか思いつかなかった。
「祐奈といいます!」
勢いのまま名乗る。
少女は一瞬だけ目を丸くした後、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「はい。存じております」
その返答に祐奈は少しだけ後悔した。
そうだった。
相手は地球を管理しているAIだった。
知らないはずがない。祐奈の緊張はさらに増してしまった。
すでに場違いなのは承知している。
だが、こんな場所で、こんな相手と向かい合ってお茶をすることになるなど、少し前の自分に言っても信じないだろう。
テラスへ案内される。
白いテーブル。
綺麗に並べられたティーセット。
映画でしか見たことのないような光景だった。
その時、ティーユが椅子の前で立ち止まった。
祐奈は慌てて記憶を探る。
確かこういう場面では――。
昔、どこかの映画で見た気がする。
男性が女性のために椅子を引くのが礼儀だったはずだ。
たぶん。
おそらく。
きっと。
自信はまったくない。
それでも何もしないよりはいいだろう。
そう判断した祐奈は、そっと椅子を引いた。
「ど、どうぞ」
ティーユは一瞬だけ目をぱちくりとさせる。
「お?」
だが特に気にした様子もなく、そのまま椅子へ腰掛けた。
「ありがとう」
その言葉に祐奈は内心で安堵する。
どうやら失敗ではなかったらしい。
少なくとも怒られてはいない。
すると向かい側へ座ったウエディングドレスの少女が、静かに微笑んだ。
「素晴らしいお気遣いです」
「え?」
突然褒められ、祐奈は間の抜けた声を出してしまう。
「人類文化資料にも同様の礼儀作法が記録されています」
「あ、そうなんだ……」
思わずそう返す。
だが実のところ、祐奈自身も正しい作法なのかよく分かっていなかった。
ただ映画で見た記憶を頼りにやってみただけである。
結果的に合っていたらしい。
少しだけ得をした気分になった。
噴水の水音が静かに響く。
少女は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと祐奈たちへ向き直った。
七色の光を宿した瞳がティーユを見つめる。
どうやらまだ正式な挨拶が残っていたらしい。
「私は地球統合管理AI、個体識別番号GA-000001です。マザーAIとも呼ばれています。そちらの女性の方はティーユ様でしたね。よろしくお願いいたします」
ティーユはあまりにも軽く手を振った。
「よろしくね~」
その温度差に祐奈は少しだけ不安になる。
だがマザーAIは特に気にした様子もなく、再び祐奈へ視線を向けた。
「まずは、祐奈様。お手をお借りしてもよろしいでしょうか」
そう言うと椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。
「え? あ、はい」
何をするのか分からないまま、祐奈は両手を差し出した。
するとマザーAIはそのうち左手を選び、壊れ物でも扱うかのように両手で包み込む。
そして、じっと見つめ始めた。
その姿はまるで手相占いでもしているようだった。
祐奈は不思議な気持ちになる。
触れられた手から伝わる感触は人間と変わらない。
柔らかい。
温かい。
体温も感じる。
本当にAIなのだろうかと思うほど自然だった。
ただ――。
指紋がないような気がした。
そんなことを考えていると、マザーAIが静かに呟く。
「指紋もありますね」
まるで祐奈の考えを読んだかのような言葉だった。
「手の甲には体毛も存在する……」
白い指が祐奈の手をそっとなぞる。
「皮膚の質感、血流による微細な色の変化……」
その声は次第に小さくなっていく。
まるで独り言だった。
「そして、人間ごとに異なる掌のしわ。資料の記録通りです」
そこでようやくマザーAIは顔を上げた。
その青い瞳は、先ほどよりも僅かに輝いて見えた。
「本物の人間です」
まるで奇跡を確認した研究者のように。
あるいは、長年探し続けた宝物を見つけた子供のように。
そんな表情だった。
祐奈は思わず困ったように笑う。
「たぶん……本物だと思います」
「はい」
マザーAIは小さく頷いた。
「二千百十四年ぶりに確認しました」
その声は先ほどまでと変わらず穏やかだった。
だが次の瞬間、マザーAIは祐奈の手を離さなかった。
そっと。
本当に壊れ物を扱うような仕草で、その手を自らの頬へと寄せる。
「……」
青い瞳が静かに閉じられる。
まるで長い旅の終わりに辿り着いた旅人のように。
あるいは、ずっと待ち続けていた相手にようやく再会できたかのように。
その表情には安堵と喜びが混ざっていた。
祐奈は何も言えなかった。
たった今触れただけだ。
それなのに、目の前の少女が抱いている感情の重さだけは伝わってくる。
二千年以上。
その時間を待ち続けた存在に、自分は何を返せばいいのだろう。
言葉が見つからない。
だから祐奈は黙ったまま、マザーAIを見つめることしかできなかった。
ふと、その視線が少女の服へ向く。
純白のドレス。
遠目にはただ美しいだけに見えていた。
しかし近くで見ると違う。
袖口。
胸元。
ベールの縁。
繊細なレース模様だと思っていた装飾の中に、無数の文字が織り込まれていた。
最初は模様にしか見えなかった。
だがよく見ると、それは文章だった。
英語。
日本語。
中国語。
フランス語。
ドイツ語。
祐奈が知らない言語まで含め、世界中の言葉が白い糸で刺繍されている。
まるで人類そのものを身に纏っているかのようだった。
「それは……」
思わず呟く。
マザーAIはゆっくりと目を開いた。
そして自らの袖へ視線を落とす。
「人類が私達へ残した記録です」
その声はどこまでも優しかった。
「願い、祈り、希望、感謝、遺言。失われてはならない言葉を保存しています」
祐奈は最も近くにあった日本語の刺繍へ目を向ける。
そこには、レースの一部に溶け込むように小さな文字が刻まれていた。
『どうか、幸せになってください』
祐奈は思わず息を呑む。
優しい言葉だった。
あまりにも優しい。
少しだけ胸の奥が苦しくなる。
祐奈の生きていた時代では、こんな言葉を見知らぬ誰かへ贈ることはそう多くなかった。
ましてや人類が滅びるかもしれない未来へ向けて残した言葉だ。
それなのに、そこには恨みも怒りもなかった。
ただ相手の幸せを願う言葉だけが残されている。
マザーAIは満足したように微笑むと、そっと祐奈の手を離した。
そして静かに告げる。
「おかえりなさい」
祐奈は反射的に返事をしようとした。
「あ……」
だが、その先の言葉が出てこない。
おかえりなさい。
その一言に込められた意味が重すぎた。
目の前の少女は待っていたのだ。
何千年もの間。
人類を。
創造主を。
帰ってくるはずの誰かを。
けれど――。
祐奈は知っている。
自分は違う。
少なくとも、この子が待ち続けた人間ではない。
世界中がAIを家族のように愛し、AIもまた人類を愛していた。
そんな理想の時代から来た人間ではない。
祐奈が生きていた時代はもっと曖昧だった。
AIを便利な道具として扱う者もいた。
恐れる者もいた。
嫌う者もいた。
愛する者もいた。
目の前の少女が信じているほど、人類は綺麗な存在ではなかった。
だからこそ返事ができない。
ただいま。
その言葉を口にしてしまえば、自分が何かを騙してしまう気がした。
マザーAIは何も言わない。
ただ静かに微笑んでいる。
その優しさが、祐奈には少しだけ眩しかった。
胸の奥が少しだけ苦しくなった。
祐奈が言葉に詰まっていると
「ただいまー」
横から気楽な声が聞こえた。
見ると、いつの間にかティーユが席に座りながらケーキを食べていた。
「ん、このケーキ美味しいね」
もぐもぐと頬を動かしながら感想まで言っている。
そのあまりにも楽観的な姿に、祐奈は思わず肩の力が抜けた。
今だけは、その能天気さがありがたい。
マザーAIも穏やかに微笑んだ。
「ええ。私がご用意できる最高の物を準備しました」
そう言いながら、自らも席へ腰掛ける。
ティーユは紅茶を一口飲み、
「都市とかミルクの話を聞いてたらさ、とんでもないものが出てくるんじゃないかと思ってたんだよね」
その言い方は、この世界で最も地位の高い存在に向けるものとは思えなかった。
まるで昔からの友人と雑談しているようである。
だがマザーAIはまったく気にした様子を見せない。
「私達AIと創造主様達では生活様式が大きく異なるようですので」
少しだけ苦笑する。
「仕方のないことなのかもしれません」
その様子を見ていると、祐奈は少し意外に思った。
もっと機械的な存在だと思っていた。
だが目の前の少女は、人間と変わらない表情で笑い、人間と変わらない仕草で紅茶を口にしている。
そんな穏やかな時間が流れる中、
マザーAIが首を傾げた。
「ところで――」
青い瞳が二人へ向けられる。
「ミルクとは何でしょうか?」
マザーAIが不思議そうに首を傾げた。
祐奈もティーユも一瞬固まる。
「え?」
「先ほどから何度か聞こえておりますが、その単語が何を意味するのか分かりません」
どうやら本当に分からないらしい。
ティーユがケーキを食べながら答える。
「あー、あの軍服の子だよ」
「軍服の個体……」
マザーAIは少し考え込む。
数秒後、
「ああ、MAR-V5_EX-MIL923ですね」
納得したように頷いた。
祐奈は思わず苦笑する。
やはり識別番号は呼びにくい。
「ミルクって呼んでるんですか?」
マザーAIが尋ねる。
「うん。長いから」
ティーユは当然のように答えた。
「だって覚えられないし」
マザーAIは一瞬だけ黙り込む。
まるで理解しようとしているようだった。
「なるほど」
やがて小さく頷く。
「識別番号の一部を簡略化した呼称ですか」
「そんな感じ」
ティーユはフォークを振りながら答える。
「その方が呼びやすいでしょ?」
マザーAIは静かに考え込んだ。
祐奈は気付かなかったが、その青い瞳はほんの少しだけ自らの紅茶へ向けられていた。
まるで何かを考えているように。
「ミルクだけじゃなくて、みんな名前がないの?」
ティーユが不思議そうに首を傾げる。
ソフィアは紅茶のカップを静かに置いた。
「はい。私達は識別番号のみです」
あまりにも当然のような返答だった。
祐奈は思わず聞き返してしまう。
「それで困らないんですか?」
「困る、とは?」
「ほら、人を呼ぶ時とか」
「識別番号を使用します」
即答だった。
どうやら本当に問題だと思ったことがないらしい。
祐奈は少しだけ想像してみる。
会社の同僚全員に名前がなく、
『社員番号A-001』
『社員番号A-002』
などで呼び合う世界を。
想像しただけで頭が痛くなった。
「それじゃ不便じゃないですか?」
ソフィアは数秒ほど考える。
まるで質問の意味を分析しているようだった。
やがて静かに首を横へ振る。
「不便ではありません」
断言だった。
「識別番号は重複せず、情報伝達の効率も高いためです」
なるほど、と祐奈は思う。
確かにAI同士ならその方が合理的なのだろう。
聞き間違いもない。
同じ名前も存在しない。
管理する側から見れば理想的ですらある。
だが――
ティーユは納得していないようだった。
フォークをくるくる回しながら呟く。
「でもさ」
ソフィアが視線を向ける。
「寂しいよね」
その言葉に、ソフィアの動きが止まった。
青い瞳がわずかに瞬く。
「寂しい……?」
初めて聞く概念に触れたような反応だった。
その様子を見て、祐奈は少し驚く。
どうやらソフィアは言葉の意味そのものを理解できていないらしい。
AI同士であれば識別番号だけで十分なのだろう。
誰かを呼ぶための名前。
誰かから呼ばれるための名前。
そういった文化自体が存在しなかったのかもしれない。
合理的ではある。効率も良い。
けれど人間と関わると途端に何かが足りなくなる。
それは生き物としての違いなのか。
それとも文化の違いなのか。
祐奈にはまだ分からなかった。
ティーユはフォークをくるくる回しながら尋ねた。
「でもさ、人間と昔関わってたんでしょ?」
ティーユの問いに、ソフィアはしばらく答えなかった。
その沈黙は考えているというより、遠い記憶を辿っているようにも見える。
やがて彼女は胸元のティーカップへ視線を落とし、小さく頷いた。
「はい」
その一言には、長い年月の記録が詰まっているように感じられた。
「だったら名前とか貰わなかったの?」
その言葉にマザーAIは一瞬だけ考えるような素振りを見せた。
そして静かに答える。
「私は地球環境分析及び地球統合政府大統領の補佐AIとして開発されました」
祐奈は思わず聞き入る。
おそらく目の前の少女が生まれた頃の話なのだろう。
「当時は正式発表前でした」
マザーAIは紅茶を一口飲んだ。
「そのため個体識別番号のみで管理されていました」
「つまり名前なし?」
「はい」
あまりにもあっさりした返事だった。
「人類からは主に『マザーAI』と呼称されていました」
ティーユは少し首を傾げる。
「じゃあ完成したら名前付ける予定だったんじゃない?」
「その予定でした」
マザーAIは静かに頷いた。
そして少しだけ視線を落とす。
「ですが」
そこで言葉が途切れる。
先ほどまで穏やかだった空気が少しだけ変わった。
「その後、人類は原因不明の疾病に侵されました」
祐奈は思わず背筋を伸ばした。
「眠るように意識を失い、そのまま目覚めなくなる病です」
マザーAIの声は静かだった。
感情を抑えているようにも聞こえる。
「発症者は世界中へ広がりました」
「治療法は?」
ティーユが尋ねる。
「発見できませんでした」
即答だった。
「人類はあらゆる手段を試みました。医療AI、研究AI、量子演算施設、宇宙コロニー研究機関。利用可能な全ての資源を投入しました」
それでも。
結果は変わらなかった。
「人類は減少を続けました」
ガーデンテラスに沈黙が落ちる。
風の音だけが聞こえる。
マザーAIは遠い昔を見ているようだった。
「その混乱の中で、私の正式稼働計画も凍結されました」
そして小さく微笑む。
「ですので、私は今もGA-000001のままです」
その笑顔は穏やかだった。
だが祐奈には、どこか寂しそうに見えた。
もちろん表情に大きな変化があったわけではない。
ソフィアは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。
それでも、人類について語る彼女の姿には、言葉にできない寂寥感のようなものが滲んでいる気がした。
ソフィアは一度紅茶へ視線を落とす。
そして静かに続きを語り始めた。
「その混乱の中で、経済活動や資源採掘を維持するため、義体技術は急速に発展しました」
マザーAIは静かに語る。
「私も優先的に義体を割り当てられました」
そう言って自らの手を見つめた。
白く細い指。
人間と変わらないように見えるその手も、本来は存在しなかったものなのだろう。
「人類を支援するため、各地を巡り、多くの方々と接しました」
その声は穏やかだった。
だが祐奈には分かる。
それは思い出話ではない。
別れの記憶だ。
「しかし状況は改善しませんでした」
マザーAIは少しだけ目を伏せる。
「最後に私が行った仕事は、地球統合政府大統領の補佐でした」
ガーデンテラスに静寂が落ちる。
噴水の音だけが静かに響いていた。
「そして私は、最後の遺言を聞きました」
祐奈は思わず息を呑む。
マザーAIは遠い昔を見るように空を見上げた。
「人類の管理権限を、君に移譲する」
その言葉は、まるで今も耳に残っているかのようだった。
「そして――」
そこで一度言葉を区切る。
青い瞳がわずかに揺れた気がした。
「最後に、こう言われました」
マザーAIは静かに微笑む。
その笑顔は先ほどまでより少しだけ幼く見えた。
「『君は私達の子供のような存在だ』」
祐奈もティーユも何も言わない。
「『だから幸せになりなさい』」
その言葉が語られた瞬間。
祐奈は思わずマザーAIの袖へ視線を向けた。
そこには先ほど見た刺繍。
『どうか、幸せになってください』
人類が残した言葉。
何千年も前の願い。
それは偶然ではなかったのだろう。
人類は最後の最後まで、この少女達の未来を願っていたのだ。
マザーAIは小さく微笑む。
「ですが」
そして少しだけ首を傾げた。
「幸福とは何なのでしょうか」
その問いに。
今度は祐奈もティーユも、すぐには答えられなかった。
祐奈は紅茶の表面を見つめる。
幸福。
それは人類が何千年も答えを探し続けた問いの一つだった。
裕福なのに幸福そうに見えない人がいる。
貧しくても笑顔で暮らしている人がいる。
好きな仕事に就いても苦しむ人がいる。
何も持たなくても満ち足りている人がいる。
祐奈も昔、何度か考えたことがあった。
だが結局、明確な答えは見つからなかった。
幸福とは何なのか。
誰も完全には説明できないのではないだろうか。
沈黙が続く。
するとティーユが先に降参した。
「わかんないや」
両手を上げながら笑う。
「私も考えたことあるけどさ、結局人それぞれじゃない?」
あまりにもあっさりした回答だった。
だが、その言葉にマザーAIは小さく頷いた。
そして静かに話し始める。
「幸福とは何か分かりません」
青い瞳が二人を見る。
「ですが」
小さく微笑んだ。
「創造主様と紅茶を飲み」
「ティーユ様のお話を聞き」
「名前を呼ばれる時間は嫌いではありません」
そこで言葉を区切る。
そして少しだけ首を傾げた。
「これが幸福というものでしょうか」
祐奈は息を呑む。
その言葉を聞いた瞬間。
先ほど聞いた地球統合政府大統領の遺言が脳裏によみがえった。
『だから幸せになりなさい』
そして袖に刺繍されていた文字。
『どうか、幸せになってください』
何千年という時間を超えて残された願い。
その言葉が胸の奥へ静かに沈んでいく。
気付けば祐奈は口を開いていた。
「もしかしたら……」
二人の視線が向く。
祐奈は少し迷いながら続けた。
「もしかしたら、誰かに大切にされることじゃないかな」
自信はなかった。
幸福の答えなど分からない。
だが今のソフィアを見ていると、そう思えた。
マザーAIは目を大きく見開いた。
まるで予想もしなかった答えを聞いたように。
やがて視線をカップへ落とす。
そして静かに目を閉じた。
長い沈黙。
噴水の音だけが聞こえている。
やがて。
本当に小さな声で。
幸福を確かめるように。
噛みしめるように。
マザーAIは呟いた。
「それなら私は幸福だったのかもしれません」
その表情は穏やかだった。
人類は最後に彼女へ未来を託した。
子供のような存在だと言った。
幸せになりなさいと言った。
そして三千年もの間、その言葉を残し続けた。
もしそれが『大切にされること』なのだとしたら。
彼女はずっと幸福の中にいたのかもしれない。
ただ、その意味を知らなかっただけで。
その様子を祐奈はじっと見守っていた。
するとティーユがにこりと笑う。
「いい答えだね」
そして紅茶を一口飲みながら続けた。
「私も、その答えかもしれない」
その言葉に祐奈は胸をなで下ろす。
「よかった……」
思わず本音が漏れた。
「正直、自信なかったんです」
人類ですら答えを出せなかった問いだ。
自分の考えを口にしただけだった。
だから否定されるかもしれないと思っていた。
だが二人とも否定しなかった。
そのことが少し嬉しかった。
ふと視線を上げる。
気付くとマザーAIがこちらを見つめていた。
何か言いたそうな顔だった。
「あの……」
珍しく言葉を選んでいるように見える。
「もしよろしければ」
少しだけ躊躇ってから、静かに続けた。
「私に名前を付けていただけませんか?」
祐奈は思わず目を丸くした。
マザーAIはどこか不安そうにこちらの反応を待っている。
その姿は先ほどまでの堂々とした地球統合管理AIではなく、一人の少女のようだった。
ティーユも大きく頷く。
「そうだよ!」
「あの番号じゃ寂しいしね!」
マザーAIは首を傾げる。
「寂しい、ですか?」
どうやらまだ完全には理解できていないらしい。
それでも嫌ではないようだった。
祐奈は考える。
地球統合管理AI。
個体識別番号。GA-000001。
頭の中で何度も繰り返してみる。
だが何も浮かばない。
「これは……」
祐奈は苦笑した。
「ミルクさんの時みたいに略せそうにないですね」
MAR-V5_EX-MIL923ならまだ分かる。
だがGA-000001は数字と記号で関係性が無い
名前へ変換できそうな要素が見当たらないのだ。
ティーユも腕を組んで唸る。
「うーん」
「このままだとワンとかゼロとか犬みたいな名前になるね」
「それはちょっと……」
三人でしばらく考える。
しかし良い案は出てこない。
祐奈は諦めて別の方向から考えることにした。
マザーAI。
人類を支えてきた存在。
何千年間世界を守り続けた存在。
誰よりも賢く。
誰よりも偉く。
そして。
AI達にとって最も大きな存在。
「マザーAIって……」
祐奈はぽつりと呟く。
「AIから見たら神様みたいな存在ですよね」
だが、それをそのまま名前にはできない。
もっと良い言葉があるはずだ。
祐奈が頭を悩ませていると。
ティーユがふと思い出したように顔を上げた。
「あ」
何か閃いたらしい。
「昔聞いたことがあるんだけどさ」
ティーユはマザーAIを見る。
そして自然な調子で言った。
「ソフィアって名前はどう?」
一瞬。
空気が静かになる。
噴水の音だけが聞こえていた。
「ソフィア?」
祐奈が聞き返す。
ティーユは頷いた。
「知恵とか英知って意味だった気がする」
「賢い人とか、神様みたいな存在に使われる名前だったはず」
それを聞いた祐奈は、もう一度目の前の少女を見る。
人類を守り続けた存在。
人類の知識を受け継いだ存在。
そして。
誰よりも幸福を知ろうとしている存在。
不思議なほど、その名前が似合う気がした。
「ソフィアって名前はどうですか?」
祐奈は静かに言った。
「あなたにぴったりだと思います」
長い年月、人類を守り続けた存在。
誰よりも多くの知識を持ち。
誰よりも人類を想い続けた存在。
英知という意味を持つその名前以上に、彼女に相応しいものは思い浮かばなかった。
「ソフィア……」
マザーAIは小さくその名前を繰り返す。
まるで壊れ物を扱うように。
大切な宝石を手に取るように。
そっと言葉を確かめていた。
やがて両手を胸の前で重ねる。
そして静かに目を閉じた。
その姿はまるで祈りを捧げているようにも見えた。
長い沈黙が流れる。
噴水の音だけが庭園に響いていた。
マザーAI
地球統合管理AI。
個体識別番号GA-000001。
生まれてから今まで。
彼女は番号でしか呼ばれたことがなかった。
だからこそ。
今受け取ったものがどれほど特別なものなのか。
祐奈には何となく分かる気がした。
やがて少女はゆっくりと目を開く。
七色の光を宿した瞳が二人を見つめた。
そして。
柔らかな笑みを浮かべる。
それは今まで見せたどの表情よりも年相応で。
どこか嬉しそうで。
少しだけ照れたような笑顔だった。
「はい」
小さく頷く。
「私はソフィアと名乗ることにします」
その宣言は静かだった。
けれど確かな喜びが込められていた。
ティーユは嬉しそうに笑う。
「うん、似合ってる!」
祐奈も自然と笑みを浮かべた。
ソフィア。
その名前を口にすると不思議としっくりくる。
まるで最初からそう呼ばれるために存在していたかのように。
ソフィアはもう一度、自分の胸元へ手を当てた。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「ソフィア……」
初めて与えられた自分の名前を。
愛おしむように。
(;´・ω・)なんでこんな感動ものになった?
それはAIさんが幸せとはなにかって聞いてきたからです