「ニャー」
迷惑そうな鳴き声。しかし、翔太は構わない。首輪を少し回すと、目当ての文字を見つけた。猫の名前だと思われるその単語を、翔太は口にしてみる。
「モンブラン」
「ニャ……?」
「お前、モンブランっていうのか」
「ニャ~アァ」
そうですとも――猫のモンブランは、そう誇らしげに頷いているようだった。
名前はわかった。けれども、名前以外の文字が見当たらないことに、翔太は落胆した。名前だけでなく、飼い主の連絡先も書いておいてくれればいいものを。これでは、この猫の飼い主に連絡ができないではないか。
(猫が逃げるとは、想定していなかったのか)
翔太は動物に詳しくないが、猫という生き物は隙あらば脱走するような動物ではないのだろうか。せめて電話番号くらいは書いておくべきだろうと、翔太はモンブランの飼い主に嘆息する。
どこかの飼い猫、モンブラン。しかし、今はただの居候猫。さて、どうしたものか。
考えようとしたが眠気が襲ってきたので、翔太はモンブランに構わず寝室に向かい、電気を消すとさっさと寝入ってしまった。一緒に寝たいのか、モンブランが図々しくもベッドに乗ってきたので、翔太は仕方なく、ぬくい毛の塊を掛け布団の中に招き入れて、共に夢の中をたゆたうのだった。
◆◇◆◇◆
――二回目、少しだけ気になった。
翔太と居候猫モンブランの共同生活は、それからしばらく続いた。
最初は図々しく、未熟だった頃の自分のような猫だと思っていたモンブランだが、数日一緒に過ごしているうちに、実はかなりおっとりとした猫であることに気が付いた。水を飲むのも、翔太がしぶしぶ買ってきたキャットフードを食べるのも、やけに遅い。歩くのも遅いし、走るモンブランを見たのは、最初の夜に玄関からリビングへダッシュした時ぐらいだろう。モンブランの天性の性格がおっとりしているのか、あるいはかなり老いているのかもしれない。
そんなとりとめのないことを考えながら、モンブランの背をなでる日々が続く。ただ仕事に行って帰ってくるだけの翔太にとって、それは癒やしの時間だった。だから、「きっと飼い猫だろうから、モンブランの主人を探さなければ」と思ってはいても、なかなか行動に移せずにいた。
モンブランを家に招いてから二回目の金曜日の夜。その日も仕事が遅くなり、翔太は日付変更目前という時間に、マンションへの道を歩いていた。
すると、モンブランが家に上がり込んできた日と同様に、懐中電灯を手に持ってあちこちをうろつく人影を見つけた。さすがに二回目ともなれば多少は気になり、何者なのかと、翔太はその人影をしばらく観察する。不審者ならば、今度は警察に連絡を入れようと思った。
暗闇の中、懐中電灯を左右に向け、何かを探す人影。その影が電灯の下に来た時、それが思っていたよりも若い女性であることがわかった。
財布でも落としたのだろうか、女性は黙々と何かを探している。電灯が照らすその横顔はとても頼りなく、今にも泣きだしそうな表情だった。
声をかけるべきか、翔太は迷った。こんな夜遅くに若い女性が探し物など、非常識もいいところである。昼間に探せばよいではないか。懐中電灯まで用意して、そんなに大切なものなのか。次から次へと疑問が浮かぶ。しかし、疲れている足はそれらの思考など関係ないと言わんばかりに、なんの迷いもなくマンションに向かっていた。
見知らぬ女性が探しているものなど、自分には関係ない。そう自分に言い聞かせて、部屋の電気をつける。すると、いつもならまったりとくつろいでいるはずのモンブランが、やけにせわしなく鳴いていた。
「ニャアァ……ニャァ……ニャーニャー」
「なんだよ、飯ならちょっと待て」
「ニャーニャー」
翔太の不機嫌な声にもめげず、モンブランは何かを訴えるように鳴く。耳障りだと少し苛立ちながら、翔太はキャットフードを盛った皿を床に置いた。
そういえば、家に招いた日から一度も外に出していない。もしかしたらモンブランは、外に出たいのかもしれない。明日は特に予定のない休みだし、モンブランを逃がすつもりで外に出してしまおうか。そもそも飼うつもりで家に上げたわけではないのだし、よそのお宅の飼い猫との不思議な共同生活は、もうおしまいだ。
そんなことを考えながら翔太はシャワーを浴び、鳴き続けるモンブランを無視してベッドに倒れ込んだ。
◆◇◆◇◆
――三回目、言葉を交わしたらあっという間に心を奪われた。
翌日、ゆっくりと朝を過ごした翔太は、昼前にスニーカーを履いた。そして、玄関からモンブランを呼ぶ。モンブランはこれからの翔太の行動を理解しているのか、一目散に翔太めがけて走ってきた。この猫が走るのを見るのはこれで二回目だ、とどうでもいいことを思いつつ、翔太は玄関のドアを開けた。来た時と同じように、モンブランはエレベーターの中でも翔太の足元にぴったりとくっ付いて離れなかった。
翔太とモンブランは同時にエントランスホールに出て、暖かな日差しが注ぎ込むマンション前の道に出た。
すると、翔太の視界に一人の女性の姿が入った。それは間違いなく、暗闇の中で懐中電灯を片手に何かを探していたあの人物だ。明るいところでその姿を見るのは、初めてである。
(なんだ、昼間も探していたのか)
昨夜の疑問の一つに、答えが出る。
それにしても、昼間も夜も、いったい何を探しているのだろうか。
翔太が考えていると、足元でモンブランが鳴いた。
「ニャー!」
なんだと思って見ると、モンブランは翔太になど目もくれず、その女性めがけて猛ダッシュをしていったところだった。
「おいっ……」
「ニャァ、ニャアァ」
「モンブランっ!」
翔太のわずか五メートルほど先で、女性は足元に駆け寄ってきた猫を抱き上げた。その表情は、真夜中の頼りなさそうに見えた表情とは違い、まるでヒマワリが咲いたように眩しい笑顔だった。
「ああ……よかった……よかったぁ」
「ニャアァ、ニャア~」
ああ、そうか。
モンブランは彼女の飼い猫で、彼女は最初のあの日からずっと、モンブランを探していたのだ。そして昨夜モンブランが鳴き続けていたのは、飼い主である彼女が外にいることを知っていたからなのだ。
すべての事象が一つにつながる。何もかもが理解できた翔太は、すっきりとした気分だった。
モンブランを逃がすか、と軽く考えていたが、マンションを出た瞬間にモンブランは無事に飼い主の元へ戻ったので、これにて一件落着だ。自分はこのまま、一人で本屋にでも行くか。
頭上の晴れ渡った空のように爽快な気分のまま、翔太は女性にもモンブランにも声をかけることなく、その場を立ち去ろうとした。
「ニャー」
「あ、あのっ」
ところが、そんな翔太を引き止める二つの声があった。
翔太は少し億劫そうに振り返り、猫と女性を見つめる。わざとではないのだが怖い表情を向けてしまったらしく、目が合った女性は一瞬びくりと肩を震わせた。しかし、はっきりとした声で翔太に話しかけてきた。
「あなたがこの子を保護してくださっていたのでしょうか」
「ええ、まあ……。離れずに付いてきたので、しばらく家に置いていました」
「ニャア」
そのとおりです――と、モンブランは言っているようだ。
「ありがとうございます。ずっと捜していたんです」
「そうみたいですね」
猫は夜行性だから夜も行動すると思って、昼間だけでなく夜中にまで懐中電灯を片手に探していたのだろう。彼女にとって、モンブランは大事な飼い猫なのだ。
これ以上関わることはないと思って立ち去ろうとしていたのに、やけに目の前の女性とモンブランについて推察している自分に、翔太は言葉にならない感覚を覚えた。通りすがりの人間でいようと思うのに、モンブランを抱っこした女性に、どうしてか意識が向いてしまう。