ブルーアーカイブ 透き通る青春よ永遠なれ   作:Jon.Do

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段々とシリアスになり始めているので初投稿です


第二十一話 広がる不安

「……この後どうするかあ。アテもないし、大人しくゲヘナに戻る?」

 

 ムツキが両手を頭の後ろで組み、退屈そうに呟きながら、事務所……だった建物の外階段をトントンと降りていく。

 

「でも、今回の件で風紀委員達の目も相当厳しくなってるだろうし……。今ゲヘナに戻っても、アコに突っつかれるのがオチじゃない?」

 

 風紀委員会には捕捉され、依頼者には失敗と断定されて追われる身となった彼女は引越しの準備をしていた。

 カヨコが大きな荷物を肩にかけ直し、現実的な懸念をため息と共に口にしてしまう。

 便利屋68の面々は、それぞれ両手に荷物を持って移動の途についていた。

 つい昨日、依頼されたアビドス対策委員会の排除は失敗し、ゲヘナの風紀委員会とも接触してしまった今、これ以上ここに残ることはできないし……そもそも家賃さえ払えなくなっていたからだ。

 残った備品や書類の選別はすでに終わっている。ハルカが涙目で不眠不休の頑張りを見せてくれたおかげで、あとはトラックに荷物を積み込んで出発するだけの状態だった。

 それぞれがこれからの行き先や、明日の生活費について口々に話をする中、社長であるアルだけは歩みを止め、遠く……アビドス高校のある方向をじっと眺めていた。

 

「アル様……大丈夫でしょうか……? もしかして、どこかお体が痛むのですか……っ!? すみません、私が役立たずなせいでアル様にこんな心労を……ッ!」

 

「ハルカ、落ち着いて。アルはどこも怪我してないから。……まあ、あれだけ戦場で大物っぽく啖呵を切っておいて、ヒナが来た途端に尻尾巻いて一目散に逃げちゃったからね。置いてきた先生のことが心配なんだよ、きっと」

 

 カヨコが呆れたようにため息をつきながら指摘する。

 

「へー、そんなに心配してくれてたんだな。あの時、誰よりもちゃっちゃと音速で逃げ出してたろーに。だから一時のテンションとノリだけで物事を考えるのはやめろって、銀さんあれほど口を酸っぱくして言ったろーが」

 

「まあそれがアルちゃんだし……って、え!? 先生!! ♡」

 

 しれっと会話に入ってきた聞き馴染みのある気怠い声。ムツキが驚いて振り返ると、そこにはいつも通りの着物をだらしなく着崩し、小脇に木刀を抱えて暢気に鼻を穿っている銀時が立っていた。ムツキは一瞬で顔を輝かせ、嬉しそうに甘えた声を漏らす。

 

「な、なんでアンタがこんなところにいるのよ……!?」

 

 カヨコが信じられないといった様子で目を丸くし、ハルカは「ひぃっ、せ、先生……!? 私たちの夜逃げを通報しにきたんですか!?」と激しくガタガタと震え出した。

 そしてハッと我に返ったアルは、銀時と目が合った瞬間に顔を真っ赤に染め、ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「……先生」

 

 アルはゲヘナの委員長の名前を聞いた途端にパニックになり、味方を置いて敵前逃亡してしまった自分の醜態を恥じらうように、ぎゅっと荷物を抱きしめて俯いたまま、消え入りそうな声で銀時に問いかける。

 

「……なんで、わざわざ来たのよ。アンタはアビドスを手伝ってる身だし、私たちは……あなたたちに迷惑をかけた犯罪者なのよ……?」

 

「なあに、お前さんらが今日のうちにこの街を出ていくかも、なんて話をアヤネちゃんから小耳に挟んだからさ。しがない大人の義務ってやつ? 見送りにきてやったんだよ。ほら、せっかくの感動の別れなんだから、銀さんに餞別よこせよ餞別。今なら現金でも宇治銀時丼でも大歓迎だぞ」

 

「普通、餞別は見送る方側から出すもんでしょ……」

 

 カヨコがいつも通りの調子で、やれやれとため息を吐きながら鋭い突っ込みを入れる。そのやり取りを見て、銀時は鼻を穿っていた手を引っ込めると、少しだけ表情を和らげて素直に口を開いた。

 

「……ま、お前らにゃ、あの時助けられたからな。色々めちゃくちゃな奴らだけど、あの包囲網の時にお前らが裏をかいて暴れてくれなきゃ俺もアビドスも押し切られて、あのお堅い青髪のお局ねーちゃん達に監禁されてたかも知れねえし。……あん時は、ありがとよ」

 

 ぶっきらぼうながらも、真っ直ぐに向けられた感謝の言葉。それを聞いたアルの肩の力が、ゆっくりと抜けていく。強張っていた彼女の表情が、どこか救われたように柔らかく変化していった。

 銀時の登場に、便利屋のメンバーもそれぞれ口々に胸の内を溢し始める。

 

「私、先生に柴関のラーメン奢っていただけて、本当に嬉しかったです……!」

 

「……はぐれ者の私たちのこと、対等に扱ってくれたしね。先生のあの時の指揮、そんなに悪くなかったよ」

 

「えーん、やっぱり先生と別れたくないかもー♡ ね、先生も一緒にトラック乗っちゃう?」

 

 ムツキがいたずらっぽく笑いながら銀時の腕に抱きつこうとするのを、銀時は「指名手配者と行動してスミ付きにはなりたくねーんで」と軽く小突いてあしらう。

 そして、アルがゆっくりと顔を上げ、銀時を見つめて口を開いた。

 

「先生、私は……私、やっぱり、あのヒナが怖くて……」

 

「……おいおい、自称・冷酷非道な立派なアウトローになるんだったら、こんな場末の街でいつまでもクヨクヨしてる暇はねーだろ。こんなとこでウジウジウジウジして風紀委員に四六時中監視されたり、あくどい奴らに追われて怯えてたら、目指す大悪党にもなりやしねえよ」

 

 銀時は一歩歩み寄ると、大きくて無骨な手をアルの頭へと乗せ、その赤髪を優しく、クシャクシャと撫で回した。

 

「……向こうに行っても、元気にアウトローやってな。世間のルールなんて知ったこっちゃねえ。お前自身の思う、お前だけのハードボイルドなルールってやつをしっかり腹の底に持ちながらさ」

 

「っ……」

 

 アルは目を見張り、それから顔を真っ赤にしながらも、今までにないほど晴れやかで、女の子らしい小さな微笑みを浮かべた。そして、誇らしげに胸を張って、ハルカたちが待つトラックの助手席へと乗り込んでいく。

 運転席のハルカがエンジンをかけると、夜の静寂にトラックの重々しいアイドリング音が響き渡る。銀時はポケットに手を突っ込み、出発の準備を終えた彼女たちを見据えた。

 

「また会おうぜ、ポンコツ社長とその一味。そん時はお前らが大儲けして、俺に柴関のネギチャーシュー奢ってくれや」

 

 窓から顔を出したアルは、いつもの自信と気品に満ちた、とびきり不敵な笑みを浮かべてみせる。

 

「……ふふ、あはははは! いいわよ、約束してあげる! あなたとの一時限りの共同戦線、とっても楽しかったわ! また会いましょう、先生。その時は──このキヴォトスで最も恐れられる『便利屋68』を、最優先でご贔屓にしなさいよね!」

 

 トラックがゆっくりと動き出し、ムツキやハルカ、カヨコが窓から手を振る。銀時はそれに対して、振り返ることもなく、ただ片手をひらひらと適当に振ってから……次の場所へと向かう。

 

 ──────────

 

「───── よう、大将。体の具合はどうだい」

 

 白一色で統一された静かな病室。窓の外をぼんやりと眺めていた柴関ラーメンの店主の後ろから、聞き慣れた気怠げな声がかけられた。

 振り返れば、そこには首元を掻きながら入ってくる銀時と、そのすぐ後ろから心配そうに顔を覗かせるセリカ、そしてアヤネの姿があった。

 

「……ああ、先生か。こんな朝早い時間からわざわざありがとな。セリカちゃんも、アヤネちゃんも看病に来てくれてありがとよ。なあに、見た目は大層だがちょっと擦りむいただけだからよ、身体の方は何の問題もねえさ」

 

 店主は大きな体躯に不釣り合いな患者着に苦笑しながら、安心させるように笑ってみせる。しかし、その顔に刻まれた深い疲労と、どこか遠くを見るような寂しげな瞳までは隠しきれていなかった。

 

「でも、大将……私たちのせいで、大将のあの店が、あんな無残なことに……」

 

 セリカが俯き、ギュッと制服のスカートを握りしめる。自分たちが便利屋やゲヘナの連中を巻き込んで派手に立ち回ったせいで、長年アビドスの生徒たちの胃袋を支えてくれた大切な場所が、文字通り瓦礫の山に変わってしまった。その罪悪感に、セリカの大きな耳が痛々しく伏せられる。

 

「なあに、気にするなセリカちゃん。……そもそも、あの店は近いうちに畳む予定ではあったからな。それがちょっとばかり、派手な花火と共に早まっただけさ」

 

「え、お店を畳むって……どういうことですか?」

 

 アヤネが眼鏡の位置を直し、驚きを隠せない様子で問いかける。柴関ラーメンといえば、この寂れたアビドス自治区において、最も繁盛し、最も住民に愛されていた憩いの場のはずだった。自主廃業する理由など、どこにも見当たらない。

 

「……少し前からさ、とあるところからしつこく退去勧告が出されていてね。色々と嫌がらせも受けていたし、潮時かと思ってたんだわ」

 

 店主はため息混じりに、ぽりぽりと頭を掻いた。

 

「た、退去勧告なんて、そんなの法的に認められるわけありません! そもそもアビドスは学校自治区で、土地の所有権だってアビドス高等学校が有しているはず……!」

 

 アヤネが血相を変えてタブレットを叩く。だが、店主は力なく首を振った。

 

「ああ、アンタらその辺の詳しい話を知らないのか。……何年か前にアビドス高校生徒会が、膨らみ続ける借金を少しでも減らすために、この周辺の土地の所有権を分割して、どっかの大きな会社に二束三文で売却しちまったんだよ」

 

 少女たちの顔が、一瞬で絶望に凍りつく。学校を守るために先輩たちが必死に繋いだ泥縄の資金策が、結果として自分たちの足元を切り崩す刃になっていた。

 

「……カイザーコーポレーション」

 

 それまで黙ってやり取りを聞いていた銀時が、死んだ魚の目のまま、ボソリと肉食獣のような冷たいトーンでその名を口にした。

 

「そうそう、確かそんな名前の会社だ。あの愛想のねえロボットどもの会社さ。あいつらが地主になっちまったからには、個人経営のラーメン屋なんてひとたまりもねえよ」

 

「……なるほどね。合点がいったわ。あいつら、学校の借金を回収して利息で儲けようってんじゃねえかもな」

 

 銀時は顎をさすりながら、脳裏にあの一件を思い返していた。

 

『カイザーコーポレーションがアビドスの忘れられた砂漠で何かを……』

 

 ゲヘナの風紀委員長、空崎ヒナが立ち去る間際に自分へ残していった、あの警告の言葉。キヴォトスのどの巨大勢力すら掴んでいない、アビドスの最果てで行われている不穏な計画。点と点が、カイザーコーポレーションという最悪な名前を軸にして、急速に繋がり始めていた。

 病室に、冷たい、けれど何か巨大な陰謀の足音が近づいてくるような緊張感が走る。アヤネはしばらくの間、驚愕に目を見開いたまま固まっていたが、やがて何かを決意したように強くタブレットを胸に抱きしめた。

 

「……セリカちゃん、先生。お二人は先に学校へ帰ってください。私は、過去の生徒会の土地売買記録と、現在の登記情報をもう一度細かく調べ直してから学校に戻ります!」

 

 アヤネはいつもの事務的で、けれどどこか焦りを含んだトーンで告げると、

 

「待って! 私はアヤネちゃんと一緒に残る! 先生、先に行ってていいよ!」

 

 セリカが慌ててアヤネの隣へと並び、それからベッドの上の店主へと向き直って、その大きな猫耳をピンと立てながら声を張り上げる。

 

「店長、まだ引退とかそんな寂しいこと絶対に考えないでよ、いい!? 私たちが、絶対にあの店を、前よりずっと大きくて美味しい柴関ラーメンを再建してみせるんだから! 待っててよね!」

 

「お、おう、威勢がいいねえセリカちゃん……わかったよ、期待して待ってる。……あ、そーいや先生。ちょっと気になることがあってな。あの店の跡地の焼け跡に大金の入った鞄がぽつんと置かれてたんだが……何か知ってるかい?」

 

 店主がふと思い出したように、ポリポリと頭を掻く銀時に視線を向けた。

 

「ああ? 知らねーよ。なんだよそれ、むしろ俺の懐に置いて欲しかったわ。銀さんの財布、今スカスカを通り越してただの布切れだからな?」

 

 銀時はいつも通り、心底羨ましそうに死んだ魚の目で鼻をほじってみせる。

 ──金の入った鞄。あの窮地の中、自分たちのために「鉛玉でお詫びをする」と啖呵を切り、そして文字通り夜逃げのように去っていった、あの不器用で最高にハードボイルドなアウトローたちの顔が脳裏をよぎる。あのポンコツ社長、最後の最後でとびきり格好いい置き土産を残していきやがったらしい。

 

「……まあ、でも。出所がどこだか知らねえが、神様がくれた開店資金だと思って、あの店の再建とかに有難く使えばいいんじゃねーの? 」

 

 銀時はフッと口元を緩めると、背を向けて病室の扉を開けた。

 

「じゃあな、大将。早く治して美味えラーメン食わせろよ。お前らもあんまり夜更かしすんなよー」

 

 気怠げな声を残し、銀時はひらひらと手を振りながら病室を出ていく。あとに残された二人の少女は、その大人の背中を見送ってから目的の場所へと向かった。

 

 ──────────

 

 そして大将への見舞いが終わり、銀時がひと足先に学校へと戻ると、校門前でノノミが一人、静かに竹箒で掃き掃除をしていた。さらさらと砂を払う規則正しい音が、朝の澄んだ空気に響いている。

 

「あ、先生。お帰りなさい。店長さんの具合はどうでしたか?」

 

 銀時の姿を見つけると、ノノミはいつもの穏やかな笑みを浮かべて箒を止めた。銀時は「おう」と短く応じる。

 

「大将は取り敢えず体の具合はいい、とのことだ。なあに、タフなオヤジだから心配いらねえよ」

 

 まずはそう伝えてノノミを安心させたものの、銀時の表情はどこか冴えない。彼は頭をガリガリと掻きながら、視線を少し落とした。

 

「……それから、ちょっと、あとでみんな集まった時にも詳しく話すけどよ。また新しくちっとばかし面倒な問題が出てきやがった」

 

「新たな、問題……ですか?」

 

 ノノミの動きがピタリと止まる。彼女の持つ箒の柄を握る手に、かすかに力がこもった。

 ここ最近、アビドスを襲うトラブルの波はあまりにも高すぎた。便利屋の襲撃に始まり、ゲヘナの介入、そして大切な柴関ラーメンの爆破。次々に押し寄せる悪意の前に、どれだけ気丈に振る舞っていても、年端もいかぬ少女の心には確実に疲弊が積み重なっていた。

 

「……先生がアビドスに来てから、いろんなことが変わりました」

 

 ノノミはぽつりと、静かに言葉を溢した。その視線は、自分の足元の砂地へと向けられている。

 

「もちろん、嬉しいこともたくさんあって……。先生が私たちの顧問になってくれたり、カタカタヘルメット団を撃退できたり、みんなでいろんなアルバイトをしたり……。先生がいてくれて、本当に毎日が前よりずっと明るくなったんです。けど……問題が次から次へと立ち塞がって、まるで行く手を塞がれているみたいで……」

 

 語るうちに、ノノミの端正な表情が段々と暗く曇っていく。いつだって優しく皆を包み込むお姉さん役の彼女が、今にも押し潰されそうなほど弱気な顔を見せていた。

 銀時は何も言わず、ただ黙ってその様子を見つめていたが、やがて大きなため息をひとつつくと、ノノミの前へと一歩踏み出した。

 そして自分の温かい大きな手をそっと彼女の肩に乗せた。

 

「ひゃっ……? せ、先生……?」

 

 突然のことにノノミが驚いて目を丸くし、少し顔を赤らめる。銀時は死んだ魚の目のまま、絶対的な説得力を持つ声を静かに紡いだ。

 

「……夜ってさ、夜明け前が一番暗ェんだよ」

 

「え……?」

 

「立ちはだかるでけえ壁もあれば、足元に広がる底の見えねえ谷もあるだろうよ。そのたびに足がすくんじまうのも無理はねえ。だけどな、そんなんお構いなしに何度でも派手に転んで、泥水啜って、落ちて……それでもがむしゃらに、前だけ向いて走り続けりゃ。いつかはお日さんも昇って、傷だらけでマヌケな面した俺らを、温かく笑ってくれるだろうさ」

 

「……先生」

 

 ノノミは潤んだ目で真っ直ぐに銀時を見つめた。その胸の奥にあった冷たい不安が、大人の温もりによってじわじわと溶かされていくのが分かる。

 

「ほら、そんな暗いツラしてっと、せっかくのべっぴんさんが台無しだぞ。いつものように美味い茶を淹れてくれや」

 

 銀時は手を離すと、一足先に校舎へと足を進めていった。その後ろ姿を見つめながら、ノノミはもう一度深く息を吸い込み、いつものひだまりのような笑みをその顔に取り戻して、彼の後をついてゆく。

 

 アビドスの静まり返った校舎へと入ると、廊下の奥から何か重いものが壁に押し付けられたような鈍い音と、激しくぶつかり合う音が小さく響いた。

 

「いってて〜……どうしたのシロコちゃん、顔が怖いよ〜?」

 

「……いつまでそうしてシラを切るつもり?」

 

 ただならぬ二人の会話を感じ取り、銀時とノノミが急ぎ足でその声がした空き教室へと入る。教室内では、ホシノとシロコが至近距離で対峙しており、空気はひりつくほどに少しだけ険悪な雰囲気を漂わせていた。

 

「うへへ〜、何のことかわからないなあ」

 

「嘘つかないで」

 

 シロコはホシノの胸ぐらを掴むかのような鋭い眼差しで、いつにない頑なな態度を崩さない。まさにそのタイミングで足を踏み入れた銀時とノノミ。二人の一触即発な様子に、銀時は盛大にため息をついてから、肩の力を抜くように言葉を挟んだ。

 

「……おいおい、朝っぱらから姉妹喧嘩か? 腹減るだけの無駄な労力はやめろよな、マジで。そういうのはもっとこう、宇治銀時丼の餡子の量とか、そういう高尚な争いのために取っときなさいって」

 

「……先生」

 

「あ、ノノミちゃんも」

 

 大人に割って入られ、二人が少し気まずそうに視線を泳がせるのを見兼ね、ノノミがいつもと変わらないおっとりとした歩調で歩み寄る。

 

「いったい何があったんですか?」

 

 優しく、けれどどこか拒絶を許さないトーンで尋ねるノノミ。シロコは一度ホシノから目を離し、小さく息を吐き出した。

 

「……ホシノ先輩に個人的な用があるの。申し訳ないけど、しばらく二人きりにさせて」

 

「だ、め、で、す! 対策委員会のメンバー同士での隠し事は一律禁止! 私たちはアビドスを守る運命共同体なんですから。もしそれでも頑なに秘密にしようというなら……容赦のないお仕置き、ですよ☆」

 

 ノノミがガトリングガンを背負い直しながら、満面の、けれど底知れない圧を孕んだ笑顔で言い放つ。その圧倒的なお姉さんオーラを前に、流石のシロコも気圧されたように言葉を詰まらせた。

 

「……う」

 

「うへへ〜、やっぱりノノミちゃんには敵わないなあ。実はさ、最近のおじさん、ちょっと色んな場所でよく居眠りしてサボってることがシロコちゃんにバレちゃってさ、それで激しく怒られただけなんだよ〜。……ね、シロコちゃん」

 

 ホシノはいつも通りの「うへ〜」とした緩い笑みを顔に貼り付け、シロコの肩をポンと叩く。シロコは不満げに眉をひそめながらも、それ以上の追及はここでは不可能だと悟ったのか、小さく視線を落とした。

 

「……ん」

 

「とりあえず私たち、先に部室に行ってアヤネちゃんたちの帰りを待ってるね〜。ほら、いこ、シロコちゃん。おじさんお腹空いちゃった」

 

 ホシノがシロコの背中を軽く押すようにして、二人はそのまま空き教室を後にした。去ってゆく二人の背中、特に、どこか無理をして道化を演じているようなホシノの歩みを見送りつつ、銀時はポリポリと首の後ろを掻いた。

 

「……まあったく。多感な時期の女子高生ってのは、どうしてこうも一丁前に隠し事したがるんかね。おじさんくらいの年齢になると、隠したいことなんて腹のハミ肉と財布の残高くらいしか残らねーってのに」

 

「……仕方ありません、みなさん言いたくないことの一つや二つあるでしょうから。私たちもいきましょ、先生」

 

 ノノミはそう言って優しく微笑むと、ホシノたちの後を追うように歩き出した。

 

「ああ、そうだな……ん、?」

 

 生返事をしながら、銀時はふと足を止め、自分の冷え切った脳みそをフル回転させる。

 

(……ちょっと待て。このままあの二人の後を追って部室に戻ったら……どうなる?)

 

 頭の中でシミュレーションした瞬間、背筋に最悪な電流が走った。

 隠し事があるのがバレバレなホシノと、それを絶対に許したくないシロコ。あの不穏な空気のまま、部室という狭い密室に四人が集まるのだ。想像しただけで窒息しそうな……

 

 ──────────

 

 案の定だった。

 

 部室に戻ってからの数分間、部屋の空気は完全に氷点下を大きく下回っている。

 

「……」

 

 ソファの隅で、ホシノはいつも通り眠たげな目で天井を眺めていた。

 

「……」

 

 その対面に座るシロコは、一言も発さず、ただひたすらに自分の銃のボルトを無言で引き、戻し、引き、戻し……というカチャカチャとした威嚇音だけを室内へ響かせていた。ノノミはノノミで、お茶を淹れながらもその笑顔の奥に一切の感情を宿していない。

 

「……」

(……ほらな!!! 言わんこっちゃねえだろ!!! 気まずいに決まってるじゃねえか!!! どうしよこれ、いつものノリで盛大にふざけてみせるべきか!? いや待て坂田銀時、それは流石に空気を読めてねえ大惨事になるぞ……! いやでもこんな空気俺大嫌いだもの!! 胃がさっきからキリキリキリキリ鳴り響いてんだもの!! 少女漫画のドロドロした修羅場かよ!! 多感な時期の女の子マジで怖えよチクショー!!!)

 

 パイプ椅子の端っこで、置物のように小さくなりながら背中で滝のような冷や汗をかきまくっている銀時。自分の体から流れる血よりも、この空間の精神的プレッシャーの方がよほど命の危機を感じていた。

 その時だった。静まり返った部室に、ドタドタと廊下を猛烈な勢いで駆ける足音が響き渡る。

 バァァァン!! と勢いよく扉が開いた。

 

「みんな、大変! これを見て!」

 

 息を荒くしたセリカが、今にも飛びかからんばかりの勢いで部室に滑り込んでくる。その後ろからは、大きな書類の束を抱えたアヤネが眼鏡を直しながら滑り込んできた。

 

「病院の帰りに、アビドス自治区についての書類を役所から引っ張り出して持ってきました!」

 

(ナイスだ二人ともォォォ!!! お前らマジで今世紀最大の救世主だわ!!! あとで銀さんがなけなしの財布からパフェ奢ってやるからな!! ただし一番安いミニパフェな!!)

 

 銀時は心の中で二人に五体投地しながら、飛び上がる勢いでパイプ椅子から立ち上がった。

 

「……あれ、どうしたのこの雰囲気……。なんか部屋の空気が妙に冷たいんだけど……」

 

 セリカが部室のただならぬ気配を察知してピクリと猫耳を動かし、不審そうにシロコたちを見やる。アヤネも書類を抱えたまま、一瞬だけ足を止めた。

 

「まあまあまあ、そんな細かいことは気にすんなって、な!? 取り敢えずなんか凄いもんを見つけてきたんだろ!? 世紀の大発見なんだろ!? 早くそれをこの銀さん達に教えてくれよ、な! ほら、頼むから!!」

 

 銀時はこれみよがしにセリカとアヤネの間に入り込み、話を強引に進めようと必死の形相で二人の肩を揺さぶる。

 

「あ、ええ、まあ、はい……。かなり深刻な内容ですので、皆さんちゃんと聞いてください」

 

 銀時のただならぬ必死さに若干引きつつも、アヤネは書類を机の上にドン、と広げ、いつもの事務らしい険しい表情へと戻った。

 

「此方は土地の所有者についてを記した地図、地籍図といいます」

 

 アヤネが大きな机の上に、何枚もの複雑に色分けされた地図を広げた。その上に重ねるようにして、古い契約書のコピーを次々と並べていく。

 

「柴関ラーメンの店長が言ってたことが気になって、アヤネちゃんと一緒に役所の地下倉庫まで行って調べてみたら……」

 

 セリカが悔しそうに唇を噛みながら、地図の一箇所を指差した。その地図は、アビドス高校の校舎とごく一部の敷地だけが白く残され、それを取り囲む広大な市街地や砂漠地帯が、すべて禍々しい赤色で塗りつぶされている。

 

「……アビドス自治区の土地の大半が高校の手から離れてるな、コレは」

 

 銀時が死んだ魚の目を少しだけ細め、地図の赤色で染まった領域を凝視した。その境界線は、まるで獲物をじわじわと締め上げる蛇のように、自分たちのいる校舎のすぐ目の前まで迫っている。

 

「そんな、アビドス自治区の土地は全部……っ」

 

 それまでソファで眠たげにしていたホシノが、弾かれたように身を起こした。普段の緩い雰囲気を完全に消し去り、険しい眼差しで机の上の書類をひったくるようにして確認する。そのオッドアイの瞳が、書類の文字列を追うごとに大きく見開かれていった。確かに、かつて自分たちが命がけで守ろうとした広大なアビドスの土地の大半が、名実ともに別の持ち主へと書き換えられていた。

 

「現在の登記上の所有者は……カイザーコンストラクション。カイザーコーポレーションの不動産・開発部門にあたる系列会社です」

 

 アヤネの冷徹な報告が、静まり返った部室に重く響く。

 

「……カイザーの系列か。この学校の敷地と、その周囲の最低限の土地を覗いて、外堀は全部確保しやがってる。オセロじゃあるまいに、いつの間にか全面真っ黒にひっくり返されてるじゃねえか……」

 

 銀時は木刀の柄を小刻みに叩きながら、忌々しそうに吐き捨てた。ゲヘナの風紀委員長が言っていた「忘れられた砂漠での企み」という言葉の、これが最悪の前提条件だったのだ。

 

「そんな、学園のアイデンティティでもある学校自治区の土地を、そう簡単に取引するなんて……一体、誰がこんなめちゃくちゃなことを……」

 

 ノノミがいつも絶やさない微笑みを完全に消し、悲痛な声を漏らす。だが、その問いに対する答えは、この場にいる誰よりも長くアビドスに在籍している少女の口から、重く、苦いトーンで紡がれた。

 

「……アビドスの生徒会、でしょ。学校のすべての資産における議決権は生徒会にある。なら、こんな規模の売却ができるのは……ウチの前生徒会しかないよ」

 

 ホシノは書類を握りしめたまま、ポツリと呟いた。その声は震えており、どこか過去の亡霊を目の当たりにしているかのような、深い痛みを孕んでいる。

 

「その通りです。地籍図に付随していた売買契約書の署名を確認しましたが、すべての取引の主体は、数年前に解散したアビドスの前生徒会でした」

 

 アヤネが厳しい表情で頷き、事実を裏付ける。

 

「学校の、みんなの財産を勝手に切り売りするなんて……! 一体どうなってるのよ、前生徒会は! 先輩たちは何を考えてそんなことしたのよ!」

 

 セリカが怒りを爆発させ、机を激しく叩く。借金を返すために毎日必死にアルバイトをし、生活を切り詰めている自分たちの努力が、過去の先輩たちの手によって根底から覆されていたのだから、その憤りは当然だった。

 

「……」

 

 しかし、セリカのその叫びに対して、ホシノは何も答えず、ただ静かに視線を落として拳を握りしめるだけだった。その沈黙の重さに、銀時は何も言わず、ただ静かにホシノの横顔を見つめる。

 

「今まで私たちは、目の前の膨大な利息と借金だけに囚われていましたけど……まさか、自分たちの足元でこんな大ごとが起きていただなんて、今の今まで気づかないでいるなんて……」

 

 ノノミが呆然とした様子で地図を見つめ、弱り切った声を出す。

 便利屋との戦い、ゲヘナの介入、そして柴関ラーメンの爆破。それらすべての裏で糸を引き、アビドスを内側から完全に干からびさせようとしていた巨大な悪の全貌が、今、最悪の形で少女たちの前に突きつけられようとしていた。

 

「……! そういえば! ホシノ先輩なら何か知っているのでは!? 確か、解散した最後の生徒会の一人だったはず……!」

 

 アヤネがハッとしたように顔を上げ、すがるような目でホシノを見つめた。数年前の、まだアビドスが今より少しだけ大きかった頃の真実を知る人物。だが、ホシノは自嘲気味に口元を歪めると、ゆっくりと首を振った。

 

「……申し訳ないけど、アヤネちゃんの期待には応えられないかな。私が生徒会に入った頃にはね、一人の先輩を残してみんなもう辞めちゃってて……。在校生だって、全部合わせても二桁程度しかいなかった。教職員もいなくて、授業なんてないのが普通。引き継ぎ資料みたいなのも最初からなかったし、学校の教室は今よりもっと荒れ果ててたんだよ。……生徒会長は会長なのにバカで、無鉄砲でさ。私は私で、トゲトゲしてて本当に嫌な性格の新入生だった。あの時は何もかもめちゃくちゃだったなあ……」

 

 ─── あの時は、たった二人であちこち行ったり来たりしてたっけ。ほんとバカみたいに、何も知らないでいて……。

 

 遠い目をして、ぽつり、ぽつりと過去の断片を紡ぐホシノ。その姿は、銀時の目から見ると……かつての輝かしくも痛々しい思い出を懐かしみ、同時に、二度と戻らないその日々を激しく悲しんでいるように見えた。

 

「でも、なんで前の生徒会は、カイザーコーポレーションなんかに土地を売ったりしたんでしょう……」

 

 ノノミが悲しげに眉をひそめ、納得がいかないというように書類を見つめる。

 

「裏で手を組んでたとか? お金を横領したとか」

 

 シロコが冷徹な仮説を口にするが、ホシノは「んーん」と優しくそれを否定した。

 

「そんなことはないよ。多分、その時いた先輩たちが自分たちで懸命に必死に考えた上での決断だったんだと思う。学校を少しでも長引かせるためのね。けど……」

 

「……その必死こいて売ったここらの土地じゃ、あいつらの利息の前にゃ大した金にはならなくて、結局は雀の涙も同然だった……てか」

 

 銀時が濁った目で天井を仰ぎながら、ホシノの言葉の先を横から奪うように繋げた。

 

「多分、そういうこと」

 

 ホシノは寂しそうに微笑み、それ以上は語らなかった。

 

「何よそれ……っ、最初からどうしようもないじゃない……。先輩たちが必死に守ろうとして、それで騙されてただなんて……!」

 

 セリカが悔しさに声を震わせ、拳を強く握りしめる。自分たちが今やっている努力の何年も前から、同じように泥水を啜って足掻いた先輩たちがいて、その結末がこれだったという現実に、胸が締め付けられるようだった。

 

「……たく、かぶき町のヤのつく奴らがまだ可愛く思えるほどの悪辣さだな。胸糞悪すぎて吐き気がしてしかたねえよ」

 

 銀時はガリガリと容赦なく頭を掻きむしり、忌々しそうに床に視線を落とした。

 

「借金を持ちかけた後にさぁ、返す方法に困った奴らに『甘い言葉』で土地を売ればいい、つって近づくんだ。少しずつ、少しずつ、相手が気づかねえように肉を削ぎ落として、最後には骨まで残さず食っていく……。最初からこのアビドスって街ごと、あいつらの胃袋の中に入ってたってわけだ」

 

「……だいぶ昔から進んでた計画だったんだろうね。それも何十年も前からの」

 

 ホシノは地籍図の赤く染まった領域を指先でなぞりながら、どこか諦念の混じった声で呟いた。カイザーコーポレーションという巨大な怪物が、この砂に埋もれゆく学園をじわじわと包囲し、飲み込もうとするまでの気の遠くなるような時間。その執念の深さに、部室の空気はさらに重く沈み込んでいく。

 

「前の生徒会の奴らはどんだけ無能だったのよ!? こんな子供騙しの詐欺みたいな方法に引っかかるなんて、信じられないわ!」

 

 セリカが苛立ちを隠せない様子で、わめくように声を張り上げた。先輩たちの必死さを理解しつつも、あまりにも理不尽で一方的な搾取の歴史に、感情の行き場をなくしてしまっていた。

 

「パワーストーンブレスレットなんてもんにあっさり引っかかるお前にだけは流石に言われたくねえと思うぞ」

 

 銀時が死んだ魚の目のまま、鼻の頭をポリポリと掻きながら呆れたようにツッコミを入れる。

 

「そ、それは関係ないじゃない!! 私はアビドスのために良かれと思って、その、ちょっと判断を誤っただけでしょ! 一緒にしないでよ!!」

 

 セリカは顔を真っ赤にして、ピンと立った猫耳を激しく震わせながら怒鳴り返した。

 あまりにもいつもの調子な二人のやり取りに、張り詰めていたノノミの表情に少しだけいつもの柔らかさが戻り、アヤネも呆れたように眼鏡の位置を直す。けれど、その賑やかさの少し後ろで、ホシノだけは机の上の古い契約書をじっと見つめたまま、微動だにせず深い思考の海へと沈んでいた。

 

「……セリカちゃんと同じだよ。この学校を思って、切羽詰まって。何も見えなくなってこんなことをしちゃうんだ」

 

 ホシノの静かな言葉が、部室の空気にぽつりと落とされた。それは先輩たちを庇う優しさのようでもあり、同時に、自分自身にも言い聞かせているかのような、どこか仄暗い響きを孕んでいた。

 

「先輩……」

 

 セリカは言い返そうとした口を閉じ、バツが悪そうに耳を伏せる。

 

「……まあ、よくある話ってだけだから。これ以上昔のことを言っても始まらないし、取り敢えずこれからのことを話していこうよ」

 

 ホシノはすぐにいつもの緩い笑顔を作り直すと、パンパンと小さく手を叩いて強引に話題を切り替えた。

 

「はい。これでカイザーコーポレーションの目的がお金ではなく土地、それもアビドスの自治区そのものであるとはっきりしたので、今後の対策を練る必要があります」

 

 アヤネが眼鏡の位置を直し、気持ちを切り替えるようにタブレットへ視線を戻す。

 

「……なあ、ちょっと気になって聞きてえんだけどさ。このアビドスのでけえ敷地、特に使われてねえ砂漠地帯なんかにさ。地下資源っつーか、石油だのレアアースだの? なんかそういう価値のあるもんが埋まってるなんて噂話はあるのか?」

 

 銀時が頭の後ろで腕を組み、怪訝そうに片目を瞑りながら問いかける。

 

「いえ、そんな話は聞いたことありません……。アビドスの砂漠化が進んでからは、学園の経済価値は下がる一方ですし、もしそんな資源があるならとっくに大ニュースになって掘り起こされているはずです」

 

 アヤネが不思議そうに首を傾げると、銀時は「だよなァ……」とさらに眉間のシワを深くした。

 

「……実はよ、あのお堅い白髪の風紀委員長の嬢ちゃんと二人きりになった時にさ、どっかで掴んできたらしい小耳に挟んだ話なんだがよ。カイザーコーポレーションの連中が、アビドスのあの忘れられた砂漠で、生徒会も他校も知らねえ何かを必死こいて企んでるっつーのを聞いたんだ。お前ら、本当に心当たりねーか?」

 

 銀時のその言葉が室内に落ちた瞬間、ホシノの身体が微かに強張った。

 

「……カイザーコーポレーションがアビドス砂漠で、何かを企んでいる……?」

 

 ホシノのオッドアイの瞳が、今までにないほど鋭く、そして暗く陰っていく。その呟きは、単なる疑問ではなく、かつて自分が置いてきてしまった「何か」の輪郭をなぞるような、深い動揺を隠しきれていなかった。

 

 ──────────

 

「……じゃあ、明日は朝一でアビドス砂漠の南側エリアを偵察、ということで。みんな、砂漠用の装備と予備の弾薬のチェックを忘れないでくださいね」

 

 アヤネがそう締めくくり、明日の作戦がひとまず決定した。

 けれど……目の前に広げられた地籍図の不気味な赤色と、その裏で何十年も前から蠢いているカイザーコーポレーションの巨大な陰謀。自分たちがただの「借金返済」だと思っていたものが、底知れない闇に繋がっているという重い事実に、生徒たちは言葉を失い、静かに押し黙ってしまった。

 

「……うへ〜、おじさん明日早いなら、今のうちにしっかり寝溜めしておかないとな〜。ちょっと部室のソファじゃ腰が痛いから、今日はお家で寝るね〜」

 

 最初に立ち上がったのはホシノだった。いつものように気の抜けた調子で伸びをすると、背を向けてひらひらと手を振りながら、どこか急ぐように部室を出ていってしまった。

 

「……アヤネ、書類片付けるの手伝うわ」

 

「ええ、そうですね。私もちょっと役所のデータで気になる部分があるから、もう一度まとめておきます」

 

「じゃあ、私もお茶の片付けをして、今日は早めに失礼しますね。みなさん、あまり根を詰めすぎちゃダメですよ?」

 

 ホシノに引きずられるようにして、セリカ、アヤネ、ノノミもそれぞれ理由をつけて、一人、また一人と部室を後にしていった。彼女たちの背中には、目に見えない巨大な壁に突き当たったかのような、隠しきれない疲弊と焦燥が滲んでいた。

 そうして最後に残ったのは、銀時とシロコの二人だけだった。

 

「……たく。ただのガキどもの借金問題から、何でこんなに話がデカくなるかね。銀さんもう胃もたれしちまいそうだわ。ネギチャーシューの油が今になって回ってきたかね、マジで……」

 

 銀時は盛大にボヤきながら、重い腰を上げてパイプ椅子から立ち上がろうとした。その瞬間、ツン、と着物の袖を背後から弱々しく引かれる。

 振り返ると、シロコが俯いたまま、銀時の袖の端をじっと握りしめていた。その指先は、かすかに震えている。

 

「……先生」

 

「ん? なんだよシロコ。お前もパフェのサイズアップの要求なら──」

 

「……この前のゲヘナ風紀委員会の騒動の時、ホシノ先輩は来るの遅かったでしょ。先輩、いつも重要な時は、誰よりも率先して一番に出てくるのに。……あんなこと、絶対におかしい」

 

 シロコの声は、酷く静かで、今にも壊れてしまいそうだった。

 

「そう思って……私、さっき空き教室で先輩を問い詰める前に、先輩のバッグを漁ったの」

 

「お前なぁ、いくら先輩だからって年頃の女の子の鞄を──」

 

「そしたら、これが入ってた」

 

 シロコがポケットから取り出して机の上に置いたのは、何枚かの折り畳まれた白い書類だった。

 銀時が死んだ魚の目を少しだけ動かし、その書類の表題に視線を落とす。そこには、乱れのないアビドス高等学校の公的な文字で、こう記されていた。

 

「……退部届」

 

 銀時の動きが、ピタリと止まる。

 

「……ホシノ先輩はまだ何も言ってない。対策委員会の他の人たちにも言ってない。けど、ホシノ先輩は私がこれを抜いたことを気付いてるんだと思う。……先生、私、悪いことしちゃったよね。人の荷物を勝手にあさって、こんなの盗み見て……でも、どうすればいいか、もうわからなくて……」

 

 シロコはぎゅっと唇を噛み締め、涙を堪えるように視線を床へ落とした。アビドスを誰よりも愛し、誰よりも執着しているシロコだからこそ、ホシノの静かな覚悟の理由が分からず、そしてそれを暴いてしまった自分自身の身勝手さに、激しい自己嫌悪を抱いていた。

 銀時はしばらくの間、その白い書類を見つめていたが、やれやれと首を振って、いつもの調子でふっと息を漏らした。

 

「……昔さ、どっかの街でコソコソとスリやってた、お前みたいに目の離せねえガキンチョに言ったっけな。『スリをする奴は相手の懐に手を入れるたびに、何か大切なモンを落としてる』……ってさ。人の秘密を盗み見るってのはそういうことだ。お前は今、そいつを見て、胸の奥の大事なモンがチクチク痛んでるだろ」

 

「……」

 

 シロコは何も言わず、ただ悲しげに耳を伏せた。

 

「……とは言え、だ。スリのガキンチョも、そいつもそいつで、どうしても会いてえ大切な人のために必死になってやってたことだった。やった手段はクソ喰らえで褒められたもんじゃねえが、……その腹の底にある中身は、なかなかに上等なもんさ。それは、今のお前だって同じだろ。ホシノが心配だから、あいつがどっか遠くに行っちまいそうだったから、だからやっちまったんだろ?」

 

「……ん」

 

 シロコは小さく、けれど確かに頷いた。銀時のぶっきらぼうな肯定に、彼女の強張っていた肩がほんの少しだけ軽くなる。

 

「……このことは、俺とお前だけの秘密だ。他の奴らにはまだ黙ってろ。あとでちゃんと、あいつにバレねえようにこっそりバッグに戻しといてやれよ。……アイツにはアイツなりの、お前らにはまだ言えねえ考えがあるんだろーからな」

 

 銀時はそう言うと、シロコの頭を大きな手で一回だけポンと叩き、部室の窓の外を見つめた。




ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この前の休日は万事屋よ永遠なれと完結編を配信アプリで眺めていました。気付けばあれから随分歳とったなあとしみじみしてしまいます。
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