「おはようございます、先生。今日も一日頑張って───!?」
先日、どうにか半ば強引に『シャーレの秘書』という、ある種の特別で強固な肩書きを手にすることができたユウカ。
暫く野暮用で、とのことで不在だった彼がシャーレへと帰ってきたという情報を得て、今日も今日とてあの男の自堕落な生活を管理し、支えてあげなければ……本当にあの人は私がいなきゃ何一つちゃんとした生活ができないんだから……と、そんな独占欲にも似た充実感を胸に、自然と口元に緩い笑みを浮かべながらオフィスの扉を開いた。しかし次の瞬間、彼女の表情は凍りつき、その場に愕然と立ち尽くすことになった。
何故か。理由は極めて簡単、かつユウカにとって看過できない事態が目の前で起きていたからだ。
「主殿、主殿! 今日はイズナの新しい忍術の修行にお付き合いください! ぜひ主殿に見ていただきたく、こうして朝一番に馳せ参じました!」
「ん、今日は私がシャーレの当番。だから先ずは、私と先生が一緒に仕事をするのが先。忍者は後回し」
「そんなんどっちでも良いよ本当……つーかお前ら、まだ朝の何時だと思ってんだ、俺の血圧がいくつだと思ってんだ。上が80あるかないかの人間相手に騒いでんじゃねーよマジで……」
……そう。あの、どうしようもなく甲斐性なしの、あの男が。寝起きのウトウトとした締まりのない表情のまま、ソファの上で狐耳の少女とマフラーを巻いた少女の二人から、左右のがっちりとした至近距離で脇を固められていたからである。
「な、ななな、な────!?」
「……あれ? ミレニアムの方、ですか?」
「ん、……確かシャーレの秘書になったっていう……?」
驚愕のあまり完全にキャパシティを超えて声を裏返らせるユウカに、銀時の左右にぴったりと張り付いていた二人が同時に視線を向ける。
「んあ? あー、ユウカか。ちょーどよかった、頼むからこの二人どうにかしてくんね? 朝っぱらから右の耳元でニンニン言われて、左の耳元で『ん、仕事』ってボソボソ言われて溜まったもんじゃねえ……まだ二度寝して幸せな夢の中にいる時間帯だからな、本当だったら」
「もう朝の八時。例え日曜でもマトモな人なら活動している時間」
「そうですよ! 早起きは三文の徳なのですから、早く目を覚まして私の忍者の修行に……」
「違う、私と仕事」
片や純粋無垢に大好きな主殿に構ってほしくて縋る少女と、片や静かな独占欲を少しだけ露わにして、自分の当番としての仕事を優先させようと迫る少女。
そんな、朝一番からシャーレのオフィスで繰り広げられているあまりにも距離感の近い光景に、ユウカは握りしめた拳をワナワナと震わせている。
(そ、そんな……! い、いや、私は別に先生と朝から二人きりの時間を過ごしたいとかそういう不純な動機ではなくて、ただ、あの人の破綻した生活管理やガタガタな家計管理をセミナーとして正してあげようと思って、わざわざ貴重な休みの日を削ってまでここに来たのであって……!)
脳内で必死に冷徹な数式を組み立てて言い訳をするものの、自覚なしにぷく、と頬を膨らませてしまいそうになるのを、ユウカは必死の形相で噛み殺して抑え込んでいる。そんな彼女のただ事ではない様子に、銀時はソファの上で少しだけ身を引いた。
「……おーい、どした? 顔真っ赤にして固まって。お前さん、もしかしてどっか具合悪ぃの?」
「……そんなんじゃありません! この、朴念仁! 唐変木! 」
「なんで俺急に罵倒されてんの!? 」
理不尽な暴言に理不尽な抗議で返す銀時だったが、そのだらしないパジャマ姿の首元からは、やはり自分たちとは違う無骨な鎖骨が覗いている。そんなものにまでドキリとさせられた自分への気恥ずかしさと、何よりその無防備な姿を他の生徒たちの前で晒していることへの独占欲の混じった苛立ちから、ユウカはこれ以上距離感を見せつけられないよう、強引にその場を仕切りにかかった。
「取り敢えず! 先生は今すぐそこから立って、顔を洗ってきてください!」
「……あ! そういえば確かに、主殿の目にヤニがついてます! ミレニアムの方の言う通り、まずは洗顔へ向かいましょう!」
「ん、顔を洗えばその酷い眠気も無くなるかも知れない。早く行ってきて。待ってるから」
「おめーらは俺のオカンかってんだ。わーったよ、顔洗って歯ァ磨いてこよーっと……」
三方向からの容赦ない圧に背中を押されるようにして、銀時は頭を掻きながらよろよろと洗面所へと向かっていった。
バタン、とドアが閉まる音が部屋に響く。
そうして銀時が部屋から姿を消した途端、残されたオフィスに残るのは三人の少女だけとなった。
ひゅうぅ……と、まるで決闘前の荒野のような目に見えない冷たい風が、張り詰めた室内に吹き抜けたのは気のせい──では、決してないかも知れない。
セミナーの、そしてシャーレの秘書という肩書きをかけ、後から割り込んできた存在に鋭い視線を送るユウカ。
当番としての権利を主張し、静かにその視線を受け止めるシロコ。
そんな一触即発の空気の中で、約1名、緊迫した気配を全く理解できずに「にんにん?」ときょとんと首を傾げている忍者の少女はいるけれど、シャーレの平和は早くも暗雲が立ち込め始めていた。
「……それで、お二人さんは何のご用かしら? 私はこれからシャーレの秘書として、先生としなきゃいけない仕事があるのだけれど」
銀時がいなくなった途端、ユウカは腕を組み、いかにも正式に任命された「秘書」としての威厳を漂わせながら、二人を牽制するように言った。
「ん、今回は私が正式なスケジュールで割り振られたシャーレ当番。だから、先生の時間は私が優先されるべき」
シロコは一歩も引かず、静かに、けれど明確に当番としての正当性を主張する。その冷徹なまでの眼差しは、先生との時間を渡す気はないと物語っていた。
「なっ……当番はあくまで一時的な補佐でしょう!? 私は先生を公私ともに管理する権限を先日正式にもらったの! 組織の効率化という観点から見ても、秘書である私の指示に従ってもらわないと困るわ!」
「それはそれ。当番の仕事を邪魔するのは規約違反。ミレニアムのセミナーなら、ルールは守るべき」
「くっ……!」
バチバチと火花を散らすユウカとシロコ。その視線の応酬は、まるで最先端の演算勝負と野生の勘のぶつかり合いのようだった。
と、そこでユウカは、先ほどから一言も発さずに二人の顔を交互に見つめている、もう一人の少女に矛先を向けた。
「……そ、それに、そっちの百鬼夜行の子は? 当番でもないのに、朝早くから先生の部屋に上がり込んで、一体先生とどういう関係なの!?」
ユウカの少し焦りの混じった鋭い問いかけに、イズナはパチパチと丸い目を瞬かせた。緊迫した空気などどこ吹く風、といった様子できょとんと首を傾げながら、無邪気にこう答える。
「……? 関係、ですか? イズナは主殿の忠実なる従者で、忍者ですよ? 主殿が目覚められたら、すぐに新しい忍術をお見せする約束なのです!」
「じゅ、従者ぁ!?」
「ん、やっぱり忍者は後回し。怪しい」
「そんなことありません! イズナは主殿をお守りする忍びですから! それにイズナは、主人殿にイズナの醸したお酒を注いで将来(立派な忍者になってお仕えすること)を誓った身! イズナの全ては主殿に捧げています!」
「しょ、将来……っ!? それにお酒って、あなたたち一体いつの間にそんな不健全な契りを交わしているのよ!?」
イズナのあまりにも言葉足らずで誤解を招く大真面目な暴露に、ユウカは顔を真っ赤にして叫んだ。三々九度の誓いなんて完全に許容オーバーだ。
「ん、それを言うなら私だって。私は何があっても先生の隣にいるって、(寝ている先生相手に)約束してるから」
「な、なななな……何よそれ! 一体いつどこでそんな約束したのよ!?」
シロコの静かな爆弾発言に、ユウカの脳内演算回路は完全にショート寸前だった。二人のあまりにも容赦のないアプローチに、胸の奥から湧き上がる焦燥感と嫉妬心が、ついにユウカの防衛ラインを突破する。
「──い、言っておくけど、私は先生から正式に『秘書』として認められたの! 先生のあの破綻した家計も、スケジュールも、だらしない私生活のすべてに至るまで、公私共に私が一生管理することになってるんだから! 先生のすべてを握っているのは、この私よ!」
「……ギャーギャーギャーギャー朝から喧しいっての。取り敢えずメシだメシ。犬も食わねえような喧嘩するくらいならメシ食った方が有意義だろうが」
「そんなご飯なんて食べてる暇なんて……て、先生!?」
更に言い合いが加熱しかけそうになったところで、いつの間にか自分の後ろに立って、自分達三人にじとりとした眼差しを向けている渦中の男にユウカはびくっ、とし、真っ赤に赤らんだ顔のまま慌てて後ずさった。
見ると、洗面所から戻ってきたはずの銀時は、なぜかいつの間にかピンクのエプロンを身に纏い、手際よく四人分の白米と湯気の立つ味噌汁をお盆によそっていた。
「……先生、それ自分で作ったの?」
シロコが少しだけ意外そうに目を丸くして問いかける。
「昨夜の残りだよ、残り。昨日の夜に適当に作った味噌汁を温め直して、オカズは肉じゃが。メシは今日一日分の3食分として多めに炊いてあったのを出しただけ。ったく、お前らが朝っぱらから押し寄せてくっから、後でまた炊き直さねえとじゃねーか……」
「主殿、自炊もできるんですね! 凄いです、やはり主殿は何でもこなす万能の御方……!」
イズナはぱたぱたと激しく尻尾を揺らし、「イズナ、配膳のお手伝いをします!」と、嬉々として銀時から料理の載ったお盆を受け取った。
「……私も食べる。朝ごはん、ここに来る途中で自転車に乗りながら急いで食べてたプロテインバーだけだったから、ちょうど少しお腹空いた」
シロコは当然のようにソファからダイニングテーブルへと移動し、自分の席を確保する。
「そーかい……。ユウカ、お前はどうすんの? 食べないなら銀さんが二人前頂いちゃうけど」
「……た、食べますっ! せっかく先生が用意してくれたんですから、残したら不経済です!」
ユウカはまだ顔の火照りが引かないまま、ツンとした態度を装って席についた。
トントン、と小気味よく箸が並べられ、お椀から出汁のいい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。普段のだらしなさや、家計簿のガタガタぶりからは想像もつかないほど、難なく日常の自炊をこなしてしまう彼の器用な一面に、三人の少女はそれぞれ静かに胸を衝かれていた。
(……何よ、これ。私がいないと何もできないフリーター同然なんて思ってたのに……こんな風に、一人で普通に生活できちゃうじゃない。なんだか、私の方が先生に甘えたくて口実を探してたみたいで、ちょっと悔しい……)
ユウカは彼の自立した男としての生活能力を突きつけられ、嬉しい反面、自分の「秘書」としての必要性を必死に証明したくなるような焦燥感を抱いていた。
(……ん、美味しそうな匂い。先生、だらしないふりをして、実は何でも一人でこなせる。やっぱり私の目に狂いはなかった。こういう頼れるところ、もっと独り占めしたくなる……)
シロコは、その無駄のない手際の良さに野生的な信頼をさらに深め、いつか彼を自分の縄張りに完全に引き込みたいという静かな独占欲を、スープの湯気の向こうでちろちろと燃え立たせていた。
(……主殿、お優しくて強くて、その上にお料理まで素晴らしいなんて! イズナ、主殿の従者になれて本当に幸せです! これからも一生、主殿の背中を守り抜いてみせます!)
イズナは、主殿の万能ぶりにただただ純粋な尊敬と忠誠心を限界まで膨らませ、差し出された温かい朝食を宝物でも見るかのようなキラキラとした瞳で見つめていた。
そんな少女たちの異なる淡い想いが交錯する中、銀時は「ほら、さっさと食わねえと冷めるぞ」と無頓着に頭を掻きながら席に着く。
「「「「いただきます」」」」
朝の騒がしい喧噪が嘘のように、四人の声が綺麗に重なり、並んで食卓に手を合わせるのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
本当、毎日茹だるような暑さですよね。皆さんは水分補給しっかりして梅干し齧りながら頑張りましょう。
これからもよろしくお願いします。