まさかマジで制定されるとは思ってなかったです。
「……さあて、引き受けたはいーけれど……まっさかここでようやく先生らしいことすることになるだなんてなあ。マジで頼むぜユウカ、俺ぁ勉強はからっきしだからよ。現役バリバリの優等生様に泣きつくしかねーからねホント」
豪奢な調度品に彩られたティーパーティーのテラスを後にし、静謐な空気が漂うトリニティの白亜の回廊へと戻る道すがら、銀時は両手を後頭部で組み、天を仰ぎながら長いため息を吐き出した。
肩の凝るようなハイソサエティなお茶会からようやく解放された安堵感と、直後に背負い込んだ「補習授業部の顧問」という重荷のギャップはずしん、と胃袋を重くするものだった。
その隣を歩くユウカは、抱えていた書類と端末を胸元に引き寄せ、隣を歩く大人のあまりに情けない横顔に、呆れ果てたように深く肩をすくめてみせた。
「はぁ……本当に仕方ない人なんですから。先生の口から『先生らしいこと』なんて単語が出てくること自体、天変地異の前触れじゃないかと疑いたくなりますよ。……まあ、私としても人に何かを教えるというのは知識の再整理になりますし、自身の学力の糧になりそうですからね。サポートくらいなら別に構いませんよ」
「さっすがシャーレが誇る敏腕秘書様、頼りになりますわー。お前さんなら将来、引く手数多の敏腕家庭教師とか、受験生を泣いて喜ばせるカリスマ塾講師にでもなれるんじゃねーの?」
銀時が横目でニヤニヤと笑いながらからかうと、ユウカは不満そうに唇を尖らせてツインテールを揺らした。
「からかわないでくださいよ、もう……家庭教師なんてそんなガラじゃないです。……でも、将来、かあ」
ユウカの足取りが、ふとわずかに緩む。
彼女は手元の端末の角を、人差し指でトントンと小さくリズミカルに叩きながら、廊下の高いアーチ窓の向こう──どこまでも抜けるように青い空へと、微かに焦点をぼかした眼差しを向けた。
普段の彼女であれば、数式と論理で世界を切り分け、どんな複雑な予算編成も電光石火で叩き出す「完璧な計算機」であるはずだった。しかし、そんな彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ、年相応の少女が抱く特有の迷いと憂いが影を落とす。
「……そろそろ、確かに決めなきゃいけない時期なんですよね。ミレニアムでも、セミナーの先輩たちから進路希望調査票の提出を急かされてますし」
ぽつりとこぼれ落ちた声は、いつもの明瞭なトーンとは違い、どこか独り言のように小さかった。
気付けばもう高校二年生だ。キヴォトスにおける学園生活は、銃声と火薬の匂いに彩られているとはいえ、生徒たちはいずれ卒業し、それぞれの道を歩んでいかなければならない。少なくともこの半年以内には、専門の研究分野に進むのか、連邦生徒会や学園の行政機関へと進路の舵を切るのか、自らの未来の座標を決定づける必要があった。
「……本当に、どうしようかな。今の私は……勉強と、セミナーの会計業務と、シャーレの秘書としての仕事で手一杯で。毎日が目まぐるしすぎて、その先のことなんて……全然考えられないや」
日々の激流に身を任せている間は、目の前のトラブルを計算し、処理することだけに没頭していられた。だが、ふと立ち止まって「その先」を見つめようとすると、まるでエラーログのように、霧がかかったような不安が胸の奥を締め付けてくる。
俯き、少しだけ所在なさげに自分の爪先を見つめるユウカの肩に──。
トン、と。
拍子抜けするほど軽やかな、けれど温かい手のひらの重みがポンと置かれた。
「まあまあ、明日は明日の風が吹くっつーだろ。焦って答えを出そうとしたって、ロクな結果にゃなりゃしねーんだよ。のんびり構えて、やりてえことなんざ後から適当に見つけりゃいーの」
驚いて顔を上げたユウカの視界に映ったのは、いつもの死んだ魚のような目を細め、鼻歌でも歌い出しそうなほど気の抜けた表情で回廊の先を見つめる銀時の横顔だった。
「前にちょろっと話したろ? 俺がやってた『万事屋』ってのもよ、別に崇高な志があって立ち上げたわけじゃねーんだ。やりてえことなんざこれっぽっちもなくてな。ただ腹は減るし、家賃は払わなきゃならねーし、何より生き延びなきゃならねーから、『じゃあ何でも屋でいいや』って適当に始めただけの代物さ。迷ったら、手当たり次第に目の前の面白そうなもんに手ぇ出してみりゃいいのよ」
銀時は懐から取り出した飴玉の包み紙を指先で器用に弄びながら、ゆっくりと少女を見下ろして言葉を続ける。
「その中でつまずきながらでも『お、これ案外悪くねーな』ってモンが一つでも拾えりゃ、そいつはもう大当たりの人生だ。……難しく考え込むこたァねえよ。俺みてーな適当の極みのアラサーでも、どうにかこうにかこうして大人になれてんだ。お前さんみてーに真面目でしっかりした奴が、どうにかならねーわけがねえだろ?」
「……先生」
ユウカの胸の奥で、カチリと硬く凍りついていた何かが、静かに溶けていくような感覚があった。
第三者が客観的に聞けば、ただの怠惰な大人が口にする無責任で暢気な現実逃避の言葉に聞こえるのかもしれない。けれど、常に「正解」と「最適解」を自分に課し、完璧な計算式の中に自らを押し込めていた今のユウカにとって、そのいい加減な言葉は、息の詰まる暗闇の中にふっと差し込んできた確かな道標のように感じられたのだ。
(どうにかなる、か……)
銀時が何気なく置いてくれた手のひらの温もりが、肩越しにじんわりと熱を持って制服の生地へと染み渡っていく。
もし、と。
ユウカの胸の内にふと、甘く熱い仮定が芽生えた。
もしも、この先、私だけの特別な「やりたいこと」がどうしても見つからなかったら。
このまま、シャーレの秘書として……ううん、そうじゃなくて。
この、だらしなくて、頼りなくて、けれどどうしようもなく誰よりも温かい背中を持つ人の隣に、ずっと──。
「あの、先生。……もしも、ですけど」
喉の奥が急激に渇き、胸の鼓動が耳元で跳ねる。ユウカはギュッと端末を胸に抱きしめ、伏せていた瞳を上げて銀時の顔を真っ直ぐに見据えた。
「もしも私が、卒業してもやりたいことが見つからなかったら……その時は、先生の──」
そこまで言いかけた、まさにその刹那だった。
「主殿──────ーッッッ!!」
バササササッ! と回廊の空気を切り裂く突風とともに、ふわりと甘い桜の香りと、目も眩むような暴力的なまでのモフモフ感が二人の間にダイレクトに割り込んできた。
立派な狐の尻尾がユウカの目の前で扇風機のように激しく回転し、ぴこぴこと左右に忙しなく動く三角形の狐耳。自称、銀時の忠実な忍であるイズナが天井の梁から見事な着地を決め、銀時とユウカのわずかなパーソナルスペースを完璧に分断したのである。
「主殿、主殿! これをご覧ください! このイズナ、主殿のお役に立つべく、ナギサ殿から預かった補習授業部リストの生徒四名の現在地および動向を、電光石火の早業にて特定いたしました!」
イズナは満面の笑みを咲かせ、どこから取り出したのか古風な和紙の巻物──のように細長く丸められた調査報告書を、両手で恭しく銀時へと差し出した。
「おーう、イズナじゃねーか。仕事が早ぇなオイ、ごくろーさん。どれどれ……」
銀時はユウカの言葉の続きなどすっかり頭から吹き飛んだ様子で、気のない相槌を打ちながら巻物をパラパラと解き始めた。
「……ふむ。まあ、とりあえずは一番話が早そうな若頭の奴から当たってみるか。あいつが今いるところは……」
「…………」
その光景を横で見ていたユウカは、完全に口を真一文字に結び、石像のように硬直していた。
突如として二人の世界を粉砕したイズナ。
普段であれば、「イズナちゃん、校内の廊下にいきなり天井から飛び降りたりしちゃ危ないでしょ!」と優しく、けれどしっかりと小言を言うところだ。相手は純真無垢で、ただひたすらに銀時の役に立とうと奮闘しているのだから。
──けれど。
けれど、今のこの瞬間だけは。
(……邪魔が、入った……?)
自分自身の脳裏に浮かび上がったその黒い感情の単語に、ユウカはハッと息を呑んだ。
邪魔? 私が今、この子の健気な報告に対して「邪魔」って思ったの? なんで? どうしてそんなことを──?
(私……今、先生に、なんて言おうとしたの……!?)
思考の演算ルーチンが、猛烈な勢いで逆流を始める。
『もしも私が、卒業してもやりたいことが見つからなかったら……その時は、先生の──』
その先に続こうとしていた言葉。
『先生の隣に、ずっといてもいいですか?』
『先生の万事屋で、私を一生雇ってくれますか?』
『先生の、お嫁さんに──』
(ひっ……!?!?!?)
導き出された最終的な解の破壊力に、ユウカの全身の回路がショートした。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、血液が一気に頭頂部へと駆け上がる。耳の先どころか、うなじから首筋、額に至るまでが、瞬時に沸騰したやかんのように真っ赤に染め上げられていく。
そんなユウカの異変に、巻物から目を離した銀時が、呑気に首を傾げて視線を向けてきた。
「……あり? そういやユウカ、お前さんさっき何か言いかけてなかったか? 『もしも』がどうたらこうたらって」
覗き込んでくる、あのいつもの気の抜けた、少しだけ眠たそうな赤い瞳。
自分をただの「有能な生徒」として、あるいは「世話の焼ける生意気な妹分」としてしか見ていない、あまりにも無防備な眼差し。
こんな、こんな適当で! だらしなくて! パチンコクラッシャーしてタコ部屋送りにされるようなダメ男と!
私が! この早瀬ユウカが、そんな将来を口走ろうとしていただなんて──ッッ!!
「〜〜〜〜〜〜っっっ、なんでも!! ありませんッッッ!!!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫が、静かなトリニティの回廊に木霊した。
あまりの音圧に、銀時の天然パーマがボワッと後ろへ煽られ、イズナの狐耳がペタンと恐怖で平らに伏せる。
「ほら! グズグズしてないで早く行きますよ! イズナちゃん、その子たちの場所に案内して! 今すぐに! 一秒の無駄もなく最短ルートで!!」
ユウカは顔から湯気が出そうなほど真っ赤になった顔を両手で覆い隠すようにしながら、踵を返すと、ドカドカと床を踏み鳴らして凄まじいスピードで早歩きを始めた。その背中は、もはや怒っているのかパニックを起こしているのか判別のつかないオーラをバリバリと放っている。
「……おい、どーしたんだアイツ。急に沸点迎えたヤカンみたいになってんぞ」
銀時は指先で耳の穴をほじりながら、引き攣った顔でポツリと呟いた。
「さ、さあ……?」
イズナもまた、目を白黒させながらフルフルと首を横に振るばかりだった。
静まり返ったトリニティの回廊には、顔を向き合わせて困惑し切る希代の朴念仁と純朴な忍者少女の二人の姿だけが、ぽつねんと取り残されていたのだった。
──────────
「……よう、久しぶりじゃねーか。元気してたかよ、なあ若頭。まっさかあんな不名誉極まりないリストの筆頭に名前が載ることになってるだなんて思わなんだわ」
「そ、その……あ、あはは……本当にお久しぶり、ですね先生……。そ、そのぉ……これには海より深くて山より高い、やむを得ない事情がありましてぇ……」
ここは補習授業部の対象者と、その顧問たる先生のために割り当てられた古い旧校舎の一角、特設の待機室。
すでに自らの置かれた絶望的な状況を自覚し、長机の端っこで所在なさげに身を縮めていたヒフミを前に、銀時は呆れたように鼻を鳴らしながら、死んだ魚のような目を向けていた。
こうして面と向かって言葉を交わすのは、アビドス高等学校の対策委員会の面々と共にいた頃、ブラックマーケットであれやこれやと大騒動を巻き起こした時以来だ。
あの時は、妙に脱力感を誘う黄色い鳥のキャラクターに異様な執着を見せる熱狂的ファンという一面こそあれど、その実態は礼儀正しく、常識的で、それなりにしっかりとした普通の女子高生だとばかり思っていたのだが──。
「言い訳こいてんじゃねーよ。どーせまたアレだろ。ペロロだかポロロだか知らねェが、あの目つきの座った鳥野郎のゲリラ公演だの、数量限定プレミアムグッズの早朝物販だのに目が眩んで、大事な授業のある日をすっぽかしたか、そもそも試験の当日に並びに行ってブッチしたかのどっちかだろ。お前さん、“ソレ”が関わると途端にIQが三歳児レベルまで暴落すっからな」
「あ、あうぅ……! そ、そんな氷点下の目で睨まないでください先生! 日程は! 試験日程の手帳への書き込みはちゃんと確認していたはずなんです! ただ、その日はどうしても現地でしか買えない限定ショッパーの配布と試験開始のチャイムが奇跡的な同時刻で……手違いというか、不可抗力というか、運命の悪戯というか……!」
「手違いや運命の悪戯で居残り勉強再試験クラブの名簿にドカンと名前が載るわけねーだろ。堂々と私欲のために試験サボりましたって白状しなさいよコノヤロー」
「あうあぅ……何も言い返せません……」
銀時の身も蓋もない正論と容赦のない眼差しに、ヒフミは目元にじわりと涙を浮かべながら、愛用しているペロロ様の顔がデカデカとあしらわれたリュックサックをぎゅっと胸元に抱きしめ、完全に縮こまってしまった。
「……? 先生、以前にヒフミさんと面識がおありだったのですか?」
二人のやけに手慣れた、そしてどこか訳ありげなやり取りを不審に思ったのか、隣に控えていたユウカが怪訝そうに首を傾げ、鋭い眼差しを銀時へと向けてくる。
「まーな。色々あったのよ、コイツと一緒に銀……じゃねーや悪い大人の社会見学的なアレで色々とな」
「……その誤魔化し方、もの凄く不穏なんですけど」
まさか共に般若の面と紙袋を頭から被り、ブラックマーケットの違法な闇銀行へとカチコミをかけて大立ち回りを演じたなどと口が裂けても言えるはずがない。シャーレの秘書として常にコンプライアンスと規律を重んじるユウカの耳にそんな「大強盗の主犯と共犯」の事実が入れば、説教どころか確実に蜂の巣にされるのは目に見えていた。
銀時が冷や汗を流しながら視線を泳がせていると、気まずい空気を察したのか、ヒフミが慌てて両手をパタパタと振りながら助け舟を出すように口を開いた。
「そ、その! ナギサ様からは、私が補習授業部へ編入されることと併せて、先生の補佐……その、部長のような形でサポートをするようにと直々に言われておりまして……!」
「なるほど……。確かに、事前にナギサさんから提示されていたプロファイルと学力データを見る限り、ヒフミさんの基礎学力はトリニティの平均値ですものね。単に必須科目の単位取得試験を不在で落としただけなら、基礎的な素養には問題ありませんし……うん、妥当な人選かもしれません」
ユウカは携帯端末のホログラムスクリーンを展開し、ヒフミの成績表と過去の模擬試験結果を指先でスクロールしながら冷静に分析した。
他の補習候補者たちが抱える致命的な赤点や素行不良の山と比べれば、ヒフミのデータは圧倒的に健全だ。彼女がまとめ役として間に入ってくれるのであれば、烏合の衆となりかねない落ちこぼれ集団も、最低限の学習環境を保てるかもしれない。
「これなら、私がシャーレの執務を放り出してまで、ずっとトリニティに入り浸って付きっきりになる必要はなさそうですね。とりあえず、各メンバーの現状の理解度と苦手分野に合わせた個別のカリキュラムを私が組んでおきます。それに基づいて、ミレニアムとトリニティの過去問データベースから抽出した傾向対策集と模擬テストのプリントを作成しますね」
「た、他校の生徒である私なんかのために、そこまで手厚くしていただけるなんて……! ミレニアムのセミナーの方にお手数をおかけして、本当に申し訳ありません……!」
ヒフミはペコペコと何度も頭を下げ、申し訳なさと感謝の入り混じった表情で身を縮こまらせる。そんな彼女の謙虚な態度に、ユウカはふっと表情を和らげ、頼もしげに胸を張って微笑んでみせた。
「いいんですよ、気にしないでください。他校とはいえ、これはシャーレの正規の業務ですし、先生の補佐を務める秘書として当然の責務ですから」
「へいへい、さすがは頼れる優等生、頭が上がりませんわ。……さあて、じゃあ補習授業部の仮の筆頭兼学級委員長とも合流できたことだし、グズグズしてねえで残りの問題児どもとも落ち合うとすっか」
銀時はパチンと指を鳴らすと、自身の背後へと視線を向けた。
「はい、主殿! お任せくださいませ!」
背後でずっと待機していたイズナが、待ってましたとばかりにパッと狐耳を立て、元気いっぱいに飛び出してくる。その手には先ほど広げた巻物風の偵察資料がしっかりと握られていた。
「他の生徒の方々の現在地、このイズナがすでにバッチリと掴んでおります! 次に向かうべき場所は──!」
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