トンネル・アース 作:からかさ
爆音。最初は黒。次は赤。それがすぐに青色に染まった。急に当たった鮮烈な光で、思わず目を小さく開いた。一度目を閉じて、次はもっと大きく開ける。最初に見えたのは一つ一つが巨大ながれきの山だった。無機質な古い人工物の中で、僕は目を覚ました。
「ん…あれ……?」
起き上がった途端に、自然と言葉が漏れた。全く見覚えのない場所に、がれきの下で、僕は一人座っていた。ここは一体何処なのだろうか。何も分からなかった。理解できたのは、周りを聳え立つがれきに覆われている中にいるということだけだった。おそらく何かの建築物の中にいるのだろう。周りは盆地から見た山々のように高く囲われているが、一番上までは届いていなかった。上の天井までは優に20mはある。透明なそれは、素人目では恐らくガラス張りのように思われた。天井とがれきの合間から見えるがれきの外の空間は何もなかったが、奥行きが確かにあった。どこまで続いているかは一目見ただけでは分からない。総合してここはトンネルだろうと思った。しかし僕がここにいることの心当たりなど一つもない。天井に頭を向けると、ガラスの奥に雲が点々と流れていた。少しの安心感がある。それがかえって僕をさらに不安にさせた。横の壁は同じ素材では無いようで、おそらく石に類するものだろうと見当をつけた。ではこのがれきは壁から剥がれ落ちたものなのだろうか?そうではないだろうと直感的に思った。見上げた時に気が付いたことであるが、天井は太陽が直接、僕を見るための穴を作っていた。しかし落ちたと思しきがれきはどう見ても透明ではなかった。状況は、全くもって自分が許容できる範囲を超えていた。
僕は立ち上がると、この見知らぬ場所から脱け出すために、がれきのあいだの人が通れる隙間を探そうとした。しかし間もなく、右手から何かが崩れる音がした。そちらに目を向けると、ほっそりとした、しかし健康的に焼けた手が隙間からひょこと飛び出してきていた。
「痛い!あぁー!もう!絶対何かあったはずなのに、何か発見しないと、バレたら怒られちゃう…ちょっとまって、これ以上ないわよね?それはそれで困るんだけど…って」
実に高い若く可憐な声だった。目が合ったそれは少女だった。あどけない顔つきは健康的に白く、素朴でとても可愛らしい。飾ればフランス人形のようになるに違いなかった。その黒髪は天使のように、またそれ自体が放っているかのように光を浴びている。しかし汚いボロ布のようなものを身に着けており、御世辞にも良い暮らしをしているようには見えなかった。その強い目つきは、元来であろう気の強さと荒んだ暮らしを想像させる。
「……え?だ、誰?」
彼女は、僕が何かを言う前に話し始めた。
「人がいるのは困るんだけど……ちょっと、もしかして、あなたが空を壊したの?どうもそんな感じがしないけど…私とあまり変わらないように見えるし…ねえどうなの?答えてよ」
僕はどうにも答えが詰まった。何もわからないことに答えようがなかった。
「答えられないなら、あなた、名前は何て言うの?空を壊してどうするつもりだったのか知らないけど、その様子じゃ今は何もできなさそうか。うーん。そうね…おまえをZ-10の坑長の下に連れて行くわ。早く私に着いてきなさいね」
「な、なあ!ちょっと待ってくれよ。今混乱してるんだって…勝手にそっちで決めないでほしい」
「何よ、話せるじゃない。さあ早く」
僕はどうにか今思い浮かんだいくつかの疑問を質問しようとした。このままでは何か面倒な事態が起こるだろう。しかし、またしても理解できないことに気が付いてしまった。
「あれ…?分からない」
「何の話よ?そういうのは着いてからにしてよね。そんなこと言って逃げようとしたら容赦しないわ」
僕は茫然とした。
「名前が、自分の名前がわからないんだ…そもそも何も記憶がない。今まで気がついてなかった。嘘じゃない、信じてくれないかもしれないが…」
「先ず質問に答えてほしい。現状を把握したいんだ。それだけ終われば何処にだって従うよ」
少し間をおいてそう提案した。今行うべきなのはを記憶を思い出すことではなく、何か事情が有りそうな少女に話を聞いて現状を整理することに他ならないと考えたからだった。そもそも記憶はそう単純に出し入れできるようなものでも無いだろうと。
「あなた、頭大丈夫?空を壊しただけじゃなくて記憶喪失を名乗るなんて……本当かもしれないけど、全く、厄介なことになったわ…こんなことになるなら来るんじゃなかった」
少女もまた問題を抱えきれないように見えて、小さな頭を左右に振った。
「返事をしないならすぐに質問させてもらうよ。そう、そこからなんだけど。まず空ってのはつまりこの天井のことでいいんだね?ここ、トンネルみたいな場所だけど。ここは何処なんだ?君は何者だ?」
「へえ?何を言ってるのかしら?全く埒が明かなそうだから答えてあげるけど…天井とかトンネルとかって、ここにはそんなもの何処にもないじゃない。ここにあるのはあなたが破壊した空崩れの山だけよ。ここはz-10地区の外れ、最下層。でも、そもそも記憶がないんだから言っても分からないでしょうし、聞く必要もないんじゃなくて?」
「こいつ、もしかして上位地区のほうから記憶を消されて捨てられたのかしら……そのくらいの変な技術はあってもおかしくはなさそうだし…」少女は聞こえないように静かに呟いた。
「ああ、そのz-10ってのもなんなんだ?話を聞く限りここの場所がそれに含まれるようだけど」
「ああ。まあ何も知らないならそれもわからないわよね。そう、場所…がa-01地区からz-21地区まであるの。地区によって景色や文化が全然違うわ。私も、話でしか聞いたことはないけど。a-01に近づくほど上位地区でz-21に近いほど下位だから、つまり私達がいる場所は底辺に近いってことになるわね。ここからあっち―彼女は僕の正面のトンネルが伸びているであろうがれきの奥を指さした―にz-01があるわ。そこがzの中心地で一番広い大通り。わたしもそっちから来たの。そもそもz-10の中心地もあそこの周りにあるし、逆方向は誰もいないから、ここが一番端といっても良いくらいだわ。他の地区に行くのは通行料を払わないと下手に越えられないし、あなたなんか記憶がないってことを話すとまあ通してはくれないでしょうね。地区ごとに強い勢力があったり自警団がいたりするから。そいつらが自治をしているの。……これで疑問への回答は充分かしら?申し訳ないけどそろそろ面倒になってきたから早く来なさい」
どうやら記憶が無いなりにどういう場所なのか掴めそうだ、と僕は思った。やはり覚えがないのは確かだが、話を聞く限りでは広い場所だが単純な構造をしているだけのようだった。
「いや、あともう一つだけある。君の名前を教えてほしい。不便だから」
「え?わたしの名前? ああ……ドゥエンデよ。ドゥエンデ。覚えやすいでしょう?仲が良い人はエンデって呼ぶわ」
「わかった、ドゥエンデ。じゃあ僕も…ないな。どうしようか」
「あ、そうね。記憶喪失なら、あなたの名前もわからないのよね。じゃあ折角だし、わたしが名前を付けてあげるわ。何がいいかしら……わたしも一度くらい名前つけて見たかったのよ。名付けなんてあんまりないことじゃない?特別よ特別。うーん、そうね……ベガ!あなたはベガよ!理由はないわ!あ、でも少し物足りないわね…もう少しつけてあげましょう。ルイス・ベガ、よ。そうね。ルイス・ベガ。ルイスベガでひとくくりにするんじゃなくて、ルイスとベガで分けるわ。いいわ。しっくり来た気がする。もっと喜んでいいわよ。この私が素敵な名前を付けてあげたんだから」
「なかなか勢いが激しい……確かに僕としても名前がないのは不便だから、それで取り敢えず受け入れるよ。それでドゥエンデ、行ったら何をすれば良いんだ?」
「知らないわよ。坑長に押し付けるだけだから。あなたみたいに穴を開けた人の話なんて聞いたことないし。今のところ穴から何か出てくるってのも……あー、何でもない。行きましょう」
僕たちは話を終え、がれきの細かい隙間を通って坑長の下に向った。がれきはかなり広範囲にわたって広がっていて、大災害の後の崩落といった言葉が妥当であるように思われた。僕以外にも誰かが倒れていたりなどするかもしれないと思ったが、結局何も言わなかった。少し歩いてがれき地帯をを抜けると、人が数人集まっていた。
「おお、エンデじゃねえか!何しに奥まで行ってたんだ?」汚らしい髪をした、二、三十程の男が話しかけてきた。野性的な男の汗のにおいが鼻にきつく訴えかける。彼もまたエンデと同じように、ボロ布を縫い付けた個性的なパッチ・ワークを着ていた。どうやらこのあたりに住んでいる、ドゥエンデの知り合いのようだった。
「坑長に言われてたのか?まあ何ともなさそうで良かったぜ、空が壊れたっていうのにそこに行っちまうなんて、なんかあったら……あれ、どうした?知らないガキが一人増えてるじゃねえか。おいエンデ、どこからそんなやつ拾ってきた」
「ロルカじゃない。こいつ…私がベガって名をつけたんだけど、ここの奥に一人で座ってたのよ。しかもどうやら記憶喪失らしいの。面倒そうでしょ?それで、見つけちゃったものはしょうがないから坑長に渡そうってわけ。無断で奥まで行ったのに関してはまあ、何とかなるでしょう」
どうやらドゥエンデも、あまり立場的に良いわけではないらしかった。それはしかし必ずしも悪いということを意味していなかった。
「初めまして。ロルカさん。ドゥエンデさんのお知合いですか。えっと、正直僕、あんまり事情がつかめてなくて……」
丁寧に挨拶をする。
「ベガ、あなたなんで猫をかぶろうとするのよ!私を舐めてるってこと?ああそれと、堅苦しいのは嫌だからあなたもエンデって呼んでちょうだい。エンデ様でもよいわ」
「ははは、だがほぼ初対面のわりには相性がよさそうだな、二人は。それで、記憶喪失ってのはいったいどういうことだ?お前は本当になんにも覚えていないのか?」
僕は静かに頷いた。
「そうか…わかった。心配になってきたから、俺もついていってやるよ。どうせ今することもなかったしな。おうい、お前ら、俺はこのガキどもと一緒に坑長のところに行ってくるから、先に帰るか耕作でも手伝ってやれ。どうせなんもなさそうだ」
ロルカは近くで話していた男たちに一声をかけると、再び、僕たち三人は郡長のもとに歩き出した。
少し人を見ないところを歩くと、壁に沿って作られた建物と人々の集団が見え始めた。バラック小屋のようにあり合わせのもので作ったのだろう。それらはみすぼらしいものであり、そこに住んでいるのだろう人々もエンデやロルカのようなの貧民的雰囲気の者ばかりであった。彼らは道の中央で細長い道に沿った畑を作っていた。どうやら共同で育てているのだろう。彼らはおそらく見知らぬ人である僕を警戒していた。小屋の薄い壁の向こうに子供が複数名で遊んでいる声が聞こえた。こんなところで何を遊ぶのだろうか、と思った。僕は見世物か外様かのように、ここを通り抜けた。このトンネルに沿った集落はかなりの距離続いていた。集落の途中に鎖のついた大きな扉があった。
「なあ、左の壁のあそこに扉がないか。あそこは何処につながっているんだ?」
「え?どこよ?……ああそこ。別に今は多分開けてみても良いけど何もないわよ。どうせ殆ど土で埋まっているもの。ああいう扉はみんなそうよ。鎖が付いているのはここの村では多少の用途が有るんでしょうね。それが何かは知らなくても良いと思うわ」
そこからさらに長い間歩くと、天井がだんだんとその高度を低くして、透明で光が入る素材で作られていたところと、壁と同じ分厚い素材に代わるところとの境界があった。そこから先は浅く下る坂道となって薄暗く、奥にある光が無ければ何もわからないような場所だった。
「天井……あー、空が有るのに建物なんて必要なのか?そもそも誰が管理してるんだ?さっき言ってた坑長か?そもそもこっちの方向であってるのか?」
僕は心細くなり先を歩く二人に続けざまに質問した。
「坑長っていってもそんなことする力はないわよ。彼らは勝手に建ててるだけ。あなた物事の認識がちょっとずれているんじゃなくて?本当に記憶喪失になる前は何処にいたのかしらね。というか、建物が無ければ自分の陣地が無い。自分がどこに帰るのかわからないでしょう?それって自分がないのと同じようなものよ」
「この辺はだれも住んでいねえからな。だがちゃんと向かってるぞ。さっき畑を耕してたやつらはみんないい奴だから、機会が有ったら話しかけてみるといい。面白い奴らがいっぱいだ。上級地区には強盗何てやつも出るらしいが、z地区には貧乏人しか住んでねえから、稼ぐもんもなくて襲ってくるようなやつもいねえってことだ。わはははは……」
二人がそれぞれ答えた。
「じゃあさっきの人たち…エンデ達もそうだが、どうやって生計を立てているんだよ?食事は、あの畑だけで全部賄えるのか?」
「あと少し歩けば見えてくるはずよ、郡長が住んでいるところが。あそこに行けばだいたい分かるわ。……ほら、ここを曲がったら奥に見えるのがそうよ」
僕は足元を見ていた頭を上げて、彼女が指す先を見た。
僕たちの正面に広がる円状の超巨大空間の中には、屋根を越えて伸びている灰の尖塔が、その空間をそれだけで使い切るほど贅沢に屹立していた。光の筋が頭から幾千もその足先へ垂れていた。尖塔ととらえたが、そのあまりの大きさに全体を俯瞰してみなければ細くなっていると気づく者はいないだろう。それは概して幹のようだった。しかし、天井の先に葉も何も見えなかった。足元にはそれまで歩いて見てきたものよりも近代的というよりはいっそ未来的な、無機質で堅い灰に染まった建築物が横たわっていた。しかし、それらも巨塔に比べると、かえって軽さすら僕に与えるものだった。円の側面を見ると、僕たちが今まで歩いてきた道と同じように続いている大穴がいくつも口を開いていた。
「ちょっと、そんなに前のめりになったら危ないでしょ。左のスロープから下に降りれるから、気をつけて」
「分かった。凄いな、この…塔?どうしてこんな大きいものを…?あ、ここから外に出られるってことか?」
「何も知らないとそんなことも考えちまうのか。俺はんなこと生まれてこの方一度も考えたこと無かったぜ、ベガ。そもそもこれの名前も知らないってことか?じゃあ説明してやろう。この建物は円環つってな、ここからこの辺で俺たちが生きるために必要なものが運ばれてくるんだ。どこの区にもこれと同じような機械があるらしいが本当にそうなのかは知らねえ。出たことないからな。ま、いっても俺達みてえな普通のやつらはそんなここ来ることもねえから、入ったこともねえ。エンデは結構出入りしているらしいけどな。なあエンデ」
ロルカが言った言葉には何らかの含みがあるように思われた。三人は話しながら暗い地の底に慎重に降りていった。途中で見上げると、その大樹に様々な創傷のようなものが見えた。やはりこれは大樹を模したものだという考えを強めさせられた。長い階段を降り切った後に、ロルカが興味深い話をし始めた。
「……そういえば。昔、どこかで…聞いたことが有るわ。もっとずっと昔、この空の上で、誰もが仲良く暮らしていた。そこは緑が美しく、人々は何不自由なく暮らしていたらしいわ。でも、知らなかった事実を解明していくにつれて駄目なものが分かって、それのためにすごい激しい戦いがあったそうなの。それで、理由はわからないけど誰も住めなくなって私たちのご先祖様がこの場所に来たという話。」
「ふうん。というか駄目なものってなんだよ、駄目なものって。抽象的すぎるよ。いくら伝説とはいえ。…でも、昔はこの上に住んでた時代もあったんだなあ。確かに、ここはちょっと窮屈そうだしね。あれ……?しかし、僕が起きた場所って穴開いてなかったか?それは大丈夫なのか?」
「それは分からないわ。だからこそここに連れてきたんだって言わなかったかしら?」
「そうだったかなあ。というか、それってただの押し付けじゃない?」
「まあ、大丈夫よ。たぶん」
僕はいまいち納得できなかった。
エンデは入り口にいた警備員らしき二人組に今までの旨を話し、慣れた手つきでその認証を通過して僕たちを入り口の中へ迎え入れた。内部は外見を見た時の印象より狭く、外で見た時より少し不潔な感じを受けた。雑多な用途不明の機械や箱が転がり積み重なったエントランスだったであろう空間の先に細い道が有り、側面に点々と扉が並んでいた。所々に配置されている円筒状の監視カメラのようなものがこちらを見ていた。
「ここから先は入り組んでいるから誰か知っている人とじゃないと行き帰りできないわ。よそ見して見失ったとか勝手にどこかに入ったとかしたら知らないわよ。私でも分からない場所があるかもしれないんだから」
彼女が言った。
「ははは、言われてるぜ?」
「やめてくれよ。名前も年も覚えてないが、さすがにそんな子供じゃないだろ」
「何よ、反応が悪いわね。もうちょっと面白い反応してくれてもいいのに…あ、そうよ、ここの右手の扉にはひどく臭い何かが有るって噂だわ。誰も確認した人はいないらしいけど」
道の途中にはいくつか開いている扉もあり、そこからさらに道が続いているところや少し広がった空間が見えた。しかし警備員さえ立たせているにもかかわらずやはり人の気配が少なく思われる。設計時に何らかの意図をもって狭さと引き換えに部屋を増やしたのかもしれなかった。
「ま、それはともかく、空に穴は空いていても私が行ったときになんともなかったから、話せば何とかなると思っているの。何とかなったとして、この後どうするかは…分からないけど」
「俺はどうなるんだろうなあ」
「安心しろ。許されたら、俺の仲間にいれてやるよ。世話してやる。さっき見たろ、俺と一緒にいたやつら。あいつら口はわりいが気のいいやつらでな。お前ならあいつらとも楽しくやれるぜ。俺が保証する」
「本当か!信用していいんだな?助かるよ。じゃあその時は頼む。」
「ああ、だがもし舐めた仕事するようだったら、覚悟しとくんだな?」
そう言って彼は朗らかに笑った。
「ここだわ」
エンデが正面の扉を見ながら言った。
「ようやくか。いったいなんでこんな入り組んでんだ?もっと近道が有りそうだがな」
ロルカが愚痴をこぼした。
「坑長だってここの構造は分かってないらしいわ。だから迷わないように皆同じ道を通っているのよ……坑長、入るわよ」
埃のついてない動きの重たいハンドルをエンデが横に引くと、そこには長身の、長となるにはまだ若いような30ほどの男が机上に伏せてこちらにつむじを向けて眠っていた。よほど深く夢に耽っているのだろうか、全く僕たちが来た音を察知していないようだった。近づくとその机には、通常の神経ではここで眠ることの出来ないような細々としたスイッチやボタンの夥しく付いた機械と、それに電話のようなものが床から伸びていた。電話のようなものといったのは、それは耳に音を届ける部分とそれに対応する話す部分しかなく、実に単純な構造をしているからだった。部屋全体には、中の閉じられた縦に細長いロッカーが並んでいる。一つだけ半分開いており、その中にはスパナやレンチといった機械を修理するときに使うものが静置されていた。
「あ、ちょっと、眠ってる。なにか仕事やっていたんじゃないの?ほら起きなさいよ。坑長が起きてないなら意味が無いでしょう」
エンデの話す調子にはかなりの親しみがあった。十は離れているであろう人間への話し方ではないと思った。
「また日が出てる時間に寝て。いったい何をしたらそんなに眠くなるのかしら。しかも私たちが来て起きたならまだしも、未だにしっかり眠っているし。入口のフェルナンド達から連絡は来てるはずよね?それも寝てて聞いていなかったんでしょうけど」
エンデのほうがその坑長よりも大人らしいのではないか。エンデは彼の体を揺さぶった。ようやく件の坑長が目が覚めたようで、体をゆっくりと起こした。
「んー……あれ、あ、あ、うーんと。……エンデ?エンデか。おはよう。あー、ちょっと体が痛いなあ、寝すぎちゃったかな……ちょっと見苦しい所見せちゃったね。いやあ私も欠点だと認識しているんだけど、この癖は。それで、どうしたの、後ろの二人にも何か関係があることなのかな。警備上の問題があるからあんまり人は入れて欲しくないんだけどねえ。まあでも時間はあるから対応はできるよ。とはいえ後ろの人は誰だい?初めて見たな。あ、そっちの年がいってるほうじゃないよ、君は見たことが有る。少年ね、少年のほうが見たことない」
話し始めた彼は、最初の無警戒に眠っていた時の印象とは異なり、あくまで聡明であってそれを隠す気もなくさらけ出しているようであった。彼の彫の深い曇天に見える雪のような白い顔もそれを証明しているかのように寝起きでもなお鋭かった。
「そう、その見たことのない少年についてなのよ。この、ベガって言うんだけどね、これがなんと記憶喪失なの。ベガについてどうなるかなって」
「なんだ、それだけかい。しかも随分と曖昧に話すんだね。彼は本当に記憶喪失なのかい?まあいいや、どちらにせよ、なんてことないよ。君か後ろの人が一旦預かって、何処に住むか決めたら私に言えば良いだけだ。それともまだなにかあるのかい?」
「そうだわ。ベガを見つけた場所についてなんだけれど、正面路から真っ直ぐ行った先の、あの、かなり歩いて一之村を抜けた先で、空が崩落していたのよ。」
彼女は怒られるのを既定されているように、おそるおそる言った。
「空が!崩落!そんなことって……」
坑長はひどく動揺していた。おそらく今までにそんなことは一度も起こっていなかったのだろうと思った。
「でも、事実として穴は開いてましたよ。」
「そんな、あるはずがない。どのくらいの大きさなんだ?どうすればいい?……そうだ、私も見て確認してみよう。君たちは場所を教えてくれ」
「わかったわ。でも、見落とすことのない大きさだったわよ」
穴と崩落したがれきが見えるや否や、坑長の動揺は一つに定まっていた。彼はもう、雀の涙ほどの気力も失っていた。歩いている間に、日は既に橙に差す頃合になっている。
「大きすぎるな。これは。なんてことだ……しかし現時点で感じられる悪影響はない……あれは眉唾物だったのか?いや、もう外に出ても安全ということか?分からない……」
彼は何やら一人で考えることに没頭しているようだった。僕はエンデ達と話した。
「ここまで着いてきたが、なんもねえのか。もうベガ、さっさと帰っちまわねえか」
「坑長が何かまとめたことを言ってもらうまで、一応待ってもらうこと。それにしても、あんなに驚いてた坑長は初めて見たわ。あなたたちも、結構珍しいものを見れたわよ」
「そういえば思ったんだが、エンデとあの人はかなり親しそうだっていうのに、なんで名前で呼ばないんだ?」
僕は先に疑問に思ったことを質問した。会うまでは何も知らない僕に配慮してくれているのかと思っていたが、本人を前に名前で呼ばないのも違和感があった。思い返すと、最初に僕が記憶が無いことを彼女が知る前から、彼女は坑長と呼んでいた。
「ああ、そのこと。……あの人はね、坑長以外に呼ばれる名を持たないの。だから、坑長が実質的に名前といっても良いかしらね。他のところの坑長は普通に名前を持っていたりするけど、ここの坑長は昔からのしきたり…というよりか風習?で代々あの人の血族が継いで、その中で坑長となる人は実際になる時にそれまで呼ばれていた名前を捨てるの。」
僕はこういった昔からの慣習を続けるということを面白く思った。
「本当にエンデはいろんなことを知ってるよなあ。俺のほうが年上だってのに、なんだって詳しいじゃねえか」
「ただ色々な話を聞いて覚えているだけよ」
「実際、話を聞けて助かってるよ。もし僕が最初に会ったのがエンデじゃなかったら、もっと良くない方向に言っていたかもしれない」
実際、道中で再び見た村の人々は僕たちの後ろに同行する坑長を見て明白に態度が改善していた。排他的なことは悪徳ではないが、最初に僕とあった人が彼らであったのなら、そのいわゆる他である僕がどうなっていたかは分からないだろう。
「そう?じゃあもっと私を敬いなさい」
「それは違うと思うな」
「おいおいベガ、さっきも言ったろ。z地区のやつらは悪い奴なんかいねえ。誰だってお前を助ける。貧乏人なりの助け合いが俺達にはあるんだ」
「そんなこと言っても、実際他の区に行ったことはないんだろ?じゃあ分からないじゃないか」
「まあまあ、どっちにしろzの人々は優しいってことでいいじゃないの」
暫く雑談を続けていると、漸く考えがまとまったようで、坑長がこちらに振り返って言った。
「君たち、結論としてはだね、現状私の知る限りではこれを直す方法は分からない。だから君たちにお願いをすることにした。説明すると、昔先代に聞いた話によると、ここの私たちが住んでいる場所は、かつては作ることの出来た特別な素材によって覆われているらしいんだ。名前はスタ二ウム。で、これを使わないと、空にはならないらしい。まあその理由は先代も知らなかったんだけどね。多少の推測はできるかな。まあ言いたいことは、今ではその成分や製法は失われてしまっているということだね。だから塞げないんだ。しかし開けたままにしておくと今後影響が起きるかもしれないし、実際起こったときに何が起こるかも予想がつかないから出来ることなら塞いでしまいたい。そこでエンデと、ベガ君だったよね、君たちにはk地区に行ってもらうことにした。k地区だったら何か情報が有るかもしれないから。もし見つからなくとも、何らかの代替が有るとしたらここではなくてk地区だろうし。本当は私が行った方がいいんだろうけどね、円環の維持と管理は私しかできないし、連絡手段も特に必要なかったから無いんだ。まあ気軽に考えてもらっていいよ。お使いってとこかな。あ、ベガ君には分からなかったか。k地区はz地区から唯一繋がっている地区なんだ。といっても非常に遠いけどね。」
「なあ、坑長さん、そいじゃあ俺はどうするっていうんだ?ついていっちゃ駄目っていうのか?」
ロルカが僕が思っていたのと同じ疑問を言った。
「ああ、申し訳ないけど君はここで穴に異常がないか見張りをしてもらうことにした。あとここに入ろうとする人も止めてほしいね。勿論、この仕事についてもらってる間は食糧などは不自由の無いようこちらで提供する。まあこれは追って話すよ」
坑長の話しぶりに澱みはなかった。
「ちょっと坑長、情報を見つけるといったってk地区のどこで探すわけ?私だってここから離れたところに行ったことはないし、記憶喪失のベガなら行ったところでなおさら分からないだけじゃない!」
エンデが困惑した調子で言った。
「ああ、そうだね。とりあえずk地区の中央、k-01の円環に行ってもらうよ。そこで誰かに話が聞けそうにないなら、テノーリオという人を探してみてほしいな。いるはずだから。ここの事情と僕の話をしたら融通してくれるよ、おそらく」
そうして僕たちはz-10の円環に戻り、言われるがままに遠出の準備をさせられ、一晩を中で過ごした後、外に出たのだった。
書くのって難しいですね。