なんとか書き終わった!
翌朝。
惑星パクスに、久しぶりに「平和」が戻っていた。
といっても、この星に本物の朝日が差し込むわけではない。AIが管理する人工照明が、設定通りのサイクルで「朝」の白い光を降り注がせているだけだ。しかしそれでも、昨夜の赤い非常灯と警報音が嘘のように、コア・ゼロの廊下は静かで穏やかだった。
研究員たちは疲弊しきった顔をしながらも、それぞれの持ち場に戻り、淡々と作業を再開していた。PAXISの演算コアは規則正しく脈動しており、モニターに流れるデータも正常値を示している。
アルマはゲストルームで、生まれて初めてと言っていいほど深く眠った。
宇宙最大級のベッドは、やはり馬鹿げたくらい快適だった。マットレスに沈み込んだ瞬間から意識が途切れ、気がつけば人工照明が「朝」を告げていた。
「……よく寝た」
アルマは大きく伸びをしてから、ベッドの上に座り直した。
窓の外には、相変わらず白と銀の無機質な景色が広がっている。緑は一本もない。しかし今この瞬間だけは、昨夜の激戦の疲れが綺麗に抜けていて、アルマの気分は悪くなかった。
「さて」
アルマはぽんと手を叩いた。
「報酬をもらって、帰るか」
§ § §
中央モニタールームに向かうと、アベンチュリンとトパーズが揃って待っていた。
二人とも、昨夜の疲れを微塵も感じさせない、完璧な身なりだった。アベンチュリンは豪奢な衣装を纏い、手の中でチップをカチャカチャと回転させている。トパーズは足首に薄い医療用サポーターを巻いていたが、それ以外はいつも通りの涼やかな笑顔だった。
「おはよう、アルマ。よく眠れた?」
アベンチュリンが、まるで何もなかったかのような穏やかな声で言った。
「よく眠れた。ベッドは認める」
「それは良かった」
「で」
アルマはフードを被り直し、二人を真っ直ぐに見た。
「報酬、くれ」
「もちろん」
アベンチュリンは微笑んだ。その笑顔は、いつも通り完璧で、底が見えなかった。
「用意してあるよ。ただ、受け取りの手続きが必要でね」
「手続き?」
「カンパニーの規約上、この規模の報酬を個人に支払う際には、受取人の身分確認と、契約書へのサインが必要なんだ。簡単なものだよ」
アベンチュリンは懐から、折り畳まれた書類を取り出した。純白の上質な紙に、細かい文字がびっしりと印刷されている。
アルマはその書類を受け取り、ぱらぱらとめくった。
「……字が細かすぎる」
「重要な契約書はみんなそうだよ」
「どこにサインすればいい?」
「最後のページに署名欄がある」
アルマは最後のページを開いた。署名欄の上に、確かに報酬の金額が明記されていた。星が丸ごと一個買えるレベルの、天文学的な数字。
アルマの目がギラリと光った。
しかし、その数字の下に続く細則の文章に、アルマの視線が引っかかった。
「……なあ、これ」
アルマは書類の一点を指で叩いた。
「第十七条、甲は本契約の締結をもって、スターピースカンパニー戦略投資部アベンチュリン直属の専属戦力として、無期限に従事する義務を負う……って書いてあるんだけど」
「そうだね」
アベンチュリンは涼しい顔で答えた。
「報酬を受け取ると同時に、僕の部下になってもらう契約だよ。給与も出るし、待遇も悪くない。君が望むなら、隠居用の星への渡航権だって──」
「無期限って書いてある」
「……細かいね」
「終身雇用じゃないか」
「言葉の定義の問題だよ」
アルマは書類をアベンチュリンに突き返した。
「いらない」
「待って」
今度はトパーズが、スマートに折り畳まれた別の書類を差し出した。
「こちらはどうかしら。私の方が条件がいいわよ」
アルマはそれも受け取り、最後のページを真っ先に開いた。
第十四条。甲は本契約の締結をもって、スターピースカンパニー戦略投資部トパーズ直属の専属戦力として、無期限に従事する義務を負う。
「……同じじゃないか」
「待遇が違うわ。私の直属なら、業務内容も柔軟に調整できるし、隠居用の星への優先渡航権も──」
「無期限って書いてある」
「……」
「終身雇用じゃないか」
トパーズは一瞬だけ目を逸らした。
アルマは二枚の書類を両手に持ち、二人の顔を交互に見た。
アベンチュリンは完璧な笑顔のまま。トパーズも完璧な笑顔のまま。二人とも、一ミリも譲る気がないことが、その笑顔から透けて見えた。
「……なあ」
アルマは静かな声で言った。
「二人とも、最初からこれが目的だったか?」
「もちろん違うよ」
「違うわ」
「嘘をつくな」
二人は同時に微笑んだ。その笑顔が、何よりも雄弁に「最初からそのつもりだった」と語っていた。
アルマは深いため息をついた。
「俺はただ、ゴロゴロしたいだけなんだ」
「部下になっても、ゴロゴロする時間は確保するよ」
「私の直属なら、休暇も十分に──」
「無期限って書いてある」
二人が同時に口を閉じた。
アルマはしばらく天井を仰いだ。
田舎の星の、緑の地平線。自動制御のトラクターの音。誰にも邪魔されない、穏やかな午後。誰の部下でもなく、誰の専属でもなく、ただ自分のペースで生きる、理想のスローライフ。
それが、今この書類にサインした瞬間、永遠に消える。
「……やっぱり無理だ」
アルマは二枚の書類を、二人にそれぞれ返した。
「報酬はいらない。俺は帰る」
「アルマ」
アベンチュリンの声が、僅かに鋭くなった。
「契約上、この星からの離脱には依頼主の許可が必要だ。君はまだ、正式に業務を完了していない」
「PAXISの暴走は止めた。研究員も全員救出した。何が足りない?」
「報酬の受け取りが完了していない。契約書には、報酬の受け取りをもって業務完了とする、と明記されている」
アルマはアベンチュリンを見た。
「つまり、報酬を受け取らないと、業務完了にならない?」
「そういうことだね」
「報酬を受け取ると、終身雇用になる?」
「そういうことだね」
「……お前ら、最初からこのつもりだったろ」
アベンチュリンは微笑んだ。その笑顔は、肯定とも否定とも取れる、完璧に計算された表情だった。
アルマは腰元の『ヘヴンズ』の柄に、ゆっくりと手をかけた。
「なあ、アベンチュリン」
「なに?」
「契約書って、紙だよな」
アベンチュリンの笑顔が、一瞬だけ揺れた。
「……まさか」
「やっぱり無理だわ、終身雇用は」
アルマは踵を返し、全速力でモニタールームを飛び出した。
「アルマ!!」
アベンチュリンの声が追いかけてくる。
廊下に飛び出したアルマは、天賦の才をフル回転させながら、施設の構造を瞬時に把握した。着陸ポートまでの最短ルート。セキュリティゲートの位置。警備員の配置。
すべてが、一瞬で頭に入った。
「行けるな」
アルマは走った。
廊下を曲がり、階段を三段飛ばしで駆け下り、セキュリティゲートを『ヘヴンズ』でこじ開けながら突破していく。後ろから警備員たちの足音が迫ってくるが、アルマの足の方が速かった。
着陸ポートが見えてきた。
アルマの安物シャトルが、預けた場所にそのまま停まっている。
「よし!」
タラップを一気に駆け上がり、コックピットに飛び込む。エンジンを起動。出力最大。
『待ちなさい、アルマ! 離陸許可が下りていないわ!』
通信機からトパーズの声が響いた。
「許可なんていらない!」
シャトルが轟音を立てて浮き上がる。着陸ポートの床が遠ざかり、白と銀の無機質な施設が小さくなっていく。
『アルマ、戻ってきなさい。話し合いの余地はあるわ』
「終身雇用の話し合いなんて、する気ない!」
『報酬はどうするの!』
「いらない!!」
シャトルが大気圏を突き破り、星の外へと飛び出した。
パクスの白い人工照明が、後ろに遠ざかっていく。
アルマはしばらく無言でシャトルを飛ばし続けた。
十分後、パクスが視界から完全に消えたところで、アルマはようやく深いため息をついた。
「……また無職か」
コックピットの窓の外には、広大な宇宙が広がっている。星々が静かに輝いている。どこまでも続く、果てしない暗闇と光の海。
「星核ハンターも捕まえられなかった。パクスの報酬も受け取れなかった。俺の隠居生活は一体いつになったら……」
その時、アルマの端末が静かに鳴った。
画面を見ると、口座への入金通知が二件届いていた。
送金元:アベンチュリン。金額:1000万信用ポイント。
送金元:トパーズ。金額:1000万信用ポイント。
メッセージ欄には、それぞれ一言だけ添えられていた。
アベンチュリンからは『また会おう』。
トパーズからは『次は逃がさないわ』。
アルマはしばらく画面を見つめてから、端末を膝の上に置いた。
「……2000万か」
星が買えるレベルの報酬には、遠く及ばない。しかし、今日明日の飯には困らない。シャトルの燃料代も出る。少し贅沢な飯も食える。
「まあ……ないよりマシか」
アルマは背もたれに深く沈み込んだ。
窓の外で、星々が静かに流れていく。
「次こそ、一発でドカンと稼いで、永遠に働かない生活に入ってやる……」
そう呟きながら、アルマは端末のデータベースを開いた。
星核ハンターの最新目撃情報。カフカ、刃、銀狼、サム。あの数百億の懸賞金は、まだそこにある。
「待ってろよ、俺のスローライフ」
アルマの目に、また現金な輝きが宿った。
シャトルは広大な宇宙を、次の目的地へ向かって静かに飛び続けた。
第一章・完!
評価くれてもいいんですよ(/ω・\)チラッ