機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
ミネルバ会議室の空気は重かった。
壁面モニターには、地球圏の航路図が映し出されている。その上に、3本のルートが色分けされて表示されていた。
まず、東ルート。
最短距離でプラント本国へ向かえる。だが、その周辺にはロゴスの軍事拠点が点在しており、発見される可能性が極めて高い。
次いで、西ルート。
地球軌道上を大きく迂回する長距離航路だった。敵勢力との接触リスクは比較的低い。だが、補給や修理を受けられる前線基地がほとんど存在しない。
そして、最も遠回りになるコロニー軌道上ルート。
地球の衛星軌道ではなく、コロニーの軌道線を経由する最長距離の航路だった。周辺コロニーから補給を受けやすい反面、機密保持という観点では最悪に近い。
「どれも決め手に欠けますね……」
アーサーが頭を抱える。
タリアは、すぐには答えなかった。
どのルートにも利点がある。
同時に、どのルートにも致命的な欠点がある。
東は早いが、敵に近すぎる。
西は隠れやすいが、補給が薄い。
コロニー経由は補給に優れるが、人目が多すぎる。
会議は数時間続いた。
それでも結論は出ない。
誰もが資料を睨み続けていた。
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その頃、食堂だけは別世界だった。
「今日は金曜カレーだからね!」
トレーを抱えたルナマリアが、上機嫌に宣言する。その隣では、メイリンが半ば呆れた顔をしていた。
「毎週言ってるよね」
「大事なことなの!」
「出撃前にも言ってた」
「もっと大事なことなの!」
2人の後ろを、セラが無言で歩いている。
正確には、連れてこられていた。
さらに厳密に言うなら、格納庫のレギナントから引きずり出されたと言った方が近い。
引きずり出される際に、髪が乱れて少しひどいことになっていた。
「出撃待機中でした」
「待機しなくていいから!」
「現在は平時です!」
「了解しました」
理解しているのか、していないのか分からない返答だった。
席に着く頃には、シンとレイも合流していた。
「お、今日は豪華だな」
「毎週同じだ」
「レイ、お前そういうこと言うなよ」
シンが笑う。
それぞれが思い思いにカレーへ手を伸ばした。シンとルナマリア、メイリンはもちろん、レイもこの時ばかりは穏やかな顔をしている。
その時だった。
セラだけが、動かなかった。
じっとカレーを見つめている。
数秒後、虚空へ視線を向け、静かに立ち上がった。
「セラ?」
メイリンが首を傾げる。
返事はない。
セラはそのまま調味料棚へ向かう。
嫌な予感がした。
戻ってきた彼女の手には、ドレッシングのボトルが握られている。
そして。
「あああーーーっ!?」
誰かの悲鳴だった。
いや、全員の悲鳴がきれいに重なった。
その視線の先で、セラは躊躇なくドレッシングをカレーへ投入していた。
食卓が静まり返る。
「な、何してる……の?」
メイリンが聞く。
「栄養バランスの最適化です」
即答だった。
「いやいやいや」
シンが吹き出す。
「カレーだぞ? カレーなんだぞ?」
「認識しています」
「じゃあ、なんでドレッシングをかけるのよ」
ルナマリアが聞く。
「栄養補完です」
真顔だった。
ルナマリアが頭を抱える。
「美味しくなくなるでしょ……」
セラは、そこで初めて顔を上げた。
「なぜですか」
「なぜって……」
ルナマリアが言葉に詰まる。
「好きにさせておけ」
レイだけは無表情だった。
止める気はないらしい。
いや、心なしかスプーンを持つ手に力がこもっているようにも見えた。
セラはそんなやり取りを気にする様子もなく、一口食べた。
全員が見守る。
飲み込む。
「問題ありません」
「いやいやいや」
シンがまた吹き出した。
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食事を終えたセラは、再び格納庫へ戻っていた。
大型クレーンが動く音。
溶接の火花。
整備員たちの怒号。
機械の駆動音。
ミネルバの格納庫は、今日も騒がしい。
その中を、セラは壁際に沿って歩く。中央通路には近づかない。フォークリフトや整備車両が、絶えず行き交っているからだ。
やがて、レギナントの足元へ辿り着く。
何の迷いもなく昇降ハッチを上り、コクピットへ潜り込んだ。
それを見ていた2人がいる。
ヴィーノとヨウランだった。
「また入ったな」
「ああ」
「好きだな、あそこ」
「お前も好きだろ」
「まあな」
しばらく、2人で見上げる。
相変わらず眩しすぎる顔立ち。
近寄りがたい雰囲気。
艦内に緘口令が敷かれるほどの重要人物。
そして、レギナントのパイロット。
だが。
「気になるよな……」
ヨウランが呟いた。
ヴィーノは思わず、ヨウランの顔を睨む。
嫌な予感しかしなかった。
「やめとけ」
「まだ何も言ってねぇ」
「言うな」
「無用な接触は禁止されてる、だろ?」
「そうだよ。だからやめとけ」
「だったら用を作ればいい」
「おい」
ヨウランの目が輝いていた。
絶対に何か企んでいる顔だった。
「レギナントの整備確認とか」
「やめろ」
「機体運用についての聞き取りとか」
「やめろ」
「パイロットとの意思疎通とか」
「お前それ全部後付けだろ」
ヴィーノは額を押さえた。
しかし、ヨウランは止まらない。
レギナントを見上げながら、腕を組む。
「よし」
「何がよしだ」
「まずは作戦会議だ」
「やめろって言ってるだろ」
2人の声は、格納庫の喧騒に飲まれていった。
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深夜、艦長室の明かりはまだ消えていなかった。
机の上には、冷めたコーヒー。
手つかずの食事。
そして、積み上がった報告書。
タリアの視線は、それらには向いていない。
壁面モニター。
そこに映る航路図を見つめていた。
東ルート。
西ルート。
コロニー軌道上ルート。
どれも危険だった。
軍艦である以上、危険を避けることはできない。ミネルバは戦うための艦だ。それは理解している。
だからこそ、決断できなかった。
タリアは小さく息を吐く。
視線を落とした。
書類の山。
その中の一枚が、目に入る。
対象識別番号、L-31。
艦内識別名、セラ。
そこまでは記入されている。
だが、その下にある氏名欄だけが空白のままだった。
タリアは、ペンを止めた。
本来なら、空欄のままでも問題はない。
彼女は正規兵ではない。戸籍も不明。出身も、所属も、正確には確認できていない。
識別番号さえあれば、軍の書類は処理できる。
だが。
L-31。
その文字だけで、あの少女を記録に残すことに、どうしても抵抗があった。
タリアはしばらく黙っていた。
歓声を浴びながら困惑していた少女の姿を思い出す。
営倉へ戻っていった後ろ姿を思い出す。
レギナントのコクピットで、出撃命令を待っていたという報告を思い出す。
番号ではなく、名前で呼ばれ始めた少女。
けれど、書類の上ではまだ空白だらけの少女。
タリアは静かにペンを動かした。
セラ・フェイド。
正式な名ではない。
誰かに許可を取ったわけでもない。
ただ、番号だけで処理するには、あまりにも幼すぎる少女へ、艦長が勝手に与えた書類上の姓だった。
書き終えてから、タリアは小さく息を吐いた。
「……これでいいわね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
そして再び、モニターへ目を向けた。
答えは、出ていた。
最短ルートは取れない。
コロニー経由も論外だ。
今のミネルバには、守るべき機密がある。
そして、番号だけで処理したくない少女がいる。
「西ルートね……」
遠回りになる。
補給も難しい。
だが、少なくとも余計な目には触れずに済む。
タリアは決裁書類を引き寄せた。
ペン先が静かに走る。
航路変更申請。
目的地、プラント本国。
その文字を書き終えたところで、タリアはようやく冷め切ったコーヒーへ手を伸ばした。