機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
ネメア・インダストリアル、タマンラセット支部。
つい先ほどまで軍事研究所として機能していた地下施設は、今や半ば沈黙していた。
地表区画は焼け崩れ、外部電源設備はタンホイザーの一撃で吹き飛ばされている。
ミュルミドンの出撃口だった搬入口は崩落し、隔壁のいくつかは閉鎖不能。
非常灯だけが赤く点滅し、司令部の壁面には損傷報告が次々と流れていた。
「第2搬入口、完全閉鎖不能」
「外部電源区画、応答なし」
「ミュルミドン残存機、再編不可。稼働確認中の機体は――」
「黙れ!」
研究所長兼司令官の怒号が、半壊した司令室に響いた。
彼は端末を叩きつけるように操作し、砂煙の向こうへ離脱していくミネルバの映像を睨んでいた。
「あの艦を逃がしただと? レギナントを積んだまま、ミネルバを逃がしただと!」
誰も答えなかった。
答えれば怒鳴られる。
それ以前に、答えようにも答えはひとつしかない。
ミネルバは離脱した。
タマンラセット支部は半壊した。
No.3は最大統制運用の限界を超え、ストラテゴスごと停止した。
それが事実だった。
「No.3を出せ。ストラテゴスで追撃させろ」
司令官が命じた。
オペレーターのひとりが、恐る恐る顔を上げる。
「不可能です」
「何?」
「No.3は現在、意識レベルが低下しています。最大統制運用の反動により、昏睡状態です」
「なら起こせ」
「それだけではありません。ストラテゴスは外部電源区画を喪失しています。メガバスターランチャーの最大出力運用は不能。機体そのものも拠点防衛用で、航続性も速度も長距離追撃には適しません」
別の技術者が続ける。
「ミュルミドン地球仕様も同様です。砂漠および拠点周辺での迎撃・奇襲に特化しています。損耗率も許容値を超過。追撃部隊として再編できる状態ではありません」
司令官の顔が歪んだ。
「つまり、何もできんと言うのか」
沈黙が落ちた。
それは肯定だった。
司令官は歯を軋ませ、拳を握りしめた。
「ならば周辺に報せろ」
「周辺、ですか」
「ロゴス系の中継拠点すべてだ。ミネルバはタマンラセットを離脱し、ジブラルタル方面へ向かっている。進路、損傷状況、レギナント搭載の可能性。すべて流せ」
「はっ」
「ジブラルタルへ辿り着く前に捕捉させろ。どこの部隊でもいい。あの艦を止めろ」
命令が飛び、通信端末が次々と起動していく。
ミネルバを追う機体はない。
だが、情報だけは砂漠を越えて走り始めていた。
司令官は最後に、医療区画へ繋がる表示を睨んだ。
「No.3はどうしている」
「処置中です。神経負荷が大きく、覚醒には時間が――」
「叩き起こせ」
その一言に、司令室の空気が凍った。
「しかし、個体の損傷が――」
「使えるようにしろと言っている」
医療担当と通信していたオペレーターが、端末を握りしめた。
「強制覚醒は危険です。現在の神経負荷では、認識機能に不可逆的な損傷が残る可能性があります」
「損傷?」
「はい。記憶、判断基準、命令処理系の統合に異常が出る恐れがあります。次の戦闘に投入できたとしても、通常の統制精度は保証できません」
オペレーターは、それでも食い下がった。
「No.3は、すでに限界を超えています。ここで覚醒刺激をかければ――」
「使えるようにしろと言っている」
司令官の声が、低く落ちた。
だが、オペレーターは引かなかった。
顔色を失いながらも、端末を抱えるようにして一歩前に出る。
「それは、治療ではありません。個体を壊す処置です」
「何だと」
「今、無理に起こせば、次に目を覚ましても、同じNo.3とは限りません。統制精度以前の問題です。認識そのものが戻らない可能性があります」
司令室が静まり返る。
「お願いします。せめて安定化処置を先に――」
「くどい!」
司令官の拳が机を叩いた。
乾いた音が、半壊した司令室に響く。
誰も動かなかった。
報告を読み上げていたオペレーターも、医療区画と通信していた技術者も、言葉を失った。
司令官は、医療区画へ繋がる表示を睨んだ。
「やれ」
それだけだった。
「Lシリーズは、そのためにある」
*****
ミネルバの艦橋にも、重い空気が残っていた。
戦闘は終わったが、勝利という言葉を口にできる者はいない。
艦は航行を続けている。
ジブラルタルへ向けた進路も維持できている。
だが、右舷側の損傷は大きかった。
「右舷第4区画、隔壁閉鎖完了。火災は鎮圧済み」
アーサーが報告を読み上げる。
「人的被害は?」
「死者はありません。ただ、右舷区画にいたクルー数名が重傷。医務室で処置中です」
タリアは小さく息を吐いた。
死者が出なかったのは、不幸中の幸いだった。
被弾時、右舷区画は戦闘配置のため人数が少なく、隔壁閉鎖もぎりぎり間に合っていた。
もし誘爆していれば、被害は比較にならなかっただろう。
「艦体への影響は」
「航行には支障ありません。ただし右舷格納庫ハッチが使用不能。右舷前部CIWSは全損です。応急修理班が作業に入っていますが、完全復旧には基地設備が必要です」
「出撃シークエンスは?」
「右舷側からの発進・収容に制限が出ます。MS運用は左舷側と中央シークエンスに集約する必要があります」
タリアは額に手を当てた。
航行できる。
だが、戦闘能力は確実に削られた。
特にMS発進の制限は痛い。
次に襲撃を受けた場合、出撃の遅れがそのまま命取りになりかねない。
「艦長……」
アーサーが不安そうに呼ぶ。
タリアは顔を上げた。
「応急修理を継続。ジブラルタルへの進路は維持します。MS部隊には、1日の休養を命じて」
「1日、ですか」
「緊急時は即応待機。ただし、今は休ませなさい」
タリアはモニターの向こう、格納庫へ視線を向けた。
「機体も人も、使い潰せば終わりです」
*****
午後。
ミネルバの食堂には、いつもより少しだけ柔らかな匂いが漂っていた。
金曜日は、カレーの日だった。
補給状況が厳しくても、損傷区画があっても、厨房班はこの定例行事を守っていた。
むしろこういう時だからこそ、食堂に並ぶクルーたちの表情にはわずかな期待がある。
その列の後ろに、セラは立っていた。
両脇にはメイリンとルナマリアがいる。
「今日は休暇。だからレギナントは禁止」
ルナマリアが言った。
「休暇中でも機体状態の確認は可能です」
「禁止よ禁止」
「艦長命令だからね」
「艦長命令」
実際には、タリアの命令はMS部隊への休養だった。
だが、セラの場合はそれくらい強く言わなければ、すぐに格納庫へ向かう。
メイリンはトレーを持ちながら、セラを見た。
「あと、今日は先に言っておくね」
「はい」
「カレーにドレッシングをかけるのは禁止」
セラは瞬きをした。
「栄養の最適化です」
「カレーはそういうものじゃないの」
「ドレッシングには油分、塩分、酸味があります。補給状況に応じて――」
「だめ」
メイリンはきっぱりと言った。
「料理を作ってくれた人に失礼でしょ」
セラは黙った。
数秒、考える。
料理を作ってくれた人。
食事は栄養摂取であり、戦闘継続のための補給である。
そこに誰が作ったかという情報は、彼女の判断基準では優先順位が低かった。
だが、メイリンがそう言う。
ルナマリアも頷いている。
「了解」
セラは答えた。
理解できた顔ではなかった。
だが、少なくとも従うことは決めていた。
「その顔、分かってないでしょ」
「メイリンの指示は保持しました」
「うん。今日はそれでいい」
ルナマリアが苦笑する。
「前進してるわよ、たぶん」
セラはトレーの上のカレーを見下ろした。
いつもと同じように見える。
だが、メイリンの言葉が残っていた。
料理を作ってくれた人。
その情報は、カレーの味とは別の場所にあるらしい。
*****
食事の後、セラは艦内を歩いていた。
目的地はなかった。
休暇を命令されている。
格納庫にも近づくなと言われている。
レギナントのコクピットは彼女にとって最も落ち着く場所だったが、今日はそこへ戻れない。
セラの行動範囲は艦内認証で制限されている。
艦橋、機密区画、損傷区画には入れない。
だが、封鎖線の手前や食堂、医務区画の前までは歩けた。
彼女はまず、右舷通路へ向かった。
通路の一部は隔壁で閉鎖されている。
赤い警告灯が点滅し、仮設の封鎖ラインが張られていた。
その前では、整備班と応急修理班が忙しく動いている。
セラが近づくと、作業中の整備兵が顔を上げた。
「あん? そこから先は立ち入り禁止だぞ」
「確認しています」
「ならいい」
整備兵は工具を肩に担ぎ直し、隔壁の方を見た。
「見物か?」
「戦闘損傷の確認です」
「休暇じゃなかったのかよ」
「休暇です」
「休暇中に損傷確認するなっての」
彼は呆れたように笑った。
セラは封鎖された通路を見る。
「この区画が、ストラテゴスの攻撃を受けた箇所ですか」
「ああ。貫かれたのはもう少し奥だ。今は隔壁で塞いでる。あんたたちが外でやり合ってる間、こっちは穴塞ぎだ」
「穴塞ぎ」
「そう。艦ってのは外で撃ち合うだけじゃ動かないんだよ。穴が空いたら塞ぐ。火が出たら消す。空気が抜けたら止める。誰かがそれをやらなきゃ、艦は死ぬ」
セラは整備兵を見た。
「艦は、死ぬ」
「まあ、物の例えだよ」
彼は苦笑した。
「けど似たようなもんだ。中にいる人間ごと、まとめてな」
セラはしばらく隔壁を見ていた。
そこには敵機はいない。
ビームも飛んでこない。
だが、ここにも戦闘があった。
「作業継続を阻害しましたか」
「ちょっとな」
「離れます」
「おう。あと、ありがとな」
セラは立ち止まった。
「何に対する感謝ですか」
「外で止めてくれたんだろ。あの黒いの。こっちは穴塞ぎで手一杯だったからな」
セラは数秒考えた。
「私は任務を遂行しました」
「そういう返し、メイリンに怒られるぞ」
整備兵は笑い、作業へ戻っていった。
*****
次に向かったのは、医務区画だった。
ここも入口付近までしか入れない。
中では医療班が動いている。
ベッドには数名のクルーが横たわっていた。
右舷区画にいた者たちだ。
死者はいない。
だが包帯や固定具、点滴の管が、戦闘が艦内にも届いたことを示している。
セラが入口に立つと、医療班のひとりが気づいた。
「セラ? どうしたの」
「負傷者の確認です」
「休暇中でしょ」
「はい」
「休暇中に医務室を確認に来るのも、あなたらしいわね」
医療班員が小さく笑った。
その声に、ベッドのひとりが顔を向けた。
「あ、セラだ」
別のクルーも、上体を起こそうとして医療班に止められる。
「ほら、動かないの」
「いや、でもな……」
負傷したクルーは、苦しそうにしながらも笑った。
「艦を守ってくれて、ありがとうな」
セラは返答しなかった。
言葉は聞こえている。
意味も分かる。
だが、その言葉をどこに置けばいいのかが、すぐには決まらない。
「私は、損傷の発生を防げませんでした」
「それでも、俺たちは今こうして生きてる」
クルーは言った。
「だから、ありがとうでいいんだよ」
セラは沈黙した。
医療班員が、彼女の顔を見て少しだけ表情を緩める。
「難しく考えなくていいわ。今は、そう言われたって覚えておきなさい」
「覚えておく」
「そう」
セラは負傷者たちを見た。
艦を守った。
だが、艦の中の人間は傷ついている。
それでも、彼らは感謝している。
その関係性は、彼女の中でまだ整理されていなかった。
*****
最後に、セラは厨房へ向かった。
食堂のピークは過ぎていたが、厨房ではまだ作業が続いている。
交代勤務のクルーたちのために、次の食事が準備されていた。
鍋の匂い、立ち込める湯気、食器の音。
それらは戦闘とはまるで違う音だった。
料理長がセラに気づく。
「おう、さっきのカレー、食ったか」
「はい」
「ドレッシングは?」
「使用禁止とされました」
「ははっ。メイリンに怒られたな」
「料理を作ってくれた人に失礼、とのことです」
「そりゃそうだ」
セラは厨房の中を見た。
「質問があります」
「何だ」
「なぜ、栄養効率のよい混合ペーストや栄養調整食品を主食にしないのですか」
厨房の手が、一瞬止まった。
料理長はセラを見た。
「……あんた、真顔で聞いてるな」
「はい」
「そうか」
彼は少し考え、それから鍋をかき混ぜた。
「そんなもんばっか食って戦ってたら、いつか心が死ぬよ」
「心」
「ああ。腹が膨れりゃいいってもんじゃない。戦って、修理して、怪我人を運んで、怒鳴られて、また働く。そういう時に、いつも味のしないペーストだけ出されたら、人間は参っちまう」
「参る」
「嫌になるってことだ」
料理長は皿を棚に戻した。
「カレーの日ってのはな、ただ栄養を取る日じゃない。今日は金曜だ、まだ曜日を忘れてない、艦はちゃんと回ってる。そう思うための日でもある」
セラは黙って聞いていた。
「だから、ドレッシングで台無しにされると困る」
「了解」
セラは答えた。
今度は少しだけ、前よりも長く考えた後だった。
「カレーは、栄養以外の機能を持つ」
「まあ、そういうことだ」
「保持します」
「おう。保持しとけ」
料理長は笑った。
*****
夜になった。
メイリンは交代を終え、通路を歩いていた。
艦内の照明は夜間設定に落とされている。
完全な静寂ではない。
損傷区画の修理音、遠くの機関音、通信機器の小さな電子音が、まだ艦を動かしている。
その途中で、メイリンはセラを見つけた。
セラは窓際の通路に立っていた。
外には夜の砂漠が広がっている。
月明かりに照らされた砂は、昼間の戦場とは違うものに見えた。
「セラ」
メイリンが声をかける。
セラは振り向いた。
「メイリン」
「今日はどこに行ってたの? 食堂のあと、姿が見えなかったけど」
「艦内を歩いていました」
「艦内を?」
「はい。修理中の右舷通路。医務区画。厨房」
「ずいぶん回ったね」
「休暇中の行動選択が不明でした」
メイリンは笑った。
「それで、どうだった?」
セラはすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
砂漠は静かだ。
だが、彼女の中には、昼間見たものが残っていた。
「人がいました」
セラは言った。
「艦内でも戦闘がありました」
メイリンは黙って聞いた。
「整備班は穴を塞いでいました。医療班は負傷者を処置していました。厨房は食事を作っていました」
「うん」
「私は、レギナントで艦を守っていると思っていました」
セラは、ほんの少しだけ視線を落とした。
「でも、私は艦に守られていました」
メイリンは目を細める。
その言葉は、セラにしてはとても静かだった。
理解しきった言葉ではないのかもしれない。
けれど、彼女なりに見たものを並べ、結論へ辿り着いた言葉だった。
「そうだね」
メイリンは笑った。
「セラも、ミネルバの中にいるんだから」
「ミネルバの中」
「うん。だから、守ってるし、守られてる」
セラはその言葉を繰り返すように、わずかに唇を動かした。
「守っている。守られている」
「そう」
メイリンは窓の外を見た。
夜の砂漠の向こうには、ジブラルタルがある。
そのさらに先に、まだ見えない戦場がある。
セラは何も言わなかった。
けれど、その横顔は、いつもより少しだけ深く考えているように見えた。
艦は進んでいる。
傷ついた右舷を抱えたまま。
それでも、ミネルバは進んでいる。