機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
ジブラルタルは、まだ煙を吐いていた。
敵艦隊は後退した。
ロゴス部隊の撤退信号は確認され、追撃は深追いせず、防衛線を維持するよう命令が出ている。
戦闘は終わった。
少なくとも、今この瞬間、基地を撃つ砲声は止んでいた。
だが、勝利した基地は静かではなかった。
港湾区画には黒煙が残っている。
折れたクレーンの先端が、斜めに傾いたまま海面を向いていた。
焼けた舗装には、MSの足跡とビームの灼け跡が重なり、消火ホースから吐き出される水が白い蒸気を上げている。
防壁には大きな亀裂が走り、砲台の外装は赤黒く焦げ、工兵たちが仮設足場を組み始めていた。
海面には、敵艦の残骸とオイルの筋が浮かんでいる。
波に揺られた黒い油膜が、朝の光を鈍く反射していた。
その向こうでは、曳航艇が沈みかけた艦の残骸へ向かい、警戒艇が周囲を旋回している。
「担架、こっちだ!」
「火災区画、まだ熱が残ってるぞ!」
「第5砲台の冷却配管、仮修理班を回せ!」
「損傷グフ、格納庫3番へ誘導!」
声が絶えない。
救護班が走り、保安部隊が残骸の周囲を封鎖し、整備班が損傷したザクやグフを格納庫へ戻していく。
片腕を失ったグフが牽引用車両に引かれ、足を焼かれたザクが整備ベッドへ固定される。
港湾道路の端には、ダガーLの破片が集められていた。
別の区域では、黒い甲殻装甲の残骸――全天候型ミュルミドンの一部が、警備兵に囲まれて回収されている。
そして、そのさらに奥。
ストラテゴスの残骸があった場所には、厚い警戒線が張られていた。
赤黒い大型機は、もはや機体の形を残していない。
装甲板は引き剥がされ、砲身は拉げ、内部フレームはねじ切られている。
それは撃破されたMSというより、何か巨大なものに噛み砕かれた残骸だった。
警備兵たちは無言でそこに立っている。
誰も、あまり近づこうとしなかった。
レギナントの周辺にも警備が増えていた。
白い大型機はすでに隔離ハンガーへ戻されている。
黒いオイルと焼け跡の残る両手には、応急洗浄用のシートがかけられ、ミネルバ整備班と基地技術者が離れた位置から慎重に作業をしていた。
許可なく近づく者はいない。
近づける空気でもなかった。
勝った。
ジブラルタルは守られた。
だが、基地はまだ戦闘の熱を吐いていた。
*****
「前線パイロットは交代で休ませろ」
基地司令部に、司令の声が響いた。
「追撃はしない。防衛線は維持。警戒態勢は継続だ。だが、今のまま乗せ続ければ次の出撃で落ちる」
「了解。各隊へ休息指示を出します」
「整備、救護、保安は引き続き動かす。食堂には補給を回せ。温かいものを出してやれ」
それは、勝利の命令ではなかった。
戦闘を生き残った者たちを、次の戦闘まで持たせるための命令だった。
それでも、基地食堂には人が集まり始める。
いつもより多めに用意された食事。
湯気の立つスープ。
温め直されたパン。
濃い味の煮込み。
乾杯代わりの飲料。
誰かがカップを掲げ、隣の兵士がそれに応じる。
「ジブラルタルを守ったぞ!」
「第5砲台、よく当てたな!」
「ミネルバ隊も化け物みたいに強かった」
「あの白いやつ、何なんだよ」
「何でもいいさ。味方だったんだ」
笑い声が上がる。
肩を叩き合う音がする。
生き残った安堵が、食堂の天井にぶつかって跳ね返る。
だが、全てが明るいわけではない。
笑っている兵士の制服には煤が付いている。
腕に包帯を巻いた者もいる。
食器を持つ手がわずかに震えている者もいた。
食堂の外では、まだ救護車両のサイレンが遠く鳴っている。
だからこそ、今だけは食べる。
今だけは笑う。
そうしなければ、身体が戦闘から戻ってこない。
その喧騒の中で、一角だけが妙に静かだった。
ミネルバ隊と、ジュール隊。
テーブルには食事が並んでいる。
だが、箸もスプーンもあまり進んでいない。
シンは腕を組んだまま、皿を見ていた。
ルナマリアはスープの湯気を眺め、時折、小さく息を吐く。
レイはいつも通りに見えたが、視線は食事ではなく、テーブルの一点に固定されていた。
アスランは黙っている。
その向かいに、イザークとディアッカが座っていた。
ジュール隊の随伴兵たちも、少し離れた席にいるが、声は低い。
周囲の食堂は騒がしい。
ここだけが、まだ戦場を引きずっていた。
「メイリンは」
ルナマリアが小さく言った。
シンが顔を上げる。
「医務室。セラについてる」
「そう……」
それだけで会話は止まった。
セラは眠っている。
直接神経接続の反動で、まだ意識は戻っていない。
医療班からは、生命に直結する異常は今のところないと報告されている。
だが、それは安心できる言葉ではなかった。
今のところ、という前置きが、重く残っている。
「……守ったんだよな」
シンがぽつりと言った。
「セラは、ミネルバを守ったんだ」
「ええ」
ルナマリアが頷く。
だが、その声も晴れない。
「でも……あんな戦い方、俺も知らなかった」
シンの手が、テーブルの上で軽く握られる。
「レギナントが強いのは分かってた。ドラグーンも、
「近接戦闘って、そういう意味だったのね」
ルナマリアの声には、かすかな震えがあった。
「普段のセラを知ってるから、余計に分からなくなるのよ。あの子、食堂で何を選べばいいか迷うような子なのに」
それは怖がっている声ではなかった。
いや、怖くなかったわけではない。
ただ、その怖さの先に、心配があった。
食堂で黙ってカレーを見つめるセラ。
ドレッシングをかけようとして止められるセラ。
レギナントの中で眠ろうとして、メイリンに引っ張り出されるセラ。
その少女が、ストラテゴスを噛み砕いた。
同じ存在だと、すぐには思えない。
レイが口を開いた。
「機体能力だけではない」
皆の視線が向く。
レイは静かに続けた。
「神経接続補助ユニットを外した後、レギナントの挙動は明らかに変わった。反応速度、重心移動、ドラグーン配置、どれも3号使用時とは別物だった」
「それって……」
シンが言葉を詰まらせる。
「セラ自身を削って引き出した性能だ」
レイの声は平坦だった。
だが、その言葉はテーブルに重く落ちた。
「だからこそ、危険だ。機体が強いだけなら、整備と運用で管理できる。だが、あれは搭乗者側の損耗を前提にしている」
誰もすぐには返せなかった。
その沈黙を破ったのは、イザークだった。
「アスラン」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、周囲の喧騒を切るだけの鋭さがあった。
「あの機体はなんだ」
アスランが顔を上げる。
「レギナントのことか」
「名前を聞いているんじゃない」
イザークは遮った。
その声に、隣のディアッカが小さく眉を上げる。
だが、茶化さない。
イザークの視線はアスランから外れなかった。
「俺は、あの娘を見た」
「……セラをか」
「ああ。ドックで取り押さえた時だ。生身では、ただの小娘だった。腕を取れば抵抗もできん。訓練された兵士でもない。少なくとも、俺にはそう見えた」
イザークはそこで一度言葉を切った。
手元のカップには触れない。
「だが、あの機体に乗った瞬間、あれは何だ」
誰も答えなかった。
「ストラテゴスは、通常MSでは止められなかった。ザクもグフも、束になってかかって弾かれた。砲も刃も通じん。あの黒い巨体を、あの娘は……削り落とした」
イザークの声がわずかに低くなる。
「いや、違うな。倒した、ではない。食ったように見えた」
ディアッカが息を吐いた。
「正直、俺も冗談にできねえよ、あれは」
いつもの軽さはなかった。
口元には苦笑の形だけが残っているが、目は笑っていない。
「味方でよかった、で済ませたいけどな。あれ、そういう話じゃねえだろ」
「そういう話じゃない」
イザークが短く返す。
「あれは本当に、あの娘が動かしているのか」
「……俺にも分からない」
アスランは正直に答えた。
誤魔化しようがなかった。
「セラがレギナントに乗れることは知っていた。ドラグーンを扱えることも、
「タリア艦長もか」
「おそらく。メイリンたちもだ」
アスランは拳を握った。
「俺たちが見ていたレギナントは、まだ一部でしかなかったんだと思う」
イザークはしばらく黙った。
食堂の別のテーブルから、笑い声が上がる。
誰かが「生きて帰ったぞ」と叫び、隣がそれに応じてカップを打ち合わせる。
その音が、ひどく遠く聞こえた。
「……一部で、あれか」
イザークの声には、怒りよりも戦慄があった。
シンが顔を上げる。
「でも、セラは守ったんです。ミネルバも、基地も」
「分かっている」
イザークの返答は早かった。
意外なほど、そこで怒鳴りはしなかった。
「俺はあの娘を責めているんじゃない。あれを知らずに戦場へ出していたことを問題にしている」
「知らなかったんです」
シンの声が少し強くなる。
「俺たちだって、知らなかった」
「だから問題だと言っている」
イザークはシンを睨んだ。
だが、それは責めるためだけの目ではなかった。
「知らない力で勝った。知らない負荷で、搭乗者が倒れた。次も同じことが起きた時、どうする」
「……」
シンは言い返せなかった。
ルナマリアが小さく息を吐く。
「次は、起こさないようにするしかないわ」
「どうやってだ」
イザークが問う。
ルナマリアは一瞬だけ黙り、視線を落とした。
「それを、ヨウランたちが考えてる。メイリンも……きっと、黙ってない」
ディアッカが軽く肩をすくめた。
「ま、あの整備班も大変だな。大型砲を1発で壊されて、今度は直接接続を止める装置を作れってか」
「ディアッカ」
「分かってるよ」
ディアッカは声を落とした。
「でも、あいつらがやるしかないんだろ。セラを止めたいなら」
レイが静かに頷く。
「神経接続補助ユニット3号では、レギナントの最大反応に追いつかなかった。セラはその判断をした。なら次に必要なのは、彼女が直接接続を選ばずに済む手段だ」
「……兵器の話なのに」
ルナマリアが呟く。
「なんで、あの子をどう守るかって話になるのかしらね」
「もう、そういう位置にいるからだろ」
シンが言った。
「セラは、ミネルバの仲間だ」
その言葉に、アスランは少しだけ目を伏せた。
イザークは何も言わなかった。
否定もしなかった。
食堂の喧騒は続いている。
だが、その一角だけは、勝利の味をまだ飲み込めずにいた。
*****
司令部の会議室には、別の静けさがあった。
戦闘直後の司令部は、まだ混乱の中にある。
報告書は積み上がり、被害一覧は更新され続け、損耗した砲台と防空網の復旧優先順位が表示されている。
その中で、基地司令と数名の幹部、タリアが向かい合っていた。
「タリア艦長」
基地司令が口を開く。
「あのレギナントという機体について、確認したい」
「分かる範囲でお答えします」
タリアは姿勢を崩さない。
声も平静だった。
だが、疲労は隠しきれない。
戦闘中、彼女はミネルバを動かせないまま、最後の札を切った。
その結果、基地は守られた。
そして、セラは倒れた。
「まず、あの近接戦闘能力は既知だったのか」
「把握していませんでした」
タリアは即答した。
隠しても意味がない。
「少なくとも、あの形で使うとは想定していません」
「機体に秘匿機能があったということか」
「現時点では断定できません。機体側の機能なのか、セラ自身の適合能力によって引き出されたものなのか、解析が必要です」
「直接神経接続は、ミネルバ側の運用判断か」
その問いに、タリアは一拍置いた。
「結果としては、戦闘中のセラ本人の判断です」
「止められなかったと」
「はい」
会議室に重い沈黙が落ちる。
タリアは続けた。
「ただし、あの場で彼女に選ばせたのは、私たちです。ミネルバが動けず、ドック射線が開き、ストラテゴスを通常戦力で止められなかった。彼女は、その状況でミネルバを守るために危険な接続を選びました」
幹部の一人が低く言う。
「あの力がなければ、基地は突破されていた可能性が高い」
「否定しません」
「ならば、詳細な性能確認は必要だ」
基地司令が腕を組んだ。
「あれほどの機体を、今後どう運用するつもりだ。基地防衛戦力として見ても、無視できるものではない。本国へ報告するにしても、現場として把握できることは把握しておきたい」
「司令」
タリアの声が、少しだけ硬くなった。
「あれを基地裁量で扱うべきではありません」
「しかし――」
「だからこそです」
タリアは遮った。
強い声ではない。
だが、引かない声だった。
「本国への報告が最優先です。現場判断で解析や追加運用を進めれば、後で責任を問われるのはこの基地です」
「……艦長は、我々が欲を出すと見ているのか」
「軍人なら、あの性能に注目するのは当然です」
タリアは静かに言った。
「ですが、あの力は便利な防衛兵器ではありません」
その言葉で、会議室の空気が変わった。
「レギナントはミネルバを守りました。ジブラルタルも救いました。それは事実です。けれど、そのためにセラは神経接続補助ユニットを外し、直接神経接続を選んだ。あの力を使うたびに、搭乗者が何を差し出すのか、私たちはまだ理解していません」
基地司令は黙ってタリアを見た。
「セラ本人の容態は」
「意識は戻っていません。生命反応は安定しつつありますが、神経負荷の影響は経過観察中です」
「……そうか」
司令は目を伏せた。
彼は悪意で聞いているのではない。
基地を守る者として、次に同じ脅威が来た時のことを考えている。
それをタリアも理解していた。
だからこそ、ここで止めなければならない。
「司令。レギナントの運用、機体解析、セラの適合情報。いずれも、本国への正式報告を経たうえで判断すべきです。少なくとも、この基地の独自裁量で進めるべきではありません」
「艦長は、それをミネルバの権限で言っているのか」
「いいえ」
タリアはまっすぐ司令を見た。
「この基地を守るためにも、そう申し上げています」
司令はしばらく黙った。
やがて、深く息を吐く。
「分かった。レギナントおよび搭乗者に関する現場解析は、最低限の安全確認に留める。本国への報告を優先する」
「感謝します」
会議はそこで終わりではなかった。
被害報告、警戒態勢、残骸回収、捕獲できた敵機材の扱い。
話すべきことはいくらでもある。
だが、タリアの中では、ひとつだけ重いものが残り続けていた。
セラを恐れているわけではない。
あの少女が、自分たちを守るために戦ったことは分かっている。
だが、セラが選んだ力には戦慄していた。
レギナントはミネルバを守った。
その事実は消えない。
けれど、守るためにあの少女が何を差し出したのかを、タリアは忘れてはならなかった。
勝利をもたらす力は、使わせた者の責任を曖昧にはしない。
*****
医務室は、食堂とも司令部とも違う静けさに包まれていた。
白い照明。
消毒液の匂い。
小さく鳴るモニター音。
ベッドの上で、セラが眠っている。
ノーマルスーツは医療用処置のため一部が外され、毛布がかけられていた。
顔色はまだ戻っていない。
呼吸は浅いが、一定のリズムを刻んでいる。
ベッド脇には、メイリンが座っていた。
食堂の喧騒は、ここまでは届かない。
遠くで基地内放送が流れている。
負傷者搬送の足音も、ここでは少しだけ遠く聞こえた。
メイリンは何も言わない。
泣いて、怒って、それでもまだ胸の奥には言葉にならないものが残っていた。
セラが目を覚ましたら、もう一度言わなければならない。
無茶をしないで、と。
自分を壊してまで守ろうとしないで、と。
セラは眠っている。
まるで、戦場で何をしたのか知らない少女のように。
その手は、シーツの上に置かれていた。
メイリンはそっと、その指に触れる。
冷たい。
けれど、生きている。
「……次は、ちゃんと怒るからね」
小さな声だった。
眠っているセラには届かないかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
ジブラルタルは勝った。
ミネルバも守られた。
その勝利の理由を、食堂でも、司令部でも、誰も簡単には言葉にできなかった。
医務室では、セラが眠っている。
メイリンは、その横で何も言わずに座っていた。
遠くの喧騒は、ここまでは届かない。
ただ、静かな呼吸音だけがあった。