機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~   作:割戸三葉

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57.人形は牙を持つ

訓練場の中央で、アグネスが剣を構えた。

刃引きの模擬剣。

最低限の防具。

形式上は、士官学校でも行われる基礎訓練だった。

 

けれど、待機スペースにいる誰もが、ただの訓練だとは思っていなかった。

アグネスは余裕の笑みを浮かべている。

セラは、まだ構えていない。

 

小さな手で、模擬剣の柄を握っているだけだ。

剣先は下がっている。

肩にも力は入っていない。

 

それが余計に、頼りなく見えた。

 

「構えなくていいの?」

 

アグネスが言う。

 

「怖がらなくてもいいわ。ちゃんと加減はしてあげるから」

 

セラは答えない。

 

メイリンが、思わず一歩踏み出しかけた。

だが、ルナマリアがその腕をつかみ小さく首を振る。

 

止めたい。

けれど、ここで止めれば、それはアグネスの言葉を肯定したことになる。

それは、自分はセラが人形と思ってると認めた気がした。

 

教官が片手を上げる。

 

「始め」

 

その声と同時に、アグネスが踏み込んだ。

速い。

士官学校を次席で卒業したその実力は伊達ではない。

身体の使い方も整っている。

踏み込みも、剣の軌道も、訓練としては十分に鋭い。

だが、セラはそこにいなかった。

 

大きく跳んだわけではない。

後ろへ逃げたわけでもない。

 

ただ、半歩。

ほんの半歩だけ、角度を変えた。

 

アグネスの剣が空を切る。

次の瞬間、セラの剣先が、アグネスの手首に置かれていた。

 

「そこまで!」

 

教官が短く告げる。

 

アグネスの動きが止まった。

一瞬、何が起きたのか分かっていない顔だった。

 

「……今のは」

 

セラは答えない。

持っている剣を下げ、また元の位置に戻る。

勝ち誇るわけでも、説明するわけでもない。

ただ、次を待っている。

 

アグネスの笑みが少し薄くなった。

 

「……もう一度」

 

教官が確認する。

 

「続けるか?」

「ええ。少し油断しただけです」

 

アグネスはそう言って、再び構えた。

 

二度目。

今度は最初より速かった。

腕の振りもさらに鋭く、踏み込みも深い。

初撃で決めに来ている。

 

だが、また当たらない。

セラは、やはり大きく動いていなかった。

アグネスの剣が届く寸前に、軌道の外へ滑るようにずれる。

そして、剣の先が喉元の手前で止まった。

 

教官の声が落ちる。

 

「そこまで!」

 

訓練場が静かになった。

アグネスの顔から、はっきりと余裕が消えた。

 

三度目。

アグネスはフェイントを入れた。

肩を先に動かし剣先を揺らす。

視線もずらす。

 

普通なら、反応が遅れる。

だが、セラはフェイントに反応しなかった。

 

本命の踏み込みだけを見ていた。

アグネスが動いた瞬間、セラはすでに外側にいる。

胸元に、軽く剣が置かれる。

 

「そこまで!」

 

三度目の判定。

シンが、小さく息を呑んだ。

 

「打ち合ってない……」

「そうね」

 

ルナマリアも、低く答えた。

 

「剣で勝ってるんじゃない。動く前に、もう位置を取ってる」

 

セラはアグネスの動作を全て見切っていた。

 

アグネスの歩幅。

肩の動き。

手首の角度。

踏み込み時の癖や重心。

 

それを全部、何も言わずに処理していた。

アグネスの手が剣の柄を強く握る。

 

「もう一度」

 

ルナマリアが眉をひそめた。

 

「アグネス、もういいでしょ」

「まだ終わってないわ」

「いい加減にしなさいよ」

 

ルナマリアの声は荒くない。

だが、はっきりと止める響きがあった。

 

アグネスは聞かなかった。

 

「もう一度よ!」

 

教官が一瞬迷う。

だが、アグネスはすでに構えていた。

 

そして開始の合図を待たず、不意打ちのように踏み込んでくる。

それはもう、基礎訓練の動きではなかった。

 

速さよりも力。

正確さよりも叩き伏せる。

そしてそこに潜む殺気――

 

ルナマリアが声を上げる。

 

「アグネス!」

 

シンも一歩出た。

 

「おい!」

 

だが、アグネスは止まらない。

自分が見下した相手に、三度続けて止められた。

その事実が、彼女の中で許せなかった。

 

セラは、その変化を見た。

表情は変わらない。

けれど、空気が変わった。

 

シンは本能的に息を止めた。

ルナマリアの足が止まる。

メイリンの喉が、声を出す前に震えた。

レイだけが、静かに目を細める。

 

セラの視線が、アグネスの顔から外れた。

 

喉元。

首筋。

手首。

脇腹。

背中。

そして膝裏。

 

人を見る目ではなかった。

どこを止めれば動けなくなるか、

どこを壊せば逃げられなくなるという捕食者の眼だった。

 

アグネスの剣が振り下ろされる。

セラはいない。

 

次の瞬間、アグネスの背中に音が走る。

刃引きの剣が、防具の上を叩いた音。

その直後の軽い痛み。

 

斬れてはいない。

血も出ていない。

 

だが、そこが真剣で打たれていれば、背中は裂かれていた。

アグネスが振り返るがセラはいない。

 

今度はうなじ。

次に肩口。

脇腹。

背中。

 

一撃ごとに、アグネスの体勢が崩れていく。

 

「なっ……」

 

アグネスが剣を振るが、むなしく空を切る。

 

目の前にいたはずなのに、次の瞬間には横。

横を向けば背後。

下がろうとした先に、すでにセラがいる。

 

速いのではない。

既にそこにいる(・・・・・)

 

自分が次にどこへ逃げるか。

どちらへ剣を振るか。

どの瞬間に視線を外すか。

 

全部、先に置かれている。

 

攻撃しても当たらない。

逃げても、逃げ道にいる。

振り返るたびに、真剣なら死んでいる場所を打たれる。

 

アグネスの表情から、怒りが消えた。

次に浮かんだのは、焦りだった。

そしてすぐ、恐怖に変わった。

 

「セラ!」

 

メイリンが叫んだ。

セラは止まらない。

声が聞こえていないわけではない。

ただ、優先順位が違う。

 

アグネスは明確な敵意を向けて踏み込んだ。

そのアグネスはまだ剣を持っている。

まだ立っている。

敵対行動を終えていない。

 

だから、セラは止まらない。

 

シンが叫ぶ。

 

「もういい、セラ!」

 

ルナマリアも続く。

 

「セラ、止まりなさい!」

 

セラの剣が、アグネスの眼前で止まった。

ほんの数センチ。

 

アグネスの喉が、小さく震えた。

言えば終わる。

 

降参すればいい。

 

だが、声が出ない。

負けを認めたくないからではなかった。

悔しさで黙っているのでもなかった。

 

もう、そんな余裕は欠片もなかった。

 

目の前にいる小さな少女が、常にわたしを殺しに来ていた。

そして、常にわたしを殺せる位置にいた。

しかも、それを何の躊躇いもなく、慈悲もなく虫を潰すような目で、わたしを見ている。

 

その事実が、アグネスの身体を縛っていた。

 

剣が手から落ちる。

 

硬い音が、訓練場に響いた。

膝が崩れる。

アグネスは、その場に座り込んだ。

 

それを見て、セラの動きが止まった。

剣先が下がる。

 

「戦闘継続不能を確認」

 

静かな声だった。

空気が戻るまで、数秒かかった。

 

教官でさえ、すぐには何も言えなかった。

アグネスは床に座り込んだまま、荒い息をしている。

大きな怪我はない。

防具に打撃の跡が残っているだけだ。

だが、顔色は失われていた。

 

メイリンがセラに駆け寄る。

 

「セラ!」

「メイリン」

「痛いところは? 怪我は?」

 

セラはすぐには答えない。

自分の身体を確認するように、視線を落とす。

そして短く言った。

 

「負傷はありません」

「本当に?」

「はい」

 

メイリンは安堵しかけて、けれどすぐに胸の奥が詰まった。

そうやって、あなたが代わりに怒るのね。

アグネスの言葉が、まだ刺さっている。

 

セラは人形ではない。

それは分かっている。

 

でも、自分は今も、セラの代わりに心配している。

セラの代わりに怒っている。

セラの代わりに傷ついている。

 

それが悪いことだとは思いたくない。

けれど、何も考えずに否定することもできなかった。

ルナマリアは、座り込んだアグネスを見下ろした。

 

その顔には怒りがあった。

けれど、勝ち誇る色はなかった。

 

「あんた、分かったでしょ」

 

アグネスは返事をしない。

ルナマリアは続ける。

 

「あの子は、あんたが笑っていい相手じゃない」

 

アグネスの唇が震えた。

何か言い返そうとしたのかもしれない。

だが、声にはならなかった。

 

シンはセラを見る。

 

「お前……生身でも、あんな動きできるのかよ」

 

セラは少しだけ首を傾げた。

 

「動きではありません」

「じゃあ何だよ」

「予測です」

 

短い答えだった。

 

その一言で、シンはレギナントの戦い方を思い出した。

見えない場所から来る攻撃。

逃げ道を塞ぐ配置。

こちらが選ぶはずの行動を、先に潰してくる戦い方。

 

あれは、機体の性能だけではない。

セラ自身の中にある。

そう理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

教官がようやく動いた。

 

「訓練は終了だ。双方、剣を返却しろ」

 

セラは頷いた。

 

「返却します」

 

いつも通りの声だった。

セラは剣を持って、返却台へ向かう。

 

その途中、アグネスの横を通った。

ほんの近くを通っただけだった。

セラが少しだけ近づいてくる。

それだけで、アグネスの肩が大きく跳ねた。

 

アグネスは反射的に身を引く。

肩が強張り、視線がセラから外れる。

さっきまで見下していた相手を、もう同じようには見られない。

 

人形ではない。

弱い子供でもない。

MSがなければ何もできない存在でもない。

 

メイリンは、その背中を見ていた。

きっと、レギナントの恐ろしさは、セラの中にある。

小さな背中。

いつもと同じ、静かな歩き方。

けれど、さっき見たもののせいで、少しだけ遠く見える。

 

セラを守りたい。

その気持ちは変わらない。

 

でも、守ることと、代わりに怒ることは同じではない。

大切にすることと、壊れ物として扱うことも同じではない。

 

アグネスの言葉は悪意だった。

間違いなく、悪意だった。

 

それでも、棘だけは残っている。

 

「返却しました」

 

セラは訓練剣を返却台に置いたその声は、いつも通りだった。

 

メイリンは答えを持っていない。

だからただ、セラの背中を見つめていた。

 

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