機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~   作:割戸三葉

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58.牙のあと

訓練場を出るまで、誰も大きな声を出さなかった。

 

アグネスは教官に付き添われて別室へ運ばれていった。大きな怪我はない。歩けないほどでもない。けれど訓練場に残った者たちは誰も、ただの模擬剣訓練だったとは言わなかった。

 

壁際で見ていた若い兵が、模擬剣を片づけながら隣の同僚に小さく囁く。

 

「今の、見たか」

「見た。あれで子供かよ」

「声、落とせ」

 

その最後の一言で、2人は口を閉じた。

 

セラはいつも通りだった。防具を外し、模擬剣を返し、係員の指示に従って通路へ戻る。歩幅も表情も変わらない。訓練を終えたという報告を済ませるように、淡々とその場を離れようとしていた。

 

けれど周囲は、同じようには動けなかった。

 

通路へ続く扉の前で、整備服の兵が半歩だけ横へずれる。誰かがセラの進路を開ける。その動きは礼儀というには硬く、警戒というには露骨すぎた。声をかけようとした者もいたが、セラが視線を向ける前に口を閉じる。

 

セラはそれに反応しない。

 

シンはその様子を見て、少しだけ顔をしかめた。

 

「あいつら、見すぎだろ」

「無理もないわ。さっきのを見たら誰だってそうなるわよ」

 

ルナマリアの声は低かった。

 

メイリンは何も言えなかった。

 

怖いと思った。

 

その感想は嘘ではない。背丈も体型も劣る少女が、アグネスを完全に追い詰めた。最後の一手には迷いがなく、訓練場にいた誰もが息を止めた。

 

けれど、怖いと思った自分が嫌だった。

 

セラを守りたいと言いながら、セラの姿に足を止めた。アグネスの言葉もまだ胸に残っている。

 

『そうやって、あなたが代わりに怒るのね』

 

通路へ出たところで、ルナマリアがセラの前に立った。

 

「セラ、さっきの訓練の事だけどね」

「はい」

 

次の瞬間、ルナマリアはセラの額を指先で軽く小突いた。

 

こつん、と小さな音がした。

 

「やりすぎよ! あそこまでやることないじゃない」

「やりすぎ」

「そう。やりすぎ」

 

ルナマリアは腰に手を当てる。

 

「訓練相手をあそこまで追い詰めないの。あれじゃ周りが引くでしょ」

「あの人から、明らかな殺意を感じました」

「さすがにそこまでじゃないでしょ!」

 

即座に言い返したルナマリアが、少しだけ顔をしかめる。

 

「いや、まあ……途中から本気で叩き伏せる気だったのは確かだけど」

「殺意ではありませんか」

「少なくとも訓練場ではそう判断しないの!」

 

近くを通りかかった兵が、聞こえないふりをしながら足を速めた。シンはそれを見て眉を上げる。レイは何も言わない。けれど、セラとルナマリアのやり取りから目を逸らしはしなかった。

 

セラは少しだけ考えるように黙る。

 

「判断基準が異なります」

「そういうところよ!」

 

ルナマリアはもう一度、軽くセラの額を小突いた。

 

「ここは戦場じゃないの。訓練場。分かる?」

「訓練場」

「だったら、相手を倒すんじゃなくて止める。相手が怖がって動けなくなったら、そこで終わり」

「戦闘継続不能」

「言い方……」

 

シンが小さく息を吐いた。

 

さっきまで通路に張りついていた空気が、少しだけ動く。遠巻きにしていた兵たちの何人かが、ようやく会話を再開した。

 

「……怒られてるぞ」

「普通に小突かれてるな」

「あれを小突けるの、ルナマリアだけだろ」

 

囁きはすぐに消えたが、先ほどまでの硬い沈黙とは違っていた。

 

セラが叱られている。額を小突かれている。しかも本人はそれを避けずに受けている。その光景が、訓練場で見えた牙の鋭さを少しだけ日常の側へ引き戻していた。

 

メイリンは少し後ろから2人を見ていた。

 

ルナマリアは怖がっていない。

 

セラがしたことを見た上で、真正面から「やりすぎ」と言っている。庇うのではなく、相手を責めるのでもなく、セラ本人に向けて止めている。

 

自分は、あんなふうに言えただろうか。

 

セラの前に立つことはできる。庇うこともできる。心配して手を伸ばすこともできる。

 

でも、駄目だよ、と言ったことはなかった。それは違うよ、とセラ本人に向けて言ったことはない。

 

そのことが急に分かってしまった。

 

「メイリン」

 

声をかけられて、メイリンは顔を上げた。

 

セラがこちらを見ている。

 

「何?」

「先ほどから様子に違和感があります」

「え」

「ずっと俯いています」

 

メイリンは一瞬、言葉に詰まった。

 

「何でもないよ」

「何でもない、ではありません」

「……セラ」

 

セラは少しだけメイリンを見た後、そっと手を伸ばした。細い指が、メイリンの袖をつかむ。強くはない。ただ、そこに置かれたような手だった。

 

「多分、メイリンなら私にこうしたと思います」

 

メイリンの胸が、少しだけ詰まった。

 

セラは理由を理解しているわけではないのかもしれない。慰めているつもりでもないのかもしれない。ただ、メイリンがいつも自分にしてくれることを、今度は返そうとしている。

 

それだけだった。

 

それだけなのに、胸の奥につかえていたものが少しだけ軽くなった。

 

「……うん。ありがとう、セラ」

 

セラは頷いた。

 

「記録しました」

「そこは記録じゃなくて、覚えてくれると嬉しいかな」

「覚えます」

「うん」

 

ルナマリアが2人を見て、少しだけ表情を和らげる。

 

「ほら、行くわよ。いつまでも訓練場の前にいたら、また変な噂になる」

「もう十分変な噂になってると思うけどな」

「シン?」

「何でもない」

 

レイは何も言わず、歩き出したセラの背中を見ていた。その足取りはいつもと変わらない。けれどセラの片手はまだ、メイリンの袖を軽くつかんでいた。

 

---

 

基地工廠内の格納庫は、ほとんど明かりが落とされていた。

 

作業机の上には黒い布製のウェアが置かれている。背面には細い受信回路が縫い込まれ、端末には最終試験の結果が並んでいた。

 

接触安定率。信号損失。遅延補正。漏洩値。

 

すべて許容範囲内。

 

机の前で、ヴィーノとヨウランが並んで立っていた。2人とも目の下に濃い隈を作り、作業服も髪も乱れている。

 

ヨウランがふらつきながら机に手をついた。

 

「……間に合った」

 

ヴィーノも椅子の背に寄りかかって息を吐く。

 

「間に合ったな……」

 

2人はしばらく机の上の黒いウェアを見つめていた。

 

「これ、絶対ルナマリアに怒られるよな」

「仕様上、仕方ない」

「その言い方も怒られるぞ」

「……だろうな」

 

2人は顔を見合わせた。

 

疲れ切っているのに、声だけは妙に揃った。

 

「小判ちゃん4号!」

 

格納庫に、その名前だけが明るく響いた。

 

数秒後、ヨウランが椅子に沈み込む。

 

「……寝たい」

「報告してからな」

「誰に」

「怒る人たちに」

「寝たい」

 

ヴィーノは端末の保存処理を確認し、黒いウェアにカバーをかけた。

 

「完成した以上、怒られるのも仕事だ」

「整備兵の業務範囲、広すぎないか」

「今さらだろ」

 

2人の声が、明かりの落ちた格納庫に小さく残った。

 

---

 

その頃、基地内のタリアの執務室では別の報告が上がっていた。

 

アーサーが端末を手に、少しだけ疲れた顔で立っている。その前で、タリアは報告書に目を通していた。

 

「……間に合ったわね」

「はい」

 

報告書には、基地工廠からの業務連絡が2つ並んでいた。

 

1つ目。ミネルバの修理工程は予定よりわずかに早く進行。外装修復、推進系、補給系統、火器管制の主要点検は完了。最終検査を経て、数日後には出港可能となる見込み。

 

2つ目。大型MSレギナントの解析終了。起動時に発生する低周波パルス信号について、発信源そのものの削除は困難。ただし、該当箇所に特殊コーティングを施すことで、周囲への信号漏れを封じ込めることには成功。

 

タリアは端末の表示を指先で送る。

 

「完全除去ではないのね」

「はい。発信そのものは残ります。ただ、外部への識別可能な漏れは実用上ほぼ遮断できると」

「レギナントの起動には支障なし?」

「整備班からは、現時点では問題なしと報告されています。ただし、初回起動時はミネルバ整備班と基地ラボの共同立ち会いが必要です」

「でしょうね」

 

タリアは静かに息を吐いた。

 

14日間の休養。ミネルバの修理。レギナントの解析。そのすべてが終わりに近づいている。

 

つまり、また動き出すということだ。

 

「乗員に通達する準備を」

「了解しました」

「それと、セラの件も合わせて確認を。レギナントが戻るなら、彼女の扱いも変わる」

「はい」

 

アーサーは頷いた後、少しだけ迷うような顔をした。

 

「艦長」

「何?」

「訓練施設での件ですが……」

「報告は受けているわ」

 

タリアは端末から目を離さずに言った。

 

「アグネス・ギーベンラートとセラの模擬剣訓練。詳細は確認中だけれど、怪我人はなし。間違いないわね?」

「はい。大きな負傷はありません」

「なら、今はそれでいいわ」

 

タリアはようやく顔を上げた。

 

「ただし、セラは戦場と訓練場の境目をまだ学んでいる途中よ。次からは、誰かが止めるだけではなく本人にも理解させる必要がある」

「ルナマリアが、すでに注意したと聞いています」

「なら、少し安心ね」

 

タリアは小さく笑った。

 

「あの子は、そういうところは向いているわ」

「はい」

 

アーサーも少しだけ表情を緩める。だが、タリアの目はすぐに報告書へ戻った。

 

「休暇気分は、そろそろ終わりね」

「出港準備に入りますか?」

「ええ」

 

タリアは端末を閉じる。

 

「ミネルバは、数日以内に出るわ」

 

その言葉が静かな執務室に落ちた。

 

外ではまだ、プラント本国の穏やかな照明が軍港を照らしている。だがその穏やかさは長く続かない。

 

修理を終えた艦。再び動けるレギナント。そして、まだ自分の牙の扱いを知らない少女。

 

すべてが、次の戦場へ向かって準備を終えつつあった。

 

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