機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~   作:割戸三葉

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66.再び地球へ

地球が、艦橋の正面いっぱいに広がっていた。

 

青い海。白い雲。大気の薄い光。宇宙から見れば穏やかに見えるその星へ、ミネルバはゆっくりと艦首を向けている。

 

中継コロニーを離れてから、すでに数日が経っていた。

敵艦隊の撤退は確認された。救援艦隊とコロニー防衛隊は防衛線を再構築し、ミネルバは補給と応急整備を終えた後、地球降下命令を受けて進路を変えた。

 

そして今、艦は大気圏突入姿勢に入っている。

 

「降下角、規定範囲内」

「艦体外殻、予測温度上昇値を更新」

「推進系、降下シーケンスへ移行」

「各MS固定確認。インパルス、セイバー、ザク、レギナント、固定完了」

 

メイリンの声が、ブリッジに淡々と響く。

緊張はある。けれど混乱はない。宇宙から地球へ降りるという大きな動きの中で、ブリッジの各員は自分の端末と表示を見つめ、決められた手順をひとつずつ処理していた。

 

アーサーが正面モニターを見上げる。

 

「艦長、降下予定海域までの誤差、許容範囲内です」

「そのまま続行」

 

タリアは短く答えた。

 

眼下の地球は、美しい。

だが、その美しさの下には、また別の戦場がある。地上。海上。島嶼部。都市。港。基地。宇宙とは違う制約と、宇宙よりも近い民間人の生活。

ミネルバはそこへ降りる。

そして、おそらくアークエンジェルもそこに現れる。

タリアは正面の青を見つめたまま、数日前の艦長室を思い出していた。

 

*****

 

艦長室の机の上には、地球降下後の候補地点が並んでいた。

カーペンタリア基地。クレタ島泊地。インド洋沿岸の中継拠点。アフリカ北部への再展開案。どこへ降りても、ミネルバには補給と整備が必要になる。

だが問題は、補給だけではなかった。

 

「艦長、地球降下後の行動ですが」

 

アーサーが資料を見ながら言う。

 

「カーペンタリアへ降下する場合、補給と整備は最も安定します。ただしオーブ周辺海域への距離を考えると、即応にはやや時間がかかります」

「クレタ島泊地なら距離は近いわね」

「はい。ただ、受け入れ能力と秘匿性ではカーペンタリアに劣ります」

 

タリアは資料を見ていた。

アークエンジェル。

その艦名が、紙面にはまだ直接書かれていない。だが、議論の中心にあるのは間違いなくその艦だった。

 

ロゴス打倒宣言以降、戦場の形は変わりつつある。ザフトと地球連合の正面戦だけではない。ロゴス系企業、独立武装勢力、残存部隊、各国軍、民間人を巻き込む混乱。

 

その混乱の中で、アークエンジェルが再び姿を見せた。

本来なら、軍として追跡し、交戦し、排除する対象だ。

 

だがあの艦は、ただの敵艦ではない。

 

「失礼します」

 

扉の向こうから声がした。

タリアが顔を上げる。

 

「入りなさい」

 

入ってきたのはメイリンだった。

通信士の制服のまま、端末を抱えている。姿勢は硬い。だが、迷っている様子はなかった。

 

「艦長、副長。お時間をいただけますか」

「降下シーケンス関連?」

「いえ。アークエンジェルについてです」

 

アーサーが目を丸くした。

タリアは椅子に背を預ける。

 

「続けて」

「はい」

 

メイリンは端末を机の上へ置いた。表示されたのは、アークエンジェルの過去の出現位置、交戦記録、推定航路、戦闘後の離脱方向。そして民間被害の分布図だった。

 

「アークエンジェルの出現位置と行動パターンを分析しました。いくつか、候補があります」

 

タリアは黙って先を促した。

メイリンは表示を切り替える。

 

「1つ目は、市街地に近い場所での戦闘です。アークエンジェルは、民間人被害が拡大しやすい戦場へ介入する傾向があります」

「2つ目は」

「無所属の武装集団によるテロを含む、民間人への被害が著しい地域です。国家間戦闘だけではなく、被害の規模そのものを判断材料にしているように見えます」

 

アーサーは資料を見ながら眉を寄せた。

 

「人道的な行動理念、ということか」

「はい」

 

メイリンは頷いた。

タリアも同じ結論には至っていた。

アークエンジェルは、ただザフトや連合を敵として見ているわけではない。民間人を守る。無用な被害を防ぐ。誰かが止めなければならない戦いを止める。理念だけを見れば、理解できる部分はある。

だが、それは軍としては最も厄介な行動だった。

 

「人道的には賛同できるわ。ですが、軍事行動としては別です」

 

タリアは言った。

 

「人を救うために戦場へ出るなら、本来は国家として責任を負うべきよ。誰が命じ、誰が責任を取り、失敗した時に誰が裁かれるのか。それがない武装介入はどれほど善意に見えても危うい」

 

アーサーは少しだけ目を伏せた。

 

「それでも、救われた民間人はいるでしょう」

「いるでしょうね。だから厄介なのよ」

 

タリアは端末の表示を見つめた。

 

正しいことをしているように見える艦ほど、扱いは難しい。敵と呼べば冷酷に見える。味方と呼べば軍の秩序が崩れる。黙認すれば、次も同じことをする。

 

そして、ミネルバにはその艦と関わりの深い人間がいる。

 

「それだけなら、こちらでも分析済みよ」

 

タリアは言った。

 

「はい」

 

メイリンは一度だけ息を吸った。

 

「もう1つ、候補があります」

「言いなさい」

「オーブ周辺地域です」

 

艦長室の空気が、わずかに重くなった。

アーサーが表示を見る。タリアは表情を変えなかった。

 

「理由は」

「アークエンジェルが活動を再開したと思われる海域が、オーブ近海に近いこと。過去の関係者がオーブに集中していること。そして、今後地球で民間人被害が拡大した場合、アークエンジェルが補給、情報収集、または一時的な潜伏に使いやすい地理条件があることです」

 

メイリンの声は少し硬かった。

 

「オーブは中立国としての建前を持っていました。ですがその周辺海域は連合、ザフト、民間船舶、独立勢力が交錯しやすい。アークエンジェルが介入する条件が揃いやすいと考えます」

 

タリアは表示を見た。

オーブ周辺海域。

その言葉は、ただの地名ではない。

 

アスランにとっては、かつて身を置いた場所。

カガリ・ユラ・アスハ。アークエンジェル。そして、キラ・ヤマト。

前大戦の終盤、彼がザフトの敵味方という線を越えて並んだ者たちが、今もそこにいる。

ザフトへ戻った後も、切り捨てきれない縁がある。

そしてシン・アスカにとっては、家族を失った場所だった。

 

「艦長」

 

アーサーが小さく言う。

言いたいことは分かる。

ミネルバの戦力は強い。だが、その中心にいる人間が揺れれば、艦は脆くなる。アスランは経験と判断力を持つが、オーブやアークエンジェルが絡めば迷いが出る。シンは強い。強すぎるほど強い。だが彼は、軍規よりも自身の行動理念を選ぶ瞬間がある。

特にオーブが絡めば、その危険は増すだろう。

 

「メイリン」

 

タリアは静かに言った。

 

「はい」

「情報としては有用よ。参考にします」

「……はい」

「ただし、現時点ではまだオーブ周辺を第一候補にはしない」

 

メイリンは頷いた。

 

「理由は、アスランさんとシンのことですか」

「それもあるわ」

 

タリアは隠さなかった。

 

「この艦の戦力中核を、心理的に不安定化しやすい海域へ不用意に近づけるわけにはいかない。アークエンジェルを追うために、ミネルバそのものを揺らすのは本末転倒よ」

「了解しました」

 

メイリンは端末を閉じた。

その表情には、納得と不安が混じっている。上申は通らなかった。けれど、無視されたわけでもない。それを理解している顔だった。

 

「メイリン」

「はい」

「良い分析だったわ」

「ありがとうございます」

 

メイリンは少しだけ頭を下げる。

 

「下がっていいわ」

「失礼します」

 

扉が閉じる。

艦長室に、短い沈黙が戻った。

アーサーは資料を見つめたまま言う。

 

「彼女、よく見ていますね」

「ええ」

「ですが、オーブ周辺は危険です」

「分かっているわ」

 

タリアは椅子に背を預けた。

分かっている。だからこそ、確認しなければならない。

 

アークエンジェルが現れる可能性のある戦場。

オーブ周辺。

アスランとシン。

そして、ミネルバの任務。

 

いずれ、あの2人には意思を確認する必要がある。

アスランには、腹をくくれと言わなければならない。

シンには、私情ではなく軍人として行動しろと告げなければならない。

 

それが責任だ。

だが今は、まだその時ではない。

 

*****

 

数時間後、タリアは2つの基地へ通信を送った。

 

カーペンタリア基地。

クレタ島泊地。

 

内容は同じだった。

 

「近日中に、オーブまたはオーブ周辺地域の地球連合に対する作戦行動予定はあるか」

 

秘匿回線ではない。むしろ、敵に傍受されても不自然ではない程度の通常照会だった。アーサーは最初、意図を掴みかねた顔をしていた。

 

「艦長、これでは本当の作戦がある場合、答えは返らないのでは」

「返らないなら、それも答えよ」

「はあ……」

「返ってきた場合も、答えになるわ」

 

アーサーはますます分からない顔をしたが、タリアはそれ以上説明しなかった。

しばらくして、返答が来た。

 

クレタ島泊地からは、返答なし。

カーペンタリア基地からは、短い返信があった。

 

『そのような作戦行動予定はない』

 

アーサーは表示を見た。

 

「ない、だそうです」

「そう」

 

タリアは静かに答えた。

 

「つまり、あるのですね」

 

アーサーが目を瞬かせる。

 

「艦長?」

「何もなければ、否定はただの事務処理よ。けれど、あえてこちらの照会に反応し、敵に傍受されても問題ない否定文を返してきた」

 

タリアは表示を指でなぞる。

 

「敵に向けた答えは、作戦はない。こちらに向けた意味は通信を受け取った、そして受け入れる余地がある」

「つまり……」

「カーペンタリアは、ミネルバの降下を望んでいる」

 

アーサーは息を呑んだ。

 

「クレタ島泊地の沈黙は」

「関与している可能性はある。けれど、ミネルバを呼んではいない。少なくとも、こちらに受け皿を示してはいないわ」

「では、降下先は」

「カーペンタリアね」

 

タリアは即座に言った。

 

「オーブ周辺へ直接向かうわけではない。けれど、必要なら動ける位置に降りる。補給能力もあり、艦を受け入れる余地もある。ミネルバにはそれが必要よ」

 

アーサーは頷いた。

 

「了解しました。降下計画をカーペンタリア基準へ修正します」

「お願い」

 

タリアは表示を閉じた。

オーブへ行くのではない。

アークエンジェルを追うのでもない。

 

アークエンジェルが現れざるを得ない戦場へ、こちらも降りるのだ。

 

*****

 

「艦長、降下限界線まで40秒」

メイリンの声で、タリアの意識は現在へ戻った。

「艦体姿勢、正常」

「各ブロック、耐熱閉鎖確認」

「MS固定、再確認。異常なし」

「レギナント固定アーム、ロック維持」

 

アーサーが表示を確認する。

 

「降下海域、オーストラリア北方。予定誤差、許容範囲内です」

「突入開始」

 

タリアが命じた。

 

「突入開始!」

 

ブリッジの照明が一段落ちる。艦体外殻が大気に触れ、微かな振動が床を伝い始めた。モニターの端に、熱量上昇を示す表示が走る。

 

地球が、さらに近づく。

雲の白が広がり、その下に青い海が見えた。大気の揺らぎがモニターを薄く歪ませる。艦体が震え、ブリッジの誰かが小さく息を止めた。

 

タリアは正面を見ていた。

この先で、アークエンジェルと向き合うことになるかもしれない。

 

アスランは迷うだろう。

シンは反発するだろう。

セラは、その2人の揺れをまだ正しく理解できないかもしれない。

 

それでも、艦は降りる。

 

「外殻温度、上昇」

「降下角、維持」

「カーペンタリア管制より誘導信号を受信」

「本艦、予定降下コースに乗りました」

 

メイリンの声は、いつもよりわずかに硬い。

タリアは短く頷いた。

 

「このまま降りるわ」

 

ミネルバは炎の尾を引き、大気を裂いて降下していく。

数分後、艦体を包んでいた光が薄れた。

正面モニターに、青い海が広がる。雲の切れ間から、オーストラリア北方の海域が見えた。

 

「降下シーケンス完了」

「推進系、通常航行へ移行」

「カーペンタリア方面、誘導ビーコン確認」

「海上降下、成功です」

 

アーサーが息を吐いた。

 

「ミネルバ、地球圏へ降下完了」

 

タリアは立ち上がらなかった。正面の海を見据えたまま、静かに命じる。

 

「カーペンタリア基地へ通信。本艦は予定海域へ降下完了。補給および作戦連絡の受け入れを要請」

「了解」

 

メイリンが通信を開く。

青い海の向こうに、まだ見えない戦場がある。

 

アークエンジェルが現れるかどうかは分からない。

だが、現れるならば、この星のどこかで必ず戦火が上がる。誰かが救いを求め、誰かがそれを利用し、誰かが命令を下す。

 

その時、ミネルバはもう空の上にはいない。

地上の戦場へ降りている。

タリアは正面モニターを見つめ、短く息を吐いた。

 

「ここからが、本番ね」

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